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2007年10月

2007.10.25

新白河駅(東北新幹線) ミニ周歩

出張で新白河に行きました。
ちょこっと夕方に時間があったので駅周歩してみました。^^

仕事仲間が乗ってきた新幹線(こまちタイプ)。

駅前。

芭蕉さん。

奥の細道より。

駅前にある宿泊したホテル。(ホテルサンルート)

コインパーキング内にありました。なんだろ?

安っ。

自社の看板が洗浄されてる。w

原色系の建物って眩しいですね。

きっと、「うおのめ」とは読まないんだろうね。

新白河最高!!!W

ちょ、安スギ。

突然ですが、隣の白河駅に東北本線で移動してみました。

「ステンドグラスのある赤瓦の屋根の大正ロマン漂う駅舎」として、
東北の駅百選に選定されています。

駅構内にて。なんだかスタジオのセットみたいですね。^^

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◎Google検索「新白河」
  http://www.google.com/...

◎Google検索「白河」
  http://www.google.com/...

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2007.10.23

宇宙の終わり

最近の観測で、事実上あらゆるものをバラバラにする
謎のエネルギーの場が宇宙で広く増大しているそうです。

バラバラになる・・と言えば、
宇宙の終わりに関する理論でビッグリップというものがあります。

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▼ビッグリップ理論による宇宙の終わりのイメージ。
  Youtube by Magnetosheath

2003年、「宇宙は全ての物理的構造がバラバラになってしまう
ビッグリップ (big rip)によって終焉する」という論文が
Robert R. Caldwell、Marc Kamionkowski、Nevin N. Weinberg によって
Physical Review Letters 誌に掲載された。

この仮説では宇宙定数が時間の増加関数になっているため、
宇宙の膨張は通常のドジッター宇宙的加速膨張以上のペースで加速される。

この強力な加速膨張により、
宇宙膨張と切り離されて現在安定に存在している銀河や人間、バクテリア、砂粒に至る
ありとあらゆる物理的構造がいずれ素粒子にまでバラバラになってしまう。

かくして宇宙は、永遠に加速しながら
お互いから遠ざかる素粒子だけになってしまうと主張している。

しかし現在のところ、宇宙定数が時間の定数なのか、
時間とともに変化するのかはまだ明らかになっていない。

(Wikipediaより)

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▼こちらはビッグクランチ理論による宇宙の終わりのイメージ。
  Youtube by Magnetosheath

宇宙が膨張から収縮に転じ、
宇宙にある全ての物質と時空は無次元の特異点に収束すると考えられる理論。

このビッグクランチの後、再びビッグバンで膨張する
(現在の宇宙が誕生する前にもビッグクランチがあった)という理論もあります。

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◎宇宙の終焉 - Wikipedia
  http://ja.wikipedia.org/...

IMAGE DATA © Lynette Cook

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最も明るい超新星

恒星が一生を終えるときに引き起こされる大規模爆発現象のことを
超新星(Supernova)といいます。

上の左側の写真の3ヵ月後が右側の写真になります。
3ヶ月前には観測されていなかった星が見えるかと思います。
超新星(Supernova)2005apです。

なんと50億光年近く離れている星にも関わらず、
地球から小型望遠鏡で見ることができたそうです。

すさまじい光を放った星の最後だったことがわかります。

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▼超新星イメージ Youtube by Farid51

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IMAGE DATA © SDSS, R. Quimby/McDonald Obs./UT-Austin

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2007.10.22

鎌倉キネマ堂

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鎌倉キネマ堂

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吉永小百合さん主演映画、吉野ケ里ロケ地に

1960年代後半、邪馬台国ブームの火付け役となった
ベストセラー「まぼろしの邪馬台国(やまたいこく)」の著者で、
盲目の作家として知られた故宮崎康平さんと、妻和子さんを主人公にした
映画のロケ地に、吉野ケ里歴史公園(神埼市郡)が決まった。
撮影を行うのは、邪馬台国再現シーンで、
女優の吉永小百合さんが邪馬台国の女王卑弥呼を演じる。

東映によると、吉野ケ里歴史公園での撮影は、
来年2―3月ごろ、数日から1週間程度を予定している。

映画は来年秋以降、全国300館以上で公開する。

◎佐賀新聞 2007年10月18日
  http://www.saga-s.co.jp/...

◎Google検索「まぼろしの邪馬台国」
  http://www.google.com/...

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庵寺遺跡で田げた35点が出土

島根県埋蔵文化財調査センターは、大田市仁摩町の庵寺遺跡で、
弥生時代後半から古墳時代前半の田げた35点が出土したと発表した。

田げたはぬかるんだ水田に入るための農具で、
一つの遺跡からの出土点数は県内最多。

同センターは「3―4世紀の農具の保管・管理方法をうかがう手掛かりとして
重要な発見」と評価している。

◎中国新聞 2007年10月20日
  http://www.chugoku-np.co.jp/...

◎Google検索「庵寺遺跡」
  http://www.google.com/...

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大谷遺跡で大小のシカ彫った土器片が出土 

鳥取県米子市教育文化事業団は十八日、同市大谷町の
大谷遺跡(縄文-弥生時代)から、大小のシカをモチーフにしたとみられる
弥生時代後期の絵画土器の破片一点が出土したと発表した。

絵画土器の発見は同市内で三例目だが、
複数のシカを彫った土器の出土は県内では初めて。

弥生時代中期の水田跡も二十区画以上見つかっており、
大谷遺跡が二百メートル東側の目久美遺跡と連なり、
現時点では山陰最大となる十ヘクタール規模の
水田が広がっていた可能性も出てきた。

大型のつぼの破片とみられる絵画土器は、
弥生時代後期の水路から発見され、縦十一センチ、横六センチ、厚さ一センチ。

左側には小型の四本足の動物が彫られ、
右側の絵は大半が欠けてはいるが、
大阪府の瓜生堂(うりゅうどう)遺跡から出土したシカの線刻のある土器と似ており、
シカの首と足の部分とみられるという。

絵画土器の発見はこの地域で農耕儀礼が行われていたことを裏付ける。

大規模集落遺跡から出土することが多いため、
大規模水田跡が発見された目久美遺跡から、水路を伝って流れてきた可能性もある。

また、今回の調査では四-十メートルのあぜに囲まれた
二十五-六十平方メートルの大きさの水田跡も見つかった。

水田跡は目久美遺跡と同じ時期に川砂で埋没しており、
弥生時代後期に洪水があったことが判明。大谷・目久美の両遺跡が
一連の遺跡であることを想像させる。

◎日本海新聞 2007年10月19日
  http://www.nnn.co.jp/...

