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2008年3月

2008.03.28

食彩ガーデン

たまに湘南台店へタコスを食しに行きます。

◎食彩ガーデン
  http://www.hotpepper.jp/...

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さかえや

水炊き系のコースを食しました。各料理の味もなかなか○でした。

◎さかえや
  http://www.mizudaki-sakaeya.jp/

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CRAFT BEER BAR

全国各地の地ビールが堪能できるバー。withカレーピクルスで。

◎Google検索「CRAFT BEER BAR」
  http://www.google.com/...

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勝烈庵

横浜の超定番店。ソースはたっぷりとどうぞ。しじみ汁が名脇役。

◎Google検索「勝烈庵」
  http://www.google.com/...

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萬福楼

西安刀削麺にハマりました。藤沢でちょっくら中華という時には・・。

◎Google検索「萬福楼 藤沢」
  http://www.google.com/...

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すうぷ&Soup

パン包みのスープを食しました。ファミレスの延長みたいな雰囲気の店。

◎Google検索「すうぷ soup」
  http://www.google.com/...

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居酒屋 端花

アトレ大井町6F。海鮮系丼のランチを食しました。

◎アトレ大井町
  http://www.atre.co.jp/oimachi/

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2008.03.27

キハ110系

山梨県・小淵沢駅にて平成19年8月に撮影 / キハ111形+キハ112形

山梨県・小淵沢駅にて平成19年8月に撮影 / キハ112形

長野県・野辺山駅にて平成19年8月に撮影 / キハ112形

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キハ110系気動車は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の一般形気動車。

老朽化した旧型気動車の取り替えと
ローカル線における輸送サービスの改善を目的に製造され、
釜石線と山田線でキハ110形量産先行車がそれぞれ営業運転を開始した。

気動車であるが、車体と台車の軽量化を図り、
高出力直噴式エンジンと効率の高い液体変速機との組み合わせにより
電車並みの性能を有している。
ブレーキシステムも電車で実績のある応答性の高い電気指令式を使用しており、
在来車とは連結器の形状が異なっているため、併結はできない。

急勾配の多い山岳路線ではこの車両の導入に伴い速度向上による時間短縮が実現した。
さらに冷房装置を搭載したことにより、夏期に於ける旅客サービスの向上が図られている。

ワンマン運転に対応するため、客用ドアは半自動式であり、
ドアの横に開閉スイッチが設置されている。
また、ドアチャイムも搭載されている。

キハ110形・キハ111形・キハ112形 100番台

普通列車用として設計された。
セミクロスシートであるが、クロスシートはキハ100形と異なり、
ワンマン運転時の旅客の動線や混雑時を考慮して横2+1列配置となっている。
磐越東線、小海線、花輪線、山田線、岩泉線、気仙沼線で使用され、
磐越東線、小海線、気仙沼線ではワンマン運転も行われている。

(Wikipediaより)

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走行音

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◎Google検索「キハ110」
  http://www.google.com/...

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エンデバー号が飛び立った後

土井さんをはじめ、STS-123クルーの皆さんお疲れ様でした。

IMAGE DATA ©James N. Brown

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2008.03.26

オハ35

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149

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国鉄オハ35系客車とは、
日本国有鉄道の前身である鉄道省が製造した20m級鋼製客車の形式群である。

なお、「オハ35系」の呼称は、国鉄が定めた正式の系列呼称ではなく、
1939年より製造が開始されたスハ33650形(のちのオハ35形)と
同様の車体を持つ客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。

1929年より製造が開始された鉄道省制式20m級鋼製客車である
スハ32系客車の改良型として、1930年代後半より各車種が製造された。

構造面では従来600mm幅が標準であった側窓が1,000mm幅を標準とするように変更され、
台枠などを中心に過剰な補強材の省略が進んで軽量化され、
かつ従来リベット接合が多用されていたその組み立てについても溶接への移行が進むなど、
スハ32系の基本構造に従いつつ全面的な設計のリファインが実施されているのが特徴である。

ただし、その量産が戦前と戦後にまたがって長期に渡って継続された結果、
その車体構造は製造時期によって大きく異なったものとなった。

特に戦後形では大きな変化が見られ、1946年度発注分はほぼ戦前と同一の仕様であったが、
以後は製作の容易化などを目的として順次仕様変更が行なわれ、
車端の出入台部で屋根が絞られ3面折妻となっていたものが、
外妻アーチ桁の設計を変更することなどで出入台部の絞りを残したままで切妻化され、
さらに長桁の絞りがなくなり雨樋が直線になるなどの変化が生じた。

なお、本系列については戦前には1941年度まで北海道向けが製造されず、
窓の開閉時に開口部を最小限に抑えられ防寒の点で有利な狭窓の
スハ32・スハフ32形(二重窓仕様)が継続生産されたが、
以後はこれに代えて本系列が北海道向けとして製造されている。

台枠は当初スハ32系の本州向け最終グループ(1938年度発注分)の構造を継承する
シンプルな設計の溝形鋼通し台枠である
UF38(2軸ボギー車)・51(3軸ボギー車)が採用されたが、
その後車載蓄電池の設計変更による取り付け座の小型化で
UF116(2軸ボギー車)などに変更されている。

オハ35形

オハ35系の中心的存在となる三等座席車で、1939年から1943年と
1946年から1948年にかけて日本車輌、日立製作所、汽車製造、
川崎車輛、田中車輛→近畿車輛、梅鉢車輛→帝国車輛、新潟鐵工所、
それに小倉、大宮、大井、鷹取の各国鉄工場で合計1,301両が製造された。

丸屋根のスハ32形(スハ32800形)の暖地向け最終製造ロットである
1938年度製造グループの基本構造を踏襲し、
前位出入台寄りには便所、洗面所が設置されており、座席定員は88名であるが、
従来座席1脚ごとに600mm幅の狭窓が配されていたのが2脚ごとに、
つまり対面式のボックス1つごとに1,000mm幅の広窓を配するように変更されて
眺望が改善されたのが最大の変更点である。

大井川鐵道のSL列車に使用される客車として、
オハ35が6両・オハフ33が2両使用されている。
オハ35 149は小倉工場製造のノーヘッダー試作車、
オハ35 857とオハフ33 469は戦後製の半切妻車であるが、
それ以外の車両は戦前製の標準的な仕様の車両である。
国鉄時代に電気暖房を装備していた車両もあるが、
大井川鐵道では暖房用電源の供給源がないため使用されておらず、
番号も原番号に戻されている。

岡山県の柵原ふれあい鉱山公園に、
片上鉄道廃線まで使用されていたホハフ3002(旧オハ35 1227)が
公園内の短い区間だが他の車両と共に動態保存されている。

岩手県盛岡市の岩手県営交通公園に、
オハ35 2001が保存されている。これはオハ35形のトップナンバーである。

東海旅客鉄道飯田線中部天竜駅構内の佐久間レールパークに、
オハ35 206・オハフ33 115の2両が保存展示されている。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「オハ35」
  http://www.google.com/...

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梅 020

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梅 019

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梅 018

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梅 017

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梅 016

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2008.03.25

梅 015

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南蔵本遺跡 弥生前期「堰」が出土

徳島市南蔵本町の南蔵本遺跡で、杭(くい)や板で作られた
弥生時代前期前半(紀元前5~4世紀)の堰(せき)が出土したと、
県埋蔵文化財センターが18日、発表した。

一帯で行われていた水田稲作で使われた灌漑(かんがい)施設の一部とみられ、
同センターは「川の水を分水する工夫が読み取れ、
県内の水稲農耕の歴史を考える上で興味深い資料」としている。

県立中央病院の改築事業に伴い、昨年4月から調査。
杭は67本が見つかった。
ヒノキ製で、太さ3~5センチ、長さ30~70センチ。
自然の川跡に15~20センチ間隔で並べて打ち込まれていた。

板は6枚が出土。最大で幅20センチ、長さ40センチ、厚さ1・5センチ。
杭と杭の間にはめ込んだ状態で見つかった。

堰は幅2・1メートルで、川の流れに直交する格好で設置されており、
流量や水の流れる方向を変え、近くの水田に水を引いていたとみられる。
何度か補修や改修した形跡も確認されたが、洪水で埋没したらしい。

弥生時代前期の堰としては、同遺跡の西隣りに位置する
庄・蔵本遺跡(徳島市)の例に次いで県内2例目。
同時期の堰は全国でも十数例しか確認されていないという。

南蔵本遺跡では昨年、弥生時代前期前半の儀礼に用いられた木製弓が出土している。

◎読売新聞 2008年3月19日
  http://www.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「南蔵本遺跡」
  http://www.google.com/...

