邪馬台国
【どうして、三国志?邪馬台国?】
【Podcasting その1】
【Podcasting その2】
【Podcasting その3】
【Podcasting その4】
【Podcasting その5】
【Podcasting その6】
【Podcasting その7】
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西暦200年代(3世紀:弥生時代後期~古墳時代前期)に
小国ばかりだった倭国で30国を従えていたとされている国。
邪馬台国があったとされる根拠は、
中国の歴史書・『三国志』魏書東夷伝倭人条に残されています。
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【邪馬台国までの道程】

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投馬国→邪馬台国
▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より
(投馬国の)南に邪馬台国がある。
女王の都があるところで、水行10日、陸行1月で着く。
官を伊支馬(いきま)、次を弥馬升(みまそ)、
次を弥馬獲支(みまかき)、次を奴佳鞮(なかて)という。
7万余戸ほどある。
女王国より北方にある国々の戸数や道のりを、大ざっぱに記すことはできる。
しかし、その他の周辺の国々は、遠く離れているのでその委細をつかむことができない。
女王国の次に斯馬国(しまこく)があり、次に已百支国(いもきこく)、
次に伊邪国(いざこく)、次に都支国(つきこく)、次に弥奴国(みなこく)、
次に好古都国(ここつこく)、次に不呼国(ふここく)、次に姐奴国(そなこく)、
次に対蘇国(つそこく)、次に蘇奴国(そなこく)、次に呼邑国(こおこく)、
次に華奴蘇奴国(かなそなこく)、次に鬼国(きこく)、次に為吾国(いごこく)、
次に鬼奴国(きなこく)、次に邪馬国(やまこく)、次に躬臣国(きしこく)、
次に巴利国(はりこく)、次に支惟国(しいこく)、次に烏奴国(うなこく)、
次に奴国(なこく)がある。この奴国が、女王の境界のはずれである。
この国境の南に狗奴国(くなこく)がある。
男子を王としており、官に狗古智卑狗(くこちひこ)がある。
この国は、女王国に従っていない。
帯方郡から女王国までは1万2千余里である。
[引用:武光誠さんの著書「邪馬台国と大和朝廷」(平凡社新書)より]
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【彼方の国】
▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より
女王国の東、海を渡ること千余里のかなたに、また国がある。
いずれも倭種の国である。
また、その南に侏儒国(しゅじゅこく)がある。
その国の人の身長は3・4尺にすぎない。
この国は女王国から4千里離れている。
また裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)があり、侏儒国の東南にあって、
船で1年もかかって到着する。
倭の地を訪れると、倭人たちは遠く離れた海中の島々に住んでいて、
或いは海で距てられ、或いは陸地つづきになっていて、
島々をめぐって行くと5千余里ほどになる。
[引用:藤田友治さんの著書「魏志倭人伝の解明」(論創社)より]
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【畿内大和 邪馬台国 比定地】
・天理市~桜井市
・大和郡山市矢田(やまとこおりやましやた)
・奈良盆地
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【畿内 邪馬台国 比定地】
<奈良県>
・吉野から紀州[和歌山県]一帯
<京都府>
・京都市
・山城町(やましろちょう) ※現:木津川市(きづがわし)
<大阪府>
・大阪
・和泉市
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【九州 邪馬台国 比定地】
・九州のどこか
<福岡県>
・筑後山門郡(ちくごやまとぐん)[瀬高町、山川町(せたかまち、やまかわまち)]
