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2008.02.29


横浜の汽車道に列車が走っていた頃

懐かしすぎて涙ポロポロです。^^

日本丸前→汽車道→(現在のナビオス横浜・ワールドポーターズ横)
→赤レンガ倉庫→象の鼻横→大桟橋横→山下公園 と走っています。

ちなみに、車両はこの後、岩手県の三陸鉄道で第2の人生を送り
現在はミャンマーで活躍しています。

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2008.02.20


「コロンバス」が国際宇宙ステーションに

スペースシャトル・アトランティスによるSTS-122ミッションで
欧州実験棟「コロンバス」が国際宇宙ステーションに無事、取り付けられました。

2008年3月には土井飛行士が搭乗するエンデバーが打ち上げられ、
日本実験棟「きぼう」の船内保管室がいよいよ取り付けられる予定です。

◎「コロンバス」 欧州実験棟 - JAXA
  http://iss.jaxa.jp/iss/1e/mission/payload/columbus/

◎「きぼう」 日本実験棟 - JAXA
  http://kibo.jaxa.jp/

IMAGE DATA © NASA

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土星の月 エピメテウス

1966年に発見された土星の月・エピメテウス。
2007年12月、土星探査機カッシーニが非常に鮮明な画像を送ってきました。

幅は約115kmで、大小の山脈や渓谷も存在します。

十分な表面重力を持っていないので、球形にはなりません。

IMAGE DATA © Cassini Imaging Team, SSI, JPL, ESA, NASA

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虹の入り江 in 月

The Bay of Rainbows

IMAGE DATA © Alan Friedman

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水星のクモ形クレーター

水星探査機メッセンジャーによる撮影

IMAGE DATA © MESSENGER, NASA, JHU APL, CIW

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2008.02.11


金印 漢委奴国王印 【国宝】

◎福岡市博物館 案内ページ
  http://museum.city.fukuoka.jp/...

(財)福岡市文化芸術振興財団発行 ポストカードより

(財)福岡市文化芸術振興財団発行 ポストカードより

Wikipedia Commonsより

実寸レプリカと携帯電話・単3電池とのサイズ比較

▼Wikipediaより
漢委奴國王印(かんのわのなのこくおうのいん)は、日本で出土した金製の王印(金印)。
倭奴国王印(わのなのこくおうのいん)とも。
1784年(天明4年)旧暦2月23日、福岡県福岡市東区志賀島南端、叶崎の「叶の浜」で出土、
福岡市博物館所蔵(福岡藩主黒田家旧蔵)。国宝に指定されている。

印は印面一辺2.3cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く高さ0.8cm、重さ108.7g。
鈕は蛇鈕。3行にわけて篆書で『漢委奴國王』と刻されている。
「委」は「倭」即ち倭国と解され「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じるのが通説である。

発見したのは甚兵衛という地元の百姓(近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、
甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説も有力である)で、
田の耕作中に偶然発見したとされる。
一巨石の下に三石周囲して匣の形をした中に存したという。
郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥によって『後漢書』に記された金印であると同定。
その後は黒田家に伝えられ、1978年に福岡市に寄贈され、
現在は福岡市博物館に保管・展示される。

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元二年(57年)に奴国からの朝賀使へ
(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。

1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。
それは58年に光武帝第9子であり廣陵王であった劉荊に下賜されたものであり、
字体が漢委奴国王印と似通っていることなどから、
2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高いとの結論が出た。
これが真実だとすれば偽造説は完全に覆されることになるが、
当の廣陵王爾印の信憑性にも疑問が呈されている。

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倭国と中国の流れ
東京書籍『図説日本史』より引用

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▼(財)福岡市文化芸術振興財団・案内より
金印は、大切な公文書や手紙の封印に使われました。
封印の方法は、文書や手紙を入れた箱を紐(ひも)で縛り、
その結び目に付けた粘土に押して封をしたもので、
文書の秘密を守る鍵の役目を果たしています。

