食彩ガーデン
食5 | 記事URL | コメント (0) | トラックバック (0)

山梨県・小淵沢駅にて平成19年8月に撮影 / キハ111形+キハ112形

山梨県・小淵沢駅にて平成19年8月に撮影 / キハ112形

長野県・野辺山駅にて平成19年8月に撮影 / キハ112形
------------------------------------------------------
キハ110系気動車は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の一般形気動車。
老朽化した旧型気動車の取り替えと
ローカル線における輸送サービスの改善を目的に製造され、
釜石線と山田線でキハ110形量産先行車がそれぞれ営業運転を開始した。
気動車であるが、車体と台車の軽量化を図り、
高出力直噴式エンジンと効率の高い液体変速機との組み合わせにより
電車並みの性能を有している。
ブレーキシステムも電車で実績のある応答性の高い電気指令式を使用しており、
在来車とは連結器の形状が異なっているため、併結はできない。
急勾配の多い山岳路線ではこの車両の導入に伴い速度向上による時間短縮が実現した。
さらに冷房装置を搭載したことにより、夏期に於ける旅客サービスの向上が図られている。
ワンマン運転に対応するため、客用ドアは半自動式であり、
ドアの横に開閉スイッチが設置されている。
また、ドアチャイムも搭載されている。
キハ110形・キハ111形・キハ112形 100番台
普通列車用として設計された。
セミクロスシートであるが、クロスシートはキハ100形と異なり、
ワンマン運転時の旅客の動線や混雑時を考慮して横2+1列配置となっている。
磐越東線、小海線、花輪線、山田線、岩泉線、気仙沼線で使用され、
磐越東線、小海線、気仙沼線ではワンマン運転も行われている。
(Wikipediaより)
------------------------------------------------------
◎Google検索「キハ110」
http://www.google.com/...
------------------------------------------------------
鉄道, 鉄道写真5 | 記事URL | コメント (0) | トラックバック (0)

土井さんをはじめ、STS-123クルーの皆さんお疲れ様でした。
IMAGE DATA ©James N. Brown
宇宙4 | 記事URL | コメント (0) | トラックバック (0)

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149
------------------------------------------------------
国鉄オハ35系客車とは、
日本国有鉄道の前身である鉄道省が製造した20m級鋼製客車の形式群である。
なお、「オハ35系」の呼称は、国鉄が定めた正式の系列呼称ではなく、
1939年より製造が開始されたスハ33650形(のちのオハ35形)と
同様の車体を持つ客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。
1929年より製造が開始された鉄道省制式20m級鋼製客車である
スハ32系客車の改良型として、1930年代後半より各車種が製造された。
構造面では従来600mm幅が標準であった側窓が1,000mm幅を標準とするように変更され、
台枠などを中心に過剰な補強材の省略が進んで軽量化され、
かつ従来リベット接合が多用されていたその組み立てについても溶接への移行が進むなど、
スハ32系の基本構造に従いつつ全面的な設計のリファインが実施されているのが特徴である。
ただし、その量産が戦前と戦後にまたがって長期に渡って継続された結果、
その車体構造は製造時期によって大きく異なったものとなった。
特に戦後形では大きな変化が見られ、1946年度発注分はほぼ戦前と同一の仕様であったが、
以後は製作の容易化などを目的として順次仕様変更が行なわれ、
車端の出入台部で屋根が絞られ3面折妻となっていたものが、
外妻アーチ桁の設計を変更することなどで出入台部の絞りを残したままで切妻化され、
さらに長桁の絞りがなくなり雨樋が直線になるなどの変化が生じた。
なお、本系列については戦前には1941年度まで北海道向けが製造されず、
窓の開閉時に開口部を最小限に抑えられ防寒の点で有利な狭窓の
スハ32・スハフ32形(二重窓仕様)が継続生産されたが、
以後はこれに代えて本系列が北海道向けとして製造されている。
台枠は当初スハ32系の本州向け最終グループ(1938年度発注分)の構造を継承する
シンプルな設計の溝形鋼通し台枠である
UF38(2軸ボギー車)・51(3軸ボギー車)が採用されたが、
その後車載蓄電池の設計変更による取り付け座の小型化で
UF116(2軸ボギー車)などに変更されている。
オハ35形
オハ35系の中心的存在となる三等座席車で、1939年から1943年と
1946年から1948年にかけて日本車輌、日立製作所、汽車製造、
川崎車輛、田中車輛→近畿車輛、梅鉢車輛→帝国車輛、新潟鐵工所、
それに小倉、大宮、大井、鷹取の各国鉄工場で合計1,301両が製造された。
丸屋根のスハ32形(スハ32800形)の暖地向け最終製造ロットである
1938年度製造グループの基本構造を踏襲し、
前位出入台寄りには便所、洗面所が設置されており、座席定員は88名であるが、
従来座席1脚ごとに600mm幅の狭窓が配されていたのが2脚ごとに、
つまり対面式のボックス1つごとに1,000mm幅の広窓を配するように変更されて
眺望が改善されたのが最大の変更点である。
大井川鐵道のSL列車に使用される客車として、
オハ35が6両・オハフ33が2両使用されている。
オハ35 149は小倉工場製造のノーヘッダー試作車、
オハ35 857とオハフ33 469は戦後製の半切妻車であるが、
それ以外の車両は戦前製の標準的な仕様の車両である。
国鉄時代に電気暖房を装備していた車両もあるが、
大井川鐵道では暖房用電源の供給源がないため使用されておらず、
番号も原番号に戻されている。
岡山県の柵原ふれあい鉱山公園に、
片上鉄道廃線まで使用されていたホハフ3002(旧オハ35 1227)が
公園内の短い区間だが他の車両と共に動態保存されている。
岩手県盛岡市の岩手県営交通公園に、
オハ35 2001が保存されている。これはオハ35形のトップナンバーである。
東海旅客鉄道飯田線中部天竜駅構内の佐久間レールパークに、
オハ35 206・オハフ33 115の2両が保存展示されている。
(Wikipediaより)
------------------------------------------------------
◎Google検索「オハ35」
http://www.google.com/...
------------------------------------------------------
鉄道, 鉄道写真5 | 記事URL | コメント (0) | トラックバック (0)
徳島市南蔵本町の南蔵本遺跡で、杭(くい)や板で作られた
弥生時代前期前半(紀元前5~4世紀)の堰(せき)が出土したと、
県埋蔵文化財センターが18日、発表した。
一帯で行われていた水田稲作で使われた灌漑(かんがい)施設の一部とみられ、
同センターは「川の水を分水する工夫が読み取れ、
県内の水稲農耕の歴史を考える上で興味深い資料」としている。
県立中央病院の改築事業に伴い、昨年4月から調査。
杭は67本が見つかった。
ヒノキ製で、太さ3~5センチ、長さ30~70センチ。
自然の川跡に15~20センチ間隔で並べて打ち込まれていた。
板は6枚が出土。最大で幅20センチ、長さ40センチ、厚さ1・5センチ。
杭と杭の間にはめ込んだ状態で見つかった。
堰は幅2・1メートルで、川の流れに直交する格好で設置されており、
流量や水の流れる方向を変え、近くの水田に水を引いていたとみられる。
何度か補修や改修した形跡も確認されたが、洪水で埋没したらしい。
弥生時代前期の堰としては、同遺跡の西隣りに位置する
庄・蔵本遺跡(徳島市)の例に次いで県内2例目。
同時期の堰は全国でも十数例しか確認されていないという。
南蔵本遺跡では昨年、弥生時代前期前半の儀礼に用いられた木製弓が出土している。
◎読売新聞 2008年3月19日
http://www.yomiuri.co.jp/...
◎Google検索「南蔵本遺跡」
http://www.google.com/...
【Podcasting その1】
【Podcasting その2】
【Podcasting その3】
--------------------------------------------------------------
【邪馬台国】
西暦200年代(3世紀:弥生時代後期~古墳時代前期)に
小国ばかりだった倭国で30国を従えていたとされている国。
邪馬台国があったとされる根拠は、
中国の歴史書・『三国志』魏書東夷伝倭人条に残されています。
--------------------------------------------------------------
【邪馬台国までの道程】

帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
--------------------------------------------------------------
【魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より】
東の不弥国まで百里である。
官を多模(たも)、副を卑奴母離(ひなもり)という。
千余家ある。
南の投馬国(つまこく)に水行20日で着く。
[引用:武光誠さんの著書「邪馬台国と大和朝廷」(平凡社新書)より]
--------------------------------------------------------------
【不弥国の場所候補(1) 福岡県飯塚市】
飯塚市立岩遺跡
◎飯塚市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/...
◎飯塚市歴史資料館
http://www.city.iizuka.lg.jp/...
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
【立岩遺跡群】
・現在は福岡県飯塚市という地名だが、その昔は筑前国穂波郡(ほなみぐん)であった。
∟言語学者・長田夏樹氏は洛陽古音で不弥はホム(ホミ)と発音すると提示。
・弥生時代中期後半頃(1世紀頃)に栄えた遺跡とみられる。
・石器生産をしていた場所の跡(石包丁を中心に石剣、石戈(せっか)などを量産)
∟奴国などと鉄器や青銅器の取引?
(石包丁出土比率:福岡26.7%、朝倉25%、大分県宇佐15%との調査結果もあり)
立岩・堀田甕棺遺跡から発見されたもの
・前漢鏡6面、銅矛1本、鉄剣1本、鉄の鉇(やりがんな)1本、砥石2個などをおさめた甕棺1基
・青銅器、鉄矛、鉄刀子(てつとうす)、ガラス管玉などをおさめた甕棺8基
∟ほぼ完全な形の人骨も出土。(右腕にはゴホウラ貝の腕輪が14個)
∟原形を残した管玉の装身具が出土。
・遺骸だけがおさめられた甕棺31基
・甕棺計40基(首長1人+身内+役人か?)
・鉄剣数本(この当時は貴重なため、有力者がいた証と考えられる)
・青銅器よりも鉄器が多い
・使用形跡から鏡は1代の首長のためだけに用意されたものと考えられる。
・鉄剣、鉄矛に絹の布が付着していた。
∟鉄剣の柄の部分等(最初に確認された国産の絹)
∟魏志倭人伝にも養蚕が行われていたことが記されている。

