奴国 <邪馬台国までの道程>
【Podcasting その1】
【Podcasting その2】
【Podcasting その3】
【Podcasting その4】
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【邪馬台国】
西暦200年代(3世紀:弥生時代後期~古墳時代前期)に
小国ばかりだった倭国で30国を従えていたとされている国。
邪馬台国があったとされる根拠は、
中国の歴史書・『三国志』魏書東夷伝倭人条に残されています。
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【邪馬台国までの道程】
帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
投馬国
邪馬台国
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【魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より】
東南の奴国まで百里である。
官を シ[凹儿]馬觚(しまこ)、副を卑奴母離(ひなもり)という。
二万余戸ある。
[引用:武光誠さんの著書「邪馬台国と大和朝廷」(平凡社新書)より]
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【奴国の場所と中心地】
福岡県福岡市博多区エリア~春日市のエリア
◎博多 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/...
◎福岡県春日市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/...
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【須玖岡本遺跡群・奴国の丘歴史公園】
展望光景
奴国の丘歴史資料館の外観
奴国の丘歴史資料館の入口
岡本遺跡案内
◎春日市奴国の丘歴史資料館
http://www.city.kasuga.fukuoka.jp/nakoku/
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王墓の上石(うわいし)
▼案内板より
明治32年(1899)に大石の下から中国鏡30面前後、
銅剣・銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・ガラス壁(へき)・ガラス勾玉(まがたま)など
多数の副葬品とともに甕棺墓(かめかんぼ)が発見され、この大石が
厚葬墓(あっそうぼ)[王墓]の上石ということがわかりました。
大石は下図のように甕棺墓の上に標石状(ひょうせきじょう)に
のせられていたと考えられます。
発見時の記録と近年の周辺の調査から王墓は墳丘墓(ふんきゅうぼ)であったことも
わかりました。
平成10年(1998)現在地に移設しました。
王墓想定図より
王墓想定図より
王墓の復元(奴国展示館)
王墓出土鏡(復元)
・57年よりも前の時代の奴国王墓と思われる。
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覆屋 A棟
▼案内板より
この覆屋(おおいや)では墓地の北端部に位置する
甕棺墓群の一部と祭祀遺構が見学できます。
甕棺墓はすべて弥生時代中期中頃(紀元前1世紀)のもので、
成人棺が深く埋められた後、その周囲に6基の小児棺(しょうにかん)が
続けてやや浅い位置に埋置(まいち)された状態がわかります。
このように成人用甕棺墓の傍らに複数の小児用甕棺墓が存在する例は、
他の甕棺墓地でもよくみられます。
祭祀遺構は墓地と関連した遺構で、甕棺墓群の周囲に分布しています。
中から祭祀に使用された土器が出土しました。
ここに公開している祭祀遺構から出土した土器は、
甕棺と同じ時期のものです。
甕棺
甕棺
甕棺
土器
土器
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覆屋 B棟
▼案内板より
この覆屋では墓地の西端に位置する甕棺墓、土壙墓(どこうぼ)、
木棺墓(もっかんぼ)および竪穴遺構(たてあないこう)を
発掘調査時の状態で公開しています。
ここに展示している成人用甕棺墓は、
弥生時代中期後半(今から約2,000年前)のもので、大型の甕棺に
木蓋(きぶた)をしていたと考えられます。
木棺墓と土壙墓の時期は明らかではありませんが、
鉄剣が出土した木棺墓については、甕棺墓や土壙墓より
古いことがわかっています。
竪穴遺構については住居跡とも考えられますが、
