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2007.11.30


桜馬場遺跡 末盧国の王墓 再発見 63年ぶり特定

佐賀県唐津市教委は21日、中国の史書「魏志倭人伝」に登場するクニの1つ
「末盧(まつろ)国」の王墓としていったんは発見されながら、
その後、所在地不明となっていた桜馬場遺跡が63年ぶりに同市桜馬場で確認されたと発表した。

遺跡からは、最高権力者が所有したとみられる大量の副葬品や
甕棺(かめかん)の破片が見つかり、同市教委は末盧国の王墓と断定した。

学術調査によって、弥生時代のクニの王墓が特定されるのは国内3例目。

同遺跡は戦時中の1944(昭和19)年、地元住民が防空壕(ごう)を掘る際に見つけ、
後に国の重要文化財に指定される鏡や腕輪などが出土。

埋め戻されて場所が不明になったが、今年、市が宅地調査で再び発見した。

発掘調査で出土したのは、弥生時代後期(1世紀後半‐2世紀前半)の副葬品。
最高権力者が所有したとみられる「素環頭大刀(そかんとうたち)」の一部や
ヒスイの勾玉(まがたま)、首輪に使われたとみられる2000個以上の青いガラス玉など。

44年に発見された中国・後漢の「方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)」(国重文)や
装飾品「巴形銅器(ともえがたどうき)」(同)、「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」と
合致する破片も含まれている。

魏志倭人伝に記述されたクニは三十数カ国で、位置がほぼ特定されているのは
「対馬国」(長崎県対馬市)や「奴国(なこく)」(福岡県春日市)など5カ所のみ。
うち学術調査で甕棺や木棺墓が確認され、埋葬位置が特定されているのは、
これまで「伊都国(いとこく)」(同県前原市)の2遺跡だけだった。

◎西日本新聞 2007年11月22日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「桜馬場遺跡」
  http://www.google.com/...

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銅鐸は金と赤の2種類?

弥生時代の祭りに使われたとされる銅鐸(どうたく)は、
色で金と赤の2種類に分類できる可能性が高いと、
奈良県田原本町教育委員会が18日、発表した。

銅鐸はこれまで形態で分類されていたが、
分析を指導した奈良文化財研究所の村上隆上席研究員(歴史材料科学)は
「当時の人が、形や色で銅鐸を使い分けていたことも考えられる」と話している。

同町の唐古・鍵遺跡から出土した銅鐸片(紀元前2~同1世紀ごろ)と、
加茂岩倉遺跡(島根県雲南市、紀元1世紀ごろ)出土の銅鐸を
それぞれ金属分析した結果、判明した。

◎時事通信 2007年10月18日
  http://www.jiji.com/...

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荒尾南遺跡で赤鉄鉱が出土

人類が最初に使ったとされる無機顔料「ベンガラ」の原料となる赤鉄鉱が、
大垣市荒尾町で発掘調査中の荒尾南遺跡から見つかった。

県文化財保護センターが14日、大集落群を持つ同遺跡の
弥生時代終末期の住居跡付近から出土した、と発表した。

弥生時代の遺跡から赤鉄鉱が見つかるのは県内初で全国でも珍しい。

八賀晋三重大名誉教授(考古学)は
「(同遺跡で)赤鉄鉱を加工してベンガラを生産していた可能性が高い。
東海地方にはベンガラを用いた土器が多く、この集落がベンガラの供給源となり
各地に広まった可能性が考えられる」としている。

同遺跡は、弥生時代後期から古墳時代前期を中心とする集落群。
小集落が近接して大集落を形成しており、約130の竪穴住居跡や67基の墓など、
その規模は県内最大級。

ベンガラは土器に塗る赤い「絵の具」で、赤鉄鉱を砕いて作られた。
弥生時代にはベンガラを用いた赤塗りの土器が多く作られた。
同遺跡からは赤鉄鉱約10点が出土。
一部は、黒の風合いを出すためとみられる焼いた跡がある。