※現:柳川市・みやま市
・福岡市
・博多
・博多湾沿岸
・京都郡(みやこぐん) ※現:みやこ町
・朝倉、甘木(あさくら、あまぎ)
・田川市、京都郡
・筑後平野北部(朝倉、甘木、佐賀平野の東部[吉野ヶ里含])
・太宰府
・太宰府が都で範囲は佐賀南部や大分県北部まで含む
・八女
・八女郡矢部村(やめぐんやべむら)
・久留米市御井(くるめしみい)
・筑紫平野
・筑後川流域
<佐賀県>
・吉野ヶ里
・佐賀市東山田
<大分県>
・宇佐市
・別府湾岸
・日田市(ひたし)
・中津
・蒲江町(かまえちょう) ※現:佐伯市 ~宮崎県延岡市構口の範囲
・周防灘(すおうなだ)海中
<宮崎県>
・日向(ひゅうが)
・延岡市構口(のべおかしかまえくち)
・西都市(さいとし)
・西都市西都原(さいとばる)
・高千穂
<熊本県>
・熊本県一帯
・熊本市
・阿蘇
・肥後山門 ※現:菊池市、合志市(こうしし)、菊池郡の範囲内とみられる
・菊池川流域
・下益城郡美里町佐俣(しもましきぐんみさとまちさまた)
・蘇陽町 ※現:山都町(やまとちょう)
・山鹿(やまが)
・人吉(ひとよし)
・八代市(やつしろし)
・玉名郡江田村 ※現:和水町(なごみまち)
<長崎県>
・島原半島、北高来郡(きたたかきぐん)、南高来郡(みなみたかきぐん)
※現:諫早市(いさはやし)、島原市・雲仙市・南島原市
・佐世保
・東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)
・大村湾東岸千綿宿の浜(おおむらわんとうがんちわたしゅくのはま)
<鹿児島県>
・曽於郡(そおぐん)
・姫木 ※現:鹿児島県東部
・霧島山(きりしまやま)周辺
・霧島市周辺
・薩摩の国 ※現:鹿児島県西部
・大隅の国 ※現:鹿児島県東部と奄美諸島
<沖縄県>
・沖縄県一帯
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【国内その他のエリア 邪馬台国 比定地】
<千葉県>
・安房(かずさ、あわ)[館山市方面]
・我孫子市布佐(あびこしふさ)
<山梨県>
・山梨県内
・八ヶ岳高原
<静岡県>
・焼津市登呂
・南伊豆町
<長野県>
・諏訪
<新潟県>
・栃尾(とちお)
<石川県>
・羽咋市(はくいし)
<福井県>
・鯖江(さばえ)
<滋賀県>
・野洲市(やすし)
・琵琶湖
<岡山県>
・吉備 ※現:岡山県倉敷市、岡山市、総社市(そうじゃし)
<徳島県>
・徳島県一帯
<愛媛県>
・川之江市一帯 ※現:四国中央市
・松山
<高知県>
・南国市(なんこくし)
<島根県>
・出雲
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【海外その他のエリア 邪馬台国 比定地】
<アジア>
・フィリピン
・インドネシア ジャワ島、スマトラ島
<アフリカ>
・エジプト
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【入墨・漁】
▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より
男子は大人も子供も区別なく、みな顔に入墨をし体に文様(もんよう)を描いている。
むかしから、中国に来る倭国の使者は、自らを大夫(たいふ)と名乗った。
夏后少康(かこうしょうこう=中国最古の伝説上の王朝「夏(か)」の6代目皇帝)の子は、
会稽(かいけい=中国の紹興市付近)に行き、
髪を断ち体に入墨をして
蛟竜(こうりゅう=水中に住むと考えられている龍の一種)の害を避けた。
倭の水人(すいじん)は、好んで潜って魚やはまぐりを捕え、
体に入墨をして大魚や水鳥からの襲来を避けていたが、
今では入墨は一種の飾りとなっている。
入墨は右にしたり、左にしたり、大小があったり、
国によっても、身分によっても違う。
倭国の位置は、ちょうど
会稽(かいけい=中国の紹興市付近)・東冶(とうや=福建省福州付近)の東にあたる。
その風俗は淫らではない。
[参考文献]
・石原道博さん編訳「新訂 魏志倭人伝 他三篇」(論創社)
・斎藤忠さんの著書「日本人はどこから来たか」(講談社学術文庫)より
・武光誠さんの著書「邪馬台国と卑弥呼の事典」(平凡社新書)より
・Wikipedia

