現在の国際宇宙ステーション

先日、きぼう船内実験室も取り付けられ更に拡張されました。
ちなみに2005年8月の国際宇宙ステーションは↓ こちら。

最終的には、↓ このようになる予定です。
だいぶ先が見えてきたかな。

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先日、きぼう船内実験室も取り付けられ更に拡張されました。
ちなみに2005年8月の国際宇宙ステーションは↓ こちら。

最終的には、↓ このようになる予定です。
だいぶ先が見えてきたかな。

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甕棺墓(かめかんぼ)の遺構が確認され
中国の史書「魏志倭人伝」に記述がある「末盧国(まつろこく)」の王墓と特定された
唐津市の桜馬場遺跡で、直径が最大1・3センチのガラス製管玉7点が新たに見つかった。
弥生時代のものとしては国内最大級の直径とみられ、
同遺跡で昨年出土した管玉のほぼ2倍。
唐津市教委は「大きさが異なる大小2種類の管玉発見は手厚い埋葬の証しで、
遺跡が王墓であることを強く補強する資料」と注目している。
今回出土した7点は直径0・9-1・3センチ、長さ2・6-3・8センチ。
うち最も大きい管玉は直径1・3センチ、長さ3・8センチだった。
王墓遺構内の土砂を精査する中で確認した。
出土場所と表面の風化の程度から、ほかの副葬品とともに
弥生後期前半(1世紀後半-2世紀前半)に埋葬されたと考えられる。
製造時期や生産地などは調査中だが、
弥生時代最大級の環壕(かんごう)集落「吉野ケ里遺跡」の確認例では、
長さは6・81センチと今回の管玉より長いものがあるが、直径は最大で0・97センチ。
同教委は「これまでの出土例と比べても、特異の形状をしており、
外国との交流で得た可能性もある」とし、成分分析など詳しい調査を進める。
今回、昨年までに見つかったものと同型の巴形銅器1点も出土。
多様な管玉や銅器類が副葬されていたことで、
同教委は「相当の権力を持っていたことがうかがえる」と見ている。
◎佐賀新聞 2008年6月27日
http://www.saga-s.co.jp/...
◎Google検索「桜馬場遺跡」
http://www.google.com/...
県埋蔵文化財センターは26日、県内最古の墳丘墓、
梅田萱峯(かやうね)墳丘墓(琴浦町梅田)で、
棺(ひつぎ)を囲むように掘られた五つ目の柱穴を確認したと発表した。
また、埋蔵されたのは、厚さ約7センチの板を組み合わせた長さ約2メートル、
幅約65~80センチの木棺だった可能性が高いことも分かった。
副葬品は出土しなかった。
墳丘墓は、およそ2000年前の弥生時代中期に作られたとみられ、
島根県出雲市の国史跡、西谷3号墓よりも約200年さかのぼる。
周囲に石を張り巡らす形式や形状から日本海沿岸で見られる
「方形貼石(はりいし)墓」とされる。
柱穴は直径60~90センチ、深さ70~90センチ。
柱は祭祀(さいし)のために立てられたとみられ、
棺を埋蔵した後で棺を囲むように柱穴が掘られた。
柱を立てた後に更に土を盛り、その後、柱を抜いた跡が確認できた。
墳丘墓構築の過程や墓上祭祀についての貴重な資料になりそうだ。
◎毎日新聞 2008年6月27日
http://mainichi.jp/...
◎Google検索「梅田萱峯墳丘墓」
http://www.google.com/...