墓地の一角につくられていることや、
柱穴が竪穴の周囲に配されていることなど、
ほかの住居跡とは異なった点が注目され、
埋葬と関係した建物であった可能性もある遺構です。
覆屋 B棟 内部
木棺墓と成人用甕棺墓
木棺墓部
土壙墓部
竪穴遺構
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弥生時代中期の竪穴住居跡の復元。
弥生時代中期の竪穴住居跡の復元。
▼案内板より
少しずつ時代が違う3棟の住居が重なっています。
この上に屋根を葺きました。
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弥生中期の須玖岡本遺跡群(すくおかもといせきぐん)
(浜島書店『新詳日本史』より引用)
・環濠の発見状況より、環濠が遺跡群を囲っていた可能性もあり。
・青銅器の鋳型など、生産関連のものが全国的に突出して出土している。
・生産工房と見られる建物の跡も見つかっている。
・鉄器や鉄の破片もあり、鉄器工房があったと思われる。
・ガラス工房もあったと思われる。
・生産されたものは、北部九州や四国、対馬へと配布されたと思われる。
・弥生時代後期になると工房は丘陵地から低台地上へ移動。
・弥生時代後期後半~終末にかけて対馬で大量に消費された広形銅矛の
生産が行われていたと思われる。
・古墳時代初めには遺跡群の集落は衰退へ。
須玖坂本遺跡の青銅器工房跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
銅鏃鋳型(どうぞくいがた) / 須玖坂本遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
銅鏡鋳型 / 須玖坂本遺跡
(浜島書店『新詳日本史』より引用)
小銅鐸鋳型 / 岡本遺跡
(浜島書店『新詳日本史』より引用)
広形銅矛鋳型 / 熊野神社 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
広形銅戈鋳型 / 大南遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
中広形銅矛 / 須玖岡本遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
中広形銅戈 / 紅葉ヶ丘遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
細形銅剣 / 立石遺跡 / 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
勾玉鋳型 / 赤井手遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
ガラス勾玉 / 須玖岡本遺跡 / 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
ガラス小玉 / 須玖岡本遺跡 / 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
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【金隈遺跡(かねのくまいせき)】
▼案内板より
金隅遺跡(かねのくま)遺跡は、弥生時代前期の中頃から後期の初め
(紀元前2世紀~紀元2世紀頃)までの400年間、甕棺墓(かめかんぼ)を
中心とした共同墓地です。
これまでに甕棺墓348墓、、土壙墓(どこうぼ)119墓、石棺墓(せっかんぼ)2墓が
発見されています。
甕棺は2個の甕や壺を合わせた合せ口式(あわせくちしき)と
1個だけの単式(たんしき)があります。
土壙墓は長方形の穴を掘った墓で中には板を長方形に組み合わせた、
組み合わせ式木棺墓(もっかんぼ)もあります。
入口
丘陵の上にあります。
付近の展望
展示館
展示館案内
案内板より
墓群
甕棺と人骨
甕棺と人骨
土壙墓
甕棺墓
手との比較
弥生時代中期に甕棺の使用がもっとも多いことと小児の死亡率が非常に高かった事がわかります。
副葬品は南方産のゴホウラ(貝)製の腕輪のもっとも古いものが
103号甕棺から出土しています。
ゴホウラ貝
貝輪からこの時代には南方との交流があったことが分かります。
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【那珂遺跡群(なかいせきぐん)】
◎3世紀・奴国、最古の都市計画道路 - 2007年3月9日 asahi.com より
http://www.asahi.com/...
◎Google検索「那珂遺跡群」
http://www.google.com/...
