末盧国(末廬国) <邪馬台国までの道程>
【Podcasting】
--------------------------------------------------------------
写真が表示されない場合は、↓リンクからご覧ください
--------------------------------------------------------------
【邪馬台国】
西暦200年代(3世紀:弥生時代後期~古墳時代前期)に
小国ばかりだった倭国で30国を従えていたとされている国。
邪馬台国があったとされる根拠は、
中国の歴史書・『三国志』魏書東夷伝倭人条に残されています。
--------------------------------------------------------------
【邪馬台国までの道程】

帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
投馬国
邪馬台国
--------------------------------------------------------------
【魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より】
また千里海を渡ると、末盧国に着く。
そこの4000余戸の住民は、山海に沿う土地で生活している。
道には草木がうっそうとしげり、前を歩く人の姿がわからないほどだ。
住民は好んで魚介類をとらえ、水の浅い深いにかかわらず、
海にもぐって獲物をとる。
[引用:武光誠さんの著書「邪馬台国と大和朝廷」(平凡社新書)より]
--------------------------------------------------------------
【東松浦半島について】
・九州の北部に突き出た半島で、佐賀県の北西部に位置。
・海岸は、リアス式海岸で、多くの入り江や湾があり、
湾内は比較的波が穏やかなため、天然の良港に恵まれている。
・松浦港や唐津港は佐賀県最大の漁港で、九州の中でも水揚げ量が多い。
・玄界灘の強風を利用して、海岸では風力発電が盛んに行われるようになった。
・最北端の波戸岬から壱岐市まで約25km、対馬市まで約90km、
釜山広域市(大韓民国)まで約170km。
・大和朝廷の時代に末廬国→末羅縣、大化の改新で末羅縣→松浦郡となった。
・古事記では末羅、日本書紀では松浦の表記がみられる。
◎東松浦半島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/...
--------------------------------------------------------------
【末盧国の発音について】
muat-lo国
◎日本古代史とアイヌ語さんより
http://www.dai3gen.net/...
--------------------------------------------------------------
【末盧国の中心地について】
・おそらく東松浦半島の唐津市付近であろうと考えられている。
・特定のある場所に長い間あったものではなく、
状況の変化に応じて中心地を移動させたという説もあり。
・力関係に差の無い首長たちが連立しあって集落を形成し
交易に頼る小国として、
うまいバランスで末盧国が成り立っていたという説もあり。
・弥生時代中期前半~後期前半の遺跡から出土品は多いが
弥生時代後期後半以降の遺跡は極端に少なくなっている。
この原因については、大陸との航路変更などによる物流の変化で
衰退してしまったという説もあり。
(邪馬台国の時代は後期後半にも重なるが、
倭人伝では後期前半までのルートを紹介した可能性も?)
・船出の地についても呼子(よぶこ)や名護屋浦(なごやうら)、唐津など
様々な候補があがっている。
(唐津湾岸は浅い砂地のため座礁の危険も?)
・当時の唐津平野は入り海となっていた。

(伊都国歴史博物館『海を越えたメッセージ』より引用)
▼唐津第一ホテルリベールからの眺め

唐津城方面の眺め

松浦橋・高島・唐津湾方面の眺め

伊都国方面の眺め

柏崎遺跡・宇木汲田遺跡方面の眺め
◎唐津観光協会
http://www.karatsu-kankou.jp/
--------------------------------------------------------------
【菜畑遺跡(なばたけいせき)】

▼末盧館パンフレットより
菜畑では今から2500~2600年前の縄文時代晩期に、
大陸から伝えられた稲作を日本で初めて行いました。
遺跡からは、これを証明する多数の炭化した米、
稲穂をつみとる石包丁・木のクワ・エブリなどとともに
小区画(20~30㎡)の水田跡も発見されました。
また、水稲だけではなく、アワ・ソバ・ダイズ・ムギなどの
五穀をはじめ、メロン・ゴボウ・クリ・モモなどの果実・根菜も
栽培していました。
家畜としてのブタ(イノシシ)も飼育していたのではないかと考えられ、
菜畑は文字どおり「日本農業の原点」であることを証明しました。
■MEMO「お米・ごはん食データベース : お米と文化」
参考リンク

遺跡付近

遺跡入り口

末盧館

末盧館

末盧館

末盧館・記念スタンプ

復元水田

復元水田

復元水田

復元水田

復元水田

復元水田

復元水田
(末盧館パンフレットより引用)
▼案内板より
菜畑遺跡で発見された日本最古の水田は
小規模(10~40㎡、平均で20~30㎡程度)なもので
谷にそって細長く広がった谷水田と考えられています。
深い湿田で土盛の畦と水路が掘られ
おそらく赤米がみのっていたことでしょう。
水田の中に生えていた雑草の種も発見され、
現在より寒い地域(中国山東省以北)に生息する
「タガラシ」という雑草も含まれています。
■MEMO「タガラシ」
参考リンク(植物生態研究室[波田研])