同遺跡の3キロ北には赤鉄鉱を産出する金生山があり、
今回出土した赤鉄鉱も金生山で採掘して運ばれた可能性が高く、
今後は成分調査を進める。

ほかにベンガラを使った土器片や木製品、弥生時代の遺跡では
県内初の巴形(ともえがた)銅器、東海地方最古級となる弧帯文(こたいもん)土器など、
いずれも祭祀(さいし)に使われたとみられる貴重な遺物が多く見つかった。

◎岐阜新聞 2007年11月15日
  http://www.gifu-np.co.jp/...

◎Google検索「荒尾南遺跡」
  http://www.google.com/...

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原の辻遺跡で船着き場囲む環濠を発見

長崎県教育委員会は12日、同県壱岐市の国指定特別史跡
「原(はる)の辻遺跡」で発掘された日本最古の船着き場跡の西側で、
環濠(かんごう)とみられる遺構を発見した、と発表した。

専門家らはこの遺構について、弥生時代中期前半(紀元前2世紀ごろ)、
島状に造られた船着き場を防御するための施設として、
一体的に整備された可能性を指摘。「過去に類例のない重要な遺構」としている。

県教委によると、遺構は船着き場の西側にある幅約30メートルの川の岸から
約3メートル西側で発見。幅は約2.3メートル、深さ約0.8メートル。

原の辻遺跡は居住域を取り囲む幾重もの環濠が特徴で、
今回見つかった濠も船着き場を含む区域の周囲に巡らされているとみられる。

同遺跡調査指導委員会委員長の西谷正・九州大名誉教授は
「環濠で保護されていたとすると、船着き場は一支国(いきこく)の威信を示し、
大陸からの使節らを迎える儀式の場として築かれた可能性がある」と話した。

一方、これまで判明している船着き場の東突堤部に加え、西突堤部の先端を確認。
長さはともに約15メートルで、東西対称だったことが分かった。

また、昨年、船着き場南側で見つかった導水のための石積み遺構には、
川底や斜面に石を積むなど当時、国内には存在していなかったとされる技術が
使われていることが判明。大陸の技術者の指導を受けたとみられる。

◎西日本新聞 2007年11月13日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「原の辻遺跡」
  http://www.google.com/...

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青谷上寺地遺跡で弥生最長の垂木が出土

鳥取市青谷町の弥生時代の集落遺跡「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」から、
両端までが完全な形で残っている全長約4メートルの弥生時代最長の垂木(たるき)が出土し、
鳥取県埋蔵文化財センターが7日、発表した。
専門家は「山陰地方の大型掘立柱建物の中で中規模クラスの建物の一部」と推定している。

垂木は屋根を支える骨組みで、出土したのは両端が有頭状と斜めにそれぞれ加工された
長さ3・97メートル、一辺7・5センチのスギの角垂木と、
長さ約3・88メートル、直径6センチの丸垂木。

これまで完形として弥生時代最長とされた
岡山市の「津島遺跡」の垂木(長さ約3・09メートル、直径7センチ)を上回った。

2本の垂木は、弥生時代中期(約2000年前)の同じ溝から出土しており、
同一建物の建築材と推定される。

◎産経新聞 2007年11月8日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「青谷上寺地遺跡」
  http://www.google.com/...

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2007.11.26


流山駅構内

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屋根が・・

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横丁

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掲示板

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流山駅

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2007.11.23


流星衝突? “ツングースカ大爆発”

1908年6月30日朝 現・ロシアのツングースカ川上空で
大爆発がありました。

隕石孔や隕石の残片などは発見されていませんが、
地球に落下した天体が爆発した説が強いです。

爆発の力は、なんと広島に落とされた原爆の
推定1000倍だったともいわれています。

40kmを超える範囲の木々をなぎ倒し、
ヨーロッパでは白夜のような状態が数ヶ月も続いたそうです。

上の写真は爆発から20年後のツングースカの様子です。

20世紀最大の謎の1つともされている、この大爆発。

もし、今、都市に近い海で起きたら大津波も起き
計り知れない事態になるかと思います。

◎Google検索「ツングースカ」
  http://www.google.com/...