封泥使用例(馬王堆1号漢墓出土物)
伊都国歴史博物館『海を越えたメッセージ』より引用

封泥使用例
伊都国歴史博物館『海を越えたメッセージ』より引用

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【Podcasting】







※漢委奴国王印の発見を2月28日とお伝えしましたが、
(参考:斉藤忠著『日本人はどこから来たか』)
旧暦2月23日(現在の暦:4月12日)が正しいようです。

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【邪馬台国までの道程・各国レポート】

帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
投馬国

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ケロログ・歴史ラジオ

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板付遺跡

日本で初めて稲作が始まった頃の遺跡の1つ。

縄文時代晩期頃に大陸から稲作の技術をもった人々が当時の日本へ。
それをキッカケに、日本でも稲作が広まる。

大量にとれ主食にもなり蓄えが可能な米に対して、
人々は大きな価値を感じるように。
結果、米の生産能力等によって階級社会が誕生。

集落も、それまでの原始共同体からムラ単位、国単位へと変化。
次第に、“戦争”が勃発。

稲作の伝来が、当時の日本に大きな変化をもたらすことに。
(縄文時代から弥生時代に)

板付遺跡の場所

▼案内板より(1)
板付遺跡は、昭和25年(1950)に発見されました。
翌年から行われた発掘調査で、日本最初の米作りがここで始まったこと、
台地の上にムラがあり、深い溝で取り囲まれていたことなどがわかりました。
弥生時代初めごろのムラのようすや米作りの歴史が、よくわかることから、
昭和51年に国史跡に指定されました。
平成元年から環境整備を始め、平成7年に板付弥生のムラが誕生しました。

▼案内板より(2)
板付遺跡は、福岡平野のほぼ中央、御笠川と諸岡川に挟まれた標高12mの
低い台地を中心として、東西の沖積地を含む広大な弥生時代の遺跡である。
日本で稲作が開始された頃の農村集落の代表的な遺跡として有名である。
台地上には幅約4m、深さ約2m、断面がV字形をした溝が、東西約80m、
南北約110mの楕円形に巡らされている。
(環濠)環の内外には米やその他の食料を貯蔵するための竪穴(貯蔵穴)が
多数掘り込まれている。
台地の東西の低位段丘には水路が引き込まれ、完備された水田が開かれ、
日本で最も早く稲作農耕が開始されていることがわかった。
弥生時代前期末には、北部九州でも有数の集落に発展し、遺跡の東南部の
田端地区からは、甕棺の中から細形銅剣、銅矛各3本が発見され、有力者が
台頭していたことが推定される。
この頃には、環濠周辺だけでなく、北方の板付北小学校や南台地にも集落が
広がり、貯蔵穴群や墓地が発見されている。
このように板付遺跡は集落、墓地、生産地(水田)が一体となって把握される
数少ない遺跡で、弥生時代の解明にはかかせない重要な遺跡である。
(福岡市教育委員会)

遺跡入口(籾のオブジェが上に)

土塁(どるい)

ムラの入口

ムラの入口(環濠を越えて中に入る)

ムラの入口(環濠を越えて中に入る)

ムラの入口(柵から見た環濠)

ムラの入口(柵から見た環濠)

▼案内板より
板付弥生のムラを空から見ると、卵形に溝が巡っています。
このように溝で囲まれた集落のことを、環濠集落(かんごうしゅうらく)と言います。
現在は、逆台形の断面に復元していますが、もともとは幅約6m、深さ約3mの
逆三角形で、長径は約110mもありました。
また貯蔵穴が集中している部分には、直線の溝を掘り、住居と区画しています。
もし1人が、1日に1㎥の土を掘り上げたとして計算すると、
10人で約270日もかかる大工事でした。
どんな目的で環濠を掘ったのか、まだよくわかっていません。

ムラの全体図

竪穴住居

▼案内板より
ムラ人たちは、地面を円形や方形に掘り下げ、
屋根でおおった竪穴住居に住んでいました。
板付遺跡では、弥生時代初めごろの竪穴住居は発見されていないので、
市内や周辺の遺跡を参考にして復元しました。

竪穴住居

竪穴住居

竪穴住居

ムラ内部の光景

貯蔵穴

貯蔵穴

▼案内板より
貯蔵穴(ちょぞうけつ)は、米や豆類などの食料を保存した穴です。
竪穴住居の近くの貯蔵穴には、毎日食べる食料を入れ、
溝や柵で取り囲まれた貯蔵穴には、1年分の食料や来年用の
大事な種籾(たねもみ)を保存したのでしょう。
他の遺跡では、湿気やネズミから食料を守るために、
床を地面から高くした高床式(たかゆかしき)の倉庫も発掘されています。

ムラの墓地(子供たちの墓)