◎Google検索「大谷遺跡」
  http://www.google.com/...

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唐古・鍵遺跡の銅鐸分析 鮮やかな赤銅色

国内最大級の弥生時代の環濠集落跡、
奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で出土した
弥生時代中期後半(紀元前1世紀)とみられる銅鐸が、
製造時は新品の10円玉のような鮮やかな赤銅色をしていたことが分かり、
町教育委員会が18日発表した。

町教委の依頼で奈良文化財研究所の村上隆上席研究員(歴史材料科学)が
分析するため銅鐸片(縦7センチ、横6センチ、厚さ7-9ミリ)の裏側を削ったところ、
当時の色が現れた。

39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根県)での同様の分析でも
スズの含有量に差があることが指摘されている。

◎中日スポーツ 2007年10月18日
  http://www.chunichi.co.jp/...

◎Google検索「唐古 鍵遺跡」
  http://www.google.com/...

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縄文中期も大豆栽培

山梨県北杜(ほくと)市の酒呑場(さけのみば)遺跡で出土した縄文時代中期の土器から、
大豆の圧痕(あっこん)が発見されたと17日、県立博物館などの研究グループが発表した。

大豆の栽培開始は弥生時代が定説だったが、9月に熊本大などが、
九州の縄文後期の遺跡で大豆の圧痕を確認。
今回の発見はそれを1500年ほどさかのぼり、
すでに約5千年前に大豆が栽培されていたことを示す。

地域も九州から中部へ広がったことで、大豆をはじめとする雑穀栽培が、
縄文中期に日本列島の広範な地域で行われていた可能性が強まった。

◎asahi.com 10月17日
  http://www.asahi.com/...

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2007.10.21

EF63

長野県・軽井沢駅にて昭和61年8月27日に撮影

長野県・軽井沢駅にて昭和61年8月27日に撮影

長野県・軽井沢駅にて昭和61年8月27日に撮影

長野県・軽井沢駅にて昭和61年8月27日に撮影

長野県・軽井沢駅にて昭和61年8月27日に撮影

長野県・軽井沢駅にて昭和61年8月27日に撮影

長野県・軽井沢駅にて昭和61年8月27日に撮影

長野県・軽井沢駅にて昭和61年8月27日に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

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国鉄EF63形電気機関車とは、信越本線横川駅-軽井沢駅間の
碓氷峠専用の補助機関車として旧・日本国有鉄道(国鉄)が設計、
1962年から製作した直流電気機関車である。

鉄道ファン等の間では、形式名称にちなみ「ロクサン」という愛称がつけられている。
また、峠の輸送を長年支えてきたことから「峠のシェルパ」と呼ばれることも多い。

碓氷峠区間ではアプト式ラックレールを使い、ED42形による運転を行っていたが、
同区間の所要時間を短縮し輸送力を高めるため、ラックレール方式を廃止し、
粘着運転に切り替えることとなった。

しかし一般の鉄道車両では上り下りできない66.7パーミルの急勾配は
解消しないままだったので、ED42形に代わって同区間の列車の牽引・後押しを行う
新形式機関車が必要となり、EF60形をベースにした機関車が開発されることになった。

常に重連で用いるため前面貫通型となっている点と、
傾斜したサッシ支持の前面窓、側面の通風窓が大きいのが外観上の特徴である。

機器・装置としては、EF62形と協調運転を行うことを前提にしているため、
EF62形と同様、EF70形で採用された出力425kWのMT52形モータを装備している。

EF62形1号機とEF63形1号機はほぼ同時に落成しているが、
この両形式は国鉄の直流機関車としては初めてMT52形モータを採用し、
電気機関車のモータ形式統一のきっかけとなった。

常に2両を1組にした補機として運用され、
電車列車・気動車列車・客車列車・貨物列車を問わず、
碓氷峠を通過するすべての列車に連結された。

勾配を登る下り列車(横川→軽井沢)を押し上げ、
勾配を下る上り列車(軽井沢→横川)は発電ブレーキによる
抑速ブレーキとなるという機能であった。

急勾配では万一連結器が破損した場合も、車両の逸走を防ぐために、
必ず勾配の麓側にあたる横川側に連結された。

同じ理由で碓氷峠を通過する165系・169系は、自重が大きい
クモハ165形・クモハ169形(運転席とモーターが付いた車両)が
通常と逆の麓側を向いていた。

同様の理由で、長野配置の115系・新前橋配置の185系200番台も、
電動車ユニットの向きが逆になっていた。

これらの運転の条件により、この区間の運転は、
全てEF63形に乗務する運転士(機関士)が担当し、峠を登る列車では、
運転士は後ろ向きに運転した。

なお、この場合、列車の先頭に乗務している運転士は、
信号・安全の確認のみを行ない、運転操作は一切しなかった。

EF62形による客車列車や貨物列車では、下り列車の場合、
(軽井沢)EF62・客車・EF63・EF63(横川)の編成となり、
最前部のEF62側と最後部のEF63側の間の無線通信によって、
双方で運転操作(EF62側で引き、EF63側で押すプッシュプル方式)を行っていた。

上り列車の場合、(軽井沢)客車・EF62・EF63・EF63(横川)と
勾配の麓側に3両の機関車が連なり、
最前部のEF63形から3両の発電ブレーキを指令し、勾配を下っていた。

1978年には同区間をお召し列車が走った。
この時の補機として、11号機と13号機がそれぞれ任命され、
共に特別装備を施してお召し列車のサポートをした。

1997年10月1日の長野新幹線開通に伴い、
横川~軽井沢間の在来線区間が前日の9月30日に廃止されたため、
他に回す使用用途がなくなり全機廃車となり、事実上JRから形式は抹消された。