© Leonid Kulik Expedition, Wikipedia

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ホームズ彗星

話題のホームズ彗星、ご覧になりましたか?^^

彗星の頭(コマ)は、なんと直径140万kmにもなりました。

こちらの写真は2007年11月14日にハワイ・マウナケアの
Canada-France-Hawaii Telescopeで撮影されたものです。

最新のホームズ彗星ニュースは↓からどうぞ。
Googleニュース

© Jean-Charles Cuillandre (CFHT), Hawaiian Starlight, CFHT

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月では見れない?月の地球の出

写真掲載が可能となりましたので、あらためて“地球の出”をご紹介。^^

ご存知の通り、月はいつも同じ面を地球に向けています。
ですから、月の上では“地球の出”を見ることができません。

月の周回軌道上で動くことによって観測できる現象となっています。

© SELENE Team, JAXA, NHK

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2007.11.16


ED42

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

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ED42形電気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である
鉄道省(のちの運輸通信省)が製造した直流用電気機関車である。

信越本線横川~軽井沢間(碓氷峠)の急勾配区間用アプト式電気機関車で、
ED40形の置き換え用として導入された。

基本設計はスイスから輸入したED41形を参考とし、
1934年(昭和9年)から1948年(昭和23年)までの間に、
日立製作所、東芝、川崎重工業、三菱重工業、汽車製造で28両が製造された。

車体は前後とも切妻の箱形車体で、車体前後端にデッキが設けられている。
運転台は坂下の横川寄りにのみ設けられた片運転台型である。

前位側の屋根上に停車場構内で使用するパンタグラフを1基搭載する。
本線上では第三軌条から集電するため、集電靴が片側2か所に設備されている。

走行部のシステムは、モデルとしたED41形と基本的に同一である。
電動機は、動輪用に2基、アプト式軌条のラックレールに噛み合わせる
歯車駆動用1基の計3基が搭載されている。

ラック台車(歯車用台車)は車体中央部に設けられ、動輪の第2軸、第3軸に
荷重を分担して負担させるようになっている。

走行用台車はボギー式となり、各台車のホイールベース間に電動機1基ずつが装架され、
動力は側面のジャック軸から連結棒で各動輪に伝達される。

その用途から一貫して横川機関区に配置され、
信越本線横川~軽井沢間において運用された。

1963年(昭和38年)9月30日に横川~軽井沢間が全面的に粘着運転の新線に切替えられ、
アプト式ラックレール区間を廃止したことで本形式は役目を終え、
同年12月9日に全機が廃車、除籍されている。

横軽間のアプト式廃止後、1号機が横川駅構内に、
2号機が軽井沢町の東部小学校に静態保存された。私鉄への譲渡機はない。

横川駅の1号機は、機関区の庫内に保存されていたが、
1967年(昭和42年)10月14日に準鉄道記念物に指定された。

また、1987年(昭和62年)に碓氷線電化75年を記念して、
横川運輸区と大宮工場(現在の大宮総合車両センター)の手により動態復元され、
運輸区内で走行を行なっている
(架線電圧が違うため、降圧用の機器を搭載したヨ3961(ヨ3500形車掌車)を連結した)。

その後、1999年(平成11年)4月に開館した碓氷峠鉄道文化むらに移されたが、
現在は静態保存となっている。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「ED42」
  http://www.google.com/...