▼案内板より
ムラの墓地は、これまで数ヵ所で発掘されています。
ムラ人の多くは、板付北小学校付近の共同墓地に埋葬されました。
環濠のすぐそばには、子供たちの墓があります。
かわいい子供たちの死を悲しんで、ムラの近くに埋葬したのでしょう。
これらとは別に、環濠の南東側には小高く土盛りした墓地がありました。
数基の甕棺(かめかん)から、朝鮮製の銅剣や銅矛が副葬されていたことから、
ムラのリーダーだったムラ長(おさ)たちが葬られたと考えられます。

水田

水田

水田

▼案内板より
ムラ人たちは、力を合わせて用水路を掘り、水を引いてきました。
たくさんの木杭を打ち込んで水をせき止め、水田への水量を調整しています。
鍬(くわ)や鋤(すき)などの農具は、かたい樫(かし)で作られていますが、
今と変わらないような農業技術と農耕具をもっていました。
毎年、近くの小学校を中心にして、稲作りに取り組んでいます。

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▼板付遺跡弥生館にて

弥生人の足跡(今から約2300年前の水田に残されていた)

弥生人の足跡(今から約2300年前の水田に残されていた)

石包丁(穂摘み具・穀物の穂を刈る)

狩猟具(動物や鳥を取る道具)

石鎌[いしがま](稲を根刈りする)

土で作った さじ

炭化してしまった 米粒

農具(復元)

農具(復元)

紡錘車[ぼうすいしゃ](繊維によりをかける糸つむぎの道具)

弥生人の服(貫頭衣)を復元

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【Podcasting】







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金隈遺跡

▼案内板より
金隅遺跡(かねのくま)遺跡は、弥生時代前期の中頃から後期の初め
(紀元前2世紀~紀元2世紀頃)までの400年間、甕棺墓(かめかんぼ)を
中心とした共同墓地です。
これまでに甕棺墓348墓、、土壙墓(どこうぼ)119墓、石棺墓(せっかんぼ)2墓が
発見されています。
甕棺は2個の甕や壺を合わせた合せ口式(あわせくちしき)と
1個だけの単式(たんしき)があります。
土壙墓は長方形の穴を掘った墓で中には板を長方形に組み合わせた、
組み合わせ式木棺墓(もっかんぼ)もあります。

入口

丘陵の上にあります。

付近の展望

展示館

展示館案内

案内板より

墓群

甕棺と人骨

甕棺と人骨

土壙墓

甕棺墓

手との比較

弥生時代中期に甕棺の使用がもっとも多いことと小児の死亡率が非常に高かった事がわかります。


副葬品は南方産のゴホウラ(貝)製の腕輪のもっとも古いものが
103号甕棺から出土しています。

ゴホウラ貝

貝輪からこの時代には南方との交流があったことが分かります。

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【Podcasting】







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須玖岡本遺跡群・奴国の丘歴史公園

展望光景

奴国の丘歴史資料館の外観

奴国の丘歴史資料館の入口

岡本遺跡案内

◎春日市奴国の丘歴史資料館
  http://www.city.kasuga.fukuoka.jp/nakoku/

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王墓の上石(うわいし)

▼案内板より
明治32年(1899)に大石の下から中国鏡30面前後、
銅剣・銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・ガラス壁(へき)・ガラス勾玉(まがたま)など
多数の副葬品とともに甕棺墓(かめかんぼ)が発見され、この大石が
厚葬墓(あっそうぼ)[王墓]の上石ということがわかりました。
大石は下図のように甕棺墓の上に標石状(ひょうせきじょう)に
のせられていたと考えられます。
発見時の記録と近年の周辺の調査から王墓は墳丘墓(ふんきゅうぼ)であったことも
わかりました。
平成10年(1998)現在地に移設しました。

王墓想定図より

王墓想定図より

王墓の復元(奴国展示館)

王墓出土鏡(復元)

・57年よりも前の時代の奴国王墓と思われる。

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覆屋 A棟

▼案内板より
この覆屋(おおいや)では墓地の北端部に位置する
甕棺墓群の一部と祭祀遺構が見学できます。
甕棺墓はすべて弥生時代中期中頃(紀元前1世紀)のもので、
成人棺が深く埋められた後、その周囲に6基の小児棺(しょうにかん)が
続けてやや浅い位置に埋置(まいち)された状態がわかります。
このように成人用甕棺墓の傍らに複数の小児用甕棺墓が存在する例は、
他の甕棺墓地でもよくみられます。
祭祀遺構は墓地と関連した遺構で、甕棺墓群の周囲に分布しています。
中から祭祀に使用された土器が出土しました。
ここに公開している祭祀遺構から出土した土器は、
甕棺と同じ時期のものです。