実はコーヒーは嫌いです。
眠れなくなるので・・。
でも今日は元々眠れなかったので、
久々にコーヒーを飲んでみることにしました。
(なんだその理由??)
巷ではマックのコーヒーがグゥ~と言われていると
風の噂で聞きました。
ん?風の便り・・か?。
そんなわけで、初めて
プレミアムロースとアイスコーヒーを注文。
うわっ、オイラのPCバカだなぁ
プレミアムロース と アイスコーヒー と分けやがった。
正式には、プレミアムローストアイスコーヒーです。^^
ちょっとプレミアムロースも食べてみたいけど。笑
この前、電車の中の広告を見たときに
“何も入れなくてもおいしい” みたいなキャッチがつけられていたのを思い出し、
アイスコーヒーにはガムシロを少し入れる派なのですが
ブラックで飲んでみました。
うん、なかなかイケるね。
コーヒー苦手な自分でも
そんな自分がブラックでもOKOK!
と、やや機嫌を良くしていたときに衝撃的な出来事が。(効果音:巨大音量で♪ジャーン)
一緒に買ったマックグリドルのソーセージマフィンを齧ったら
ほぉ・・カジるってこういう漢字なんだ。驚
話続けます。
カジったら、
「あまくなーーい」 (発音:切れてなーい風に ^^)
そうなんです。
グリドルではなく、ただのソーセージマフィンだったのです。
もう事務所に持ち帰ってきてしまい、今さら替えてもらうわけにもいかないし・・
オーマイガァ。
久々にグリドルの甘ーい世界を楽しみにしていたのに。
ということで、コーヒーのフタを開けてガムシロをドバっ。
マフィンをカジリながら甘いコーヒーを飲んで
脳内で何とかグリドルを食べているんだ、グリドルを食べているんだ、と
変換しながら食してみました。
それにしても、カップの柄がなんでピカチューなんだろ。
プレミアム度が消えるよなぁ。
まさか顔でカップを選ばれたのか。(←被害妄想気味・・汗)
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お知らせ状

もしかして、ぐっさんの書?

NTT Communication

0033

大きいので、畳んで1カット
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プラチナ・ラインに申込みをしたら
“ぐっさんデザイン・エコバッグ”なるものが送られてきました。^^
つい先日もギフトカード1000円分が送られてきたばかり。
妙にサービス精神がありますね。
・・って、あんまり釣られてもいけないですかね?笑
ぐっさんのデザインとのことですが、どのような魂でデザインしたのだろう?
とマジな突っ込みは止めといて
このエコバッグの使い道を考えてみよう。
さすがに買い物袋として使うのには抵抗あるしなぁ~。
実はかなり大きいです。
ちょうど野球盤ぐらいかな。(わかりにくいって?!笑)
かといって、もう家には野球盤はないし・・
ん?待てよ、そういえば結局、うちの親は野球盤を買ってくれなかったんだ。
トホホ。涙
と、そんな話はいいとして、
使い道、使い道。
そうだ・・クリーニングを出すときの袋として使おう。
うん、よし決定。
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静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・新金谷駅付近にて平成19年9月に撮影