▼案内板より
この地点が昭和38年・40年に調査された堀田甕棺群の遺跡です。
この付近一帯が弥生時代の遺跡であることが
はじめて注意されたのは昭和8年です。
その後、遺跡、遺物の発見が相次ぎ、ついにはこの丘陵全体で
約2000年前の遺跡の所在が明らかとなりました。
しかもそれらの諸遺跡は何れも貴重な資料を提供して
弥生時代の研究に大きく貢献しました。
学者、研究者の関心も高まり、これらの遺跡群は総称して
「立岩遺跡」と呼ばれ世の注目を集めてきました。
特に立岩・堀田甕棺遺跡での調査の結果は、
過去30年にわたる立岩研究の総括的な結論に到達した感があります。
前漢鏡10面をはじめとする青銅器、鉄器、貝輪、ガラス製玉類を
集めたこの遺跡はまさしく立岩遺跡群の中心であり、
その内容は同じ頃、中国にも知られていた末盧国、伊都国、奴国にも
比類するものです。
堀田を中心とする立岩遺跡群の構成とその生活、文化は
日本の国家形成期の歴史を解明する上にもその学術的価値は
極めて高いとして出土品のすべてが昭和52年に一括して
国の重要文化財に指定されました。
市は立岩・堀田甕棺遺跡の現地を市指定史跡として保存し、
出土品は飯塚市歴史資料館で展示公開しています。
(飯塚市教育委員会)
◎Google検索「立岩遺跡」
http://www.google.com/...

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡からの眺め(西側)

立岩・堀田甕棺遺跡からの眺め(西側)

立岩・堀田甕棺遺跡からの眺め(東側)

立岩・堀田甕棺遺跡 34号甕棺
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

立岩・堀田甕棺遺跡 前漢の銅鏡 10号甕棺出土
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

立岩・堀田甕棺遺跡 銅矛 10号甕棺出土
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

立岩・堀田甕棺遺跡 管玉 28号甕棺出土
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

飯塚市(立岩遺跡)含んだ広域地図 (引用:mapion)

立岩遺跡から上流(南)方面 (引用:mapion)
∟筑前国続風土記(江戸時代・元禄)には、
『遠賀川の上、飯塚秋松まで船上る。
又鞍手の境村の上は、豊前田川郡まで船上る。』とあり。
∟現在の遠賀川上流の様子(大七三会様サイトより)
http://charider.cside2.com/...
∟南の朝倉市には「平塚川添遺跡」という大きな遺跡がある。
http://www.amagiasakura.net/...

立岩遺跡から上流(南)方面 (引用:mapion)
∟律令時代(7世紀半ばから10世紀頃)には米ノ山峠を経る
東西の官道が通っていた。
∟現在の米ノ山峠に向かう道の様子(虫と自転車、ときどきロボット様サイトより)
http://kokuwa.air-nifty.com/...

立岩遺跡から下流(北)方面 (引用:mapion)
参考地図:mapion
http://www.mapion.co.jp/...
--------------------------------------------------------------
【不弥国の場所候補(2) 福岡県糟屋郡宇美町】
光正寺古墳公園
◎宇美町 - Google検索
http://www.google.com/...
◎宇美町立歴史民俗資料館
http://www.rekishi-umi.jp/
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
【光正寺古墳】
◎Google検索「光正寺古墳」
http://www.google.com/...
▼発掘調査と整備
光正寺古墳は戦後間もない1950年代初めに森貞次郎(もりていじろう)博士が、
墳丘の形状が古式古墳の形状をよくとどめているとして、
墳丘測量を行い、古墳の保護の必要性を指摘されていました。
宇美町では、1970年代から国・県の協力を受け町有化を進めてきた結果、
1975年に国指定史跡となりました。
光正寺古墳の保存整備のため、1996年から1998年までの3ヶ年で墳丘裾、
主体部の発掘調査を実施し、墳丘の規模、主体部の形状を確認しました。
そして、発掘調査の結果を基に1999年から2000年までの2ヶ年で復元整備を行い、
史跡公園として整備をいたしました。
墳丘は盛り土で保護し、築造当初の形状を再現しています。
しかし、本来は墳丘に葺石(ふきいし)が敷かれていましたが、葺石部分は復元せずに、
古墳周辺の芝生の広場と一体として利用できるように整備しました。
本来の墳丘や主体部の形状については、ガイダンス広場に1/5の大きさの
古墳模型で復元しています。
(案内板より)

1950年代の測量図

1963年頃の様子

発掘中の様子

葺石の出土状況

整備後の様子

古墳復元模型
▼光正寺古墳の特徴
築造年代は第1主体部から出土した土器が古式の土師器(はじき)であり、
福岡県内の前期古墳でも最古期に造られたもので3世紀後半に位置づけられます。
墳丘規模は全長約53m、後円部径約33mで糟屋郡内最大の前方後円墳であることから、
当時糟屋郡内を支配していたと思われる「不弥国」王の墓と考えられます。
(案内板より)

