2008.11.15


岐阜・荒尾南遺跡 川辺から儀礼用土器

県教育文化財団文化財保護センターが、
大垣市の荒尾南遺跡で進めている今年度の発掘調査で、
約2000年前の河川跡周辺から、
儀礼用とされる約3万3000点の土器が見つかった。
「水辺の祭祀(さいし)」跡と見られ、県内では4、5例が確認されているが、
自然の川際での発見は初という。

水辺の祭祀は、作物の豊作を願い、
川辺や大溝周辺で営まれていたと考えられている。
土器は、幅約20メートル、深さ約2メートルの河川跡の
東側約100メートルにわたって重なるように見つかり、
弥生時代後期から古墳時代前期の約100年間、
祭祀が行われていたと推定される。

調査では、約1800年前の四角い墳丘墓(ふんきゅうぼ)
(1辺約10メートル)も1基見つかった。
同センターは、「盛り土が残っており、県内では珍しい」と話している。
同遺跡は約17万平方メートル。
今回を含め計6回、発掘調査が行われている。

◎読売新聞 2008年11月13日
  http://www.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「荒尾南遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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広島・池之坊墳墓群 3種類の墳墓が集中して出土

福山市神辺町東中条の池之坊墳墓群で、
弥生後期から古墳時代初期の権力者の墓である
石棺墓や木棺墓、土坑墓(どこうぼ)が見つかった。
3種類が集中して見つかるのは備後地方では珍しいという。

市教委は、標高約75メートルの丘陵
約450平方メートル内を対象に9月中旬から発掘調査を開始。
墳墓群は溝によって南北2ブロックに分かれている。

2、3世紀に作られたとみられ、
市教委文化課は「南側の方が人の配置を意識した作りであることから、
北側より新しい」と推測する。
埋葬後も集落を見渡せるようにと斜面に土坑墓を掘ったのでは、
と文化課はみる。

◎中国新聞 2008年10月31日
  http://www.chugoku-np.co.jp/...

◎Google検索「池之坊墳墓」
  http://www.google.co.jp/...

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福岡・元岡・桑原遺跡群 琴にシカなど4種の絵

シカ、太陽、建物、トリが一緒に描かれている
弥生時代中期末(約2千年前)の木製の琴が
福岡市西区の元岡・桑原遺跡群で出土した。
4種類の絵がそろっている木製品が見つかったのは全国で初めて。
弥生時代の農耕祭祀(さいし)の情景を物語る貴重な資料となりそうだ。

福岡市教委が29日、発表した。

出土した木製品は、長さ89センチ、幅19センチ、厚さ1センチのスギ材の板で、
琴の側板とみられる。
音を共鳴させるために開けられた円形の穴をはさんで、
左側に2頭のシカ、1頭のシカの脚が彫り込まれている。
穴の右側に大小二つの高床式の建物、さらにその右に1羽のトリがある。

市教委によると、穴は太陽を象徴し、シカやトリは大地や穀物の霊とされている。
建物は穀物を収めた倉庫で、寄せ棟造りの珍しいものだ。
これらの組み合わせで、弥生時代の農耕儀礼の様子を表しているという。
弥生時代の琴は100例ほど出土しているが、
絵があるのは数例しかなく、4種類も絵があるものはこれまで発見されていない。

同遺跡は、中国の歴史書の「魏志倭人伝」にある「伊都国」の一角とされる。
祭祀用とされる丹塗(にぬ)りの土器などが大量に出土しており、
琴も祭祀の儀式に使われたとみられる。

大阪府立弥生文化博物館の金関恕(かなせき・ひろし)館長(考古学)は
「画題はすべて稲作の祭りに関係し、その状況がよくわかる。
山陰などにも類例があり、共通の精神文化が根付いていたことが確認できる」という。

◎朝日新聞 2008年10月29日
  http://www.asahi.com/...