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・大井川鐵道車内にて平成19年9月に撮影

静岡県・大井川鐵道車内にて平成19年9月に撮影

静岡県・大井川鐵道車内にて平成19年9月に撮影

静岡県・大井川鐵道車内にて平成19年9月に撮影
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16000系電車は、近畿日本鉄道の特急形車両。
狭軌線である南大阪線に初めて登場した特急用車両。
1965年(昭和40年)2月に竣功。
同年3月18日から阿部野橋-吉野間で営業運転を開始した。
観光シーズンに運用されていた
モ5820形による「かもしか号」の代替としての位置づけである。
Mc(運転台付電動車)-Tc(制御車)の2両編成を基本とし、
丸みをおびた車体断面で車体幅は2,740ミリ。
主要機器は6000系と同一のものを使用しており、主電動機は三菱電機製135kW。
ただし主制御器は南大阪線で初めての抑速制動付きとした。
11400系のデザインをベースとしているが、車体の裾絞りが曲面となっているほか、
屋根高さも低い。車販準備室はMcに、トイレはTcに設けられていた。
1977年(昭和52年)までに2両編成8本(16両)と、
1974年(昭和49年)に中間車のMとT(付随車)を挟んだ
4両編成1本(4両)の計20両が製造された。
性能は6000系に準じており、起動加速度2.3km/h/s、
平坦線釣合速度は125km/h、33‰勾配時の釣合速度は71km/hである。
1977年より特急標識が、増解結時に支障を来さない
ホームベース型のものに取り替えられた(16009Fのみ最初からその標識)。
1995年から座席モケットの張替えや、
デッキ増設(16007F~16009Fは座席モケット、デッキ、化粧版更新のフル更新改造、
16005Fと16006Fは座席モケット交換のみの簡易更新改造で
近鉄特急の中では唯一デッキ無しの車両である)、
Mc車の連結面寄り側面扉と車販準備室を撤去等の更新工事を実施した編成もある
(ただし間接照明と正面方向幕と側面方向幕は設置されなかった)が、
後継の16400系が製造されたため、2連4本が運用から撤退した。
また、方向板も1990年に英文入りに変わったが、2004年秋以降は、
運転席内に行き先カードが差込みできる方式に変更されている。
同時に「回送」と「大阪阿部野橋」のカードが制作されている。
南大阪線における特急の車内販売廃止後は自動販売機が設置されていたが、
現在は廃止されている。
このうちの3本は大井川鐵道に譲渡され、
塗装もそのまま大井川鐵道16000系として大井川本線で各駅停車で運用されている。
前面の「特急」の文字が変更され、ワンマン化改造に伴う最前部1列の座席の撤去と
トイレ・洗面所・車販準備室の封鎖を実施した以外は
ほぼ近鉄時代そのものの状態で運用されている
(16003Fは座席のリクライニング機能もそのまま使用できる)。
大井川鐵道では最高級の設備を有している車両であり、
当初は主に電車急行用として使用されていたが、
2003年に電車急行の運転が中止されて以降は同線の各駅停車の主力として活躍している。
2005年1月には16004Fが廃車となったが、
他社譲渡されず16000系のなかで初めて解体されている。
(Wikipediaより)
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◎Google検索「近鉄 16000」
http://www.google.com/...
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鉄道, 鉄道写真6 | 記事URL
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野生ではなく、人に飼われたネコ(イエネコ)の骨が、
長崎県壱岐市(壱岐島)のカラカミ遺跡から見つかり、
奈良文化財研究所などの鑑定の結果、紀元前1世紀ごろの弥生時代中期のもので、
出土したイエネコの骨としては最古であることがわかった。
文献などからイエネコの伝来は8世紀に、
経典などをネズミの害から防ぐため遣唐使が大陸から持ち帰ったと考えられていたが、
約800年さかのぼる。
穀物を守るため大陸から運ばれて来たとみられ、家畜史研究の貴重な資料となる。
カラカミ遺跡は弥生時代中期以降の環濠(かんごう)集落。
九州大学が2004~07年度にイノシシ、魚、イヌなどの骨と一緒に
ゴミ捨て場から発掘した動物骨を同研究所埋蔵文化財センターの
松井章・環境考古学研究室長らが鑑定した。
見つかったネコの骨は1歳半~2歳で脛(けい)骨、大腿(だいたい)骨など12点。
野生のヤマネコより骨や関節が小さく、形状が現在のイエネコと酷似し、
当時、壱岐島にヤマネコがいた形跡がないことからイエネコと断定。
脛骨を放射性炭素年代測定などで調べた結果、約2100~2200年前とわかった。
文献では、平安時代の「日本霊異(りょうい)記」に死者が
ネコになってよみがえる8世紀の話があり、
同時代の「源氏物語」「枕草子」にもかわいがられたネコが登場するなど、
ペットとして飼われるようになっていた。
しかし、これまでイエネコの骨の最古の出土例は、
神奈川県鎌倉市の千葉地東遺跡など鎌倉時代(13世紀)の
遺跡2か所で確認されているだけだった。
◎読売新聞 2008年6月22日
http://kyushu.yomiuri.co.jp/...
福岡県宗像市は21日、同市田熊2丁目で発掘調査を進めていた
弥生時代の「田熊石畑遺跡」の墳墓から、同時代中期ころ(約2200年前)の
青銅器の細形銅剣4本と銅戈(どうか)1本が出土したと発表した。
同市文化財係は「1つの墳墓から銅剣、銅戈合わせて5点が