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大仏経由 鎌倉山

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本日(水)は定休日です

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豊島屋

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豊島屋

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豊島屋

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豊島屋

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2007.11.15


DD53

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

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DD53形ディーゼル機関車は、
幹線列車牽引用、除雪用の両者を兼務させることを目的として、
日本国有鉄道(国鉄)が製造したディーゼル機関車である。

ロータリー式除雪用ディーゼル機関車としては、
DD13形を基本としたDD14形が実用化されていたが、
本州の日本海岸の湿った重い雪に対して使用するためには、
能力の不足がみられた。

そのため、DD51形を基本に、1,100PSのDML61Z-Rディーゼル機関を2基搭載し、
より強力かつ高速に除雪を行うことができるように設計されたのがDD53形である。

走行装置などの機構はDD51形とは全く同一であり、
夏季はDD51形と共通運用で営業列車の牽引が可能であるが、
冬季は除雪を行うことを前提とされているため、蒸気暖房装置は持たない。

除雪時は、第1エンド先頭部にロータリーヘッド
(ローターにより前方の雪をかき寄せ、遠方に投棄することにより除雪を行う装置。)を
接合して使用する。

ローターの駆動は機関車本体から伸ばされた動力シャフトによって行われるため、
車体形状はDD51形の凸型に対して、箱型となっている。
また、このロータリーヘッド上の運転席から遠隔操作で機関車本体の制御を行うことができる。

1965年に2両、1967年に1両の計3両が汽車製造会社で製造されたが、
当初の目的であったハイパワーが逆に仇となり沿線で諸問題を起こし、
本格量産には至らなかった。

「投雪が民家の敷地に飛び込む」というトラブルは、
古くは蒸気機関車推進のロータリー除雪車時代からあった問題だが、
DD53形の場合その威力が凄まじく、ガラス窓を割るばかりか、
中にあったピアノを破壊したという事実なのか分からない伝説まで登場したほどである。

1987年の国鉄分割民営化時には2・3号機が東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継された。
2007年現在2号機のみが長岡車両センターに所属し、
信越本線や上越線の除雪用に使用されている。

また、国鉄時代に廃車された1号機は碓氷峠鉄道文化むらに静態保存されている。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「DD53」
  http://www.google.com/...

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2007.11.13


地球の出、地球の入り

http://www.jaxa.jp/...

「かぐや」ハイビジョンカメラによる映像

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月面

http://www.jaxa.jp/...

「かぐや」ハイビジョンカメラによる映像

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「鉄鏡」に新説 敗走奴国の王族が持ち込む?

日田市内で出土し、現在は九州国立博物館(福岡県太宰府市)に展示されている
金銀錯嵌珠龍文(きんぎんさくがんしゅりゅうもん)鉄鏡(国指定重要文化財)をめぐり、
同博物館の河野一隆・文化交流展示室長(41)が3日、日田市内で講演。

弥生時代、伊都国(いとこく)(福岡県前原市一帯)との覇権争いに敗れた
奴国(なこく)(福岡市一帯)の王族が持ち込んだ宝物の一部ではないか、
とする新たな仮説を明らかにした。

鉄鏡は1933(昭和8)年、旧国鉄久大線の敷設工事に伴い、
同市日高のダンワラ古墳から出土した。

金銀が埋め込まれた鉄鏡としては国内では唯一の出土品で、
中国の漢(紀元前3‐3世紀)から日本の王族にもたらされたものとされるが、
なぜ日田から出土したのか、なぞに包まれている。

河野室長によると、弥生時代中期、九州北部には
伊都国と奴国の二大勢力があり、互いに華北(中国)、楽浪(朝鮮半島)との
交易・交渉窓口をめぐって覇権争いを展開。

紀元前後に勃発した倭国の大乱の末、伊都国に敗れた
奴国の王族の一部が難を逃れる際、金印(漢委奴国王印)を志賀島へ、
鉄鏡を日田に持ち込んだのではないか、との新たな見方を示した。

河野室長は、日田市刃連町から出土し、同じように中国・漢からもたらされたとされる
大小2個の金錯鉄帯鉤(きんさくてつたいこう)(帯留め)を含め、
「日田には奴国の王族と血縁関係がある人物がおり、
奴国の王族の一部がセットで持ち込んだ可能性が強い」とした。

そのうえで、鉄鏡、帯鉤とも同じ様式の出土例がなく、
比較検討による研究が進んでいないこともあり、
河野室長は一帯の基礎調査と調査結果の公表を求めた。

◎西日本新聞 2007年11月6日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「奴国 鉄鏡」
  http://www.google.com/...