全車両が廃車となったEF63形であるが、保存の動きがあり、
24・25号機が本務用、11・12号機が予備用として
碓氷峠鉄道文化むら内で動態保存されているほか、
1・10・18号機が碓氷峠鉄道文化むらにて、2号機がしなの鉄道軽井沢駅にて、
15・19号機が長野総合車両センターにて、
22号機が個人所有で「碓氷峠の森公園交流館 峠の湯」にて、
13号機が前頭部のみ大宮総合車両センターにそれぞれ静態保存されている。

動態保存されているEF63形11・24・25号機
(12号機は塗装・形式番号や製造会社プレート等取り付けが済み、内部整備中)は、
碓氷峠鉄道文化むら内の運転体験コースにおいて、
1500Vを750Vに降圧されている環境ではあるが素人でも
有料・予約制の学科講習および実技講習を受けて、修了試験に合格すると
『EF63形電気機関車運転体験証明書』が交付され、
有料・予約制で軌道上を走行させることができる。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「EF63」
  http://www.google.com/...

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2007.10.18

南海 21000系[21001系] / 大井川鉄道

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

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南海21000系電車は、南海電気鉄道に在籍していた通勤形電車。

高野線山岳区間への直通運転(大運転)対応車として、
初めてカルダン駆動を採用した車両である。
現行の2000系・2300系へと連なる「ズームカー」の系譜の嚆矢となった。

増備車であり、直線基調(7000系と同様)のデザインに改められた
22001系との対比から、「丸ズーム」と呼ばれていた。

21001系登場前年の1957年に、1956年の紀伊神谷~紀伊細川間の
トンネル火災事故で車体が焼失した旧型直通大運転車
(モハ1251形1282・1283、クハ1891形1894)の機器を再用して
モハ21201-モハ21203-サハ21801-モハ21202の4両編成1本が
帝国車両で21201系が新製された。

21001系は、21201系が先行採用したものを踏襲した、11001系2次車以降の
非貫通型(後の初代1001系)を、同じ2扉でも17mに短縮したスタイルの
準張殻構造である。

車体裾に丸みが付けられている事が示す通り、
その断面形状は張殻構造の原則に忠実に従って設計されており、
「丸ズーム」という愛称もこれに由来する。

車内は、1962年に新製された3次車の第4編成までが、
11001系と同様の扉間転換クロスシート、1963年~1964年に新製された4・5次車は
オールロングシートに変更された。

1974年に第3・4編成は、オールロングシートに改造されている。
この際、第1・2編成はクロスシートのまま残されたが、
これは臨時「こうや」として運用されることを考慮してのもので、
冬期に実施されていた20001系の定期検査時や同系の故障時、
夏期の特急増発時などに重宝された。

照明は蛍光灯1列に加えて座席荷棚下に伝統の読書灯が備えられており、
これはロングシート車にも継承された。

クロスシート車であった第1・2編成の先頭車4両(モハ21001~21004)は
静岡県の大井川鐵道に、第3・5~7編成の先頭車8両(モハ21005・21006・21009~21014)は
島根県の一畑電気鉄道(現・一畑電車)に譲渡され、3000系として2006年現在も運用されている。

また、大井川鐵道に譲渡された編成は、
南海時代の旧塗装である緑の濃淡を塗色として使用しているが、
この内21001・21002は譲渡前に休車状態で工場に保管されていた時期に
50000系「ラピート」の塗装比較試験に使用されており、
当然ながら譲渡に当たっては再塗装が必要となったが、この際、
大井川鐵道側の希望でわざわざ旧塗装に戻されたといい、
追加譲渡された第2編成もこれにならっている。

なお、大井川鐵道に譲渡された車両も
一畑電鉄に譲渡された車両もワンマン改造を受けている。

ドラマ『特急田中3号』=劇中、桃山の住んでいるマンションの一室に
21000系の写真が飾られている。

(Wikipediaより)

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走行音

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◎Google検索「南海 21000」
  http://www.google.com/...

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2007.10.17

本名でカレンダーメーカーをやってみた

よーし、今日も頑張るぞー!((((((((=^-^)(^^*))))))))))

カレンダーメーカー

toshiさんに教えてもらいました。

それにしても、toshiさんの結果 がウラヤマシス。(~o~)

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松本城 太鼓門

二の丸の正門でもある太鼓門。

1999年3月に復元されました。

梁。

梁に使用された樹齢140年の赤松の根元。

太鼓門櫓内部は年に3回公開されています。

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EF60

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

神奈川県・新鶴見機関区にて昭和61年8月6日に撮影

群馬県・高崎第二機関区にて昭和62年8月3日に撮影

神奈川県・新鶴見機関区にて昭和61年8月6日に撮影

神奈川県・新鶴見機関区にて昭和61年8月6日に撮影

群馬県・高崎第二機関区にて昭和62年8月3日に撮影

群馬県・高崎第二機関区にて昭和62年8月3日に撮影

群馬県・高崎第二機関区にて昭和62年8月3日に撮影

静岡県・沼津機関区にて昭和61年8月9日に撮影

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EF60形電気機関車は、
日本国有鉄道(国鉄)が1960年に開発した、平坦路線向け直流用電気機関車である。

1958年、国鉄初の新形直流電気機関車としてED60形およびED61形が登場したが、
このED60形・ED61形で採用された1基390kWのMT49形モータを使用して
F形(動輪6軸)機関車を製造すると、その出力は390kW×6=2340kWとなり、
それまで東海道本線・山陽本線で高速貨物列車用として使用されていた
出力2530kWのEH10形に比べてさほど劣らぬ出力を持ちつつ
小型軽量の機関車を作ることができる。
このような考えから開発されたのがEF60形である。

1960年から1964年にかけて、貨物用の0番台が129両、
寝台特急列車けん引用の500番台が14両の計143両が製造された。

製造当初は東海道・山陽本線の高速貨物列車や特急列車に使用されていたが、
1964年にEF65形が登場してからは、
500番台も含めて主に一般貨物列車で使われるようになった。
1970年代後半からは首都圏の中央本線・高崎線・両毛線などでも使われるようになり、
1986年3月からは竜華機関区に配属され、阪和線・紀勢本線で使われたものもある。