一度に出土したのは全国的にも初めて」としている。
銅剣は長さ27‐43センチ、銅戈は長さ24センチで、武器として実用的な細形。
性別は分からないが頭骨とともに深さ約80センチの土中で見つかった。
近くから装飾品の翡翠(ひすい)製珠(たま)、碧玉製管玉(くだたま)も発掘された。
墳墓は南北に縦2メートル、幅70センチ、高さ80センチで、
木棺墓か土壙(どこう)墓かは断定できない。
国内でこれまで1つの墓から複数の武器形青銅品が出土したのは、
福岡市早良区の「吉武高木遺跡」と
福岡県古賀市の「馬渡(まわたり)束(そく)ケ浦(うら)遺跡」で、
銅剣や銅戈、銅矛など計4点の出土が最多だった。
九州歴史資料館の西谷正館長は「1人の墓から5本の銅剣、銅戈が出土したことは、
宗像の地域に相当有力な首長が存在したことを裏付けており貴重だ」と話している。
◎西日本新聞 2008年6月21日
http://www.nishinippon.co.jp/...
◎Google検索「田熊石畑遺跡」
http://www.google.com/...
高知県香美市土佐山田町楠目にある伏原遺跡で、
弥生時代後期末(2~3世紀)の小児用の土器棺が
15基見つかったと20日、同県埋蔵文化財センターが発表した。
同遺跡は山間部にある遺跡で、
周辺には同時代の竪穴式住居跡が多数みつかった「ひびのき遺跡」などがある。
今回の土器棺群は、住居地域から約200メートル離れたところに、
円形状の墓域として設置。長さ約30センチから80センチの土器棺がみつかった。
同センターでは「乳児や幼児の埋葬習慣が
この時代にはすでに定着していたことを示す貴重な資料」としている。
◎産経新聞 2008年6月21日
http://sankei.jp.msn.com/...
◎Google検索「伏原遺跡」
http://www.google.com/...
鈴鹿市十宮(とみや)町で市考古博物館が進める
「八重垣神社遺跡」の発掘調査で、複雑な模様が描かれた
弥生時代前期のつぼが出土した。
「沈線紋(ちんせんもん)系土器」と呼ばれ
「ほぼ完全な形に復元できたのは県内初」(同博物館)。
つぼは高さ約16センチで、煮炊き用に使われたとみられる。
弥生土器は「模様入りが少ない」とされるが、へらのような道具で線が描かれ、
縄文土器の特徴をとどめる。
博物館によると、県内では永井遺跡(四日市市尾平町)で破片が出土している。
発掘は神戸中学校の移転、新築に伴い、
今年2月から校舎やプールが建設される約6000平方メートルで実施。
ほかに弥生時代の方形周溝墓や高坏(たかつき)、かめなども多数見つかった。
当時は鈴鹿川が網の目状に流れる湿地帯だった場所で、
未発掘部分も多く残っている。
担当者は「九州で始まった稲作が、最初に広がった地域の一つで、
納所遺跡(津市)に匹敵するような大規模集落跡では」としている。
◎中日新聞 2008年6月20日
http://www.chunichi.co.jp/...
◎Google検索「八重垣神社遺跡」
http://www.google.com/...
高松市西春日町の石清尾(いわせお)山(標高233メートル)の尾根に築かれた
国内最古級の前方後円墳・鶴尾神社4号墳(3世紀後半)が、
近くの斜面のがけ崩れなどで崩壊の危機にさらされているとして、
市教委は崩れた斜面に盛り土をするなど修復工事を行う。
鶴尾神社4号墳は、安山岩で墳丘を築く四国特有の
「積石(つみいし)塚」を中心とする古墳12基が集まった
石清尾山古墳群(3世紀後半~7世紀)の一つで、全長40メートル、前方部の幅10メートル。
前方後円墳としては古墳時代前期初頭と最も古い時代に築造され、
1989年、国史跡に指定された。
ところが、石清尾山の一部は約30年前まで採石場として利用され、
4号墳周辺も掘削された形跡があり、後円部も削られて3分の1が失われている。
さらに、2006年5月にはがけ崩れが発生し、
このまま放置すれば崩落個所が広がり、墳丘全体が崩れる可能性が高まった。
市は修復に向け、今年度当初予算に980万円を計上し、
現地を調査したうえで設計を仕上げる。
必要なら周辺の用地買収も検討するほか、
盛り土には他の工事現場から出た残土を利用し、積石の復元も図る。
市教委は「貴重な古墳なので失うわけにはいかない。
時間はかかるが、できる限り復元したい」としている。
◎読売新聞 2008年6月16日
http://www.yomiuri.co.jp/...
◎Google検索「鶴尾神社4号墳」
http://www.google.com/...
京都市西京区と京都府長岡京市にまたがる縄文時代晩期の集落跡「上里遺跡」から、
炭化した弥生前期のコメ3粒が見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が10日、発表した。
弥生前期のコメは大阪や奈良でも出土例があり、
関西ではそれらと並んで最古級となる。
見つかったのは竪穴住居が並ぶ区域の脇にある深さ20~100センチの溝。
溝はごみ捨て場として使われたとみられ、土を洗い流して調べたところ
炭化したコメや豆、ドングリ、淡水魚の骨などが見つかった。
炭素測定の結果、豆や土器の年代は縄文晩期。
一方、コメはやや新しく弥生前期の紀元前510~同390年だったが、
このころの遺物の年代測定は誤差が大きく出やすく、
縄文晩期にさかのぼる可能性もあるという。
調査にあたった京都大学の泉拓良教授(縄文考古学)は
「同じ地層から出たコメと豆の年代に差が出たことは解釈が難しいが、
稲作が縄文時代に始まったことを証明する可能性もあり、
残っている土からコメを集め、年代の特定を進めたい」と話している。
◎産経新聞 2008年6月10日
http://sankei.jp.msn.com/...
◎Google検索「上里遺跡」
http://www.google.com/...