甕棺

甕棺

甕棺

土器

土器

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覆屋 B棟

▼案内板より
この覆屋では墓地の西端に位置する甕棺墓、土壙墓(どこうぼ)、
木棺墓(もっかんぼ)および竪穴遺構(たてあないこう)を
発掘調査時の状態で公開しています。
ここに展示している成人用甕棺墓は、
弥生時代中期後半(今から約2,000年前)のもので、大型の甕棺に
木蓋(きぶた)をしていたと考えられます。
木棺墓と土壙墓の時期は明らかではありませんが、
鉄剣が出土した木棺墓については、甕棺墓や土壙墓より
古いことがわかっています。
竪穴遺構については住居跡とも考えられますが、
墓地の一角につくられていることや、
柱穴が竪穴の周囲に配されていることなど、
ほかの住居跡とは異なった点が注目され、
埋葬と関係した建物であった可能性もある遺構です。

覆屋 B棟 内部

木棺墓と成人用甕棺墓

木棺墓部

土壙墓部

竪穴遺構

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弥生時代中期の竪穴住居跡の復元。

弥生時代中期の竪穴住居跡の復元。

▼案内板より
少しずつ時代が違う3棟の住居が重なっています。
この上に屋根を葺きました。

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弥生中期の須玖岡本遺跡群(すくおかもといせきぐん)
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

・環濠の発見状況より、環濠が遺跡群を囲っていた可能性もあり。
・青銅器の鋳型など、生産関連のものが全国的に突出して出土している。
・生産工房と見られる建物の跡も見つかっている。
・鉄器や鉄の破片もあり、鉄器工房があったと思われる。
・ガラス工房もあったと思われる。
・生産されたものは、北部九州や四国、対馬へと配布されたと思われる。
・弥生時代後期になると工房は丘陵地から低台地上へ移動。
・弥生時代後期後半~終末にかけて対馬で大量に消費された広形銅矛の
 生産が行われていたと思われる。
・古墳時代初めには遺跡群の集落は衰退へ。

須玖坂本遺跡の青銅器工房跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

銅鏃鋳型(どうぞくいがた) / 須玖坂本遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

銅鏡鋳型 / 須玖坂本遺跡
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

小銅鐸鋳型 / 岡本遺跡
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

広形銅矛鋳型 / 熊野神社 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

広形銅戈鋳型 / 大南遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

中広形銅矛 / 須玖岡本遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

中広形銅戈 / 紅葉ヶ丘遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

細形銅剣 / 立石遺跡 / 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

勾玉鋳型 / 赤井手遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

ガラス勾玉 / 須玖岡本遺跡 / 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

ガラス小玉 / 須玖岡本遺跡 / 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

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【Podcasting その1】







【Podcasting その2】







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2008.02.08


特異小惑星2007TU24が地球付近を無事通過

2008年1月29日、特異小惑星2007TU24が地球に危害を及ぼすことなく
無事通過しました。

カシオペア座とペルセウス座の境界付近を通過し
地球最接近時の距離は月までの距離の1.4倍の約55万km。
大きさはさし渡しおよそ250mと考えられています。

今回、地球の陸地に衝突したとしたら
マグニチュード7クラスの地震を引き起こし、都市大のクレーターが残っただろうと、
もし海に衝突していたら、巨大津波を引き起こしていただろうと考えられています。

実は、この小惑星が発見されたのは3ヶ月前の2007年10月でした。
このことは、地球に危険をもたらす特異小惑星が私たちの太陽系に
検知されることなく、潜んでいるかもしれないことを示しています。

それらはかなり微光で、かなり速く動くことから検地が困難なのが現実です。

写真は1月28日のもので、
プエルトリコにあるアレシボ電波天文台が送出したレイダーが
特異小惑星2007TU24によって反射され、
アメリカ国立電波天文台が所有する世界最大の可動式の電波望遠鏡
ロバート・バード・グリーンバンク望遠鏡によって記録されたものです。