◎Google検索「元岡 桑原遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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2008.10.28


福岡・元岡遺跡群 赤い翳形木製品

福岡市西区の元岡遺跡群で、
弥生時代中期末ごろ(紀元前後一世紀)製とみられる
鮮やかな赤い翳(さしば)形木製品の一部が出土し、
市教委が翳の復元に向けた分析を進めている。
同遺跡群は、中国の史書「魏志倭人伝」に記された「伊都国」に位置する。
翳は有力者が祭祀(さいし)などの演出に用いたとされており、
市教委は伊都国の先進性や権威を示す貴重な資料としている。

市教委によると、翳は古代中国から伝わった当時の先進的文化で、
柄の部分と先端に付いた円盤状の部分からなる。
円盤状部分の周囲に鳥の羽根を差し込み、
従者が有力者や貴人にかざして日よけやうちわ、
顔を隠す目的で使ったとみられる。

出土した翳形木製品は円盤状部分の一部とみられる半円形で、
長さ25センチ、幅8センチ、厚さ1センチほど。
もともとの円盤の直径は、32センチほどあったと推定される。
表面にはのこぎりの刃の形をした
鋸歯文(きょしもん)が二重に彫り込まれ、赤い顔料が塗られている。
弥生時代の翳とみられる破片は、比恵遺跡群(博多区)でも出土しているが、
赤色の鮮やかさなど保存状態は今回の方がいいという。

元岡遺跡群からは、古代中国の貨幣なども見つかっている。
市教委は翳形木製品について
「伊都国と中国との活発な交流や、伊都国の有力者が行った祭祀の華やかさ、
先進性のイメージをかき立てる」と話している。

◎西日本新聞 2008年10月28日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「元岡遺跡」
  http://www.google.com/...

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島根・西川津遺跡 弥生時代の銅鐸出土

県埋蔵文化財調査センターは22日、松江市の西川津遺跡で、
弥生時代中期ごろの銅鐸(どうたく)片が見つかったと発表した。
横断面が不自然に曲がっていることから、人為的に壊されたとみられ、
同センターは「銅鐸の使用法を検討するうえでの良好な資料」と話している。
県内で出土した銅鐸は57個目だが、破片の出土は3個目。

同センターによると、銅鐸片は縦3センチ、横5センチ、厚さ1ミリ、重さ9グラム。
古墳時代中期の河川体積層から見つかった。
弥生時代中期に製作された銅鐸の下部分とみられ、
復元した銅鐸の高さは約40センチ。
橋りょう工事に伴い約250平方メートルを今年9月下旬から調査していた。

西川津遺跡は朝酌川に沿う弥生時代の集落遺跡で、
今回の場所から南東25メートルでは1997年に流水文銅鐸の破片が見つかっている。
今回の破片は97年の破片と製作時期や復元した大きさが同じことから
成分分析を検討するが、同じ銅鐸と断定するのは困難だという。

銅鐸は人里から離れた加茂岩倉遺跡(雲南市)や
神庭荒神谷遺跡(斐川町)のように完全な形で埋納する例と、
今回のように集落では破片で出土する例がある。
同センターは割られた破片について「割ること自体が祭祀(さいし)」や
「割ってからもう一度他の青銅器にする」という考え方があると説明している。

◎毎日新聞 2008年10月24日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「西川津遺跡」
  http://www.google.com/...

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群馬・上中居遺跡 青銅鏡破片「破鏡」が出土

高崎市教育委員会は二十二日、同市上中居町の上中居遺跡から
五世紀初め(古墳時代中期)の青銅鏡破片「破鏡」が出土したと発表した。
中国で作られ、国内で意図的に割られたとみられる破鏡が発掘されたのは、
栃木、茨城両県を含む北関東では初めて。
市教委は「ペンダントのようにして、祭祀(さいし)に用いられたのでは」と推測している。

市教委によると、九月中旬に区画整理に伴う調査で出土。
幅約七十センチ、深さ約十センチの溝から勾玉(まがたま)などとともに発掘された。

破鏡は最長十一センチ、最大幅三・五センチ、厚さは最大五ミリ。
全体は直径一二・八センチの円形だったとみられ、円の外側に当たる。
この青銅鏡は「三国志」と同じ二世紀ごろ(後漢時代)の
中国で作られた可能性が高く、その後、運ばれた西日本で割られたらしい。
破鏡は摩耗している上、小さな穴を開けたような痕跡があり、
地域の有力者がペンダントのように持った可能性がある。

市教委は「破鏡が見つかった溝は農耕用の水路だろう。
祭祀に使われる勾玉なども出たため、
破鏡は水に関連する祭祀に利用された」とみている。

◎東京新聞 2008年10月23日
  http://www.tokyo-np.co.jp/...

◎Google検索「上中居遺跡」
  http://www.google.com/...