竪穴住居
(末盧館パンフレットより引用)
▼案内板より
菜畑遺跡で発掘調査された住居跡をもとに
復原したものです(縄文時代晩期)。
唐津周辺に特徴的な円形面で、弥生中期のものに比べると
やや小型の住居です。
6本柱で中央に炉跡があり、特徴として屋根を地にふせたような
カヤ葺の建物です。

竪穴住居ジオラマ
(末盧館パンフレットより引用)
▼出土物

炭化米
(末盧館パンフレットより引用)
▼案内板より
遺跡から出土した米は真っ黒い炭になっており、
炭化米と呼ばれています。
おそらく、水田から倉庫へ運搬の途中に落下したモミや玄米で、
約350粒ほど発見されました。
この中にはモミの先のノゲまで残ったものや、
モミが半分はがれていたものなどがありました。
この炭化米は短粒型(たんりゅうがた)のジャポニカ種と呼ばれるものです。
しかし、縄文時代の炭化米には10%程度シイナ(実らない米)が含まれており、
品種改良と気候条件や栽培技術が未熟だったことがうかがえます。

石包丁
(末盧館パンフレットより引用)
・対馬や壱岐の石包丁に近い

クワ
(末盧館パンフレットより引用)

彩文土器
(末盧館パンフレットより引用)
・縄文時代から弥生時代にかけて製作された鯨骨製のアワピおこしが出土。
(呼子町の小川島貝塚からも出土)
◎google検索「菜畑遺跡」
http://www.google.com/...
--------------------------------------------------------------
【桜馬場遺跡(さくらのばばいせき)】
・弥生時代後期初め頃の遺跡と推定されている。
(邪馬台国時代よりは前の可能性)
・甕棺から様々なものが発見されている。
■MEMO「甕棺墓 - Wikipedia」
参考リンク

流雲文縁方格規矩四神鏡[りゅううんもんえんほうかくきくししんきょう] - 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
・新代から後漢初期の鏡
・直径23.2cm(漢尺での一尺鏡)
・東-春-青龍(せいりゅう)、西-秋-白虎(びゃっこ)、
南-夏-朱雀(すざく)、北-冬-玄武(げんぶ)と
四方をつかさどる四神が描かれている
■MEMO「四神 - Wikipedia」
参考リンク

素縁方格規矩渦文鏡[そえんほうかくきくうずもんきょう] - 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
・新代から後漢初期の鏡

巴形銅器[ともえがたどうき] - 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
・モデルはスイジガイ
・左まわり
・本来は武具の盾などにつけられて魔除けとされていたと考えられる
■MEMO「九州国立博物館:南の貝のものがたり」
参考リンク

有鉤銅釧[ゆうこうどうくしろ] - 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
・モデルはゴホウラ貝(縦割り)
・腕輪で、呪術的(じゅじゅつてき)に使われていた可能性も
・無鉤のものも出土
--------------------------------------------------------------
【柏崎遺跡(かしわざきいせき)】
・弥生時代中期後葉から後期にかけての王墓の可能性が高い場所。
・遺跡としては縄文時代晩期から古墳時代前期にかけての
集落跡、墓地から構成。
・柏崎石蔵遺跡の甕棺墓(かめかんぼ)内から中細銅矛と共に発見された
触角式有柄銅剣(しょっかくしきゆうへいどうけん)は
これまでの類例が3例のみ。

触角式有柄銅剣[しょっかくしきゆうへいどうけん] - 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
・柏崎石蔵遺跡より出土
・世界的にも希少なもので、
世界最大の博物館のひとつであるイギリスの大英博物館と
慶応義塾大学所蔵品に類似品がある程度。
・内、外モンゴル方面に分布していた北方式の銅剣と関係?
(騎馬民族スキタイ風)

連弧文「日光」銘鏡 - 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
・柏崎田島遺跡より出土
・前漢時代中期の鏡
・中国の連雲港市(リェンユンカンシ)でも同型の鏡が出土
--------------------------------------------------------------
【千々賀遺跡(ちちかいせき)】
▼唐津新聞 平成12年10月17日号より
唐津市・千々賀遺跡の出土品を調査していた市教育委員会文化財課は、
17日、出土した漆の蓋状のものや直径40cmの柱や板材などから、
千々賀周辺が現在まで謎とされてきた「末盧国」の中心部ではなかったかとの
見方を強めている。
同地は、千々賀の農村集落の北側の斜面に面した水田で、
宅地開発のために平成11年5月から6月に発掘調査した。
範囲は山側の地層が流れ込んだとみられる960平方メートル。
出土した土器などの特徴から弥生中期から後期にかけての遺跡と見られる。
蓋状の漆器は、計3枚が見つかった。こうした漆品は、前原市の井原遺跡(いわらいせき)、
福岡市の雀居遺跡(ささいいせき)、吉野ヶ里など大規模な拠点集落から発見されている。
また直径40cmの柱には仕口(木を組み合わせるための溝)が切ってあり、
かなり立派な建物の部分らしい。
さらに周辺では、甕棺と銅鉾、銅戈などが出土した千々賀庚申遺跡(ちちかこうしんいせき)、
銅の腕輪が出土した千々賀宇ノ木遺跡(ちちかうのき)があり、
久里双水古墳(くりそうずいこふん)も近いなどの理由から、
末盧国の拠点的集落だった可能性が強いとしている。
今回発掘された、千々賀遺跡は二世紀から三世紀ごろのもので、
倭人伝が書かれたと見られる年代とほぼ一致する。
■MEMO「IPA 吉野ヶ里遺跡 漆塗り器」
参考リンク-1
参考リンク-2