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2008.03.21

不弥国 <邪馬台国までの道程>

【Podcasting その1】

【Podcasting その2】

【Podcasting その3】

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【邪馬台国】

西暦200年代(3世紀:弥生時代後期~古墳時代前期)に
小国ばかりだった倭国で30国を従えていたとされている国。
邪馬台国があったとされる根拠は、
中国の歴史書・『三国志』魏書東夷伝倭人条に残されています。

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【邪馬台国までの道程】

帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
投馬国
邪馬台国

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【魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より】

東の不弥国まで百里である。
官を多模(たも)、副を卑奴母離(ひなもり)という。
千余家ある。

南の投馬国(つまこく)に水行20日で着く。

[引用:武光誠さんの著書「邪馬台国と大和朝廷」(平凡社新書)より]

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【不弥国の場所候補(1) 福岡県飯塚市】

飯塚市立岩遺跡

◎飯塚市 - Wikipedia
  http://ja.wikipedia.org/...

◎飯塚市歴史資料館
  http://www.city.iizuka.lg.jp/...

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【立岩遺跡群】

・現在は福岡県飯塚市という地名だが、その昔は筑前国穂波郡(ほなみぐん)であった。
 ∟言語学者・長田夏樹氏は洛陽古音で不弥はホム(ホミ)と発音すると提示。
・弥生時代中期後半頃(1世紀頃)に栄えた遺跡とみられる。
・石器生産をしていた場所の跡(石包丁を中心に石剣、石戈(せっか)などを量産)
 ∟奴国などと鉄器や青銅器の取引?
   (石包丁出土比率:福岡26.7%、朝倉25%、大分県宇佐15%との調査結果もあり)

立岩・堀田甕棺遺跡から発見されたもの
・前漢鏡6面、銅矛1本、鉄剣1本、鉄の鉇(やりがんな)1本、砥石2個などをおさめた甕棺1基
・青銅器、鉄矛、鉄刀子(てつとうす)、ガラス管玉などをおさめた甕棺8基
 ∟ほぼ完全な形の人骨も出土。(右腕にはゴホウラ貝の腕輪が14個)
 ∟原形を残した管玉の装身具が出土。
・遺骸だけがおさめられた甕棺31基
・甕棺計40基(首長1人+身内+役人か?)
・鉄剣数本(この当時は貴重なため、有力者がいた証と考えられる)
・青銅器よりも鉄器が多い
・使用形跡から鏡は1代の首長のためだけに用意されたものと考えられる。
・鉄剣、鉄矛に絹の布が付着していた。
 ∟鉄剣の柄の部分等(最初に確認された国産の絹)
 ∟魏志倭人伝にも養蚕が行われていたことが記されている。

▼案内板より
この地点が昭和38年・40年に調査された堀田甕棺群の遺跡です。
この付近一帯が弥生時代の遺跡であることが
はじめて注意されたのは昭和8年です。
その後、遺跡、遺物の発見が相次ぎ、ついにはこの丘陵全体で
約2000年前の遺跡の所在が明らかとなりました。
しかもそれらの諸遺跡は何れも貴重な資料を提供して
弥生時代の研究に大きく貢献しました。
学者、研究者の関心も高まり、これらの遺跡群は総称して
「立岩遺跡」と呼ばれ世の注目を集めてきました。
特に立岩・堀田甕棺遺跡での調査の結果は、
過去30年にわたる立岩研究の総括的な結論に到達した感があります。
前漢鏡10面をはじめとする青銅器、鉄器、貝輪、ガラス製玉類を
集めたこの遺跡はまさしく立岩遺跡群の中心であり、
その内容は同じ頃、中国にも知られていた末盧国、伊都国、奴国にも
比類するものです。
堀田を中心とする立岩遺跡群の構成とその生活、文化は
日本の国家形成期の歴史を解明する上にもその学術的価値は
極めて高いとして出土品のすべてが昭和52年に一括して
国の重要文化財に指定されました。
市は立岩・堀田甕棺遺跡の現地を市指定史跡として保存し、
出土品は飯塚市歴史資料館で展示公開しています。
(飯塚市教育委員会)

◎Google検索「立岩遺跡」
  http://www.google.com/...

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡からの眺め(西側)

立岩・堀田甕棺遺跡からの眺め(西側)

立岩・堀田甕棺遺跡からの眺め(東側)

立岩・堀田甕棺遺跡 34号甕棺
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

立岩・堀田甕棺遺跡 前漢の銅鏡 10号甕棺出土
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

立岩・堀田甕棺遺跡 銅矛 10号甕棺出土
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

立岩・堀田甕棺遺跡 管玉 28号甕棺出土
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

飯塚市(立岩遺跡)含んだ広域地図 (引用:mapion)

立岩遺跡から上流(南)方面 (引用:mapion)
∟筑前国続風土記(江戸時代・元禄)には、
  『遠賀川の上、飯塚秋松まで船上る。
  又鞍手の境村の上は、豊前田川郡まで船上る。』とあり。
∟現在の遠賀川上流の様子(大七三会様サイトより)
  http://charider.cside2.com/...
∟南の朝倉市には「平塚川添遺跡」という大きな遺跡がある。
  http://www.amagiasakura.net/...

立岩遺跡から上流(南)方面 (引用:mapion)
∟律令時代(7世紀半ばから10世紀頃)には米ノ山峠を経る
  東西の官道が通っていた。
∟現在の米ノ山峠に向かう道の様子(虫と自転車、ときどきロボット様サイトより)
  http://kokuwa.air-nifty.com/...

立岩遺跡から下流(北)方面 (引用:mapion)

参考地図:mapion
http://www.mapion.co.jp/...

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【不弥国の場所候補(2) 福岡県糟屋郡宇美町】

光正寺古墳公園

◎宇美町 - Google検索
  http://www.google.com/...

◎宇美町立歴史民俗資料館
  http://www.rekishi-umi.jp/

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【光正寺古墳】

◎Google検索「光正寺古墳」
  http://www.google.com/...

古墳からの360度パノラマ写真 (↑写真クリックで拡大)

▼発掘調査と整備
光正寺古墳は戦後間もない1950年代初めに森貞次郎(もりていじろう)博士が、
墳丘の形状が古式古墳の形状をよくとどめているとして、
墳丘測量を行い、古墳の保護の必要性を指摘されていました。
宇美町では、1970年代から国・県の協力を受け町有化を進めてきた結果、
1975年に国指定史跡となりました。
光正寺古墳の保存整備のため、1996年から1998年までの3ヶ年で墳丘裾、
主体部の発掘調査を実施し、墳丘の規模、主体部の形状を確認しました。
そして、発掘調査の結果を基に1999年から2000年までの2ヶ年で復元整備を行い、
史跡公園として整備をいたしました。
墳丘は盛り土で保護し、築造当初の形状を再現しています。
しかし、本来は墳丘に葺石(ふきいし)が敷かれていましたが、葺石部分は復元せずに、
古墳周辺の芝生の広場と一体として利用できるように整備しました。
本来の墳丘や主体部の形状については、ガイダンス広場に1/5の大きさの
古墳模型で復元しています。
(案内板より)

1950年代の測量図

1963年頃の様子

発掘中の様子

葺石の出土状況

整備後の様子

古墳復元模型

▼光正寺古墳の特徴
築造年代は第1主体部から出土した土器が古式の土師器(はじき)であり、
福岡県内の前期古墳でも最古期に造られたもので3世紀後半に位置づけられます。
墳丘規模は全長約53m、後円部径約33mで糟屋郡内最大の前方後円墳であることから、
当時糟屋郡内を支配していたと思われる「不弥国」王の墓と考えられます。
(案内板より)