神奈川県・新子安駅にて撮影

神奈川県・大船駅にて撮影

鉄友からもらった写真
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1983年に登場した14系客車改造の欧風列車の7両編成。
「サロンエクスプレス東京」(現「ゆとり」)に続いて登場した。
スロフ14 703・704、オロ14 706~710 で組成されている。
大阪支社が保有、宮原総合運転所に所属。
初期の塗装は濃緑のベースに金帯の塗装だったが、
1994年春にリニューアル工事を受け、
緑のベースに黄帯の「トワイライトエクスプレス」に似た塗装になっている。
防弾仕様などを備えたVIP車両に整備されており、
お召し列車として運転された実績も多い。
編成を崩して5両や6両で運転されることも多い。
(Wikipediaより)
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◎Google検索「サロンカーなにわ」
http://www.google.com/...
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鉄道写真2 | 記事URL
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神奈川県・戸塚駅付近にて撮影

神奈川県・東戸塚駅付近にて撮影

鉄友からもらった写真

神奈川県・根府川駅付近にて昭和61年8月31日に撮影

神奈川県・戸塚駅付近にて撮影
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国鉄20系客車は、日本国有鉄道(国鉄)が
1958年(昭和33年)に開発した寝台特急列車用客車である。
日本で初めて、同一系列・同一意匠の車両による
「固定編成」を組むことを前提に設計された客車であり、
冷房装置や空気ばね台車の装備などで居住性を大きく改善した
画期的な車両であった。
青一色に統一された外観はデザイン的にも優れ、
以後の客車寝台特急も含めて「ブルートレイン」と呼ばれる起源となった。
1958年10月から、東京~博多間特急「あさかぜ」に投入され、運行を開始した。
1986年(昭和61年)11月に定期運用を終え、
1998年(平成10年)までに全車廃車となった。
最初に投入された列車にちなみ「あさかぜ形客車」と呼ばれ、
その設備の優秀さから登場当時は「走るホテル」とも評された。
1958年から1970年(昭和45年)までに合計16形式473両が製造され、
本州・九州において長距離寝台特急に広く使用された。
日本各地に寝台特急列車網を構築した功績は大きい。
1970年代後半からは設備の陳腐化により、
本来の特急列車としての運用を離脱して
急行列車や臨時列車に用いられることが多くなった。
1980年(昭和55年)10月の「あけぼの」の24系化を最後に特急での定期運用が消滅し、
1986年11月には「だいせん」「ちくま」を最後に急行での定期運用も消滅した。
1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時には
主に臨時列車用として東日本旅客鉄道(JR東日本)に34両、
西日本旅客鉄道(JR西日本)に63両が承継され、
「カートレイン」や「シュプール号」などの臨時列車に使用された。
しかし、老朽化により年々数を減らすと同時に運用の機会も減少し、
末期には予備車扱いで少数が残されるのみであった。
1997年11月、JR西日本により新大阪発岡山行の快速「さよなら20系客車」が運転され、
これが当系列の最終運用となった。
この列車の牽引機にはEF58形150号機が使用され、
新大阪駅では記念式典が行われた。
JR東日本でも1996年までに廃車されたが、さよなら運転は行われなかった。
なお、末期は14系や24系と近似した塗装に変更され、白帯が一本削除されていた。
(Wikipediaより)
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◎Google検索「20系」
http://www.google.com/...
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鉄道, 鉄道写真6 | 記事URL
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神奈川県・根府川駅にて昭和62年7月27日に撮影