銅釧 - 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
・モデルはイモガイ貝の形をそのまま(縦割り)
--------------------------------------------------------------
【宇木汲田遺跡(うきくんでんいせき)】
・縄文時代晩期から弥生時代中期にかけての集落跡遺跡。
・貝塚からは縄文時代晩期から弥生時代初頭期の土器、
獣と魚の骨、貝類や炭化米も出土。
・出土した銅剣等は実用的なもの。
(戦闘で相手に刺され死亡し埋葬された?)
・家族墓共同墓と考えられる甕棺墓群が発見されている。
(120墓以上の甕棺墓と3墓ほどの木棺墓)
・初期王墓と考えられるものからは、大量の青銅器(朝鮮半島に起源をもつもの)が出土。
(細形銅剣、銅矛、銅戈[どうか]、多紐細文鏡[たちゅうさいもんきょう]、等)

多紐細文鏡[たちゅうさいもんきょう] - 12号甕棺出土
(浜島書店『新詳日本史』より引用)
・穴はヒモを通すためのもの
・倭人が初めて手にした銅鏡の1つと言われています。
■MEMO「多鈕細文鏡 - Wikipedia」
参考リンク

ヒスイ製・勾玉[まがたま] - 現・新潟県糸魚川産のヒスイと判明
(浜島書店『新詳日本史』より引用)
・縄文系の勾玉が多く発見されており珍しい例
・東日本の人が畿内を介して勾玉を銅鐸の原料と交換?

細形銅剣 - 弥生時代中期
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

細形銅矛 - 弥生時代中期
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

細形銅戈[どうか]
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

銅鐸の舌[どうたくのぜつ]
(浜島書店『新詳日本史』より引用)
■MEMO「銅鐸」
参考リンク(Wikipedia)
参考リンク(南あわじ市・袈裟襷文銅鐸・附舌)

支石墓
▼案内板より
この支石墓(しせきぼ)は昭和40年11月に発見されたものです。
(現在は菜畑遺跡・末盧館に展示)
支石墓は、今から約2600年前の縄文時代晩期から
弥生時代前期にかけてつくられたもので、
掌石[しょういし](上石)が長さ3.07m、幅1.04m、
厚さ0.39m、重さ3.0トンもある大きなものです。
墓の内部は土壙墓[どこうぼ](土葬)と考えられています。
・支石墓は中国東北地方南部が起源。
--------------------------------------------------------------
【久里双水古墳(くりそうずいこふん)】
・日本最古級前方後円墳で出土物から
3世紀末~4世紀前半に形成されたという説もあり。
(弥生時代から築造の可能性も。末盧国の王墓?)
・出土物の状況から畿内とは別の文化圏の古墳である可能性が高いと
考えられている。(前方後円墳の起源は九州?)
▼石室(案内板より)
粘土に覆われた石室は、砂岩製の天井石3枚で密閉されていました。
内径は、長さ約2.5m、幅0.9m、高さ1.0mの竪穴式石室でした。
床面には、両端が反り上がった特異な形の、断面がU字型の粘土床が
見つかりました。
石室は、砂岩や玄武岩の板石を、粘土と交互に積み上げたもので、
壁や天井石の裏には一面に赤面顔料が塗られていました。
粘土床から、前方後円墳では例のない、船形木棺であった可能性も
指摘されています。
▼副葬品(案内板より)
石室内から鏡1、碧玉製で長さ7mm~9mmの管玉2と、
石室上端の天井石の間から刀子1が見つかりました。
鏡は後漢の「盤龍鏡」で、粘土床の埋葬頭位側にあたる部分から
出土しました。
径12.1cm、縁の厚さ1.2cmで、龍と虎が向かい合う
文様が描かれています。
縁は鋸歯文様が2列並ぶ平縁になっていて、乳(珠文)と呼ばれる
小さい突起や「子」の銘も認められました。
刀子は、長さ7.0cm、幅1.3cmの小型のもので、
発見位置から葬送にかかわる祭祀にもちいられたものと考えられます。
唐津は、弥生時代より中国大陸の門戸でした。
「盤龍鏡」は、末盧国が最後に直接入手した文物と考えられます。
この盤龍鏡からも、被葬者の姿がみえてくるようです。
■MEMO「久里双水古墳」
参考リンク(邪馬台国大研究さん - ※音が出ます)
参考リンク(佐賀県観光フォトライブラリーCD-ROM)
参考リンク(九州絶佳選さんより)
--------------------------------------------------------------
【邪馬台国までの道程・各国レポート】
帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
投馬国
邪馬台国
--------------------------------------------------------------
iTunesで自動的に最新回のダウンロード(定期購読)を希望される場合には、
↓下記画像をクリックください。
--------------------------------------------------------------
| 固定リンク