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【板付遺跡(いたづけいせき)】
日本で初めて稲作が始まった頃の遺跡の1つ。
縄文時代晩期頃に大陸から稲作の技術をもった人々が当時の日本へ。
それをキッカケに、日本でも稲作が広まる。
大量にとれ主食にもなり蓄えが可能な米に対して、
人々は大きな価値を感じるように。
結果、米の生産能力等によって階級社会が誕生。
集落も、それまでの原始共同体からムラ単位、国単位へと変化。
次第に、“戦争”が勃発。
稲作の伝来が、当時の日本に大きな変化をもたらすことに。
(縄文時代から弥生時代に)
板付遺跡の場所
▼案内板より(1)
板付遺跡は、昭和25年(1950)に発見されました。
翌年から行われた発掘調査で、日本最初の米作りがここで始まったこと、
台地の上にムラがあり、深い溝で取り囲まれていたことなどがわかりました。
弥生時代初めごろのムラのようすや米作りの歴史が、よくわかることから、
昭和51年に国史跡に指定されました。
平成元年から環境整備を始め、平成7年に板付弥生のムラが誕生しました。
▼案内板より(2)
板付遺跡は、福岡平野のほぼ中央、御笠川と諸岡川に挟まれた標高12mの
低い台地を中心として、東西の沖積地を含む広大な弥生時代の遺跡である。
日本で稲作が開始された頃の農村集落の代表的な遺跡として有名である。
台地上には幅約4m、深さ約2m、断面がV字形をした溝が、東西約80m、
南北約110mの楕円形に巡らされている。
(環濠)環の内外には米やその他の食料を貯蔵するための竪穴(貯蔵穴)が
多数掘り込まれている。
台地の東西の低位段丘には水路が引き込まれ、完備された水田が開かれ、
日本で最も早く稲作農耕が開始されていることがわかった。
弥生時代前期末には、北部九州でも有数の集落に発展し、遺跡の東南部の
田端地区からは、甕棺の中から細形銅剣、銅矛各3本が発見され、有力者が
台頭していたことが推定される。
この頃には、環濠周辺だけでなく、北方の板付北小学校や南台地にも集落が
広がり、貯蔵穴群や墓地が発見されている。
このように板付遺跡は集落、墓地、生産地(水田)が一体となって把握される
数少ない遺跡で、弥生時代の解明にはかかせない重要な遺跡である。
(福岡市教育委員会)
遺跡入口(籾のオブジェが上に)
土塁(どるい)
ムラの入口
ムラの入口(環濠を越えて中に入る)
ムラの入口(環濠を越えて中に入る)
ムラの入口(柵から見た環濠)
ムラの入口(柵から見た環濠)
▼案内板より
板付弥生のムラを空から見ると、卵形に溝が巡っています。
このように溝で囲まれた集落のことを、環濠集落(かんごうしゅうらく)と言います。
現在は、逆台形の断面に復元していますが、もともとは幅約6m、深さ約3mの
逆三角形で、長径は約110mもありました。
また貯蔵穴が集中している部分には、直線の溝を掘り、住居と区画しています。
もし1人が、1日に1㎥の土を掘り上げたとして計算すると、
10人で約270日もかかる大工事でした。
どんな目的で環濠を掘ったのか、まだよくわかっていません。
ムラの全体図
竪穴住居
▼案内板より
ムラ人たちは、地面を円形や方形に掘り下げ、
屋根でおおった竪穴住居に住んでいました。
板付遺跡では、弥生時代初めごろの竪穴住居は発見されていないので、
市内や周辺の遺跡を参考にして復元しました。
竪穴住居
竪穴住居
竪穴住居
ムラ内部の光景
貯蔵穴
貯蔵穴
▼案内板より
貯蔵穴(ちょぞうけつ)は、米や豆類などの食料を保存した穴です。
竪穴住居の近くの貯蔵穴には、毎日食べる食料を入れ、
溝や柵で取り囲まれた貯蔵穴には、1年分の食料や来年用の
大事な種籾(たねもみ)を保存したのでしょう。
他の遺跡では、湿気やネズミから食料を守るために、
床を地面から高くした高床式(たかゆかしき)の倉庫も発掘されています。
ムラの墓地(子供たちの墓)
▼案内板より
ムラの墓地は、これまで数ヵ所で発掘されています。
ムラ人の多くは、板付北小学校付近の共同墓地に埋葬されました。
環濠のすぐそばには、子供たちの墓があります。
かわいい子供たちの死を悲しんで、ムラの近くに埋葬したのでしょう。
これらとは別に、環濠の南東側には小高く土盛りした墓地がありました。
数基の甕棺(かめかん)から、朝鮮製の銅剣や銅矛が副葬されていたことから、
ムラのリーダーだったムラ長(おさ)たちが葬られたと考えられます。
水田
水田
水田
▼案内板より
ムラ人たちは、力を合わせて用水路を掘り、水を引いてきました。
たくさんの木杭を打ち込んで水をせき止め、水田への水量を調整しています。
鍬(くわ)や鋤(すき)などの農具は、かたい樫(かし)で作られていますが、
今と変わらないような農業技術と農耕具をもっていました。
毎年、近くの小学校を中心にして、稲作りに取り組んでいます。