IMAGE DATA © Green Bank Radio Telescope, Arecibo Radio Telescope

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2008.02.07


吉野ヶ里「北墳丘墓」16年ぶり公開

佐賀県神埼市と吉野ヶ里町にまたがる吉野ヶ里歴史公園に1日、
歴代首長の埋葬場所とされる遺構を展示した
「北墳丘墓(ふんきゅうぼ)」がオープンした。

1989年に権力の象徴である銅剣が見つかり、
「吉野ヶ里フィーバー」に拍車を掛けるきっかけとなった場所。

本物の遺構を覆っており、発掘当時の興奮も伝わる施設として注目を集めそうだ。

北墳丘墓は、公園の北西部に位置する
紀元前2~同1世紀ごろの弥生時代の遺構で、
南北40メートル、東西27メートルにわたって広がる。
出土した成人用の甕(かめ)棺14基のうち8基から銅剣が見つかり、
吉野ヶ里遺跡保存の契機となった。

91年度以来、16年ぶりの一般公開となる。

遺構全体をコンクリート建物で覆い、
その外面に土を敷いて芝生を植え付け、
古代の墳丘墓さながらの外観に仕立てた。

建物内で見学できる遺構面は、ひび割れなどを防ぐため薬品処理し
湿度調整のための空調設備を設置。

甕棺は14基とも本物の一部を再び配置し、
銅剣やガラス製管玉などの出土品は複製品を展示。総事業費は約5億円。

同公園事務所は「本物の持つ迫力を見せられる。
89年のあの感動を思い出してもらえるはず」と期待している。

◎読売新聞 2008年2月1日
  http://kyushu.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「吉野ヶ里」
  http://www.google.com/...

弥生時代 2008 | このエントリーを含むはてなブックマーク


英賀保駅周辺遺跡で粘土掘り跡100基発見

姫路市苫編、英賀保駅周辺遺跡の第四地点で、
弥生土器の材料になった粘土を採ったとみられる穴(採掘坑)の跡が
約百基見つかった。

これらの発見は姫路市内では初めてで、
近くの集落で土器を作るために使われていたとみられる。

県立考古博物館(播磨町)が、姫路バイパスの側道工事に伴い、
昨年十二月から約千三百平方メートルを発掘調査している。

二世紀の弥生後期の採掘坑で、約三百二十平方メートルの範囲に、
砂地の手前まで粘土を掘った直径五十センチ-三メートル、
深さ二十センチ-一メートルの穴が重なるように見つかった。

穴からは弥生土器のかめやつぼも出土した。
採掘坑の発見は県内でも五例ほどしかないという。

また、採掘坑を覆った地層には、奈良-平安時代のすずりや文字入りの土器、
瓦などの遺物が含まれ、近くに寺や役所跡があったとみられる。
鎌倉時代の掘立柱建物跡や溝も見つかった。

隣接地で県教委が進める発掘調査では、
弥生末期の住居や平安期の建物などが確認されている。

同博物館は「弥生時代から中世にかけて連綿と続いた
大規模な集落群であったことが推測される」としている。

◎神戸新聞 2008年2月1日
  http://www.kobe-np.co.jp/...

◎Google検索「英賀保駅周辺遺跡」
  http://www.google.com/...

弥生時代 2008 | このエントリーを含むはてなブックマーク


西飯降II遺跡で弥生時代の溝などを発見

和歌山県かつらぎ町の「西飯降II遺跡」で、
弥生時代と古墳時代、奈良時代の建物群が見つかった。
県文化財センターは「奈良時代の建物群は大型の建物が多く、
役所や有力者の居宅の一部である可能性がある」としている。

奈良時代の建物群は、柱穴の状態などから高床倉庫とみられ、
規則的に配置されていることが分かった。
建物群の東西には南北に柱列があり、この内側に大型の建物が多く、
建物群を囲む境界とみられる。

また、一般の集落からあまり出土例がない円面硯の破片が見つかったことから、
役所などの可能性があるという。

古墳時代の遺跡からは約60棟の方形の竪穴住居跡が見つかり、
掘立柱建物移行前の集落としては県内最大級という。

このほか、集落の防御のためとみられる最大幅2・5メートルで
断面がV字型の弥生時代の溝も見つかった。

◎産経新聞 2008年1月27日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「西飯降II遺跡」
  http://www.google.com/...