前方部

後円部
▼埋葬施設
埋葬施設は、後円部中央に第1主体部(築造当初の墓)を埋置(まいち)しています。
第1主体部は、大型の箱式石棺を川原石で囲んでいます。
石棺の石材は、能古島(のこのしま)の玄武岩や月隈丘陵(つきぐまきゅうりょう)の
緑色片岩(りょくしょくへんがん)、若杉山の滑石(かっせき)などが使用されています。
第2主体部は、第1主体部の北東側に箱式石棺が築かれていました。
石棺は破壊されていましたが、発掘調査で石棺の石材には地元の砂岩(さがん)を
使用していることがわかりました。
第1主体部の南側では、第3主体部(割竹形木棺/わりたけがたもっかん)と
第4主体部(土器棺/どきかん)を、
また第1主体部西側に第5主体部(箱式石棺)を確認しました。
第1から第4主体部は、主軸を東西方向に整然と並べて築かれ、
頭位(とうい)は西に向けていたと推定されます。
これらに対し、第5主体部は南北方向に主軸を向けて造られています。
主体部の築造は、第1、2、3、4、5主体部の順に造られたようです。
(案内板より)

主体部の構造

宇美(光正寺古墳)含んだ広域地図 (引用:mapion)

宇美(光正寺古墳)からのルート例 (引用:mapion)

宇美(光正寺古墳)周辺広域 (引用:mapion)
参考地図:mapion
http://www.mapion.co.jp/...
--------------------------------------------------------------
【不弥国の場所候補(3) 福岡県福津市津屋崎】
◎福津市
http://www.city.fukutsu.lg.jp/
◎津屋崎町 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/...
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
・各国の位置関係について、方位が反時計回りに約30~45度ほどズレていることから
「奴国から東に不弥国」の表記を実際には「奴国から北東に不弥国」と解釈。
距離は伊都国=奴国、奴国=不弥国である。
不弥国から先は水行となる。
以上の点などから、津屋崎の地が候補地として浮上。
・津屋崎説論者:笠井新也
・付近の有名な遺跡は今川遺跡。
∟わが国最古の青銅器は、北九州の福岡県の弥生時代前期初めの今川遺跡で発見された
青銅の鑿(のみ)であるが、これは、もともと中国の東北部の遼寧省(りょうねいしょう)一帯に
展開している遼寧式青銅剣と呼ばれるものの一部を再加工したものである。
(広島県・府中町教育委員会ホームページより)
・参考:弥生時代の博多湾(古賀市の歴史さんより)
http://www.koga.org/history/f03gishi.htm
∟こちら地図を見る限り、海の中道は繋がっていなかったことがわかる。

津屋崎を含んだ広域地図 (引用:mapion)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
・宮崎康平(みやざきこうへい)氏「まぼろしの邪馬台国」では、
香椎から古賀の間に不弥国との説。
∟映画 『まぼろしの邪馬台国』
∟古賀市立歴史資料館
--------------------------------------------------------------
【邪馬台国までの道程・各国レポート】
帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影
------------------------------------------------------
600形電車は、江ノ島電鉄(入線当時は江ノ島鎌倉観光)に在籍していた電車。
1970年(昭和45年)に東急デハ80形87~90を譲り受け、
当線での規格に適合するよう改造したものである。
この4両は旧番104~107であったものを玉川線廃止時に改番し、
世田谷線用として残存していたが、連結2人のり改造が実施されず、
運用本数的にも余剰であったことから譲渡対象となった。
事実、これら4両が世田谷線分離後に稼動する機会は
ごく稀であったといわれている。
前面形態は当初、東急時代の面影を色濃く残していたが、
1970年代末から腰板に前照灯、尾灯を移設し、
前面、側面戸袋窓のHゴム支持化などが行われ、
さらに前面車掌側の窓がアルミサッシ2段化されるなどの改造が繰り返された。
800形と共に全長が連接車より長く、重連対応化改造は実施されなかった。
ただし、回送列車として600形が
300形等の連接車を牽引する運用がされていた時期もある。
また実現はしなかったものの、
主電動機供出で休車となっていたデハ100形105、110を
付随車化して中間に連結し、3両編成化する計画は存在した。
塗装は当初、クリーム+朱の通称「赤電」塗装であったが、
その後、緑+クリームの江ノ電標準塗装となっている。
理由は相模湾に近い所を走行し、また鋳鉄制輪子の鉄粉を浴びて
錆や汚れが目立ちやすかったからといわれている。
1000形の増備に伴い、本形式は早期の廃車が計画されていた。
603-604編成は1983年(昭和58年)に廃車されたが、
残る601-602編成も1985年(昭和60年)に
運用終了記念として「赤電」塗装となるが(前面の塗り分けが登場時とは異なっていた)、
実際に同編成が廃車されたのは1990年(平成2年)であった。
その間に再度標準色に戻されている。
これは、諸事情により800形を先に廃車させたためである。
1990年の廃車後、601号は東京都世田谷区の
東急世田谷線宮の坂駅脇の宮坂区民センターに静態保存された。
車体は東急ライトグリーン1色とされた一方で、
江ノ電の車両番号表記と社名表記(EER)が残されている。
傍には簡単な説明書きが置かれており、昼間時は車内に入ることもできる。
主要機器は取り外されている。
保存状態は今のところ良好であるが、錆なども目立っており、今後が心配である。
世田谷線に在籍した玉川線時代からの在来車は全て廃車解体されているため、
保存車は本車と川崎市宮前区にある電車とバスの博物館で展示されている
デハ200形204のみである。
また、編成を組んでいた651号(1988年に602号から改番)は、
神奈川県藤沢市の和菓子店「扇屋」に前面のみ保存されている。
内部は和菓子製造の作業場となっており、
運転台機器などは一切撤去されている。
電車正面のサボ受けには、「江ノ電もなか」と表記されたサボが入れられている。
「扇屋」では江ノ電の車両を模した「江ノ電もなか」が販売されている。
「扇屋」は江ノ島駅 - 腰越駅間にあり、走行中の車内からでも見ることができる。
なお、「江ノ電もなか」の箱は標準塗装の他に「赤電」がある。
(Wikipediaより)
------------------------------------------------------
◎Google検索「江ノ電 600」
http://www.google.com/...
◎Google検索「江ノ電 扇屋」
http://www.google.com/...
------------------------------------------------------
鉄道, 鉄道写真5 | 記事URL | コメント (0) | トラックバック (0)