縄文時代の黥面土偶(げいめんどぐう)
文化庁
図解古代史(成美堂出版)より
顔や体に入墨をするのは、縄文時代から弥生時代に続く
風習だったと考えられる。
2007年1月25日
滋賀県守山市・赤野井浜遺跡で土偶形容器と黥面土偶を発見
香川県・善通寺市(ぜんつうじし)デジタルミュージアム
箱式石棺の仙遊遺跡出土・蓋石の念入りに線刻された人の顔
岡山県・岡山市埋蔵文化財センター
津寺(加茂小)遺跡出土・黥面(げいめん)土偶
愛知県・安城市歴史博物館
亀塚遺跡出土・人面文土器(じんめんもんどき)
第17代天皇・履中天皇(りちゅうてんのう) / 400年3月12日 - 405年4月29日
謀反(むほん)に加担した阿曇浜子(あづみのはまこ)に入墨をほどこした。
(日本書記より)
第21代天皇・雄略天皇(ゆうりゃくてんのう) / 456年12月25日 - 479年9月8日
大和国宇陀郡(うだぐん)の人の飼犬が宮の鳥を食い殺したので
飼い主の顔に入墨をし朝廷の鳥の世話をする下層民にした。
(日本書記より)

入墨を表現した埴輪
古墳時代後期(6世紀前半)
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクションVol.1」より
弥生時代に入墨を表現した資料は
瀬戸内や東海、関東・東北に分布し、近畿では見られない。
近畿で入墨の表現が出現するのは古墳時代(5世紀以降)から。
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漁撈(ぎょろう)の道具
上:手網の木枠、下:網のおもり
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より

釣針
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より

食料とされた魚介類
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より
唐古・鍵遺跡ではウナギ・アユ・コイ・ドジョウ・ナマズなどの
魚の骨が出土している。

魚を描いた絵画土器
唐古・鍵考古学ミュージアムにて
▼原の辻遺跡の捕鯨線刻土器

捕鯨線刻土器(ほげいせんこくどき) 弥生時代中期

捕鯨線刻土器(ほげいせんこくどき) 上写真丸囲み部分
鯨を描いていると推測されています。

捕鯨線刻土器(ほげいせんこくどき) 弥生時代中期

捕鯨線刻土器(ほげいせんこくどき) 上写真丸囲み部分
何本かの銛(もり)が鯨に刺さっている様子から
捕鯨を表現していると推測されています。
捕鯨のための大型の漁具が出土してないこともあり、
座礁した鯨を捕獲する程度の、消極的な捕鯨活動であったようです。
壱岐は、近世以降、捕鯨基地として発展をしています。
そのことを考慮すれば、弥生時代の人々も鯨と遭遇する機会は
少なくなかったと思われます。
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【衣・農・武器】
▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より
男たちは皆、髪をたばね木綿を頭に巻き
横幅の広い布を縫わずに体へ巻きつけ服にしている。
女たちは髪をたばねて頭の上に折りまげ、のせている。
その着物は、一枚の布の真ん中に穴をあけ、そこから頭を出して着る。
稲、麻類(紵麻=苧麻[からむし])を植え、桑を栽培し、蚕を飼って糸をつむぎ、
麻布や絹、そのほかを織る。
牛、馬、とら、ひょう、鵲[じゃく](こまがらす・かささぎ)、羊、などはいない。
武器は、矛、楯、木の弓。
木の弓は、下は短く上は長い。
矢は竹で、鉄か骨のやじりをつけている。
風俗、習慣、産物等は、たんじ・朱崖[しゅがい](現在の中国・海南島)と同じである。
[参考文献]
・石原道博さん編訳「新訂 魏志倭人伝 他三篇」(論創社)
・斎藤忠さんの著書「日本人はどこから来たか」(講談社学術文庫)より
・武光誠さんの著書「邪馬台国と卑弥呼の事典」(平凡社新書)より
・Wikipedia
頭に巻いていた木綿は木緜(ゆふ)と記され
楮(こうぞ)等の樹皮をはぎ、繊維を糸として布に織ったものと考えられ
当時は現在のように<木綿=コットン>と限られた意味ではなかった。
弥生時代の男性の服を袈裟衣(けさい)、
女性の服を貫頭衣(かんとうい)ということもある。
袈裟衣と貫頭衣は東南アジアを中心に分布。
フィリピン→台湾→沖縄→倭国へと伝わったという説あり。
貫頭衣は今でも東南アジアの一部に残っている。
現在の貫頭衣 by Google検索
▼豆メモ
大袈裟とは