鉄友からもらった写真
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1985年に登場した12系客車改造の欧風客車の7両編成。
スロフ12 701・702、オロ12 701~705で構成されていた。
名古屋車両区に所属していた。
両端の車輌は開放室の展望車、中間車のうちの4両は4人用・6人用個室で、
4両目(一番真ん中の車輌)にはビュフェとホールがあった。
スキーの収納スペースが設けられ、
テーマソングが車内で流されるなどの特徴があった。
臨時列車としては、冬に「シュプール号」として
名古屋駅~妙高高原駅を運転していたほか、
中間個室車がスハフ12形(電源用)、マニ44形とともに
「カートレインユーロ名古屋」として運転など、
編成を崩しての運転も多く見られた。
また、EF64形 35・66号機、EF65形 105・106・112号機(3両共に廃車)、
DD51形 592・791・1037号機(3両共に廃車)が専用塗装となっている。
2005年4月の団体臨時列車を最後に廃車されている。
(Wikipediaより)
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◎Google検索「ユーロライナー」
http://www.google.com/...
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鉄道写真 | 記事URL
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アメリカ・フラッグスタッフにて。
IMAGE DATA © Dan & Cindy Duriscoe, FDSC, Lowell Obs., USNO
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大阪府・高槻駅にて撮影
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国鉄117系電車は、
日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流近郊形電車の1系列である。
1979年から1986年までに216両が製造され、
1987年の国鉄の分割・民営化時には、
西日本旅客鉄道(JR西日本)に144両、
東海旅客鉄道(JR東海)に72両がそれぞれ承継された。
京阪神地区の東海道本線・山陽本線で運行している新快速には、
1972年からそれまでの113系に代えて、
山陽新幹線岡山開業に伴う山陽本線急行の淘汰で
余剰となった153系が投入された。
153系はこの時点では113系と異なり、既に冷房装置を搭載していたが、
製造初年が1958年と古く主電動機が非力で、座席がボックスシートであり、
並行する阪急電鉄京都線と京阪電気鉄道本線の特急車両が
いずれも転換クロスシートを採用していたのに比べると見劣りしていた。
また、本来は急行形として設計された車両であり、
デッキを有する客室構造はラッシュ時の輸送に難点があった。
117系は153系のこうした問題点を解消し、
かつ、並行私鉄に対抗できる客室設備を備え、
京阪神地区の輸送事情に適合する車両として設計された。
客室設備は1975年に北九州地区に投入されたキハ66系を基本としており、
それまで一貫して車両の標準化を推進してきた国鉄が
地域の事情に応じて設計、製造した嚆矢となっている。
1982年には東海道本線名古屋地区の快速に使用されていた153系の置換え用に、
名古屋地区にも投入された。
117系は当時の国鉄としては異例ともいえる構造の電車であり、
大阪鉄道管理局が国鉄本社の反対を押し切って、
私鉄との対抗上強引に導入したいきさつもあり、
他地区への導入は国鉄本社としては拒否し続けたものであった。
しかし、当時の名古屋鉄道管理局長・須田寛が
国鉄本社に強力に働きかけたことや、
この車両の導入で快速の編成を8両から6両に減車して153系を76両淘汰し、
差引22両の電車を削減できるというメリット、
並行する名古屋鉄道名古屋本線との競争があることから、
名古屋地区に限って投入することになったものである。
その後に製造された本系列と類似の接客設備を持つ車両としては、
1981年に関東地区に投入された185系、
1983年に広島地区に投入された115系3000番台、
1987年に瀬戸大橋線開業に備え岡山地区に投入された213系が挙げられる。
2007年現在、改造による系列変更を実施された車両は存在するが
廃車は発生していない。
国鉄の直流近郊形電車で1両も廃車が発生していないのは
本系列と121系のみである。
(Wikipediaより)
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◎Google検索「117系」
http://www.google.com/...
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鉄道, 鉄道写真5 | 記事URL
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・現在は福岡県飯塚市という地名だが、その昔は筑前国穂波郡(ほなみぐん)であった。
∟言語学者・長田夏樹氏は洛陽古音で不弥はホム(ホミ)と発音すると提示。
・弥生時代中期後半頃(1世紀頃)に栄えた遺跡とみられる。
・石器生産をしていた場所の跡(石包丁を中心に石剣、石戈(せっか)などを量産)
∟奴国などと鉄器や青銅器の取引?
(石包丁出土比率:福岡26.7%、朝倉25%、大分県宇佐15%との調査結果もあり)
立岩・堀田甕棺遺跡から発見されたもの
・前漢鏡6面、銅矛1本、鉄剣1本、鉄の鉇(やりがんな)1本、砥石2個などをおさめた甕棺1基
・青銅器、鉄矛、鉄刀子(てつとうす)、ガラス管玉などをおさめた甕棺8基
∟ほぼ完全な形の人骨も出土。(右腕にはゴホウラ貝の腕輪が14個)
∟原形を残した管玉の装身具が出土。
・遺骸だけがおさめられた甕棺31基
・甕棺計40基(首長1人+身内+役人か?)
・鉄剣数本(この当時は貴重なため、有力者がいた証と考えられる)
・青銅器よりも鉄器が多い
・使用形跡から鏡は1代の首長のためだけに用意されたものと考えられる。
・鉄剣、鉄矛に絹の布が付着していた。
∟鉄剣の柄の部分等(最初に確認された国産の絹)
∟魏志倭人伝にも養蚕が行われていたことが記されている。