東京都・東急世田谷線沿線にて撮影(デハ78)

東京都・東急世田谷線沿線にて撮影(デハ72)
------------------------------------------------------
デハ70形電車は、かつて東京急行電鉄の軌道線に在籍した電動車である。
東京急行電鉄(大東急)発足後、初の玉川線向け新車として、
デハ60形(旧東横71号形)をベースに、1942年から川崎車輛で新造したが、
計画では8両のところ、戦時中の資材不足のため6両製作したところで製造停止となり、
終戦後の1946年に残る2両が完成した。
1969年5月11日の玉川線・砧線廃止後は残存線の世田谷線車両として残り、
塗色は鉄道線と同じライトグリーン一色となった後、
東横車輛電設で施工した1983年までの更新で、張り上げ屋根、前面を対称4枚窓化、
連結面の2枚窓化、ノーヘッダー、窓のアルミサッシ化を施し、
デハ80形に似た形状となった。
この際、連結器間長(いわゆる全長)や断面寸法、窓寸法、窓割りの一部は元のままだが、
車体長、とりわけバンパー部分を除く長さを延長しており、
その他各部の造作が原型とは著しく異なる部分が多いことから、
種車から流用したのは台枠中梁と台車枕梁程度で、
車体そのものは殆ど新造されたものとみられている。
とはいえ、デハ80形とともに、内装は木造ニス塗りの壁面と板張り床を保ち、
非冷房と相まって東京都内の鉄軌道では著しく異彩を放っていた。
1990年代に入り、鉄道線初代3000系列の全廃により発生した
シールドビーム前照灯、42芯ジャンパ連結器等を装備し、
前後して制御電源を架線電源からバッテリーに変更(HL→HB化)等を行った。
特に前照灯は、前面上部の取付式白熱灯であったものが、
前面腰板に2個となり、前面の印象に大きな変化をもたらした。
さらに、台車は東急車輛製造が新規製造したTS332に交換し、
駆動装置は平行カルダンとした。
この台車は本来、阪堺電気軌道モ701形用の台車をベースとした
660mm車輪を持つ低床台車であり、高床車体に合わせてスペーサーを挿入して使用した。
これら幾多の改造により長年使用していたが、高床ステップ付き、冷房無しといった
旅客サービス上のネックはそのまま存置したため、これらの点は改善することなく、
300系 の新造に伴い、他の在来車と共に2000年末までに全車を廃車した。
台車は交流誘導電動機に交換・整備のうえ、300系に流用した。
多くは雪が谷検車区上町班の検修庫内で解体したが、
作業の手順上、78号は85号とともに東急車輛製造に搬入した。
しかしこれも後に解体したため、現存車はない。
78号はアメリカのトロリーミュージアムから引き取り打診があったが、
当時の諸般事情から断念されたといわれる。
(Wikipediaより)
------------------------------------------------------
◎Google検索「デハ70」
http://www.google.com/...
------------------------------------------------------
鉄道写真 | 記事URL | コメント (0) | トラックバック (0)
邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡にある
日本最古級の前方後円墳3基について、
県立橿原考古学研究所と桜井市教委が相次いで発掘調査を行い、
墳丘の形状や規模がほぼ判明したと5日、発表した。
全長100メートル前後の大型古墳3基は、
女王・卑弥呼の時代に“兄弟古墳”のように相次いで築かれていたことを確認。
邪馬台国の謎に迫る貴重な資料となりそうだ。
3基は勝山、矢塚、東田(ひがいだ)大塚の各古墳。
南北方向に200~300メートル間隔で並んでおり、
近くには全長280メートルで卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳や、
纒向石塚古墳もある。
今回の調査で、勝山古墳では墳丘の南側で前方部の一部と周濠を確認。
古墳の形はこれまで、地形などから前方部が細長い長方形とみられていたが、
東田大塚古墳と同様に三角形状に広がっており、
全長は115メートルと推定されるという。
東田大塚古墳では前方部の一部が確認され、従来の説より20メートル以上長い
全長120メートル前後と分かった。
また、矢塚古墳では前方部の先端が見つかり、全長93メートルと判明。
しかし、前方部は他の2基より極端に短く、
古墳の誕生直後は設計プランが統一されていなかったことをうかがわせるという。
調査では、3基が3世紀半ばから後半に相次いで築造されていたことも改めて確認。
当時の政権構造を知るうえでも興味深い資料になるという。
菅谷文則・滋賀県立大学教授(考古学)の話「卑弥呼をめぐる論争は、
箸墓古墳を基準に考えられていたが、その直前に100メートル級の大型前方後円墳が
次々と築造されていたことが明らかになった。
3基まとまっての調査は、邪馬台国や古墳発生期を探る上で大きな成果だ」
◎産経新聞 2008年3月6日