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京都・木津城山遺跡 尾根上に墓地3基

京都府埋蔵文化財調査研究センター(向日市)は14日、
弥生時代後期の木津城山遺跡(木津川市木津片山)で、
尾根上に溝で区画した墓地3基が見つかったと発表した。
計14の墓穴があり、副葬品の鉄製やじり1点が出土した。
弥生後期の墓が、山上で見つかるは珍しいという。

木津城山遺跡は関西学研都市の開発に伴い1997年に確認された。
JR木津駅東側の丘陵(通称・城山)の標高80-100メートルにある
南北300メートル、東西150メートルほどの高地性集落跡。
開発の本格化に先立ち、6月から墓域を詳細調査した。

墓域のある尾根は、幅10メートル、長さ45メートルほど。
今は木が生い茂っているが、山城地域を一望できる見晴らしで
戦時中には墓域に高射砲の砲台も設けられていたという。

墓穴は、97年調査で確認された5つを含む14あった。
このうち一つから鉄製やじり(長さ6・5センチ、幅2センチ)が、
さびた状態で見つかった。

97年には中国製青銅鏡の破片も出土しており、
府埋文センターの筒井崇史調査員は
「河内や大和でも数少なかった貴重品のやじりや鏡が、
木津でどうして手に入ったか興味深い。
木津川を通じた人の交流の中で得た物かもしれない」と話す。

◎京都新聞 2008年10月15日
  http://www.kyoto-np.co.jp/...

◎Google検索「木津城山遺跡」
  http://www.google.com/...

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2008.10.15


愛媛・樽味四反地遺跡の20次調査

松山市埋蔵文化財センターは25日、
同市樽味の樽味四反地(したんじ)遺跡の20次調査で、
以前の調査で見つかった弥生時代後期末の大型建物跡の近くで、
ほぼ同時代の竪穴式建物跡1棟が出土したと発表した。
構造などから住居ではなかったと見られ、
大型建物跡の付近には住居が建てられていなかったことが判明。
同センターは「豪華な邸宅の周辺に他者の居住を許さなかった
権力者の存在をうかがわせる」としている。

新たに見つかった建物跡は直径約7メートル、深さ約80センチの円形。
約1800年前のものと見られ、床が通常より深く掘られていることなどから、
住居以外の用途だった可能性が高いという。

約90メートル西では、100平方メートルを超える大型建物跡が3棟見つかっているが、
その後の調査で建物群の周辺には住居がない、
集落としては不自然な状態だったことが判明。
今回出土した建物も居住用ではなく、センターは、
「特定の場所での建築を禁じるといった、
階級社会の発達があったのではないか」と推測する。

また、約1500年前の地層からは、重さ約1キロの大型の鉄おのが出土。
副葬品などとしてではなく、住居跡で見つかっており、
古墳時代中期に、高度な技術で鍛造された鉄器が
生活用品として使われていたことを示す貴重な資料という。

◎読売新聞 2008年9月26日
  http://www.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「樽味四反地遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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島根・堂ノ上遺跡 弥生後期の焼失住居跡を発見

県埋蔵文化財調査センターは、益田市久城町の堂ノ上遺跡で
弥生時代後期(約1900年前)の竪穴住居2棟の焼失跡を発見したと発表した。
弥生後期のものとしては大型で、地域の中核的な集落であった可能性が高く
集落の構造を知るうえでは貴重な遺構。

見つかった焼失住居跡は直径6・6~7・8メートルで、
弥生土器や石製品も出土した。
焼失跡の一つでは、中央にある穴の真上から
かめ型の弥生土器4個分を発見しており、鎮火後に意図的に置いて
何らかの祭祀(さいし)を行ったとみられる。
見つかった生活道具などが少ないことから、
意図的に住居を燃やした可能性もあるという。
他にも掘立柱建物跡2棟、斜面を切り取り平たんにした
作業場である加工段2カ所を発見した。

堂ノ上遺跡では昨年度の調査で、竪穴住居跡1棟と加工段5カ所が見つかっている。

◎毎日新聞 2008年9月27日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「堂ノ上遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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日本人解剖 ルーツ 沖縄の謎(2)

◎産経新聞 2008年9月22日
  http://sankei.jp.msn.com/...