▼案内板より
この地点が昭和38年・40年に調査された堀田甕棺群の遺跡です。
この付近一帯が弥生時代の遺跡であることが
はじめて注意されたのは昭和8年です。
その後、遺跡、遺物の発見が相次ぎ、ついにはこの丘陵全体で
約2000年前の遺跡の所在が明らかとなりました。
しかもそれらの諸遺跡は何れも貴重な資料を提供して
弥生時代の研究に大きく貢献しました。
学者、研究者の関心も高まり、これらの遺跡群は総称して
「立岩遺跡」と呼ばれ世の注目を集めてきました。
特に立岩・堀田甕棺遺跡での調査の結果は、
過去30年にわたる立岩研究の総括的な結論に到達した感があります。
前漢鏡10面をはじめとする青銅器、鉄器、貝輪、ガラス製玉類を
集めたこの遺跡はまさしく立岩遺跡群の中心であり、
その内容は同じ頃、中国にも知られていた末盧国、伊都国、奴国にも
比類するものです。
堀田を中心とする立岩遺跡群の構成とその生活、文化は
日本の国家形成期の歴史を解明する上にもその学術的価値は
極めて高いとして出土品のすべてが昭和52年に一括して
国の重要文化財に指定されました。
市は立岩・堀田甕棺遺跡の現地を市指定史跡として保存し、
出土品は飯塚市歴史資料館で展示公開しています。
(飯塚市教育委員会)
◎Google検索「立岩遺跡」
http://www.google.com/...

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡

立岩・堀田甕棺遺跡からの眺め(西側)

立岩・堀田甕棺遺跡からの眺め(西側)

立岩・堀田甕棺遺跡からの眺め(東側)

立岩・堀田甕棺遺跡 34号甕棺
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

立岩・堀田甕棺遺跡 前漢の銅鏡 10号甕棺出土
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

立岩・堀田甕棺遺跡 銅矛 10号甕棺出土
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

立岩・堀田甕棺遺跡 管玉 28号甕棺出土
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

飯塚市(立岩遺跡)含んだ広域地図 (引用:mapion)

立岩遺跡から上流(南)方面 (引用:mapion)
∟筑前国続風土記(江戸時代・元禄)には、
『遠賀川の上、飯塚秋松まで船上る。
又鞍手の境村の上は、豊前田川郡まで船上る。』とあり。
∟現在の遠賀川上流の様子(大七三会様サイトより)
http://charider.cside2.com/...
∟南の朝倉市には「平塚川添遺跡」という大きな遺跡がある。
http://www.amagiasakura.net/...