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茶臼ヶ岳古墳群で弥生後期の墳墓など確認

京都府京丹後市久美浜町橋爪の「茶臼ヶ岳古墳群」から、
弥生時代後期から古墳時代前期にかけて造営されたとみられる
方墳などが5基確認されたほか、土器棺や鉄剣(全長30センチ)なども見つかり、
府埋蔵文化財調査研究センターが発表した。

同古墳群は、府立久美浜高校グラウンド南側の標高40~26メートルの丘陵にある。
東西約60メートルのエリア内で今回、
新たに弥生時代後期(1~2世紀)の墳墓2基と
古墳時代前期(4世紀)の方墳3基を確認した。

調査は昨年10月から始まり、今月末まで行われる。
丘陵のほぼ中央に位置する長方形方墳「5号墳」
(長さ14・5メートル、幅6・5メートル)からは、子供の遺骨を納めたとみられる
大型の土器棺(高さ50センチ、直径50センチ)や、
仏教の経典を埋めるために平安時代末期(12世紀)に作られた
埋納土器(高さ約40センチ、直径25センチ)なども出土した。

同センターは「方墳3基は、古墳時代に周辺の集落を治めた
豪族の墓と考えられる」と話している。

◎産経新聞 2008年1月27日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「茶臼ヶ岳古墳」
  http://www.google.com/...

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柳沢遺跡で出土の銅戈1本取り出す

県埋蔵文化財センター(長野市)は24日、弥生時代中期とみられる
青銅製祭器「銅戈(どうか)」と「銅鐸(どうたく)」が出土した
中野市の柳沢遺跡から切り取り、
千曲市の県立歴史館で調査を続けている「埋納坑」から銅戈1本を取り出した。

既に出土している2本の銅戈と同じ大阪湾周辺で見つかっている
「大阪湾型」であることを確認した。

この日は、県内外の専門家でつくる柳沢遺跡調査指導委員会の
笹沢浩委員長、委員の石川日出志・明大教授らも参加。
埋納坑にある銅戈5本と銅鐸片1点のうち、
センター職員が一番手前の銅戈について、土を採取しながら慎重に取り出した。

長さは27センチほどで、既に出土している2本より短い。
まだ一番奥に埋まっている銅戈は32センチほどと長いため、
「大小バラエティーに富んだ銅戈の並べ方をしており、興味深い」(石川教授)とした。

笹沢委員長によると、取り出した銅戈に、のこぎりの刃に似た文様
「複合鋸歯(きょし)文」があることも確認。
これまでの2本は斜格子文だけで、和歌山県有田市の
山地地籍で出土した銅戈6本の中に、
複合鋸歯文と斜格子文が両方ついている銅戈もあり、
笹沢委員長は「柳沢遺跡と同じ組み合わせだった意味は大きい」とした。

同センターは2月末までに残りの銅戈と銅鐸片を取り出す計画。
その後、土壌分析や青銅器の分析も行う計画だ。

◎2008年1月24日 信濃毎日新聞
  http://www.shinmai.co.jp/...

◎Google検索「柳沢遺跡」
  http://www.google.com/...

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奈良・橿原で方形周溝墓17基出土

奈良県橿原市観音寺町の京奈和自動車道建設予定地で、
弥生時代中期(約2200年前)の大規模な方形周溝墓が計17基見つかり、
県立橿原考古学研究所が23日、発表した。

奈良盆地南部に位置し、最近まで水田が広がっていた同地区では、
これまで遺跡の存在は確認されておらず、
当地での弥生人の暮らしぶりをうかがわせる貴重な資料となりそうだ。

インターチェンジ建設に伴い、約1万2000平方メートルを調査。
その結果、県内最大規模(縦14メートル、横16メートル)の方形周溝墓をはじめ、
十数メートル四方の同様の墓が次々と見つかった。

遺体が埋葬された墳丘部分は室町時代ごろの水田開発などで失われ、
墓を方形に区切る溝だけが残っていた。
溝では被葬者に供えられたとみられる土器も出土した。

方形周溝墓は、近畿では弥生時代中期に盛んに築造され、
当時の一般庶民が家族ごとに1基ずつ所有したと推測されている。

奈良県内では、八条北遺跡(大和郡山市)で50基見つかったのが最多で、
20基前後がまとまって築造されるケースが多いという。

同研究所の本村充保主任研究員は
「この地域は水田だったため長年開発もなく、
発掘調査がほとんど行われていなかった。
今回の調査地近くには方形周溝墓を築いた人たちの
集落があったのではないか」と話している。

◎産経新聞 2008年1月23日
  http://sankei.jp.msn.com/...