弥生時代 | このエントリーを含むはてなブックマーク


柳沢遺跡で新たに銅鐸の破片2点と銅戈5本が出土

長野県埋蔵文化財センター(長野市)は1日、
弥生時代の青銅製祭器「銅戈(どうか)」2本が10月に出土した中野市の柳沢遺跡で、
新たに「銅鐸(どうたく)」の破片2点と、銅戈5本が出土したと発表した。

銅戈と銅鐸が一緒に出土したのは、全国では神戸市の桜ケ丘遺跡など数例しかなく、
東日本では初。研究者は、従来伝わる弥生社会のあり方や
青銅器文化を塗り替える発見と指摘している。

同センターによると、銅鐸片のうち1点は一部が土中に残っており、
高さ約6センチ、最大幅8センチ。復元すると全体の高さは約20センチと推定できる。

古い形式の鳴り物と考えられている「菱環紐(りょうかんちゅう)式2式」か、
「外縁付紐(がいえんつきちゅう)式1式」とみられる。
南関東で出土例のある類似品(小銅鐸)とは異なる。

もう1点は近くの排水溝の底にあり、高さ約8センチで最大幅が約3センチ。
古い銅鐸に多い、のこぎりの刃に似た鋸歯文(きょしもん)の文様がある。
2点が同じ銅鐸かどうかは今後調べる。

やりの穂先に似る銅戈は5本とも刃先が西の方角を向き、
うち4本が刃を上に向けて整然と並べられ、もう1本は少し離れて埋まっている。
大阪湾周辺で見つかっている「大阪湾型」とみられる。

調査指導委員会委員の石川日出志・明大教授(考古学)によると、
出土した銅戈、銅鐸とも、形式などから弥生中期の紀元前2世紀に作られ、
紀元前後に埋められたと考えられるという。

柳沢遺跡は千曲川と夜間瀬川との合流点の東側に位置。
これまで弥生時代の水田跡などが見つかっている。

◎信濃毎日新聞 2007年11月2日
  http://www.shinmai.co.jp/...

◎Google検索「柳沢遺跡」
  http://www.google.com/...

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五歩市遺跡で竪穴住居10棟を発掘

石川県埋蔵文化財センターは三十一日、白山市五歩(ごぼ)市町の五歩市遺跡で、
大型の竪穴住居など弥生時代後期から古墳時代前期の集落跡や
鎌倉から室町時代の集落跡が、良好な保存状態で確認されたと発表した。
当時の建物構造や集落の様子などを解明するための貴重な史料になりそうという。

弥生後期から古墳前期の集落跡では、長軸で十一メートルの大型竪穴住居を中心に
集落跡が広がる保存状態が良い形で見つかった。

このほか弥生土器つぼ、高坏(たかつき)、器台などの遺物も出土しており、
現地説明会の際に十数点まとめて展示される。

五歩市遺跡は、JR松任駅から東へ約一キロ離れた北陸線沿の田んぼにあり、
弥生から江戸時代までの集落遺跡。

今回の調査対象は約一万二千四百平方メートルで、
弥生後期にはすでにこの地域に人々が暮らし始めていたことが確認されたという。

◎中日新聞 2007年11月1日
  http://www.chunichi.co.jp/...

◎Google検索「五歩市遺跡」
 

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弥生女性はこんな顔?

◎山陽新聞
  http://www.sanyo.oni.co.jp/...