弥生人の衣装
風俗博物館
図解古代史(成美堂出版)より

弥生人の服(貫頭衣)を復元 / 板付遺跡弥生館

織物片のなかには、日本茜や貝紫(かいむらさき)による
染色がなされているものが確認された。
写真は復元された「弥生時代上層人の衣装」
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より

復元:貝紫で染色した布・糸
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より

貝紫を採取したアカニシと染めた布(参考品)
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

アカニシ
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

朱の付着がみられる織りが繊細な透目(とうめ)の絹
弥生時代中期
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より

左:縫い針、右:麻縄
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より
唐古・鍵遺跡では、主に大麻を利用して糸の製作が行われた。
糸を撚る(よる)道具として、紡錘車が知られており、
回転を利用して均質な糸を撚ることができた。

糸を撚る(よる)紡錘車(ぼうすいしゃ)
弥生時代中期
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクションVol.1」より
写真は鹿角の根元を輪切りにし、薄く丁寧に磨き上げた
精巧な仕上げが施された紡錘車。

糸を撚る(よる)道具と糸巻き
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より

機を織る道具
上:布巻具、下:緯打具(よこうちぐ)
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より

機織り(はたおり)の風景
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より
弥生時代には、大陸から機織り技術が伝わった。
唐古・鍵遺跡で出土した布切れには、二本の糸をあわせて撚る
「併糸(あわせいと)」という技術がみられ、織りはたいへん細密である。
併糸は平絹にみられる技術でもある。

大麻製の布切れ
弥生時代中期
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクションVol.1」より
偶然に火を受け炭化したため、原形を保った状態で出土。
織りが細密で、経糸(たていと)や緯糸(よこいと)の一部に
併糸(あわせいと)がみられることから、当時の布としては高級品であると見られる。

甕棺から、人骨、イモガイ製腕輪と共に検出された絹、大麻片
弥生時代後期初頭
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より

縫い目の残る絹織物
弥生時代中期
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より

巾着状絹製品
図録「ヤマト王権はいかにして始まったか」より
纏向遺跡で唯一の絹製品。
巾着は平織りの絹の布で物を包んだ後、口部分は糸は束ねて
僅かにねじっただけの撚りのかかっていない紐で結んでいる。
大きさは高さ3.4cm、厚みは2.4cm、内部に何が納められているかを
調べるためX線撮影を行ったが反応は少なく、金属質のものではなく
有機質の物が包まれている事以外はよく解っていない。
JANJAN
からむし織の機音
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刈りとられた稲束(いなたば)と稲籾(いねもみ)
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より

復元水田 / 菜畑遺跡
(末盧館パンフレットより引用)

炭化米 / 菜畑遺跡
(末盧館パンフレットより引用)
▼案内板より
菜畑遺跡から出土した米は真っ黒い炭になっており、
炭化米と呼ばれています。
おそらく、水田から倉庫へ運搬の途中に落下したモミや玄米で、
約350粒ほど発見されました。
この中にはモミの先のノゲまで残ったものや、
モミが半分はがれていたものなどがありました。
この炭化米は短粒型(たんりゅうがた)のジャポニカ種と呼ばれるものです。
しかし、縄文時代の炭化米には10%程度シイナ(実らない米)が含まれており、
品種改良と気候条件や栽培技術が未熟だったことがうかがえます。
▼末盧館パンフレットより
菜畑では今から2500~2600年前の縄文時代晩期に、
大陸から伝えられた稲作を日本で初めて行いました。
遺跡からは、これを証明する多数の炭化した米、
稲穂をつみとる石包丁・木のクワ・エブリなどとともに
小区画(20~30㎡)の水田跡も発見されました。
また、水稲だけではなく、アワ・ソバ・ダイズ・ムギなどの
五穀をはじめ、メロン・ゴボウ・クリ・モモなどの果実・根菜も
栽培していました。
家畜としてのブタ(イノシシ)も飼育していたのではないかと考えられ、
菜畑は文字どおり「日本農業の原点」であることを証明しました。
・日本の稲は短粒(たんりゅうしゅ)ジャポニカ種で、
起源はインド奥地とされる。
・中国大陸から直接伝わった説の他、
中国中部・南部→東シナ海→山東半島(さんとうはんとう)
→朝鮮半島→倭国(日本)のルートで伝わった説の支持も高い。
・弥生時代の水田の規模は今よりは小さい
・自然にわき出た地下水を利用のため、低湿地を利用。