しかし、老朽化に加え、電車化の進行、貨物列車の減少などにより、
1980年頃から廃車が出始めた。
最後に残ったのは高崎第二機関区に配置され
首都圏発着で高崎線・両毛線を通る貨物列車に使用されていた数両と、
竜華機関区に配置され阪和線・紀勢本線で使われた数両であった。
これらも1986年11月のダイヤ改正で全車両が定期運用から外されたため、
国鉄分割民営化を前にEF60形の定期運用は全くなくなった。
ほとんどがJRに承継されずに廃車となったが、
イベント用機関車として動態保存の形でJR東日本に19号が、
JR西日本に503号(静態保存)がそれぞれ承継されている。

なお、19号機は1986年にお座敷客車「やすらぎ」の牽引指定機として
客車に合わせた白地に青・赤の細帯の塗装に変更されたが、
1988年には「アメリカントレイン」の牽引指定機となり、
客車に合わせた星条旗風の塗装に変更された。
翌1989年、「アメリカントレイン」が運転終了となった後に
「やすらぎ」塗装に戻されたが、同車が2001年に廃車となったため、
2007年の全般検査で国鉄一般色に戻されている。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「EF60」
  http://www.google.com/...

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北神宮寺遺跡で60棟超す竪穴住居を確認

浜松市は9日、同市北区引佐町井伊谷の「北神宮寺遺跡」から、
弥生時代から古墳時代(1900-1600年前)にかけての
大規模集落を確認したと発表した。

鎌倉、江戸時代の墓や副葬品なども多数確認されたという。

弥生時代から古墳時代にかけての集落として、
縦横とも約5メートル、深さ50-5センチ程度の竪穴住居が60棟以上を確認した。
周囲に溝を掘り、掘った土を盛って墓とした縦横約10メートルの
方形周溝墓が30基以上見つかった。
墓の溝部分などからは、壺(つぼ)や高坏(たかつき)などの
副葬品も数1000点見つかった。

◎中日新聞 2007年10月10日
  http://www.chunichi.co.jp/...

◎Google検索「北神宮寺遺跡」
  http://www.google.com/...

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梅田萱峯遺跡で国内最古の墓上祭祀施設を確認

鳥取県埋蔵文化財センターは五日、琴浦町梅田と大山町八重にまたがる
梅田萱峯(かやうね)遺跡で、墳丘墓の主体部を四本の柱で囲む
墓上祭祀施設が確認されたと発表した。

約二千年前の弥生時代中期後葉に築造されたと見られ、
同様の造りの墳丘墓としては国内最古になる。

四本柱の祭祀施設を伴う墳丘墓。

主体部を囲む柱穴を持つ墳丘墓は、「出雲の王墓」として知られる
西谷3号墓(弥生時代後期後葉、島根県)や平原1号墓(弥生時代終末、福岡県)に
続く三例目の発見になる。

今回見つかった墳丘墓は、これまで最も古いとされていた
西谷3号墓より約二百年さかのぼる。

墳丘墓は長軸十一メートル、短軸八メートルの長方形で、高さは六十センチ。
被葬者を埋葬した主体部を取り囲む祭祀施設の規模は、
東西二・八メートル、南北二・一メートル。
柱穴の直径は八十センチで、直径二十センチの柱を立てたと見られる。

同センターの小山浩和文化財主事は「出雲地方の王墓で用いられた
墓上祭祀の初源のスタイルであり、貴重な遺跡」と話している。

◎日本海新聞 2007年10月6日
  http://www.nnn.co.jp/...

◎Google検索「梅田萱峯遺跡」
  http://www.google.com/...

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纒向遺跡で国内最古の大量のベニバナ花粉を発見

奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の溝跡にたまった土から
大量のベニバナ花粉が見つかり、市教育委員会が2日、発表した。
織物の染料とみられ、国内で確認された最古の例。

「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると、243年、
卑弥呼が魏に赤や青の織物を献じたと伝えている。
当時の大陸との交流を考える貴重な資料になりそうだ。

エジプトや西アジアが原産のベニバナは、中国などから日本に伝わったとされ、
これまで6世紀後半の藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の石棺から
花粉が見つかっていたのが最古だった。

市教委は「中国との直接的な行き来の中で、
最新技術だった染織が持ち込まれたのだろう。
指導役の工人が来て栽培までしていたかもしれない」としている。

市教委が依頼した奈良教育大の金原正明准教授(環境考古学)が分析。
溝跡(長さ6メートル以上、幅1・5メートル、深さ1メートル)の土に、
1立方センチ当たり270-560個の「自然では驚異的な数」(同准教授)の
ベニバナ花粉が検出された。
金原准教授によると、当時、国内の他の地域では
ベニバナの花粉は見つかっていないという。

ベニバナの染織は、水溶性の黄色の色素を水で洗い流し、
残った赤い色素で染めるが、花粉はこの廃液に含まれていたと推定した。
溝の約150メートル上流は神殿建物跡などが出土した
纒向遺跡の中枢で市教委は組織的な工房があったとみている。

◎産経ニュース 2007年10月2日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「纒向遺跡」
  http://www.google.com/...

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纏向遺跡で国内最古の木製仮面が出土

奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、
木製の仮面(弥生時代末~古墳時代初頭、3世紀前半)が出土し、
市教委が26日、発表した。

古代の木製仮面としては国内最古で、これまでの例を約400年さかのぼる。
同じ場所から木製盾の破片や鎌の柄が見つかり、
盾などを手に面をつけて踊る呪術師の姿をほうふつとさせる。
古代祭祀(さいし)の具体像を知る一級資料で、
農耕儀礼や鬼追いのルーツという見方が出ている。

仮面はアカガシ製で、縦26センチ、横21.5センチ、厚さ6ミリ。
未使用の鍬(くわ)の刃を転用したと見られ、柄を差し込む穴を口に、
柄の支え部分を鼻にしていた。

三日月形のまゆを線刻し、周りに赤い顔料がわずかに残っていた。

裏側が平らで、顔に固定するひもを通した穴もないため、
手に持って使った可能性が高いという。

鎌の柄(長さ47.5センチ、直径3センチ)と、
赤と黒で彩色した盾の破片(モミ製、長さ15センチ、幅2.5センチ)は
約40センチ上の土層にあった。

仮面より後に井戸へ投げ込まれたらしい。

市教委はいずれも同じ祭りで使われたと見ている。

これまで木の仮面は7世紀初めごろの
神戸市・宅原(えいばら)遺跡のものが最古だった。
土製では縄文時代の土偶に仮面らしいものの出土例がある。

纒向遺跡に詳しい奈良県立橿原考古学研究所の
寺沢薫・調査研究部長(考古学)の話

古くからの農耕儀礼が大和王権に採り入れられるなかで生まれた
「神の顔」をかたどったのだろう。
明確な形を持たなかった弥生の神々が、具体的観念として認識され始めたことを示す
最古の例とも考えられ、画期的な発見だ。

◎asahi.com 2007年9月26日
  http://www.asahi.com/...