http://sankei.jp.msn.com/...
◎Google検索「纒向遺跡」
http://www.google.com/...
遺跡の発掘調査で、弥生時代の集落から見つかる遺構として
竪穴式住居や土坑(どこう)、溝などが挙げられる。
大阪府文化財センターが昨年十一月から行ってきた
「下池田遺跡」(岸和田市下池田町)の発掘調査でもそうした遺構が見つかり、
このほど現地公開された(写真)。
ここから約四キロ北の和泉市に、
弥生時代の拠点集落史跡として有名な池上曽根遺跡がある。
下池田遺跡は、それに次ぐ大規模な集落として注目されている。
池田遺跡では、三十年ほど前から小学校建設などに伴う発掘調査が行われている。
これまで、弥生時代中期から後期(約二千年前)の住居跡、
円形に溝が巡る墓「円形周溝墓」、たくさんの土器が入る溝、
井戸や川といった遺構が見つかっている。
今回の発掘調査は、府営岸和田下池田住宅の建て替えに先立って行われたもの。
新たに見つかったのは古墳時代の溝や井戸、弥生時代の住居跡三棟、
同時代の土器が数多く入る溝、それに土器を利用した棺(ひつぎ)「土器棺」が二つだ。
同時に、弥生時代の石器や木製農耕具、
古墳時代に使われていた土師(はじ)器や須恵器も見つかった。
こうした遺物について同センターの職員は
「集落が別の場所に引っ越しする際に、身軽になるために捨てた
“家財道具”と考える人もいる」と話す。
遺構は基本的に新しいものによってつぶされる。
今回の調査でも、遺跡の大部分が近代の水田や昭和初期に行われていた
れんが用粘土の採掘によって削り取られていた。
また、土器の数多く入った溝を境として、住居跡などの遺構が集中する区域と、
あまり遺構のない区域とに分かれていることが確認された。
「池上曽根遺跡と同様の状況だ。この溝は集落を区画するための溝と考えられ、
環濠(かんごう)集落が営まれていた可能性もある」と同センター職員は指摘する。
今後、この集落の性格や広がりを知るため、出土遺物の検討が進められる。
◎世界日報 2008年3月10日
http://www.worldtimes.co.jp/...
◎Google検索「下池田遺跡」
http://www.google.com/...
鈴鹿市岸岡町の岸岡山で市考古博物館が進めていた発掘調査で、
弥生時代の大規模な集落跡が出土した。
付近は有数の住宅団地だが、
約1800年前にも山の南斜面に弥生人の住まいが立ち並んでいた。
民間企業の宅地開発に伴い、昨年11月から約3500平方メートルを調べると、
一辺3-6メートルの正方形をした43棟の竪穴住居跡が出てきた。
「足の踏み場もないくらいの建物跡」(同博物館)で、
ほとんどが弥生後期のもの。建て替えたり、住居を広げたりした跡もあった。
この遺跡を含む開発をめぐっては、地元のひばりが丘自治会が昨年10月、
900人余りの署名を集め、市に「反対」を要望した。
市は「住民の意見として受け止めた」(市都市計画課)としているが、
事業者には11月7日に開発許可を出した。
現地説明会後、「出土物は博物館で保管し、住居跡は取り壊される見通し」(同博物館)。
◎中日新聞 2008年3月8日
http://www.chunichi.co.jp/...
◎Google検索「岸岡山 遺跡」
http://www.google.com/...
京都市右京区西院安塚町の西京極遺跡の発掘調査で、
弥生後期-古墳中期の竪穴住居が17棟見つかった。
長期間継続して住居跡が展開しており、調査した市埋蔵文化財研究所は
「西京極遺跡が桂川左岸の拠点的な集落だった可能性が一層強まった」と話している。
マンション建設に伴い1月下旬から370平方メートルを調査した。
住居跡は円形と方形があり、一辺(直径)4・5-8メートルの比較的大きなもの。
弥生後期が13棟、古墳前期が3棟、中期が1棟あった。
弥生後期の住居跡からは、白い粘土の塊も多数見つかっており、
土器の制作工房だったとみられる。
一帯は川に挟まれた微高地で、これまでにも、
同時期の住居跡や方形周溝墓が多数見つかっているほか、
奈良時代の役所跡とみられる大規模建物も確認されている。
これまで古墳前期の住居跡が確認されていなかったが、
今回みつかったことで、長期間継続した集落だったことが分かった。
市埋文研では「とても住みやすい場所だったのだろう。
桂川の水運で他地域との交流も活発だったとみられ、
奈良時代に役所が設置される基盤が
弥生時代から整えられていたのではないか」と話している。
◎京都新聞 2008年3月7日
http://www.kyoto-np.co.jp/...
◎Google検索「西京極遺跡」
http://www.google.com/...
福岡市教委は3日、発掘調査をしている同市西区の元岡遺跡群から、
イノシシやシカ、イルカなど動物の骨50点余りが出土したと発表した。
同遺跡では弥生時代の祭祀(さいし)用とみられる
多くの土器や銅鐸(どうたく)が確認されており、骨が見つかった動物について、
同市教委は祭祀の場で食べたか供え物にしたと推測。
「当時の祭祀の光景を想像できる発見」と説明している。