青森県弘前市にも弥生時代の水田跡
砂沢遺跡(すなざわいせき)
図解 古代史より
(成美堂出版)
2007年7月26日
沓形遺跡で津波被害を受けた水田跡を発見
2008年6月10日
京都で関西最古級のコメ粒発見
2008年9月4日
東日本最古の畑の跡か 静岡・手越向山遺跡
2007年5月31日
下之郷遺跡でメロンの果肉を発見
2009年3月13日
縄文期の大豆栽培確実 八ケ岳南ろくの遺跡に痕跡
2006年12月22日
南蔵本遺跡の鍛冶場跡から切断鉄斧を発見

鍬(くわ)出土状況 / 弥生時代中期~後期
吉野ヶ里遺跡
図録・弥生時代の吉野ヶ里より
(佐賀県教育委員会)

木製の農具 / 弥生時代中期~後期
吉野ヶ里遺跡
図録・弥生時代の吉野ヶ里より
(佐賀県教育委員会)

木臼
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

竪杵
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

鋤(すき)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

木製仮面(クワを転用)
纒向遺跡
桜井市立埋蔵文化財センターにて

木製仮面(クワを転用)
纒向遺跡
桜井市立埋蔵文化財センターにて
▼案内板より
この木製仮面は、平成19年4月~6月に桜井市大字太田で実施した
第149次調査において、太田池の底で確認された土坑(どこう)より出土しました。
長さは約26cm、幅は約21.5cmを測り、ちょうど人間の顔を
おおいかくすことができる大きさを持っています。
アカガシ製の鍬(くわ)を転用してつくられたもので、
口は鍬の柄の穴をそのまま利用していますが、両目部分の穴は
新たにあけられており、高く削り残した鼻には鼻孔の表現が見られます。
また眉毛は線刻により表現されており、その周辺にはわずかに
赤色顔料が付着していました。
ヒモを通す孔(あな)などは見られず、手に持って顔を覆ったものと推定されます。
この木製仮面は、共伴(きょうはん)した土器から庄内1式期頃(3世紀前半)の
ものと考えられます。
日本列島では縄文時代の土製仮面の存在が知られていますが、弥生時代や
古墳時代の仮面の実例はほかに見られません。
また木製の仮面としては、これまで7世紀代のものが最古とされていましたが、
本例はそれをはるかに遡る(さかのぼる)事例となりました。
木製仮面は他の多くの木製品とともに、土坑から出土しました。
このことは従来から考えられている土坑祭祀の一場面で、
仮面が用いられていたことを示唆しています。
農具である鍬を転用していることを考えると、
その祭祀は農耕に関連するものであったかもしれません。
纒向遺跡でおこなわれた祭祀の形態は、依然として不明な部分が多く残されています。
土坑出土の木製仮面は、祭祀形態の研究に新たな視点を
与えてくれる貴重な資料と言えるでしょう。