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2008.10.14


兵庫・津万遺跡群 3世紀後半の竪穴住居跡9棟を確認

西脇市嶋・津万地区などにまたがる津万遺跡群の発掘調査を行っている
県立考古博物館は、弥生時代後期~末期(3世紀後半)の
竪穴住居跡9棟を確認したと発表した。
うち6棟は当時の播磨地方で主流だった方形ではなく、
隣接する丹波地方の特徴を持つ円形だったことも分かった。
博物館は「両地方の人や文化が流入し合う最前線だった」とみている。

円形住居跡は直径約5~8・6メートル、方形(3棟)は1辺約4・5メートルで、
円形より少し新しい時代のものだった。
また、昨年の調査で遺跡群の寺内地区から見つかった
3世紀前半の住居跡は方形だったことから、
遺跡群の地域では住居が方形と円形に繰り返し変化していたことが分かったという。
最大の住居跡から当時貴重品だった鉄の鏃(やじり)も見つかっており、
博物館は「主に武器などに使用されており、
両地方の間で勢力争いがあったことも考えられる」としている。

このほか、遺跡群からは、奈良から平安にかけての時代(8世紀末~9世紀)の
祭祀(さいし)遺物だった木製の馬形や墨書土器、役人の帯に使う石の装飾品、
掘立柱建物跡も見つかった。
博物館は「当時は多可郡の役所『多可郡衙(ぐんが)』(多可町中区)が
播磨国府(姫路市)に納める物資を加古川舟運で運ぶ前に
一時的に保管する倉庫や、役人の住居があった」と推測している。

◎毎日新聞 2008年9月20日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「津万遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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2008.09.25


三重・小谷A遺跡 「方形周溝墓」6基発見

県埋蔵文化財センターは、松阪市嬉野天花寺町で発掘調査を進めていた
「小谷A遺跡」から、周囲が溝で囲まれた墓「方形周溝墓」6基が見つかったと発表した。
方形周溝墓は弥生時代末期(約1800年前)のものとみられ、
溝からは、同時期の素焼きの壺(つぼ)や高坏(たかつき)も、
ほぼ完璧(かんぺき)な形で発見された。

発掘調査は、県道の建設工事に伴って行われ、対象は389平方メートル。
出土した方形周溝墓6基は、
最大で9メートル四方、最小のもので5メートル四方だった。
壺や高坏は、葬儀などに使われたとみられる。

同遺跡周辺の遺跡からは、
これまでに縄文時代の遺構(地面に残る生活の痕跡)や
弥生時代の竪穴式住居跡、船とシカが描かれた
弥生時代後期の「絵画土器」などが見つかっている。
このため、同センター調査研究1課の西村美幸主査(41)は
「方形周溝墓は、集落を統括した有力者を埋葬した墓地だった可能性が高い」と話している。

◎読売新聞 2008年9月20日
  http://www.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「小谷A遺跡」
  http://www.google.com/...

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愛知・朝日遺跡 弥生人がコイ養殖

愛知県清須市や名古屋市にまたがる
弥生時代中期の巨大環濠(かんごう)集落跡「朝日遺跡」で、
幼いコイの歯の化石が大量に見つかり、
弥生人がコイを飼って食料にしていた可能性が高いことが18日、
滋賀県立琵琶湖博物館(草津市)などの調査で分かった。

遺跡から出土したコイののどの奥にある咽頭(いんとう)歯167点を分析したところ、
生後数カ月とみられる体長5-15センチの幼魚と、
2-3歳と推定される体長35-45センチの成魚の大小2つのグループに分かれた。

同博物館によると、自然の水域から小さな幼魚を大量に捕獲するのは困難で、
産卵期に捕まえたコイの成魚を集落の環濠や
灌漑(かんがい)水路などに放して自然に産卵させ、
生まれた稚魚を飼養していたとみられるという。

国内では最古のコイの養殖例とみられ、
古代中国でコイの養殖方法を記した文献などが見つかっていることから、
コイ養殖の知識は水位を人為的に制御する水田稲作の技術とともに
大陸から伝来したと考えられる。

研究に携わった同博物館の中島経夫・上席総括学芸員(古魚類学)は
「自然の川や池で大量の幼魚を捕まえたとは考えにくく、
原始的な養殖とみるのが妥当。コメと同様にコイを保存食として
活用していたのだろう」と話している。

研究結果は、近く英国の考古学雑誌に発表する予定。

◎京都新聞 2008年9月18日
  http://www.kyoto-np.co.jp/...

◎Google検索「朝日遺跡」
  http://www.google.com/...