今回出土したのは、イノシシの下あごの骨をはじめ、
シカの肩甲骨や角、イルカの骨、クジラの骨で作った加工品など50数点。
いずれも弥生時代の中期後半から後期の骨とみられる。
状態はよく、福岡市内で弥生時代の動物の骨が
良好な状態で見つかったのは博多区の雀居(ささい)遺跡以来という。
元岡遺跡内では既に、小銅鐸や「丹塗(にぬ)り磨研(まけん)」と呼ばれ、
表面に顔料を塗って作った土器なども確認。
福岡市教委は、これらが祝いや儀式で多く使われたことが分かっているため、
弥生時代に元岡遺跡付近で祭祀が繰り返された可能性があるとみている。
同市教委は「五穀豊穣(ほうじょう)を願う農耕の祭りや儀式が
長期間にわたって行われ、遺跡群はその中心地だったとも考えられる」と話している。
◎2008年3月4日 西日本新聞
http://www.nishinippon.co.jp/...
◎Google検索「元岡遺跡」
http://www.google.com/...
長野県埋蔵文化財センターは29日、
同県中野市の柳沢遺跡で出土した弥生時代の武器型祭器「銅戈(どうか)」について、
7本のうち6本は大阪湾周辺、1本は九州を中心に見つかっている形に近いと発表した。
大阪湾型と九州型の銅戈が同時に出土するのは全国で初めて。
同センターは青銅祭器の分布の見直しを迫られる発見、としている。
銅戈7本は長さ22~36センチ。
うち長さ34センチの1本は刃に刻まれた
「樋(ひ)」と呼ばれる溝の形などから九州型と判断した。
近畿以東での発見は初めて。
ほかの6本は大きさは違うが、いずれも大阪湾型で、初期の形に近いという。
銅戈は紀元前2世紀ごろ製造され、紀元前後に埋納されたとみられるという。
◎朝日新聞 2008年2月29日
http://www.asahi.com/...
◎Google検索「柳沢遺跡」
http://www.google.com/...
淡路市黒谷・五斗長(ごっさ)地区の「垣内(かいと)遺跡」を発掘調査した
淡路市教委は二十七日、見つかった弥生時代後期前半(五〇-一二〇年ごろ)の
竪穴住居跡一棟が「鉄器の工房跡の可能性が高い」と発表した。
弥生時代後期後半(一二〇-二一〇年ごろ)の
本位田権現谷A遺跡(佐用町)で確認済みの工房跡をさかのぼる、
県内最古の発見例とみられる。
専門家は「淡路が西からの鉄器製作技術の伝来ルートでは」と注目する。
垣内遺跡は、標高約二百メートル、播磨灘から約三キロの丘陵にあり、
市教委が昨年五月中旬から約一ヘクタールを発掘調査。
同時代の竪穴住居跡六棟を確認した。
市教委によると、うち直径約九メートルの一棟で、鏃(やじり)など鉄器五点
▽砥石(といし)二点▽金属をたたく用途の石六点-が出土。
床に強い火をたいたことを示す赤茶色の焼け跡が五カ所あり、
鉄器加工製作用の「半専業的な工房跡の可能性がある」という。
日本考古学が専門で、調査を指導した芦屋市教委文化財担当主査
森岡秀人さん(56)は「近畿地方の鉄器工房跡は、
弥生時代後期後半以降が中心。
鉄器製作の先進地である九州・中国四国地方から技術が広がる際、
淡路が伝来ルートとなった可能性を示しており興味深い」と話している。
◎神戸新聞 2008年2月28日
http://www.kobe-np.co.jp/...
◎Google検索「垣内遺跡」
http://www.google.com/...
うきは市浮羽町三春の三春工業団地造成に伴う市教委の発掘調査で、
縄文時代後期(3500年前)や弥生時代中期(2000年前)ごろの集落跡、
古墳時代後期(6世紀ごろ)とみられる古墳が見つかった。
竪穴住居跡28か所、円墳45基に上り、
古墳時代に「磐井の乱」(527年)を起こした北部九州の豪族
「筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)」との関連を指摘する専門家もおり、
集落形成の変遷をたどるうえで貴重な史料となりそうだ。
市教委は昨年6月から予定地(12ヘクタール)内の3ヘクタールを調査。
竪穴住居跡のうち縄文後期とみられる8か所は円形で直径約6メートル。
弥生中期ごろの20か所は長方形で縦約7~2メートル、横約5~2メートル。
それぞれ炉跡があり、石斧(せきふ)や石包丁などの石器、土器なども出土した。
円墳は直径10メートル前後で、
横穴式石室内は赤色顔料で朱塗りした跡があった。
鉄剣、切子玉、須恵器なども出土した。
現地を視察した元第一経済大教授の田中正日子(まさひこ)さん(72)(日本古代史)は
「筑後国風土記の逸文には、磐井が豊前に敗走したとの記述がある。
うきは市付近を通ったとも推測でき、同時代の古墳群が発見されたことで、
さらに調査すれば、磐井と関連する新発見があるかも知れない」と話している。
市によると、工業団地には自動車関連企業を誘致したい考えで、
発掘調査は今月中ごろ終え、下旬には本格着工し、6月の完成を目指す。
◎読売新聞 2008年2月16日
http://kyushu.yomiuri.co.jp/...
◎Google検索「うきは 造成地」
http://www.google.com/...