前方部

後円部

▼埋葬施設
埋葬施設は、後円部中央に第1主体部(築造当初の墓)を埋置(まいち)しています。
第1主体部は、大型の箱式石棺を川原石で囲んでいます。
石棺の石材は、能古島(のこのしま)の玄武岩や月隈丘陵(つきぐまきゅうりょう)の
緑色片岩(りょくしょくへんがん)、若杉山の滑石(かっせき)などが使用されています。
第2主体部は、第1主体部の北東側に箱式石棺が築かれていました。
石棺は破壊されていましたが、発掘調査で石棺の石材には地元の砂岩(さがん)を
使用していることがわかりました。
第1主体部の南側では、第3主体部(割竹形木棺/わりたけがたもっかん)と
第4主体部(土器棺/どきかん)を、
また第1主体部西側に第5主体部(箱式石棺)を確認しました。
第1から第4主体部は、主軸を東西方向に整然と並べて築かれ、
頭位(とうい)は西に向けていたと推定されます。
これらに対し、第5主体部は南北方向に主軸を向けて造られています。
主体部の築造は、第1、2、3、4、5主体部の順に造られたようです。
(案内板より)

主体部の構造

宇美(光正寺古墳)含んだ広域地図 (引用:mapion)

宇美(光正寺古墳)からのルート例 (引用:mapion)

宇美(光正寺古墳)周辺広域 (引用:mapion)

参考地図:mapion
http://www.mapion.co.jp/...

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【不弥国の場所候補(3) 福岡県福津市津屋崎】

◎福津市
  http://www.city.fukutsu.lg.jp/

◎津屋崎町 - Wikipedia
  http://ja.wikipedia.org/...

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・各国の位置関係について、方位が反時計回りに約30~45度ほどズレていることから
 「奴国から東に不弥国」の表記を実際には「奴国から北東に不弥国」と解釈。
 距離は伊都国=奴国、奴国=不弥国である。
 不弥国から先は水行となる。
 以上の点などから、津屋崎の地が候補地として浮上。

・津屋崎説論者:笠井新也

・付近の有名な遺跡は今川遺跡。
 ∟わが国最古の青銅器は、北九州の福岡県の弥生時代前期初めの今川遺跡で発見された
   青銅の鑿(のみ)であるが、これは、もともと中国の東北部の遼寧省(りょうねいしょう)一帯に
   展開している遼寧式青銅剣と呼ばれるものの一部を再加工したものである。
   (広島県・府中町教育委員会ホームページより)

・参考:弥生時代の博多湾(古賀市の歴史さんより)
 http://www.koga.org/history/f03gishi.htm
 ∟こちら地図を見る限り、海の中道は繋がっていなかったことがわかる。

津屋崎を含んだ広域地図 (引用:mapion)

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・宮崎康平(みやざきこうへい)氏「まぼろしの邪馬台国」では、
 香椎から古賀の間に不弥国との説。
 ∟映画 『まぼろしの邪馬台国』
 ∟古賀市立歴史資料館

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【邪馬台国までの道程・各国レポート】

帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
投馬国
邪馬台国

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歴史ラジオ

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2008.03.19

江ノ電(江ノ島電鉄) 600形 in 扇屋

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

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600形電車は、江ノ島電鉄(入線当時は江ノ島鎌倉観光)に在籍していた電車。

1970年(昭和45年)に東急デハ80形87~90を譲り受け、
当線での規格に適合するよう改造したものである。
この4両は旧番104~107であったものを玉川線廃止時に改番し、
世田谷線用として残存していたが、連結2人のり改造が実施されず、
運用本数的にも余剰であったことから譲渡対象となった。
事実、これら4両が世田谷線分離後に稼動する機会は
ごく稀であったといわれている。

前面形態は当初、東急時代の面影を色濃く残していたが、
1970年代末から腰板に前照灯、尾灯を移設し、
前面、側面戸袋窓のHゴム支持化などが行われ、
さらに前面車掌側の窓がアルミサッシ2段化されるなどの改造が繰り返された。

800形と共に全長が連接車より長く、重連対応化改造は実施されなかった。
ただし、回送列車として600形が
300形等の連接車を牽引する運用がされていた時期もある。

また実現はしなかったものの、
主電動機供出で休車となっていたデハ100形105、110を
付随車化して中間に連結し、3両編成化する計画は存在した。

塗装は当初、クリーム+朱の通称「赤電」塗装であったが、
その後、緑+クリームの江ノ電標準塗装となっている。
理由は相模湾に近い所を走行し、また鋳鉄制輪子の鉄粉を浴びて
錆や汚れが目立ちやすかったからといわれている。

1000形の増備に伴い、本形式は早期の廃車が計画されていた。
603-604編成は1983年(昭和58年)に廃車されたが、
残る601-602編成も1985年(昭和60年)に
運用終了記念として「赤電」塗装となるが(前面の塗り分けが登場時とは異なっていた)、
実際に同編成が廃車されたのは1990年(平成2年)であった。
その間に再度標準色に戻されている。
これは、諸事情により800形を先に廃車させたためである。

1990年の廃車後、601号は東京都世田谷区の
東急世田谷線宮の坂駅脇の宮坂区民センターに静態保存された。
車体は東急ライトグリーン1色とされた一方で、
江ノ電の車両番号表記と社名表記(EER)が残されている。
傍には簡単な説明書きが置かれており、昼間時は車内に入ることもできる。
主要機器は取り外されている。
保存状態は今のところ良好であるが、錆なども目立っており、今後が心配である。
世田谷線に在籍した玉川線時代からの在来車は全て廃車解体されているため、
保存車は本車と川崎市宮前区にある電車とバスの博物館で展示されている
デハ200形204のみである。

また、編成を組んでいた651号(1988年に602号から改番)は、
神奈川県藤沢市の和菓子店「扇屋」に前面のみ保存されている。
内部は和菓子製造の作業場となっており、
運転台機器などは一切撤去されている。

電車正面のサボ受けには、「江ノ電もなか」と表記されたサボが入れられている。
「扇屋」では江ノ電の車両を模した「江ノ電もなか」が販売されている。
「扇屋」は江ノ島駅 - 腰越駅間にあり、走行中の車内からでも見ることができる。
なお、「江ノ電もなか」の箱は標準塗装の他に「赤電」がある。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「江ノ電 600」
  http://www.google.com/...

◎Google検索「江ノ電 扇屋」
  http://www.google.com/...

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東急世田谷線 デハ70形

東京都・東急世田谷線沿線にて撮影(デハ78)

東京都・東急世田谷線沿線にて撮影(デハ72)

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デハ70形電車は、かつて東京急行電鉄の軌道線に在籍した電動車である。

東京急行電鉄(大東急)発足後、初の玉川線向け新車として、
デハ60形(旧東横71号形)をベースに、1942年から川崎車輛で新造したが、
計画では8両のところ、戦時中の資材不足のため6両製作したところで製造停止となり、
終戦後の1946年に残る2両が完成した。

1969年5月11日の玉川線・砧線廃止後は残存線の世田谷線車両として残り、
塗色は鉄道線と同じライトグリーン一色となった後、
東横車輛電設で施工した1983年までの更新で、張り上げ屋根、前面を対称4枚窓化、
連結面の2枚窓化、ノーヘッダー、窓のアルミサッシ化を施し、
デハ80形に似た形状となった。

この際、連結器間長(いわゆる全長)や断面寸法、窓寸法、窓割りの一部は元のままだが、
車体長、とりわけバンパー部分を除く長さを延長しており、
その他各部の造作が原型とは著しく異なる部分が多いことから、
種車から流用したのは台枠中梁と台車枕梁程度で、
車体そのものは殆ど新造されたものとみられている。

とはいえ、デハ80形とともに、内装は木造ニス塗りの壁面と板張り床を保ち、
非冷房と相まって東京都内の鉄軌道では著しく異彩を放っていた。

1990年代に入り、鉄道線初代3000系列の全廃により発生した
シールドビーム前照灯、42芯ジャンパ連結器等を装備し、
前後して制御電源を架線電源からバッテリーに変更(HL→HB化)等を行った。
特に前照灯は、前面上部の取付式白熱灯であったものが、
前面腰板に2個となり、前面の印象に大きな変化をもたらした。

さらに、台車は東急車輛製造が新規製造したTS332に交換し、
駆動装置は平行カルダンとした。
この台車は本来、阪堺電気軌道モ701形用の台車をベースとした
660mm車輪を持つ低床台車であり、高床車体に合わせてスペーサーを挿入して使用した。

これら幾多の改造により長年使用していたが、高床ステップ付き、冷房無しといった
旅客サービス上のネックはそのまま存置したため、これらの点は改善することなく、
300系 の新造に伴い、他の在来車と共に2000年末までに全車を廃車した。
台車は交流誘導電動機に交換・整備のうえ、300系に流用した。

多くは雪が谷検車区上町班の検修庫内で解体したが、
作業の手順上、78号は85号とともに東急車輛製造に搬入した。
しかしこれも後に解体したため、現存車はない。

78号はアメリカのトロリーミュージアムから引き取り打診があったが、
当時の諸般事情から断念されたといわれる。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「デハ70」
  http://www.google.com/...