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福岡・大保横枕遺跡で弥生前期の二重環濠

小郡市教委は17日、同市大保の大保横枕(おおほよこまくら)遺跡から、
周囲に二重の堀をめぐらした弥生時代前期の二重環濠(かんごう)跡が出土したと発表した。
二重環濠は、福岡市の那珂遺跡など各地で見つかっているが、
環濠全体が発掘できたのは全国で初めてという。

堀はだ円形で、外側の堀の円周は約250メートル、
南北の幅88メートル、東西の幅79メートル。
内側の堀は南北61メートル、東西54メートル。
どちらの堀も幅約2.5‐4メートル、深さ約1‐2メートルのV字形に掘られている。

二重環濠は、堀の内側に設けた住居や食料倉庫を
野獣などから防衛するために掘られたとされる。
大保横枕遺跡の二重環濠の内側や周辺には、
住居や食料を保管した「貯蔵穴」が複数発見されており、
小郡市教委は今後、住居や貯蔵穴の年代を特定し、環濠との関連を調べるという。

九州大名誉教授の西谷正氏は
「環濠全体を初めて発掘でき、当時の集落の全容を解明するための
貴重な史料となる」と話している。

◎西日本新聞 2008年9月18日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「大保横枕遺跡」
  http://www.google.com/...

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2008.09.17


王族の顔隠す道具か 「伊都国」?跡から出土

福岡市西区の元岡遺跡群で、
約2千年前の弥生時代中期末(紀元前後)に作られた
色鮮やかな翳(さしば)形の木製品が出土したことが13日、わかった。
遺跡群は福岡市教委が発掘調査を続けてきた。
中国の史書「魏志倭人伝」にある「伊都国」の一角とされ、
王族らの権力や暮らしぶりを物語る重要な資料となる。

翳は、儀式の時などに使われた、円いうちわのような道具。
中心に穴が開いたドーナツ状の円形部分を柄にとりつけて、
貴人に差し掛け、顔を隠すために使われたらしい。

出土したのはその一部で、長さ22センチ、幅8センチ、厚さ1センチほどの半円形。
両面に赤い顔料で、鋸歯(きょし)文という、
のこぎり状の文様が二重に描かれている。
権力の象徴として、伊都国の王族ら有力者が使ったと考えられる。
翳形木製品としては最古級とみられる。

ほかに鳥形の木製品2点も見つかった。
鳥形木製品は穀物の霊や死者の魂を運ぶ象徴など諸説ある。 
同遺跡群は伊都国内の祭祀(さいし)の場とされ、
古代中国の貨幣や小刀の鞘(さや)尻金具、獣骨などが多数見つかっている。
今回発見された木製品は、弥生中期末の土器の集積の下から出土した。

視察した春成秀爾・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)は
「弥生の王族や貴族の実態の片鱗(へんりん)が見えてくるようだ。
伊都国の王族のイメージを考古資料に即して
考えられる貴重な資料となる」と話している。

◎朝日新聞 2008年9月13日
  http://www.asahi.com/...

◎Google検索「元岡遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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日本人解剖 ルーツ 沖縄の謎(1)

◎産経新聞 2008年9月15日
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日本人解剖 ルーツ 縄文人か弥生人か

◎産経新聞 2008年8月25日
  http://sankei.jp.msn.com/...

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日本人解剖 ルーツ 神話を読み解く(2)

◎産経新聞 2008年9月8日
  http://sankei.jp.msn.com/...

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砂丘広がり集団墓地 和歌山県・田辺市街地

約2000年前の弥生時代中期、田辺市の中心市街地に砂丘が広がり、
砂丘の尾根周辺に、集団墓地が作られていたことが、
県文化財センターの発掘調査で分かった。

昨年から続いている海蔵寺通りの発掘調査で、
供え物の壷(つぼ)を伴う墓が3基、壷を伴わない墓穴が4カ所で確認された。
関係者は「その後の開発で失われた部分も多く、
広範囲に墓地が広がっていた可能性がある」と話している。

海蔵寺通り(都市計画道路・元町新庄線、県道田辺龍神線)では昨年から、
2車線18メートル(延長約260メートル)に拡幅する工事に伴う発掘調査を続けている。
今年は6月から約1300平方メートルで発掘調査を開始。
8月下旬、死者とともに埋められたとみられる弥生時代中期の取っ手付きの壷
(最大径約19センチ、高さ約25センチ)と高坏(たかつき、直径24センチ、高さ約25センチ)の
弥生土器が出土した。