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高橋遺跡で墓23基と石のやじりを発見

弥生時代の大規模集落とされる愛知県豊田市の高橋遺跡で、
弥生時代中・後期(紀元前2~紀元2世紀)の有力者の墓とされる
方形周溝墓計23基や竪穴住居3棟が見つかったと、
市教育委員会が15日発表した。

市がこれまでに行った調査で、高橋遺跡からは
弥生時代終末期から古墳時代の方形周溝墓計5基が確認されており、
資料館は「先行する時期の墓がまとまって見つかり、
墓域と集落の変遷を知る貴重な手掛かり」と話している。

市郷土資料館によると、高橋遺跡は矢作川左岸に帯状に伸びる
幅70-80メートル、長さ800メートルの集落跡。
方形周溝墓は各地で確認されており「口」型に溝が掘られ、
中央に土が盛られている。

今回見つかったのは1基の大きさが約3・5-7・5メートル四方、
溝の深さが約15-80センチで、
墓の大きさが階層差を表している可能性があるという。

また、弥生時代中期の竪穴住居1棟からは石のやじり9点が出土。
資料館は「弥生時代は鉄のやじりが主流と考えられており、
1カ所から石のやじりが多数出土するのは珍しい。
縄文時代と比べて大型で粗雑なため、
戦争や儀礼的な目的で置かれていた可能性もある」と話している。

◎産経新聞 2008年1月15日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「高橋遺跡」
  http://www.google.com/...

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2008.02.06


天竜浜名湖鉄道 天竜浜名湖線 TH2100型

静岡県・掛川駅にて平成19年9月に撮影

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天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線は、静岡県掛川市の掛川駅から
浜松市天竜区の天竜二俣駅を経て、湖西市の新所原駅に至る
天竜浜名湖鉄道が運営する鉄道路線。
略して天浜線(てんはません)とも呼ばれる。
旧国鉄の特定地方交通線(二俣線)を引き継いだ路線。

東海道本線から分岐して内陸部に入り、
浜名湖の北岸を巡って再び東海道本線に合流しており、
掛川~豊橋間の北回りバイパス線ともなっている。

本来は、掛川から遠江二俣、三河大野を経て
岐阜県東濃地方の大井(現在の恵那)に至る鉄道
(改正鉄道敷設法別表第63号)として計画されたが、
軍事上の要請から(浜名湖付近で海岸線を通る東海道本線が、
敵軍の攻撃により不通になった際のバイパスとするため)、
終点を新所原に変更して建設された。
また、天竜二俣付近では、1929年~1935年に存在した
光明電気鉄道線の廃線跡を転用して建設を行っている。

TH2100型は新潟トランシス製。TH1型を置き換える目的で登場。
全長18.5mで座席はセミクロスシート。最高速度は85km/h。
ドアチャイムが付いている。
1次車と2次車以降との違いはドア部のLED表示の有無程度。
2002年より全13両を投入してTH1型を置き換え、
現在も主力車両として運行中。

ワンマン運転の列車が各駅停車で運転される。
第三セクター転換後は、東海道本線などとの直通列車はない。
単線かつローカル線であるために、完全な等間隔運行ではないが、
昼間はほぼ1時間に1本の割合で列車が運行されている。
朝夕はこの他に新所原~金指間、遠州森~掛川間に、
それぞれ区間運転が行われる。

また、2000年の夏期からトロッコ列車「そよかぜ号」が
三ヶ日~天竜二俣間を走り、人気を呼んでいる。
このトロッコは、貨車改造のトロッコ車両2両と、
上り方向にレールバス1両を付けた3両編成で、動力はレールバスのみである。

終着駅でレールバスの機回しを避けるため、
トロッコ車両の下り側は制御付き運転台で、下り列車の場合トロッコ車両を先頭にして、
後のレールバスを操作する方式を採用している。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「天竜浜名湖」
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◎Google検索「TH2100」
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切符 / JR北海道 札幌駅

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切符 / JR北海道 釧路駅

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切符 / JR北海道 根室駅

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切符 / JR東日本 渋谷駅

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