◎Google検索「纒向遺跡」
  http://www.google.com/...

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縄文人も大豆作り 弥生説より千年前

「畑の肉」とも言われ、日本人の食生活に深くかかわる大豆。
その栽培開始が、定説とされていた弥生時代前期より1000年以上古い、
縄文時代後期の中ごろ(約3600年前)までさかのぼるという研究結果を、
熊本大学埋蔵文化財調査室の小畑弘己准教授(47)らがまとめた。

一般に「縄文時代は狩猟・採集の生活」と言われてきたが、近年の研究で、
キビやヒョウタンなどの植物を栽培していたことははっきりしてきた。
大豆栽培の痕跡は、縄文人の食生活が、従来考えられていたより、
さらに多様で豊かだったことを示唆する。

小畑准教授らは昨年、穀物を食べるコクゾウムシの痕跡が、
縄文時代後期中ごろの土器に残っていたことを調べ、
大麦や稲の栽培が九州で始まっていた可能性を指摘した。
「大豆も同じころ、大陸から入ってきたのでは」と推測している。

◎asahi.com 2007年9月24日
  http://www.asahi.com/...

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2007.10.14

C56 44 大井川鉄道

静岡県・新金谷車両区にて平成19年9月に撮影

静岡県・新金谷車両区にて平成19年9月に撮影

静岡県・新金谷車両区にて平成19年9月に撮影

静岡県・新金谷車両区にて平成19年9月に撮影

静岡県・新金谷車両区にて平成19年9月に撮影

静岡県・新金谷車両区にて平成19年9月に撮影

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C56形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造した
軽量小型テンダー式蒸気機関車である。

1872年(明治5年)以来続いた鉄道の建設も、主要幹線の整備の目処が立つと、
政治的圧力を背景に輸送需要の大きくない
閑散支線区の建設促進へと移行していった。

当時こうした線区での蒸気機関車は、幹線の需要増大に対応できずに
幹線から撤退した旧型機、雑多な旧式輸入機が充てられていた。
しかし、幹線と支線との需要落差が広がると、幹線用機関車は旧型機であっても
大き過ぎて支線へ転用不可能となることと、
輸入車両の老朽化・部品確保困難に起因する整備費用増大が見込まれた。

そこで昭和初期に至って、閑散支線に最適化された、
軽量小型で保守の容易な機関車が計画されることとなった。

上記の通り本線より著しく低規格な簡易線には、大型機関車は入線できない。
このためまず短距離線区向けには1932年にタンク式のC12形が開発された。
軽量で前後進容易な小型機である。

しかし比較的長距離の線区では、C12形では航続距離が短く運用に適さない。
このためC12からタンクをはずし、テンダー式に設計しなおされたのがC56形で、
両形式は共通部分の多い系列設計となっている。

これは制式蒸気機関車系列化の先輩である
ドイツにおいて支線区向けに設計された、
64形タンク機と24形テンダ機の設計手法を参考にしたと思われる。

両形式は形態もC12形・C56形にそれぞれ酷似している。

当時は簡易線には、転車台が設置されている箇所が少なかった。

C12形はタンク式機関車のため、バックは容易に出来るが、
C56形はテンダー式機関車のため後方が見にくくならないよう、
テンダー側面を大きく欠き取って後方視界を確保したスタイルが特徴的である。
しかし実際には脱線が多発したため、入換を除けばバック運転は
ほとんど行われなかったといわれている。

C56形は軽量小型でありながら長距離の運用に耐えられる設計であるために
軍部より注目され、太平洋戦争開戦直前の1941年11月および12月に、
製造された160両のうち過半数以上の90両(C561~90)が供出され、
軌間を1mへ変更、その他多数の改造を受けタイ・ビルマ(現・ミャンマー)へと出征した。

タイへ送られたC56形は当時建設中だった
泰緬鉄道の主力機関車として運用される事になる。

しかし太平洋戦争が激化し、ビルマ戦線の戦いも始まった。
C56形は、地雷や爆撃・銃撃を受け大破した車両も多数あった。
そのためC56形は、昼間は運行せず夜間に細々と運行され続けたという。

また、泰緬鉄道は突貫工事の上酷使に次ぐ酷使で線路が悪く、
橋上で脱線転落し失われた機関車もあった。

敗色濃厚となった戦争末期には、鉄橋が破壊されるなどして
緊急の退却の際に機関車を連れて行けない場合も多く、
敵に機関車を利用されないために、
鉄道連隊の将兵の手によってカマに爆薬を詰められ、
機関車を、時には苦楽を共にした将兵も自ら体をくくり付け爆破する
「機関車の自決」も度々行われた。