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2008.03.18

奈良・桜井“3兄弟古墳”、形状ほぼ判明

邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡にある
日本最古級の前方後円墳3基について、
県立橿原考古学研究所と桜井市教委が相次いで発掘調査を行い、
墳丘の形状や規模がほぼ判明したと5日、発表した。

全長100メートル前後の大型古墳3基は、
女王・卑弥呼の時代に“兄弟古墳”のように相次いで築かれていたことを確認。
邪馬台国の謎に迫る貴重な資料となりそうだ。

3基は勝山、矢塚、東田(ひがいだ)大塚の各古墳。
南北方向に200~300メートル間隔で並んでおり、
近くには全長280メートルで卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳や、
纒向石塚古墳もある。

今回の調査で、勝山古墳では墳丘の南側で前方部の一部と周濠を確認。
古墳の形はこれまで、地形などから前方部が細長い長方形とみられていたが、
東田大塚古墳と同様に三角形状に広がっており、
全長は115メートルと推定されるという。
東田大塚古墳では前方部の一部が確認され、従来の説より20メートル以上長い
全長120メートル前後と分かった。

また、矢塚古墳では前方部の先端が見つかり、全長93メートルと判明。
しかし、前方部は他の2基より極端に短く、
古墳の誕生直後は設計プランが統一されていなかったことをうかがわせるという。

調査では、3基が3世紀半ばから後半に相次いで築造されていたことも改めて確認。
当時の政権構造を知るうえでも興味深い資料になるという。

菅谷文則・滋賀県立大学教授(考古学)の話「卑弥呼をめぐる論争は、
箸墓古墳を基準に考えられていたが、その直前に100メートル級の大型前方後円墳が
次々と築造されていたことが明らかになった。
3基まとまっての調査は、邪馬台国や古墳発生期を探る上で大きな成果だ」

◎産経新聞 2008年3月6日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「纒向遺跡」
  http://www.google.com/...

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下池田遺跡で集落を発見

遺跡の発掘調査で、弥生時代の集落から見つかる遺構として
竪穴式住居や土坑(どこう)、溝などが挙げられる。
大阪府文化財センターが昨年十一月から行ってきた
「下池田遺跡」(岸和田市下池田町)の発掘調査でもそうした遺構が見つかり、
このほど現地公開された(写真)。

ここから約四キロ北の和泉市に、
弥生時代の拠点集落史跡として有名な池上曽根遺跡がある。
下池田遺跡は、それに次ぐ大規模な集落として注目されている。

池田遺跡では、三十年ほど前から小学校建設などに伴う発掘調査が行われている。

これまで、弥生時代中期から後期(約二千年前)の住居跡、
円形に溝が巡る墓「円形周溝墓」、たくさんの土器が入る溝、
井戸や川といった遺構が見つかっている。

今回の発掘調査は、府営岸和田下池田住宅の建て替えに先立って行われたもの。
新たに見つかったのは古墳時代の溝や井戸、弥生時代の住居跡三棟、
同時代の土器が数多く入る溝、それに土器を利用した棺(ひつぎ)「土器棺」が二つだ。
同時に、弥生時代の石器や木製農耕具、
古墳時代に使われていた土師(はじ)器や須恵器も見つかった。

こうした遺物について同センターの職員は
「集落が別の場所に引っ越しする際に、身軽になるために捨てた
“家財道具”と考える人もいる」と話す。

遺構は基本的に新しいものによってつぶされる。
今回の調査でも、遺跡の大部分が近代の水田や昭和初期に行われていた
れんが用粘土の採掘によって削り取られていた。

また、土器の数多く入った溝を境として、住居跡などの遺構が集中する区域と、
あまり遺構のない区域とに分かれていることが確認された。
「池上曽根遺跡と同様の状況だ。この溝は集落を区画するための溝と考えられ、
環濠(かんごう)集落が営まれていた可能性もある」と同センター職員は指摘する。

今後、この集落の性格や広がりを知るため、出土遺物の検討が進められる。

◎世界日報 2008年3月10日
  http://www.worldtimes.co.jp/...

◎Google検索「下池田遺跡」
  http://www.google.com/...

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鈴鹿市岸岡山で大規模な集落跡が出土

鈴鹿市岸岡町の岸岡山で市考古博物館が進めていた発掘調査で、
弥生時代の大規模な集落跡が出土した。
付近は有数の住宅団地だが、
約1800年前にも山の南斜面に弥生人の住まいが立ち並んでいた。

民間企業の宅地開発に伴い、昨年11月から約3500平方メートルを調べると、
一辺3-6メートルの正方形をした43棟の竪穴住居跡が出てきた。
「足の踏み場もないくらいの建物跡」(同博物館)で、
ほとんどが弥生後期のもの。建て替えたり、住居を広げたりした跡もあった。

この遺跡を含む開発をめぐっては、地元のひばりが丘自治会が昨年10月、
900人余りの署名を集め、市に「反対」を要望した。
市は「住民の意見として受け止めた」(市都市計画課)としているが、
事業者には11月7日に開発許可を出した。

現地説明会後、「出土物は博物館で保管し、住居跡は取り壊される見通し」(同博物館)。

◎中日新聞 2008年3月8日
  http://www.chunichi.co.jp/...

◎Google検索「岸岡山 遺跡」
  http://www.google.com/...

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西京極遺跡で竪穴住居跡、17棟発見

京都市右京区西院安塚町の西京極遺跡の発掘調査で、
弥生後期-古墳中期の竪穴住居が17棟見つかった。
長期間継続して住居跡が展開しており、調査した市埋蔵文化財研究所は
「西京極遺跡が桂川左岸の拠点的な集落だった可能性が一層強まった」と話している。

マンション建設に伴い1月下旬から370平方メートルを調査した。

住居跡は円形と方形があり、一辺(直径)4・5-8メートルの比較的大きなもの。
弥生後期が13棟、古墳前期が3棟、中期が1棟あった。
弥生後期の住居跡からは、白い粘土の塊も多数見つかっており、
土器の制作工房だったとみられる。

一帯は川に挟まれた微高地で、これまでにも、
同時期の住居跡や方形周溝墓が多数見つかっているほか、
奈良時代の役所跡とみられる大規模建物も確認されている。

これまで古墳前期の住居跡が確認されていなかったが、
今回みつかったことで、長期間継続した集落だったことが分かった。
市埋文研では「とても住みやすい場所だったのだろう。
桂川の水運で他地域との交流も活発だったとみられ、
奈良時代に役所が設置される基盤が
弥生時代から整えられていたのではないか」と話している。

◎京都新聞 2008年3月7日
  http://www.kyoto-np.co.jp/...

◎Google検索「西京極遺跡」
  http://www.google.com/...

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弥生時代はいつ始まった?

◎朝日新聞 2008年3月6日
  http://www.asahi.com/...