立岩遺跡から上流(南)方面 (引用:mapion)
∟律令時代(7世紀半ばから10世紀頃)には米ノ山峠を経る
東西の官道が通っていた。
∟現在の米ノ山峠に向かう道の様子(虫と自転車、ときどきロボット様サイトより)
http://kokuwa.air-nifty.com/...

立岩遺跡から下流(北)方面 (引用:mapion)
参考地図:mapion
http://www.mapion.co.jp/...
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【Podcasting】
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【邪馬台国までの道程・各国レポート】
帯方郡→狗邪韓国
対馬国(對馬国)
一支国(一大国)
末盧国(末廬国)
伊都国
奴国
不弥国
投馬国
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神奈川県・大船工場にて昭和61年9月7日に撮影

神奈川県・浜川崎駅にて撮影
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国鉄101系電車は、1957年(昭和32年)に登場した
日本国有鉄道(国鉄)の直流通勤形電車。
登場当時はモハ90系電車と称していたが、
称号改正に伴い1959年(昭和34年)に101系と改番された。
国鉄の電車として初めて中空軸平行カルダン駆動方式などの
近代的メカニズムを搭載した、いわゆる「新性能電車」の嚆矢となった系列である。
この系列で採用された基本システムは、
1980年代前半に至るまでの国鉄電車に広く応用された。
1953年(昭和28年)以降、大手私鉄では旧来の吊り掛け駆動方式から脱却して
新世代のカルダン駆動方式を採用した高性能な通勤電車が開発され、
通勤輸送の質的改善に大きな成果を上げていた。
しかし、保守的な国鉄では1956年頃に至っても性能的にやや旧式化した
72系などの量産を継続していた。
101系は、国鉄旧性能車を刷新して電車列車の近代化を図る意図をもって、
大手私鉄の採用実績を見極めた上で開発されたものである。
直接的には、当時最混雑路線であった中央線の輸送改善を目的として製造された。
なお、101系の製造が完全に打ち切られたのは
103系の製造開始から6年が経過した1969年(昭和44年)であった。
これは山手線から総武緩行線に101系を転用する際に
編成両数の違いから中間に制御車2両を組み込む必要が生じたことと、
大阪環状線など一部の増備に際して形式統一の見地から新造車が必要となったためである。
また、一部には151系の181系化改造によって余剰となった
MT46形主電動機が流用された。製造両数は1,535両に及んだ。
最初の投入線区である中央快速線での運用を終了したのは、
201系量産開始後の1985年(昭和60年)3月14日のダイヤ改正である。
ちなみに、1973年(昭和48年)に同線でも運用を開始した103系の運用終了は
1983年(昭和58年)3月であったが、これは起動時の加速度は103系に劣ったものの、
全界磁速度からの伸びは103系に比べて格段に良いと言われた。
またブレーキの応答性も高く、減速時の扱いはむしろ103系よりも良いといわれていたほか、
他線区に比べ冷房化率の低い中央・総武緩行線と南武線に103系の冷房車を回し、
早急な冷房化率の平均化を目指したものと思われる。
現在、JR線上からは消滅した101系であるが、
埼玉県の羽生~三峰口間を走る秩父鉄道では
国鉄時代の1985年(昭和60年)頃からJR化後まで譲渡された
3両編成12本(計36両)が在籍している。
形式は1000形となり、
M'cMTc(クモハ100形 - モハ101形 - クハ101形)の編成で譲渡された。
入線当時は黄色に茶帯の塗装に前面に「秩父鉄道」と表記されていた塗装で
比較的原型を保っていたが、後のワンマン化を前にクリームを基調として
赤と青の帯を施した塗装に変更された。
その後、冷房化(中間車は非冷房のまま)やパンタグラフの2基搭載化などを経て、
2008年3月現在も全車が在籍している。
なお、鉄道博物館の開館に併せて4編成が同年秋から
オレンジバーミリオン・スカイブルー・カナリアイエロー・ウグイス(関西線色)の
4種類の塗装へ順次復元されている。
(Wikipediaより)
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◎Google検索「101系」
http://www.googl