そして終戦後、泰緬鉄道は各地で寸断・線路は荒れ果て壊滅的な状況に陥っていた。

同時に多くのC56形が廃車置き場に留置され、無惨な姿をさらしていた。

その後、運転が出来るC56形は泰緬鉄道が復旧した戦後も使用され、
46両がタイ国鉄700形(701~746)として使われた。

これらは1970年代後半から1980年代前半まで使用され、
現在でも713(C5615)・715(C5617)がタイ国鉄の手によって動態保存されている。

また1979年(昭和54年)には、
725(C5631)と735(C5644)が日本に帰還する事になった。
この2両は数多い出征機関車の中でも特別な存在である。

31号機は泰緬鉄道開通式に使われた機関車で、
44号機はタイで使われたC56形の中で、
現地で組立てられた機関車の第1号機関車であった。

両機共に、ロッドなどの細部の部品がいたるところ
他の同型出征機関車から流用・修理されており、その歴戦を物語る。

現在、31号機は靖国神社の遊就館で静態保存、
44号機は大井川鐵道で動態保存されている。

帰国後はオリジナルの姿への復元が行われたが、
屋根などにタイ時代の面影が残っていた。
大井川鐵道で運用を開始した44号機は、SL急行「かわね路号」に用いられた。

軍事供出で使用されていたタイから1979年(昭和54年)に帰還し、
大井川鐵道で動態保存さされることとなり
国内仕様に戻され活躍を始めたC5644であったが、
戦時中の酷使が災いして老朽化が著しくなり、2001年に大修理が行われたが、
なおもボイラー状態が芳しくなく同鉄道で最も非力
(単機で牽引できるのは客車3両が限界だった)であることや、
C11190の入線により機関区が手狭となったことから、
2003年12月より千頭駅で休車扱いで保管された後、
2006年9月より新金谷車両区にて整備が開始された。

劣化が著しいボイラーは、同鐵道が部品取り用として保管していた
C12208のものを流用のうえ交換、
外装はタイ在籍当時の姿(一部車体は緑色でタイ語も書き込まれる)に復元されている。

3月末にボイラー交換作業を行い、9月5日に報道陣公開の上火入れ式を行った。

9月中に再び試運転として本線を走り、2007年10月7日より運用に復帰している。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「C56」
  http://www.google.com/...

◎Google検索「C56 44」
  http://www.google.com/...

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2007.10.13

男と女の違い by 気になったニュース(仮)







kinyaさんの「気になったニュース(仮)」に出させていただきました。

【kinyaさん運営サイト】
+気になったニュース
+Lost Control
+Love Collection(自作曲音源)

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2007.10.03

奴国 <邪馬台国までの道程>

【Podcasting その1】

【Podcasting その2】

【Podcasting その3】

【Podcasting その4】

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【邪馬台国】

西暦200年代(3世紀:弥生時代後期~古墳時代前期)に
小国ばかりだった倭国で30国を従えていたとされている国。
邪馬台国があったとされる根拠は、
中国の歴史書・『三国志』魏書東夷伝倭人条に残されています。

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【邪馬台国までの道程】

帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
投馬国
邪馬台国

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【魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より】

東南の奴国まで百里である。
官を シ[凹儿]馬觚(しまこ)、副を卑奴母離(ひなもり)という。
二万余戸ある。

[引用:武光誠さんの著書「邪馬台国と大和朝廷」(平凡社新書)より]

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【奴国の場所と中心地】

福岡県福岡市博多区エリア~春日市のエリア

◎博多 - Wikipedia
  http://ja.wikipedia.org/...

◎福岡県春日市 - Wikipedia
  http://ja.wikipedia.org/...

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【須玖岡本遺跡群・奴国の丘歴史公園】

展望光景

奴国の丘歴史資料館の外観

奴国の丘歴史資料館の入口

岡本遺跡案内

◎春日市奴国の丘歴史資料館
  http://www.city.kasuga.fukuoka.jp/nakoku/

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王墓の上石(うわいし)

▼案内板より
明治32年(1899)に大石の下から中国鏡30面前後、
銅剣・銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・ガラス壁(へき)・ガラス勾玉(まがたま)など
多数の副葬品とともに甕棺墓(かめかんぼ)が発見され、この大石が
厚葬墓(あっそうぼ)[王墓]の上石ということがわかりました。
大石は下図のように甕棺墓の上に標石状(ひょうせきじょう)に
のせられていたと考えられます。
発見時の記録と近年の周辺の調査から王墓は墳丘墓(ふんきゅうぼ)であったことも
わかりました。
平成10年(1998)現在地に移設しました。

王墓想定図より

王墓想定図より

王墓の復元(奴国展示館)

王墓出土鏡(復元)

・57年よりも前の時代の奴国王墓と思われる。

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覆屋 A棟

▼案内板より
この覆屋(おおいや)では墓地の北端部に位置する
甕棺墓群の一部と祭祀遺構が見学できます。
甕棺墓はすべて弥生時代中期中頃(紀元前1世紀)のもので、
成人棺が深く埋められた後、その周囲に6基の小児棺(しょうにかん)が
続けてやや浅い位置に埋置(まいち)された状態がわかります。
このように成人用甕棺墓の傍らに複数の小児用甕棺墓が存在する例は、
他の甕棺墓地でもよくみられます。
祭祀遺構は墓地と関連した遺構で、甕棺墓群の周囲に分布しています。
中から祭祀に使用された土器が出土しました。
ここに公開している祭祀遺構から出土した土器は、
甕棺と同じ時期のものです。

甕棺

甕棺

甕棺

土器

土器

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覆屋 B棟

▼案内板より
この覆屋では墓地の西端に位置する甕棺墓、土壙墓(どこうぼ)、
木棺墓(もっかんぼ)および竪穴遺構(たてあないこう)を
発掘調査時の状態で公開しています。
ここに展示している成人用甕棺墓は、
弥生時代中期後半(今から約2,000年前)のもので、大型の甕棺に
木蓋(きぶた)をしていたと考えられます。
木棺墓と土壙墓の時期は明らかではありませんが、
鉄剣が出土した木棺墓については、甕棺墓や土壙墓より
古いことがわかっています。
竪穴遺構については住居跡とも考えられますが、
墓地の一角につくられていることや、
柱穴が竪穴の周囲に配されていることなど、
ほかの住居跡とは異なった点が注目され、
埋葬と関係した建物であった可能性もある遺構です。

覆屋 B棟 内部

木棺墓と成人用甕棺墓

木棺墓部

土壙墓部

竪穴遺構

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弥生時代中期の竪穴住居跡の復元。

弥生時代中期の竪穴住居跡の復元。

▼案内板より
少しずつ時代が違う3棟の住居が重なっています。
この上に屋根を葺きました。

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弥生中期の須玖岡本遺跡群(すくおかもといせきぐん)
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