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元岡遺跡群で動物の骨50点出土

福岡市教委は3日、発掘調査をしている同市西区の元岡遺跡群から、
イノシシやシカ、イルカなど動物の骨50点余りが出土したと発表した。

同遺跡では弥生時代の祭祀(さいし)用とみられる
多くの土器や銅鐸(どうたく)が確認されており、骨が見つかった動物について、
同市教委は祭祀の場で食べたか供え物にしたと推測。
「当時の祭祀の光景を想像できる発見」と説明している。

今回出土したのは、イノシシの下あごの骨をはじめ、
シカの肩甲骨や角、イルカの骨、クジラの骨で作った加工品など50数点。
いずれも弥生時代の中期後半から後期の骨とみられる。

状態はよく、福岡市内で弥生時代の動物の骨が
良好な状態で見つかったのは博多区の雀居(ささい)遺跡以来という。

元岡遺跡内では既に、小銅鐸や「丹塗(にぬ)り磨研(まけん)」と呼ばれ、
表面に顔料を塗って作った土器なども確認。

福岡市教委は、これらが祝いや儀式で多く使われたことが分かっているため、
弥生時代に元岡遺跡付近で祭祀が繰り返された可能性があるとみている。

同市教委は「五穀豊穣(ほうじょう)を願う農耕の祭りや儀式が
長期間にわたって行われ、遺跡群はその中心地だったとも考えられる」と話している。

◎2008年3月4日 西日本新聞
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「元岡遺跡」
  http://www.google.com/...

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2008.03.17

柳沢遺跡で「九州型」「大阪湾型」銅戈が同時出土

長野県埋蔵文化財センターは29日、
同県中野市の柳沢遺跡で出土した弥生時代の武器型祭器「銅戈(どうか)」について、
7本のうち6本は大阪湾周辺、1本は九州を中心に見つかっている形に近いと発表した。

大阪湾型と九州型の銅戈が同時に出土するのは全国で初めて。
同センターは青銅祭器の分布の見直しを迫られる発見、としている。

銅戈7本は長さ22~36センチ。
うち長さ34センチの1本は刃に刻まれた
「樋(ひ)」と呼ばれる溝の形などから九州型と判断した。

近畿以東での発見は初めて。

ほかの6本は大きさは違うが、いずれも大阪湾型で、初期の形に近いという。
銅戈は紀元前2世紀ごろ製造され、紀元前後に埋納されたとみられるという。

◎朝日新聞 2008年2月29日
  http://www.asahi.com/...

◎Google検索「柳沢遺跡」
  http://www.google.com/...

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垣内遺跡で兵庫県内最古の鉄器工房か

淡路市黒谷・五斗長(ごっさ)地区の「垣内(かいと)遺跡」を発掘調査した
淡路市教委は二十七日、見つかった弥生時代後期前半(五〇-一二〇年ごろ)の
竪穴住居跡一棟が「鉄器の工房跡の可能性が高い」と発表した。

弥生時代後期後半(一二〇-二一〇年ごろ)の
本位田権現谷A遺跡(佐用町)で確認済みの工房跡をさかのぼる、
県内最古の発見例とみられる。
専門家は「淡路が西からの鉄器製作技術の伝来ルートでは」と注目する。

垣内遺跡は、標高約二百メートル、播磨灘から約三キロの丘陵にあり、
市教委が昨年五月中旬から約一ヘクタールを発掘調査。
同時代の竪穴住居跡六棟を確認した。

市教委によると、うち直径約九メートルの一棟で、鏃(やじり)など鉄器五点
▽砥石(といし)二点▽金属をたたく用途の石六点-が出土。
床に強い火をたいたことを示す赤茶色の焼け跡が五カ所あり、
鉄器加工製作用の「半専業的な工房跡の可能性がある」という。

日本考古学が専門で、調査を指導した芦屋市教委文化財担当主査
森岡秀人さん(56)は「近畿地方の鉄器工房跡は、
弥生時代後期後半以降が中心。
鉄器製作の先進地である九州・中国四国地方から技術が広がる際、
淡路が伝来ルートとなった可能性を示しており興味深い」と話している。

◎神戸新聞 2008年2月28日
  http://www.kobe-np.co.jp/...

◎Google検索「垣内遺跡」
  http://www.google.com/...

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うきはの造成地で円墳45基を発見

うきは市浮羽町三春の三春工業団地造成に伴う市教委の発掘調査で、
縄文時代後期(3500年前)や弥生時代中期(2000年前)ごろの集落跡、
古墳時代後期(6世紀ごろ)とみられる古墳が見つかった。

竪穴住居跡28か所、円墳45基に上り、
古墳時代に「磐井の乱」(527年)を起こした北部九州の豪族
「筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)」との関連を指摘する専門家もおり、
集落形成の変遷をたどるうえで貴重な史料となりそうだ。

市教委は昨年6月から予定地(12ヘクタール)内の3ヘクタールを調査。
竪穴住居跡のうち縄文後期とみられる8か所は円形で直径約6メートル。
弥生中期ごろの20か所は長方形で縦約7~2メートル、横約5~2メートル。
それぞれ炉跡があり、石斧(せきふ)や石包丁などの石器、土器なども出土した。

円墳は直径10メートル前後で、
横穴式石室内は赤色顔料で朱塗りした跡があった。
鉄剣、切子玉、須恵器なども出土した。

現地を視察した元第一経済大教授の田中正日子(まさひこ)さん(72)(日本古代史)は
「筑後国風土記の逸文には、磐井が豊前に敗走したとの記述がある。
うきは市付近を通ったとも推測でき、同時代の古墳群が発見されたことで、
さらに調査すれば、磐井と関連する新発見があるかも知れない」と話している。

市によると、工業団地には自動車関連企業を誘致したい考えで、
発掘調査は今月中ごろ終え、下旬には本格着工し、6月の完成を目指す。

◎読売新聞 2008年2月16日
  http://kyushu.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「うきは 造成地」
  http://www.google.com/...

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プラレール自慢

2歳の頃に買ってもらったプラレール!v ^^

【ご注意】
親がこんな環境を作り出したら、子は僕のように鉄オタになりますよ!笑

◎Google検索「プラレール」
  http://www.google.com/...

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2008.03.10

湘南モノレール 500形

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影

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湘南モノレール株式会社は、
神奈川県でモノレール路線を運営する鉄道会社である。

懸垂式モノレール鉄道設備機器の導入・拡販のために、
三菱重工業、三菱商事、三菱電機、京浜急行電鉄などが出資し、
1966年(昭和41年)4月に設立した。

懸垂式モノレールの技術契約を持っていた
日本エアウェイ開発からの引き継ぎの事情もあり、
設立時は東京都港区浜松町に東京事務所を構えていた。

新幹線0系の開発に関わったことで知られる鉄道車両技術者・三木忠直は、
江の島線敷設にあたって技師長として技術部門の指揮を執り、
開業後もしばらく事業に携わっていた。

江の島線開業当初には、会社規模に応じた沿線宅地開発や
マンション(3棟)の建設を行ったほか、1975年ごろには、
仙台市営モノレール南西線構想のあった宮城県仙台市太白区の茂庭台で
不動産開発を行うなどで、現地に不動産営業所を構えていたこともある。
ただし現在不動産事業は縮小している。

日本民営鉄道協会に、モノレール専業事業者としては唯一加盟している。

湘南モノレール江の島線は、
神奈川県鎌倉市の大船駅から藤沢市の湘南江の島駅まで結ぶ
湘南モノレールのモノレール線である。
一般には会社名で湘南モノレール(しょうなんモノレール)と呼ばれる。

元々、京浜急行バスや江ノ電バスなどの路線バスでしか
アクセスできなかった沿線地域は、当路線の開業以降、
鎌倉の古都保全地域とは趣を異にする「都市地域」として開発が進んだ。

富士見町・湘南町屋両駅界隈が主に準工業地域として、
湘南深沢駅界隈が商業・住宅地域としての価値を高めたほか、
西鎌倉~目白山下間の各駅界隈では昭和初期からの別荘地であったものが
高級分譲地として再整備されるなど開発が進んだ。

そのため、右肩上がりで用務客の利用が増加し、
開業以来の2両編成では利用者を捌ききれなくなり
1975年には現在の標準組成である3両編成が登場している。

利用者の動向も1978年には観光需要が3割、
通勤・通学需要が7割であったものが、
現在では利用者の9割が通勤・通学需要に達する。

ラッシュ時は激しく混雑し、富士見町~大船間においては
神奈川県下の鉄道路線では混雑率が
最悪の部類ともいえる195%にまで達する電車もある。

それゆえ生活路線としての性格が強く、
鎌倉・江ノ島の観光に向けた交通機関として
観光ガイドなどの書籍で取り上げられることはあまりない。

大船駅と湘南江の島駅には駅員が常駐し、自動改札機も設置されている。
それ以外はすべて無人駅で、原則として乗務員が集札を行っている上、
トイレや売店、時計などはない。