差し牙(きば)のあるイノシシの下あご
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

ニワトリの骨?
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

鶏をかたどった土製品
唐古・鍵遺跡
弥生時代後期
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

鶏をかたどった土製品
弥生時代後期
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて
▼図録・ミュージアムコレクション Vol.1より
鶏は朝の到来を告げる鳥として、日本人には馴染みの深い動物です。
鶏は大陸から運ばれた家畜の1つで、約6000年前に、
東南アジアから中国南部で家畜化されたと考えられています。
「日本には、いつから鶏がいたのか?」
現在確実な資料は、今回紹介する土製品で、
弥生時代後期には日本に鶏がいたことを示しています。
唐古・鍵遺跡の鶏形土製品は、立派なトサカや大きなくちばし、目、耳たぶが
表現され、一見して鶏とわかる良好な資料です。
この土製品は、頭部から下が細い棒状になっており、
別作りの胴部に頭部を差し込んで一体としたもので、
復元すればほぼ実物大になるでしょう。
ところで、鶏の肉や卵が食用とされたのは、
江戸時代以降と考えられています。
鶏を食べるということは比較的新しい風習です。
「古事記」では、鶏は時を告げる「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」
として登場し、神聖な鳥と考えられていたようです。
2006年12月25日
小日向遺跡群・田中遺跡から家畜舎跡らしきもの発見
ウシ、ウマについて
弥生時代の遺跡からウシやウマの骨が出土しているので
邪馬台国の時代にウシやウマがいたことはまちがいない。
そこで「魏志倭人伝」がウシ、ウマがいないと書いた理由についての
1つの仮説が立てられている。
当時、魏が軍事的に役に立つウシやウマを取りあげて
呉との戦いに使うという噂が朝鮮半島で広まっていたために、
魏の使者が来たときに、倭人がウシやウマをかくしたという。
(武光誠著・邪馬台国と卑弥呼の事典より)
2008年6月22日
イエネコ 弥生時代から?

絵画土器(鹿)
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

絵画土器(高床建物と鹿)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

絵画土器
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

鹿狩りの様子
香川県で出土した銅鐸
東京国立博物館蔵
週刊 ビジュアル日本の歴史 No.109より
(デアゴスティーニ)
弥生時代の遺跡を調査し、その出土骨のうち
シカとブタ(イノシシ)の割合を見てみると、
圧倒的にシカの骨が少ないことがわかる。
縄文時代では盛んに行われたシカ狩りが、
弥生時代早期以降急激に衰退していったことは明らかである。
ただし出雲だけは例外で、中期になっても
シカ狩りは行われていた。
また東日本では相変わらずシカとイノシシを
ほぼ1対1の割合で狩猟している。
この時代、シカ狩りが行われなくなったのは、
シカを土地の精霊と考えるようになったことに由来するらしい。
シカの角は毎年春に生え代わるが、
弥生人たちはこれを春にまいて秋に実るイネと同一視し、
その体から土地を連想したと思われるのである。
シカを土地の象徴と見ることが、シカ狩りの制限につながったのだ。
2009年3月27日
兵庫県・東園田遺跡 タコつぼにシカの絵
2009年5月14日
長野・柳沢遺跡 シカの絵の土器が出土
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盾と戈(か[ほこ])をもつ人物の絵画土器
清水風遺跡 第2次調査
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクション」より

絵画土器(盾と戈を持つ人物)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

絵画土器(盾と戈を持つ人物)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

上記絵画をモデルに再現した模型
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクション」より

広形銅矛 - 増田山遺跡 / 長さ86cm / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用
~厳原町教育委員会提供)

広形銅矛 - 大吉戸神社 / 長さ82-84cm / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用
~黒島区長藤島一夫氏提供)

広形銅矛 - 大吉戸神社 / 長さ82-89cm / 弥生時代中期後半~後期
(長崎県ホームページより引用)

広形銅矛 - 上県町佐護クビル / 弥生時代中期後半~後期
(国立博物館にて撮影)

中広形銅矛 / 須玖岡本遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

中広形銅戈 / 紅葉ヶ丘遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

細形銅剣 / 立石遺跡 / 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

銅矛16本と銅鐸 / 国宝
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)
島根県立古代出雲歴史博物館蔵
サライ 23より
(小学館)

銅剣358本 / 国宝
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)
島根県立古代出雲歴史博物館蔵
サライ 23より
(小学館)