2歳の頃に買ってもらったプラレール!v ^^

【ご注意】
親がこんな環境を作り出したら、子は僕のように鉄オタになりますよ!笑
◎Google検索「プラレール」
http://www.google.com/...
鉄道, 鉄道写真5 | 記事URL | コメント (3) | トラックバック (0)

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影
------------------------------------------------------
湘南モノレール株式会社は、
神奈川県でモノレール路線を運営する鉄道会社である。
懸垂式モノレール鉄道設備機器の導入・拡販のために、
三菱重工業、三菱商事、三菱電機、京浜急行電鉄などが出資し、
1966年(昭和41年)4月に設立した。
懸垂式モノレールの技術契約を持っていた
日本エアウェイ開発からの引き継ぎの事情もあり、
設立時は東京都港区浜松町に東京事務所を構えていた。
新幹線0系の開発に関わったことで知られる鉄道車両技術者・三木忠直は、
江の島線敷設にあたって技師長として技術部門の指揮を執り、
開業後もしばらく事業に携わっていた。
江の島線開業当初には、会社規模に応じた沿線宅地開発や
マンション(3棟)の建設を行ったほか、1975年ごろには、
仙台市営モノレール南西線構想のあった宮城県仙台市太白区の茂庭台で
不動産開発を行うなどで、現地に不動産営業所を構えていたこともある。
ただし現在不動産事業は縮小している。
日本民営鉄道協会に、モノレール専業事業者としては唯一加盟している。
湘南モノレール江の島線は、
神奈川県鎌倉市の大船駅から藤沢市の湘南江の島駅まで結ぶ
湘南モノレールのモノレール線である。
一般には会社名で湘南モノレール(しょうなんモノレール)と呼ばれる。
元々、京浜急行バスや江ノ電バスなどの路線バスでしか
アクセスできなかった沿線地域は、当路線の開業以降、
鎌倉の古都保全地域とは趣を異にする「都市地域」として開発が進んだ。
富士見町・湘南町屋両駅界隈が主に準工業地域として、
湘南深沢駅界隈が商業・住宅地域としての価値を高めたほか、
西鎌倉~目白山下間の各駅界隈では昭和初期からの別荘地であったものが
高級分譲地として再整備されるなど開発が進んだ。
そのため、右肩上がりで用務客の利用が増加し、
開業以来の2両編成では利用者を捌ききれなくなり
1975年には現在の標準組成である3両編成が登場している。
利用者の動向も1978年には観光需要が3割、
通勤・通学需要が7割であったものが、
現在では利用者の9割が通勤・通学需要に達する。
ラッシュ時は激しく混雑し、富士見町~大船間においては
神奈川県下の鉄道路線では混雑率が
最悪の部類ともいえる195%にまで達する電車もある。
それゆえ生活路線としての性格が強く、
鎌倉・江ノ島の観光に向けた交通機関として
観光ガイドなどの書籍で取り上げられることはあまりない。
大船駅と湘南江の島駅には駅員が常駐し、自動改札機も設置されている。
それ以外はすべて無人駅で、原則として乗務員が集札を行っている上、
トイレや売店、時計などはない。
軌道は旧京浜急行自動車専用道路の上空に沿う形で設置されている。
この道路は元々大船と江の島海岸を結ぶ私鉄線計画が頓挫したために
取得済み用地を日本初の自動車専用道路として整備した私道であった。
モノレール建設当時は京浜急行電鉄による所有・運営がなされており、
軌道敷設にあたってはこの形態が有利に働いたようである。
なお、現在では鎌倉市と藤沢市に売却され、一般市道に移行している。
この道路には最小曲率半径25m、最急勾配88‰という険しい箇所もある。
懸垂式モノレールの性能的には、
この道路に完全に沿う形での敷設も可能であったが、
車両の馬力、平均速度の観点を加味し最急勾配を74‰、
最小曲率半径を本線100m、駅構内50mとした。
途中2か所に道路上空を外れてトンネルを設けた箇所も存在する。
鎌倉山ロータリー付近を通らずにトンネルを通したのは
当時の付近住民の反対によるものである。
湘南モノレール500形電車は、
1988年(昭和63年)に登場した湘南モノレールの懸垂式モノレール車両である。
湘南モノレール初の冷房車となった。
1991年(平成3年)まで増備が行われ、3両編成6本(18両)が在籍する。
車体はアルミ合金製で、全車電動車編成である。編成定員は228名。
最初の編成が落成してから20年を経過しているが、
2007年(平成19年)11月末以降、
順次5000系に置き換えられて廃車される予定である。
2008年(平成20年)1月下旬には553編成が営業を離脱した。
(Wikipediaより)
------------------------------------------------------
◎Google検索「湘南モノレール」
http://www.google.com/...
------------------------------------------------------
鉄道, 鉄道写真5 | 記事URL | コメント (5) | トラックバック (1)