軌道は旧京浜急行自動車専用道路の上空に沿う形で設置されている。
この道路は元々大船と江の島海岸を結ぶ私鉄線計画が頓挫したために
取得済み用地を日本初の自動車専用道路として整備した私道であった。

モノレール建設当時は京浜急行電鉄による所有・運営がなされており、
軌道敷設にあたってはこの形態が有利に働いたようである。
なお、現在では鎌倉市と藤沢市に売却され、一般市道に移行している。

この道路には最小曲率半径25m、最急勾配88‰という険しい箇所もある。

懸垂式モノレールの性能的には、
この道路に完全に沿う形での敷設も可能であったが、
車両の馬力、平均速度の観点を加味し最急勾配を74‰、
最小曲率半径を本線100m、駅構内50mとした。

途中2か所に道路上空を外れてトンネルを設けた箇所も存在する。
鎌倉山ロータリー付近を通らずにトンネルを通したのは
当時の付近住民の反対によるものである。

湘南モノレール500形電車は、
1988年(昭和63年)に登場した湘南モノレールの懸垂式モノレール車両である。
湘南モノレール初の冷房車となった。
1991年(平成3年)まで増備が行われ、3両編成6本(18両)が在籍する。

車体はアルミ合金製で、全車電動車編成である。編成定員は228名。

最初の編成が落成してから20年を経過しているが、
2007年(平成19年)11月末以降、
順次5000系に置き換えられて廃車される予定である。

2008年(平成20年)1月下旬には553編成が営業を離脱した。

(Wikipediaより)

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走行音

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◎Google検索「湘南モノレール」
  http://www.google.com/...

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梅 014

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梅 013

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梅 010

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梅 009

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2008.03.07

ナロ80形 大井川鉄道

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / ナロ80 1

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / ナロ80 1

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / ナロ80 1

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / ナロ80 2

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / ナロ80 2

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大井川鐵道が保有するお座敷客車。

1980年に登場し、1986年に1両増備された。

1980年に登場したナロ80 1は、西武鉄道のサハ1516を種車として
同社新金谷車輌区で改造された車両であるが、
1986年に登場したナロ80 2は、西武鉄道から譲り受け、
312系の中間車として使用されていたサハ1426を種車としている点が異なる。

スイテ82形と同様、側面窓は2段窓である。

窓配置は全面的に変更されておらず、
元の客用扉を埋めた部分は単独で窓が配置されており、
片側にデッキを新設している。

デッキの反対側の車端部にはサービスカウンターが設置されている。

外部塗色は旧型客車に合わせたぶどう色2号であるが、
窓下の帯は二等車を示す青色となっている。

車内は片側に通路を寄せて、通路以外は畳敷きとなっている。
冷房は装備されておらず、窓下に平型の扇風機が装備されている。

形式の「80」は、1980年に登場したことにちなむものとされている。

定期運用はなく、イベント時や車両単位での貸切扱いでSL列車に連結される。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「ナロ80」
  http://www.google.com/...

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2008.03.06

梅 008

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梅 007

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梅 006

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梅 005

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梅 004

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梅 003

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梅 002

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梅 001

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2008.03.05

おもや平出酒店

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松本市下町会館

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白鳥写真館

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山崎歯科医院

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三代澤酒店

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スナック ロング

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信毎松本専売所

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蔦のアパート

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フェアレディ 240Z

フェアレディ 240Z

フェアレディ 240Z

フェアレディ 240Z

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1973年:HS30

'73第21回サファリラリー優勝車

フェアレディZ(S30)は、昭和44年(1969年)11月に2000シリーズが発表され、
2年後の1971年11月にそれまで北米向け輸出モデルだった240Zが追加されました。

240Zはハイパワーと優れた運動性を武器に海外ラリーで活躍、
1971年・1973年とサファリラリーで総合優勝を飾っています。

記念車は1973年優勝の1S・メッタ組のマシンです。

(案内板より)

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◎Google検索「フェアレディ 240Z」
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2008.03.04

ごう

串焼きと芋焼酎を気軽に楽しめる。芋の種類もマイナー系あり。

◎Google検索「ごう 元住吉」
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GINZ

Jazz好きが集う空間。ビッグバンドも可能なステージ。

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すし市場 いっこく

ランチが握り1.5人前で850円と、安いのになかなか。

◎Google検索「すし市場 いっこく」
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ピアンタ Pianta

貸し切りでもお世話になりました。

◎Google検索「ピアンタ」
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八吉 YAKICHI 数寄屋橋店

しっかりと個室で過ごせます。

◎Google検索「八吉」
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万豚記 ワンツーチ

チャーハンのボリュームは2人前あります。

◎Google検索「万豚記」
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ゆうなんぎい

1970年に創業の沖縄郷土料理の老舗。

◎Google検索「ゆうなんぎい」
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キリンシティ 横浜モアーズ

ランチタイム(13時過ぎ)は比較的空いており、仕事inカフェもできて○。

◎Google検索「キリンシティ 横浜モアーズ」
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2008.03.03

北山浦遺跡で建物跡などの遺構が出土

香川県高松市西春日町で発掘調査中の弥生時代中期の集落跡
「北山浦(きたやまうら)遺跡」では、円形の竪穴住居跡や
高床式倉庫とみられる建物跡などの遺構が鮮明な形で出土しており、
2000年以上前の人々の営みを垣間見ることができる。

同遺跡の発掘調査は、都市計画道路木太鬼無線の整備に合わせ、
昨年11月から実施。
周辺が粘土質のため、それぞれの遺構が他の遺跡と比べ、
鮮明な形で残っているのが特徴だ。

円形の竪穴住居跡は2棟確認。
うち1棟は火災にあったとみられ、
柱や屋根材、壁材などが焼けた状態で出土した。
さらに、住居床面の柱穴からは
弥生時代の住居跡としては珍しい柱材の木片も検出した。

また、高床式倉庫の可能性が高い掘っ立て柱の建物跡や
作業小屋とみられる長方形の建物跡など多数の遺構が出土。

当時、現地には川が流れていたことも判明し、
それに伴う堰(せき)などの遺構も見つかっている。

このほか、土器や石器なども多数出土し、
壷やかめなどでは弥生時代独特の模様も確認することができる。

◎四国新聞 2008年3月3日
  http://www.shikoku-np.co.jp/...

◎Google検索「北山浦遺跡」
  http://www.google.com/...

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大阪府立弥生文化博物館の状況

大阪府の4~7月の間の暫定予算を受け、
府立の施設で4月以降に開催される特別展や講座などの事業が
中止になる可能性が出てきた。

橋下徹知事は補助金・委託料を大幅に削減する方針で、
暫定予算では事業費を原則認めないためだ。

府は6月までに事業や施設について存廃を含めて見直しを進め、
8月以降の本予算をつける方針だが、
施設側は自前の工夫で当面をしのぐことになる。

弥生時代の資料の研究・展示を行う府立弥生文化博物館(和泉市)には
今月上旬、府教委から
「暫定予算になる。人件費と維持管理費以外は認められない」と緊急連絡が入った。

このため、4~6月に開催する予定だった
春季特別展「倭人がみた竜-竜の絵とかたち」は中止。

担当者が昨年4月から九州や東海地方の教育委員会を回り、
展示物の土器などを借りる段取りを進めてきたが、キャンセルの連絡に追われた。

同館を管理する財団法人・大阪府文化財センターによると、
昨年度は約1億6400万円(平成19年度)が府から委託料として支払われた。
8月以降の本予算で事業費が認められても事前の資料調査ができないため、
夏季の企画展、秋季の特別展とも中止せざるを得ない状況だ。

同館は「財政の問題なので仕方ない。1年間は館蔵資料を用いて
常設展示とは別の工夫をしていくしかない」という。

◎産経新聞 2008年2月23日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「弥生文化博物館」
  http://www.google.com/...