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▼板付遺跡弥生館にて
弥生人の足跡(今から約2300年前の水田に残されていた)
弥生人の足跡(今から約2300年前の水田に残されていた)
石包丁(穂摘み具・穀物の穂を刈る)
狩猟具(動物や鳥を取る道具)
石鎌[いしがま](稲を根刈りする)
土で作った さじ
炭化してしまった 米粒
農具(復元)
農具(復元)
紡錘車[ぼうすいしゃ](繊維によりをかける糸つむぎの道具)
弥生人の服(貫頭衣)を復元
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【漢委奴国王印】 国宝
◎福岡市博物館 案内ページ
http://museum.city.fukuoka.jp/...
(財)福岡市文化芸術振興財団発行 ポストカードより
(財)福岡市文化芸術振興財団発行 ポストカードより
Wikipedia Commonsより
実寸レプリカと携帯電話・単3電池とのサイズ比較
▼Wikipediaより
漢委奴國王印(かんのわのなのこくおうのいん)は、日本で出土した金製の王印(金印)。
倭奴国王印(わのなのこくおうのいん)とも。
1784年(天明4年)旧暦2月23日、福岡県福岡市東区志賀島南端、叶崎の「叶の浜」で出土、
福岡市博物館所蔵(福岡藩主黒田家旧蔵)。国宝に指定されている。
印は印面一辺2.3cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く高さ0.8cm、重さ108.7g。
鈕は蛇鈕。3行にわけて篆書で『漢委奴國王』と刻されている。
「委」は「倭」即ち倭国と解され「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じるのが通説である。
発見したのは甚兵衛という地元の百姓(近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、
甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説も有力である)で、
田の耕作中に偶然発見したとされる。
一巨石の下に三石周囲して匣の形をした中に存したという。
郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥によって『後漢書』に記された金印であると同定。
その後は黒田家に伝えられ、1978年に福岡市に寄贈され、
現在は福岡市博物館に保管・展示される。
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元二年(57年)に奴国からの朝賀使へ
(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。
1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。
それは58年に光武帝第9子であり廣陵王であった劉荊に下賜されたものであり、
字体が漢委奴国王印と似通っていることなどから、
2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高いとの結論が出た。
これが真実だとすれば偽造説は完全に覆されることになるが、
当の廣陵王爾印の信憑性にも疑問が呈されている。
※Podcastingでは、
漢委奴国王印の発見を2月28日とお伝えしましたが、
(参考:斉藤忠著『日本人はどこから来たか』)
旧暦2月23日(現在の暦:4月12日)が正しいようです。
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倭国と中国の流れ
東京書籍『図説日本史』より引用
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▼(財)福岡市文化芸術振興財団・案内より
金印は、大切な公文書や手紙の封印に使われました。
封印の方法は、文書や手紙を入れた箱を紐(ひも)で縛り、
その結び目に付けた粘土に押して封をしたもので、
文書の秘密を守る鍵の役目を果たしています。
封泥使用例(馬王堆1号漢墓出土物)
伊都国歴史博物館『海を越えたメッセージ』より引用
封泥使用例
伊都国歴史博物館『海を越えたメッセージ』より引用
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【邪馬台国までの道程・各国レポート】
帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
投馬国
邪馬台国
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