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「伊都国」に鍛冶工房 大塚遺跡で炉やかまど跡出土

福岡市教委は26日、同市西区今宿町の大塚遺跡から、
弥生時代末(3世紀)の鍛冶(かじ)工房跡を発見したと発表した。

鍛冶炉や国内最古級のかまどの遺構が出土し、
工房の全容をほぼ完全な形で確認できる。

同遺跡は、福岡県糸島地方を中心に栄えた
古代のクニ「伊都国(いとこく)」の東端に位置。

原料の鉄は中国、朝鮮半島からもたらされており、
市教委は「鉄とともに伊都国にやってきた
渡来人たちが定住した可能性がある」とみている。

鍛冶工房跡は直径約12メートルの外周溝に囲まれた建物跡で、
中央に加工用の台石を備えた鍛冶炉が見つかった。

周辺からは100点近い鉄鏃(てつぞく)(鉄製やじり)など鉄器の未完成品や
鉄の破片も出土した。

また、大陸から伝わり、
日本では弥生時代に次ぐ古墳時代以降に一般化したかまどが、
すでに建物の壁際に設けられていたことも分かった。

「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は伊都国を古代日本の外交窓口と紹介しており、
工房跡近くの住居跡からは朝鮮半島系土器も出土。

鍛冶工房の炉とかまど、
朝鮮半島系土器が1つの遺跡から出土したのは全国で初めてという。

市教委は「伊都国が先進的な渡来文化を多く取り入れていたという
魏志倭人伝の記述を裏付ける発見。モノや技術とともに人の交流もあったはずで、
渡来人の居住地区がこの地にあったかもしれない」と、今後の調査に期待している。

大塚遺跡は、8月に大型の環濠(かんごう)集落跡が確認された
今宿五郎江(いまじゅくごろうえ)遺跡に隣接。
鍛冶工房は環濠が埋まった後の時代に建てられており、
両遺跡一帯へムラが拡大していった様子がうかがえる。

◎西日本新聞 2007年10月27日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「大塚遺跡」
  http://www.google.com/...

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柳沢遺跡で銅鐸と銅戈、同じ場所から出土

長野県埋蔵文化財センターは1日、同県中野市の柳沢遺跡で、
弥生時代に使われた青銅器の祭具である銅鐸(どうたく)の破片2点と
銅戈(どうか)7点が出土したと発表した。

銅鐸の破片と銅戈は15センチしか離れておらず、同時に埋められた可能性もある。

銅鐸と銅戈が同じ場所で見つかったのは神戸市の桜ケ丘遺跡に続き国内2例目。

弥生時代中後期ごろの地層から見つかり、
銅鐸の破片は最大8センチ。

銅戈2本は東日本で初めて完全な状態で見つかった。

明治大文学部の石川日出志教授(考古学)は
「近畿地方で見つかった銅戈と形などが非常に似ている。
東日本への文化の伝達の可能性を示す、貴重な発見だ」と話している。

◎毎日新聞 2007年11月1日
  http://headlines.yahoo.co.jp/...

◎Google検索「柳沢遺跡」
  http://www.google.com/...

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築山遺跡で人面土器を発見

縄文時代晩期から弥生時代前期ごろ(2800年~2500年前)の
目、鼻をくっきりさせた人面付き土器片が島根県出雲市の築山遺跡で見つかり、
22日、同市文化財課が発表した。

同様の土器は東日本での出土例は多いが、西日本ではまれ。

弥生時代の黎明(れいめい)期、出雲地方が
東日本と交流していたことを裏付ける貴重な史料という。

出土した土器片は、縦、横とも約4センチ。
形から器の縁に取り付けたと推測され、特徴ある鼻筋と鼻孔で顔面を表現している。

同様の土器は栃木、茨城県などの再葬墓の共同墓地から出土しており、
出雲地方ではこれまで2例が見つかっている。

同遺跡の深さ約1・5メートルから出土。

山田康弘・島根大准教授(考古学)は「稲作を中心に弥生文化は九州から東へ伝わったとされるが、
東西交流で東日本からも影響を受けていたことが分かる。祖霊崇拝の原形と考えられる」としている。

◎産経新聞 2007年10月22日
  http://headlines.yahoo.co.jp/...