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萩之本遺跡で灌漑施設と水田跡出土

奈良県橿原市の萩之本遺跡で、
弥生時代前期(約2300年前)の精巧な
灌漑(かんがい)施設や水田跡などが見つかり、
県立橿原考古学研究所が14日、発表した。

約500メートル北の川西根成柿(ねなりがき)遺跡では、
同時期の環濠(かんごう)集落や橋の跡も出土。

稲作が中国大陸から伝わって間もないころから、
高度な技術で耕作が行われていたことを示す貴重な資料となりそうだ。

灌漑施設跡は川岸に長さ約10メートルにわたって設けられ、
長さ約1メートルのくいを数百本突き差した状態で見つかった。

水の出口をくいでせき止める構造で、
水を灌漑施設内にいったんためて水田に流すように工夫されていた。

近くでは、縦2.5メートル、横4メートルほどの水田跡約40枚が、
規則正しく並んだ状態で出土。

隣の水田に水が流れるよう、あぜ道の一部が切れていた。

当時は、広い地面を水平に保つ技術がなかったため、
小さな田を何枚も築いたとみられる。

一方、川西根成柿遺跡では集落を2~3重に囲む
環濠(幅約4メートル)が見つかり、集落は最大170メートルの規模と判明した。

最も外側の環濠の底では柱を2本埋め込んだ橋跡も出土。
集落の入り口と推定され、弥生前期の橋跡は全国的にも珍しいという。

同研究所は「稲作は、灌漑施設や栽培技術などがセットで
大陸から伝わった可能性もある」としている。

◎産経新聞 2008年2月14日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「萩之本遺跡」
  http://www.google.com/...

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金剛坂遺跡で三重県内最大級の大型墓跡を確認

明和町金剛坂地区に広がる「金剛坂遺跡」の発掘調査を進めている
明和町は13日、県内最大級とみられる弥生時代の方形周溝墓跡が、
遺跡中央の調査区から見つかったと発表した。

周辺からは弥生時代などの墓約25基の跡も密集して出土し、
同町は「地域でも重要な墓域だったと考えられる」としている。

墓跡は昨夏に始まった第7次調査の発掘現場で見つかった。

南北に分かれる調査区域のうち、
南調査区(約3300平方メートル)から弥生時代の方形周溝墓11基、
土坑墓10基などが密集して確認された。

方形周溝墓の中には、
溝の外縁部の一辺が約22メートルに及ぶ大型の墓もあり、
同時期の方形周溝墓では県内最大級という。

方形周溝墓は、正方形に溝を掘って土を盛り上げる大型の墓で、
地域の有力者を葬ったとみられている。

町斎宮跡課の中野敦夫文化財係長は
「埋葬された人骨や副葬品などは見つかってはいないが、
集落の首長など権力者の墓だった可能性もある」としている。

金剛坂遺跡は弥生時代から奈良時代までの遺構が確認されている複合遺跡で、
広さは東西約170-350メートル、南北約850メートル。

明和町などが昭和45年から発掘調査を進めている。

◎中日新聞 2008年2月14日
  http://www.chunichi.co.jp/...

◎Google検索「金剛坂遺跡」
  http://www.google.com/...

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室橋遺跡で用水路とみられる溝跡を発見

京都府南丹市八木町室橋の室橋遺跡で、
弥生時代後期から平安時代初期にかけて造られた
用水路とみられる溝跡などが見つかり、
13日、府埋蔵文化財調査研究センターが発表した。

「古くから力を尽くしてかんがいして水田耕作をしてきた人々の
営みがうかがえる。この地域の水利史を知る上で貴重な資料」としている。

溝跡は幅約3・5-約5メートル、深さ約1・5-2メートルの大溝が3本、
小さな溝が5本見つかった。
このうち、奈良時代後期から平安時代初期にかけて造られた
断面がV字状の大溝(幅約3・5メートル、深さ約1・5メートル)は
別のU字状の溝(幅約2・3メートル、深さ約0・4メートル)と合流し、
合流地点からは「西」と墨書された奈良時代の須恵器も出土した。

室橋遺跡の西側には、神護寺(京都市右京区)の復興に携わった
真言宗の僧、文覚(1139?-1203?)が村人に説いて築いたという
伝承のある文覚池がある。

さらに、同遺跡内を流れ、現在もかんがい用水として使われている
新庄用水も文覚が開削したという伝承が残っている。

同センターは、溝の役割の詳細は不明としながら、
「文覚の前の時代にもかんがい用の大規模な用水路が造られて
一帯が開発され、いったんこの用水路が荒廃した後で、
新庄用水の原型になる用水路が再び文覚の時代に
整備されたことが推測できる」としている。

同センターは、府道改良事業に先立って
2006年9月から室橋遺跡の発掘調査を実施。
これまでに弥生後期から平安後期の工房跡などの建物跡や
土錘(どすい)(漁網の重り)などが見つかり、
長期間営まれた南北約800メートル、
東西約300メートルの集落遺跡であることが分かっている。

今回は、遺跡中心部の南北約550メートルを調査し、溝跡のほか、
古墳時代中期の竪穴住居跡5基や、
奈良時代末期から平安時代初期の掘立柱建物跡も新たに見つかった。

◎京都新聞 2008年2月13日
  http://www.kyoto-np.co.jp/...

◎Google検索「室橋遺跡」
  http://www.google.com/...

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弥生の始まり、なぜ誤った? 東大研究室が検証

◎朝日新聞 2008年2月9日
  http://www.asahi.com/...

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野川神明社南遺跡で遺跡発掘

神奈川県川崎市宮前区野川の小泉一郎さんの敷地で、
弥生時代後期(約1800年ほど前)を中心とした遺跡が発掘された。
県下でも有数の規模だというこの遺跡は、
北側に野川神明社があることから、「野川神明社南遺跡」と呼ばれることになった。

今回発掘が行われたのは、
川崎市教育委員会が埋蔵文化財包蔵地(遺跡)として周知していた場所。
有料老人ホーム建設計画が持ち上がったことから、
記録保存を目的とした発掘調査を実施することとなった。
昨年の12月26日から作業が開始され、
これまでに竪穴住居跡や土器が出土している。

「大きさや残り方、集中の度合いを見ると、県下でも有数の規模」というのは、
発掘を請け負っている(株)盤古堂の取締役主席研究員である小池聡さん。

これまでの調査で約40棟の竪穴住居跡が確認されており、
このうち28棟が弥生時代後期のものだという。

中には長径が10メートルをこす大型の住居跡もあった。
また、利用目的が現段階では不明な土製品なども発見されており、
質・量ともに貴重な遺跡だという。

この遺跡の重要性は規模だけではない。
この土地の北側には7世紀後半に建立されたといわれる
南関東屈指の古刹である影向寺や、古代武蔵国橘樹(たちばな)郡の
郡衙(郡の役所)の推定地とされている
千歳伊勢山台遺跡などの遺跡が集中している。

「影向寺や千歳伊勢山台遺跡は、集落の中心となるもの。
野川神明社南遺跡との関係があるものと考えられ、非常に興味深い」と小池さん。
また、昭和54年には野川神明社の境内で
弥生時代後期の墓地であることを示す「方形周溝墓」も発掘されている。

広範囲にわたるこの地域の調査を通じて、
弥生時代以降の当時の生活ぶりがより深く分かるのではと期待される。

宮前区観光協会は、
この発掘を機に「宮前区古代ミステリー発見イベント」と題した
遺跡見学会や講座を開く。

◎タウンニュース 2008年2月8日
  http://www.townnews.co.jp/...

◎Google検索「野川神明社南遺跡」
  http://www.google.com/...

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両迫間日渡遺跡 熊本県内最古の水田跡発見

玉名市教委は7日、同市玉名の両迫間日渡(りょうはざまひわたし)遺跡から
弥生時代前期(約2300年前)の水田跡が見つかったと発表した。
市教委によると、県内で見つかった水田跡としては最古という。

同遺跡は菊池川右岸の玉名平野中央部に位置し、
水田跡は九州新幹線新玉名駅(仮称)建設予定地の南約100メートルの地点。
新駅周辺整備に伴い、市教委が昨年4月から発掘調査をしていた。

市教委は深さ約2.3メートルの地点で木製のくい約170本が
2つの列をつくっているのを確認。
列の長さは約7メートルで間隔は約50センチ。
列と列の間に土などを盛って水田に
泥が進入するのを防ぐ畦(あぜ)にしていたという。

周辺からは弥生時代前期の土器片も複数見つかった。
今後は土壌分析を行って稲の花粉が含まれていないかなどを調べる。

2005年には、ここから東約200メートルで
弥生時代後期(約1800年前)の水田跡も見つかっている。

市教委文化課は「県内で稲作がはじまったルーツを探る
貴重な手掛かりになる」としている。

◎西日本新聞 2008年2月8日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「両迫間日渡遺跡」
  http://www.google.com/...