・環濠の発見状況より、環濠が遺跡群を囲っていた可能性もあり。
・青銅器の鋳型など、生産関連のものが全国的に突出して出土している。
・生産工房と見られる建物の跡も見つかっている。
・鉄器や鉄の破片もあり、鉄器工房があったと思われる。
・ガラス工房もあったと思われる。
・生産されたものは、北部九州や四国、対馬へと配布されたと思われる。
・弥生時代後期になると工房は丘陵地から低台地上へ移動。
・弥生時代後期後半~終末にかけて対馬で大量に消費された広形銅矛の
 生産が行われていたと思われる。
・古墳時代初めには遺跡群の集落は衰退へ。

須玖坂本遺跡の青銅器工房跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

銅鏃鋳型(どうぞくいがた) / 須玖坂本遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

銅鏡鋳型 / 須玖坂本遺跡
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

小銅鐸鋳型 / 岡本遺跡
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

広形銅矛鋳型 / 熊野神社 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

広形銅戈鋳型 / 大南遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

中広形銅矛 / 須玖岡本遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

中広形銅戈 / 紅葉ヶ丘遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

細形銅剣 / 立石遺跡 / 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

勾玉鋳型 / 赤井手遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

ガラス勾玉 / 須玖岡本遺跡 / 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

ガラス小玉 / 須玖岡本遺跡 / 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

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【金隈遺跡(かねのくまいせき)】

▼案内板より
金隅遺跡(かねのくま)遺跡は、弥生時代前期の中頃から後期の初め
(紀元前2世紀~紀元2世紀頃)までの400年間、甕棺墓(かめかんぼ)を
中心とした共同墓地です。
これまでに甕棺墓348墓、、土壙墓(どこうぼ)119墓、石棺墓(せっかんぼ)2墓が
発見されています。
甕棺は2個の甕や壺を合わせた合せ口式(あわせくちしき)と
1個だけの単式(たんしき)があります。
土壙墓は長方形の穴を掘った墓で中には板を長方形に組み合わせた、
組み合わせ式木棺墓(もっかんぼ)もあります。

入口

丘陵の上にあります。

付近の展望

展示館

展示館案内

案内板より

墓群

甕棺と人骨

甕棺と人骨

土壙墓

甕棺墓

手との比較

弥生時代中期に甕棺の使用がもっとも多いことと小児の死亡率が非常に高かった事がわかります。


副葬品は南方産のゴホウラ(貝)製の腕輪のもっとも古いものが
103号甕棺から出土しています。

ゴホウラ貝

貝輪からこの時代には南方との交流があったことが分かります。

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【那珂遺跡群(なかいせきぐん)】

◎3世紀・奴国、最古の都市計画道路 - 2007年3月9日 asahi.com より
  http://www.asahi.com/...

◎Google検索「那珂遺跡群」
  http://www.google.com/...

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【板付遺跡(いたづけいせき)】

日本で初めて稲作が始まった頃の遺跡の1つ。

縄文時代晩期頃に大陸から稲作の技術をもった人々が当時の日本へ。
それをキッカケに、日本でも稲作が広まる。

大量にとれ主食にもなり蓄えが可能な米に対して、
人々は大きな価値を感じるように。
結果、米の生産能力等によって階級社会が誕生。

集落も、それまでの原始共同体からムラ単位、国単位へと変化。
次第に、“戦争”が勃発。

稲作の伝来が、当時の日本に大きな変化をもたらすことに。
(縄文時代から弥生時代に)

板付遺跡の場所

▼案内板より(1)
板付遺跡は、昭和25年(1950)に発見されました。
翌年から行われた発掘調査で、日本最初の米作りがここで始まったこと、
台地の上にムラがあり、深い溝で取り囲まれていたことなどがわかりました。
弥生時代初めごろのムラのようすや米作りの歴史が、よくわかることから、
昭和51年に国史跡に指定されました。
平成元年から環境整備を始め、平成7年に板付弥生のムラが誕生しました。

▼案内板より(2)
板付遺跡は、福岡平野のほぼ中央、御笠川と諸岡川に挟まれた標高12mの
低い台地を中心として、東西の沖積地を含む広大な弥生時代の遺跡である。
日本で稲作が開始された頃の農村集落の代表的な遺跡として有名である。
台地上には幅約4m、深さ約2m、断面がV字形をした溝が、東西約80m、
南北約110mの楕円形に巡らされている。
(環濠)環の内外には米やその他の食料を貯蔵するための竪穴(貯蔵穴)が
多数掘り込まれている。
台地の東西の低位段丘には水路が引き込まれ、完備された水田が開かれ、
日本で最も早く稲作農耕が開始されていることがわかった。
弥生時代前期末には、北部九州でも有数の集落に発展し、遺跡の東南部の
田端地区からは、甕棺の中から細形銅剣、銅矛各3本が発見され、有力者が
台頭していたことが推定される。
この頃には、環濠周辺だけでなく、北方の板付北小学校や南台地にも集落が
広がり、貯蔵穴群や墓地が発見されている。
このように板付遺跡は集落、墓地、生産地(水田)が一体となって把握される
数少ない遺跡で、弥生時代の解明にはかかせない重要な遺跡である。
(福岡市教育委員会)

遺跡入口(籾のオブジェが上に)

土塁(どるい)

ムラの入口

ムラの入口(環濠を越えて中に入る)

ムラの入口(環濠を越えて中に入る)

ムラの入口(柵から見た環濠)

ムラの入口(柵から見た環濠)

▼案内板より
板付弥生のムラを空から見ると、卵形に溝が巡っています。
このように溝で囲まれた集落のことを、環濠集落(かんごうしゅうらく)と言います。
現在は、逆台形の断面に復元していますが、もともとは幅約6m、深さ約3mの
逆三角形で、長径は約110mもありました。
また貯蔵穴が集中している部分には、直線の溝を掘り、住居と区画しています。
もし1人が、1日に1㎥の土を掘り上げたとして計算すると、
10人で約270日もかかる大工事でした。
どんな目的で環濠を掘ったのか、まだよくわかっていません。

ムラの全体図

竪穴住居

▼案内板より
ムラ人たちは、地面を円形や方形に掘り下げ、
屋根でおおった竪穴住居に住んでいました。
板付遺跡では、弥生時代初めごろの竪穴住居は発見されていないので、
市内や周辺の遺跡を参考にして復元しました。