◎Google検索「築山遺跡」
  http://www.google.com/...

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西ノ丸遺跡で弥生の環濠集落

鹿屋市串良町の西ノ丸遺跡で、集落を外敵から守るために掘られたとみられる
弥生時代中期(約2000年前)のV字形の溝が見つかった。
溝の周辺で弥生時代中期から古墳時代の竪穴住居跡が約40基確認されており、
環濠(かんごう)集落であったと思われる。
同市教育委員会によると、環濠集落としては大隅半島で初めてとなる。

溝は深さ1.5メートル、幅は最大で2.5メートル。
琉球大学が9月に地下レーダーで調査、
集落の周りを円を描くように掘られていることが分かった。

溝の中からは、かめやつぼなど1万点を超える弥生時代中期の土器が出土している。
ほかに管玉などの装身具や石鏃(せきぞく)も見つかった。

同市教委は、はぎ取ったV字溝の断面を、出土品の一部とともに
串良歴史民俗資料室(くしらふれあいセンター内)に常設展示している。

◎南日本新聞 2007年10月22日
  http://www.373news.com/...

◎Google検索「西ノ丸遺跡」
  http://www.google.com/...

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2007.11.04


こだビール

お世辞抜きで超旨でした!(一杯目)
瓶底部分のみ苦味?が残っていたけれど、全然イケますねー。
次は樽生でヨロ。w ご馳走様でした。^^

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ZakkokuHefeWeizen

今度は八高線途中下車の旅で立ち寄りたいと思います。
toshiさん、ご馳走様でした。^^

◎Google検索「ZakkokuHefeWeizen」
  http://www.google.com/...

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OgawaPorter

ここの野生酵母パンも是非食べたくなりました。
toshiさん、ご馳走様でした。^^

◎Google検索「OgawaPorter」
  http://www.google.com/...

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厚木ビール MARINE BREW

◎Google検索「厚木ビール marine brew」
  http://www.google.com/...

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めかぶキング

意外にも・・(何なのかは飲んでからのお楽しみw)
コディー、ご馳走様でした。^^

◎Google検索「めかぶキング」
  http://www.google.com/...

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タイガービール

◎Google検索「タイガービール」
  http://www.google.com/...

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オリオンビール

◎Google検索「オリオンビール」
  http://www.google.com/...

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バドワイザー

◎Google検索「バドワイザー」
  http://www.google.com/...

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エチゴビール スタウト

◎Google検索「エチゴビール スタウト」
  http://www.google.com/...

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2007.11.02


下田港 ~ 日本最初の開港地

下田港は江戸時代末期に函館港とともに日本最初の開港となった。

ペリー艦隊停泊図

下田港は、江戸時代から江戸に向かう船舶の寄港地として繁栄した。
毎年、3000隻の千石船の入港があった。

江戸末期の嘉永7年(1854年)に締結された日米和親条約により、
下田港は函館港とともに開港とされ、
外国船へ薪炭・食糧・水を供給する補給基地港となった。
しかし、5年後の安政6年(1859年)の日米通商修好条約により、
神奈川港などが開港したことに伴い、下田港は開港が解かれた。

第二次世界大戦中の昭和20年(1945年)には、
海軍第16突撃隊・陸軍潜水輸送隊・海軍第6海龍隊が下田港へ配備された。
戦後は観光港として歩んでいった。

Message from President George Bush

ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージ

ペリー艦隊来航記念碑

嘉永七年(安政元年-1854年)再来したペリーと幕府の間でもたれた
日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、
ペリーは調査船を派遣した。

下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、
船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。

条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊が次々と入港した。
そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。

ここを上陸記念の地として、ペリー上陸の碑が建てられた。

この記念碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、
アメリカ海軍から寄贈されたものである。

(参考・Wikipedia、現地案内板)

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◎Google検索「黒船来航」
  http://www.google.com/...

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