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上信電鉄 200系 300形

群馬県・高崎駅にて撮影

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上信電鉄株式会社(じょうしんでんてつ)は、
群馬県に路線(上信線)を有する鉄道会社である。

余地峠を越えて佐久鉄道(現:小海線)の羽黒下駅まで延伸する計画を立て、
社名を上信電気鉄道に改称したが、
佐久方面へのバス路線を開設しただけで(後に廃止)、
鉄道の延伸は実現しなかった。

自社発注車は、かつてタブレット交換を行っていた名残で
運転席が右側にあるのが特徴的である。
また西武鉄道とは親子会社ではない
(会社成立時はむしろ東武鉄道との関係が深かった)が、
所沢工場製の車両が在籍していたり、
西武の旧型車を譲り受けて使用しているなどの関係がある。

300形電車は、上信電鉄上信線の通勤形電車で
200系のクハ(制御車)として製造された自社発注の新造車である。

1964年に東洋工機で製造された1次車(クハ301~302 。側面は1段上昇式)と、
1967年に西武所沢工場で製造された
2次車(クハ303~304。側面は2段窓で高運転台)が存在する。

1次車はデハ200形と違って前面非貫通構造であるが、
これは増結車は常に下仁田側に連結されることから、
高崎側に運転台を持つ本形式には貫通路を必要としないためである。

2次車はデハ200形とまったく同じ車体で落成したため
前面貫通構造である。

車体の基本塗装はサーモンピンク系
(上信では「コーラルレッド」と呼ぶ)1色である。
かつてはコーラルレッドに細い濃紺の帯を巻いていたが、
塗装省力化の際に廃止された。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「上信電鉄」
  http://www.google.com/...

◎Google検索「上信電鉄 200」
  http://www.google.com/...

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2008.03.02

寝台特急 なは

大阪府・高槻駅にて昭和63年3月17日に撮影

鉄友からもらった写真

鉄友からもらった写真

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なはは、九州旅客鉄道(JR九州)が京都駅~熊本駅間を
東海道本線・山陽本線・鹿児島本線経由で運行する寝台特急列車。
2008年3月15日のダイヤ改正に伴い、2008年3月14日の運行を以って廃止予定。

関西圏対鹿児島本線沿線を結ぶいわゆる「関西ブルートレイン」の一員である。
「あかつき」と京都駅~鳥栖駅間を併結運転で運行されている。

従来「かもめ」として新大阪駅~西鹿児島駅間を運行されていた
昼行気動車特急列車を独立させて運転開始。
列車名として沖縄の新聞社が公募した「なは」の名称を与えられる。

名称の由来は、上にある通り、
沖縄の新聞社が沖縄の本土復帰を願い公募したものであるが、
運行開始当初はアメリカ占領下に置かれていた沖縄県那覇市が名称由来の地となる。

また、経由地・目的地に依拠しない地名を列車名に使う列車でもあるが、
鹿児島港で船に乗り継ぐことによって
関西方面から沖縄へのアクセスの一端を担っていたという経緯もある。

ただし、1972年に沖縄が本土復帰してから30年以上経過していること、
運転区間が熊本まで短縮されて那覇からはより一層遠くなったことから、
名称として「なは」は不適切ではないかという意見も少なからずある。

また、「あかつき」との併結運転開始以来、
一部の鉄道ファンからは2つの列車名を組み合わせ「なはつき」と呼ばれる。

国鉄・JRの定期特急列車の中で、
客車・気動車・電車のすべての動力方式が用いられた愛称は
ほかに「かもめ」・「はつかり」があるが、
夜行列車(しかも客車・電車の両方)まで含めて用いられたのは「なは」のみである。
これは上記の愛称制定の事情から、
対象となる列車の運用を変更して愛称が使われ続けたことが影響している。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「寝台特急 なは」
  http://www.google.com/...

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EF65 1001

神奈川県・戸塚駅~大船駅間にて撮影

◎Google検索「EF65 1001」
  http://www.google.com/...

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2008.03.01

クイーン・エリザベス2 (QE2)

大さん橋にて(神奈川県横浜市) 2007年3月6日入港

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▼横浜市提供写真より



まだ夜が明けて間もない頃に姿を現しました



みなとみらいのビル群と共に朝日を浴びて。



今回で20回目の入港となります。



左のアマデア号は昔の飛鳥号です。
飛鳥号時代は、頻繁に横浜で見かけることがありましたが、
現在はヨーロッパ・バルト海を中心に活躍しているため
2007年の横浜への入港はこの日のみ。



QE2 船内の様子



QE2 船内の様子
 


QE2 船内の様子
 


QE2 船内の様子
 


QE2 船内の様子
 


船内の様子

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クイーン・エリザベス2号(-2世号とも、RMS Queen Elizabeth 2もしくはQE2)は、
キュナード・ライン社が保有するクルーズ客船で、20世紀後半を代表する豪華客船である。

名前は、イギリスの女王エリザベス2世ではなく、
先代のクイーン・エリザベス号の後継であることにちなむ。
そのため、名称が2(Two)であってII(The Second)ではない。

船名の前のRMSとは郵便物の輸送に用いられる船につけられる
Royal Mail Shipという意味であり、RMSを冠する事は名誉な事とされる。

1969年に就航し、2004年にクイーン・メリー2号に後を譲るまでは
キュナード・ライン社を代表する船であった。

本船の就役に先立ち1967年には先代のクイーン・メリー(81,237総t)が、
1968年には先代のクイーン・エリザベス(83,673総t)が退役していたため、
就役時の総トン数69,053tはフランス客船フランス(1962年就役,66,343総t)を抜いて
世界最大の客船であった。

主に大西洋横断クルーズに使用されたが、しばしば世界一周クルーズを行ない、
日本にも1975年3月5日神戸港のポートターミナルQ1バースへの初入港以来、
何度か寄航している。

1982年に勃発したフォークランド戦争時にはイギリス海軍に徴用され、
同海軍の輸送艦として使用された経験もある。
その際にはイギリスを代表する客船ということもあり、
もしアルゼンチン軍の攻撃により撃沈された際には、
国家の威信を傷つけイギリス軍の戦意喪失にもつながりかねないことから、
あえて戦闘地域には近づかなかったものの、
この際に内外装が大きく傷んだことから、その後改修を受けている。

1987年には動力を蒸気タービンからディーゼル電気推進へ全て更新する大改装を受けた。
この際キャビンの増設工事も行ない総トン数が7万tを超えた。

数少ない遠洋航海の客船の生き残りで、
パナマ運河を通過するため全幅32 mと細長い線形であり、
優美と表現されることもある。
そのため、クルーズ船として使うのなら若干不便なところがある。

度重なる改装によって船内がごちゃごちゃとしており、
老朽化から来る不具合も散見される。

遠洋航路時代の伝統から、サービスはモノクラスが基本なクルーズ船にあって、
部屋の等級によって利用できるレストランが違うのがサービス面の特徴で、
そのためベルリッツ・クルーズガイドでは複数のレーティングを保持している。

2009年に客船としては引退し、ドバイで海上ホテルとなる予定。
キュナード・ラインの親会社カーニバルは2007年10月10日に、
2010年就役予定の新クルーズ客船の建造を計画しており
これが次代のクイーン・エリザベスと命名されると発表している。

新クイーン・エリザベスはクイーン・メリー2の同級船ではなく、
クイーン・ヴィクトリアの同級船で総トン数95,000t程度となる模様。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「クイーン エリザベス 2」
  http://www.google.com/...

◎with Cameraさんより
  http://blog.goo.ne.jp/taro-x/...

◎のりものマニアのカメラ日記さんより
  http://blogs.yahoo.co.jp/superexpress3021/...

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