竪穴住居

竪穴住居

竪穴住居

ムラ内部の光景

貯蔵穴

貯蔵穴

▼案内板より
貯蔵穴(ちょぞうけつ)は、米や豆類などの食料を保存した穴です。
竪穴住居の近くの貯蔵穴には、毎日食べる食料を入れ、
溝や柵で取り囲まれた貯蔵穴には、1年分の食料や来年用の
大事な種籾(たねもみ)を保存したのでしょう。
他の遺跡では、湿気やネズミから食料を守るために、
床を地面から高くした高床式(たかゆかしき)の倉庫も発掘されています。

ムラの墓地(子供たちの墓)

▼案内板より
ムラの墓地は、これまで数ヵ所で発掘されています。
ムラ人の多くは、板付北小学校付近の共同墓地に埋葬されました。
環濠のすぐそばには、子供たちの墓があります。
かわいい子供たちの死を悲しんで、ムラの近くに埋葬したのでしょう。
これらとは別に、環濠の南東側には小高く土盛りした墓地がありました。
数基の甕棺(かめかん)から、朝鮮製の銅剣や銅矛が副葬されていたことから、
ムラのリーダーだったムラ長(おさ)たちが葬られたと考えられます。

水田

水田

水田

▼案内板より
ムラ人たちは、力を合わせて用水路を掘り、水を引いてきました。
たくさんの木杭を打ち込んで水をせき止め、水田への水量を調整しています。
鍬(くわ)や鋤(すき)などの農具は、かたい樫(かし)で作られていますが、
今と変わらないような農業技術と農耕具をもっていました。
毎年、近くの小学校を中心にして、稲作りに取り組んでいます。

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▼板付遺跡弥生館にて

弥生人の足跡(今から約2300年前の水田に残されていた)

弥生人の足跡(今から約2300年前の水田に残されていた)

石包丁(穂摘み具・穀物の穂を刈る)

狩猟具(動物や鳥を取る道具)

石鎌[いしがま](稲を根刈りする)

土で作った さじ

炭化してしまった 米粒

農具(復元)

農具(復元)

紡錘車[ぼうすいしゃ](繊維によりをかける糸つむぎの道具)

弥生人の服(貫頭衣)を復元

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【漢委奴国王印】 国宝

◎福岡市博物館 案内ページ
  http://museum.city.fukuoka.jp/...

(財)福岡市文化芸術振興財団発行 ポストカードより

(財)福岡市文化芸術振興財団発行 ポストカードより

Wikipedia Commonsより

実寸レプリカと携帯電話・単3電池とのサイズ比較

▼Wikipediaより
漢委奴國王印(かんのわのなのこくおうのいん)は、日本で出土した金製の王印(金印)。
倭奴国王印(わのなのこくおうのいん)とも。
1784年(天明4年)旧暦2月23日、福岡県福岡市東区志賀島南端、叶崎の「叶の浜」で出土、
福岡市博物館所蔵(福岡藩主黒田家旧蔵)。国宝に指定されている。

印は印面一辺2.3cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く高さ0.8cm、重さ108.7g。
鈕は蛇鈕。3行にわけて篆書で『漢委奴國王』と刻されている。
「委」は「倭」即ち倭国と解され「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じるのが通説である。

発見したのは甚兵衛という地元の百姓(近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、
甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説も有力である)で、
田の耕作中に偶然発見したとされる。
一巨石の下に三石周囲して匣の形をした中に存したという。
郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥によって『後漢書』に記された金印であると同定。
その後は黒田家に伝えられ、1978年に福岡市に寄贈され、
現在は福岡市博物館に保管・展示される。

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元二年(57年)に奴国からの朝賀使へ
(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。

1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。
それは58年に光武帝第9子であり廣陵王であった劉荊に下賜されたものであり、
字体が漢委奴国王印と似通っていることなどから、
2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高いとの結論が出た。
これが真実だとすれば偽造説は完全に覆されることになるが、
当の廣陵王爾印の信憑性にも疑問が呈されている。

※Podcastingでは、
漢委奴国王印の発見を2月28日とお伝えしましたが、
(参考:斉藤忠著『日本人はどこから来たか』)
旧暦2月23日(現在の暦:4月12日)が正しいようです。

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倭国と中国の流れ
東京書籍『図説日本史』より引用

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▼(財)福岡市文化芸術振興財団・案内より
金印は、大切な公文書や手紙の封印に使われました。
封印の方法は、文書や手紙を入れた箱を紐(ひも)で縛り、
その結び目に付けた粘土に押して封をしたもので、
文書の秘密を守る鍵の役目を果たしています。

封泥使用例(馬王堆1号漢墓出土物)
伊都国歴史博物館『海を越えたメッセージ』より引用

封泥使用例
伊都国歴史博物館『海を越えたメッセージ』より引用

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【邪馬台国までの道程・各国レポート】

帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
投馬国
邪馬台国

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歴史ラジオ

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↓下記画像をクリックください。

iTunesのダウンロード案内ページ

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2007.10.02

CEATEC JAPAN 2007

http://www.ceatec.com/...

10/6(土)まで
千葉(幕張)・幕張メッセ

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仙厓・センガイ・SENGAI

http://www.idemitsu.co.jp/...

10/28(日)まで
東京(丸の内)・出光美術館

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「高度成長期」昭和30~40年代 Part.2

http://www.syabi.com/...

10/14(日)まで
東京(恵比寿)・東京都写真美術館

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キュレーターズ・チョイス07 「対話する美術館」

http://www.syabi.com/...

10/8(月)まで
東京(恵比寿)・東京都写真美術館

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坂本龍一 + 高谷史郎 「LIFE - fluid, invisible, inaudible...」

http://www.ntticc.or.jp/...

11/4(日)まで
東京(初台)・NTTインターコミュニケーション・センター

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2007.10.01

酒場 キミ

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ペリーロードにて

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芸能人の授かり婚 by 気になったニュース(仮)







kinyaさんの「気になったニュース(仮)」に出させていただきました。

【kinyaさん運営サイト】
+気になったニュース
+Lost Control
+Love Collection(自作曲音源)

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