銅剣に刻まれていた「×」
358本中344本に刻まれている
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)
島根県立博物館蔵
サライ 23より
(小学館)

武器としての銅矛使用方法 - 細形銅矛
(浜島書店『新詳日本史』より引用)
木の弓・吉野ヶ里遺跡出土
(情報処理推進機構:教育用画像素材集より)
鉄鏃・吉野ヶ里遺跡出土
(情報処理推進機構:教育用画像素材集より)
鉄鏃・長崎県出土
(文化遺産オンラインより)
骨の鏃・縄文時代/宮城県出土
(文化遺産オンラインより)

銅鏃(どうぞく)[国産品]
原の辻遺跡
▼長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より
弥生時代は集団抗争が日常化した時代ともいわれており、
一支国の盟主も敏感に世の流れを感じとったに違いない。
武器や武具は本土のクニグニに劣らない程に万全の備えをしているかに見える。
▼案内板より
原の辻遺跡からは、日本最多の100点を超える
銅鏃が出土している。

三翼鏃(さんよくぞく)
原の辻遺跡
▼案内板より
古代中国で、戦闘で使用した
強力な「弩(ど)」と呼ばれる弓に装着した。

銅鏃と木鏃(もくぞく)
纒向遺跡
図録「ヤマト王権はいかにして始まったか」より
(桜井市埋蔵文化財センター)

左・銅鏃(どうぞく)の鋳型外枠
右・銅鏃(どうぞく)の鋳型(複製・復元品)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

左・銅戈(どうか)の鋳型外枠
右・銅戈(どうか)の鋳型(複製・復元品)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

弥生中期の須玖岡本遺跡群(すくおかもといせきぐん)
(浜島書店『新詳日本史』より引用)
・環濠の発見状況より、環濠が遺跡群を囲っていた可能性もあり。
・青銅器の鋳型など、生産関連のものが全国的に突出して出土している。
・生産工房と見られる建物の跡も見つかっている。
・鉄器や鉄の破片もあり、鉄器工房があったと思われる。
・ガラス工房もあったと思われる。
・生産されたものは、北部九州や四国、対馬へと配布されたと思われる。
・弥生時代後期になると工房は丘陵地から低台地上へ移動。
・弥生時代後期後半~終末にかけて対馬で大量に消費された広形銅矛の
生産が行われていたと思われる。
・古墳時代初めには遺跡群の集落は衰退へ。

須玖坂本遺跡の青銅器工房跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

広形銅矛鋳型 / 熊野神社 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

広形銅戈鋳型 / 大南遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

銅鏃鋳型(どうぞくいがた) / 須玖坂本遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

木製仮面と共に出土した盾
纒向遺跡
桜井市立埋蔵文化財センターにて
盾は長さ15cmほどの破片となって
投棄されたかのような状態で検出、
表面には赤色と黒色の彩色が見られる。
祭祀の一場面で使用された可能性が考えられている。

木製の盾
唐古・鍵遺跡
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より
2008年9月3日
青谷上寺地遺跡から緑色の顔料
2007年6月10日
鬼虎川遺跡で銅剣の鋳型片を発見
2008年6月21日
田熊石畑遺跡 一墳墓から銅剣、銅戈5点
2009年2月7日
福岡県・田熊石畑遺跡 墳墓から青銅武器15点
2008年8月14日
西野遺跡群で銅矛の再加工品が初出土
2008年2月29日
柳沢遺跡で「九州型」「大阪湾型」銅戈が同時出土
2009年2月28日
柳沢遺跡で新たに「銅戈」と「銅鐸」
2008年4月24日
国内最古の青銅製鞘尻 元岡遺跡群で出土
2009年3月4日
大福遺跡で木製よろい出土
2007年2月8日
下之郷遺跡から6重の環濠跡
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【古事記・日本書紀 Podcasting】
(1)概要紹介
(2)天地開闢・国産み・黄泉の国
(3)黄泉の国・天照大神の誕生
(4)天の岩屋
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