昨年6、7月の調査(約330平方メートル)では、
壷を伴う墓が2基、墓穴とみられる土坑が4カ所確認されている。
1カ所からは土器の破片が出ている。
この辺りの土質では人骨は残らないという。

田辺市の中心市街地では、今福町や南新町、下屋敷町、湊神田町などからも
供献の壷やその破片などが出土している。
このことから、会津川付近から弓形に砂丘の尾根が続いていて、
集落ごとに集団墓地が作られていたとみられている。
住居地は離れた場所で、秋津町辺りの平野にあったと推測されている。

発掘担当の川崎雅史さんは、
みなべ町の片山遺跡や美浜町の吉原遺跡などから見つかった
同時期の集団墓地と形態が似ており、
当時の生活を知る上で貴重な発見としている。

◎紀伊民報 2008年9月13日
  http://www.agara.co.jp/...

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2008.09.16


柳沢遺跡から新たに銅鐸片3個

県埋蔵文化財センター(長野市)は12日、
昨年に東日本で初めて弥生時代中期の祭器「銅戈(どうか)」と「銅鐸(どうたく)」が
一緒に出土した中野市の柳沢遺跡で、
新たに銅鐸の破片18点が見つかったと発表した。

うち3点は昨年出土した銅鐸の一部。
ほかの破片でさらに3個分になるという。

同遺跡調査指導委員会の笹沢浩委員長によると、
同じ遺跡から複数の銅戈と銅鐸が見つかったのは、
神戸市の桜ケ丘遺跡に次いで全国で2例目。

15点の破片は、銅鐸の「紐(ちゅう)」と呼ばれる上部や、すそに当たる部分などで、
長さは数センチから10センチ程度。近畿地方を中心に出土している
僧侶の袈裟(けさ)に似た形の文様「袈裟襷文(だすきもん)」を確認できる破片もあり、
これらは比較的古い型の「外縁付紐(がいえんつきちゅう)2式」の一部とみられ、
近畿でつくられた可能性が高いという。

昨年見つかった銅鐸は流水文があり、さらに古い「外縁付紐1式」。
異なる時代の銅鐸が存在していたことになり、
同遺跡調査指導委員会委員の難波洋三・奈良文化財研究所考古第一研究室長は
「この地域は長い間にわたって、近畿地方と濃密なつながりがあったみられる」と指摘した。

同センターは、排水路を設けるため昨年度に重機で掘った土の中に、
ほかの青銅器が含まれている可能性があるとみて調べていた。

◎信濃毎日新聞 2008年9月13日
  http://www.shinmai.co.jp/...

◎Google検索「柳沢遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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縄文人、イノシシ飼育!? 琵琶湖周辺

縄文時代中期(約5000年前)に、
琵琶湖周辺でイノシシが家畜として飼われていた可能性があることが、
総合地球環境学研究所(京都市北区)の内山純蔵准教授(環境考古学)の研究で
9日までに分かった。
「縄文時代は狩猟採集」という固定観念に再考を迫るものという。

弥生時代の各地の遺跡からブタの骨が出土していることから、
弥生時代にはすでにブタを家畜化していたと考えられているが、
縄文時代については定説がない。

内山准教授は、1990年に発掘調査が行われた
粟津湖底遺跡第三貝塚(大津市)から出土したイノシシの歯約20本を調べた。
食用に最適な子どもがほとんどで、歯のすり減り方が野生より大きく、
「ドングリなど硬い餌を人から与えられていたのではないか」という。

縄文中期以降、木の実の利用が拡大したことが分かっており、
イノシシの家畜化が一因となった可能性もあるという。

内山准教授は「縄文時代は狩猟だけでなく、家畜を飼う先進的な試みなど、
試行錯誤があったのではないか。今後、他の遺跡も調査し、
家畜化の実態を明らかにしたい」と話している。

◎京都新聞 2008年9月10日
  http://www.kyoto-np.co.jp/...

◎Google検索「縄文 家畜」
  http://www.google.co.jp/...

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日本人解剖 ルーツ 神話を読み解く(1)

◎産経新聞 2008年9月1日
  http://sankei.jp.msn.com/...

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東日本最古の畑の跡か 静岡・手越向山遺跡

静岡市駿河区の手越向山(てごしむこうやま)遺跡から、
東日本で最古とみられる弥生時代中期初頭(約2300年前)の畑の跡が見つかった。
これまで東日本で最古とされた弥生後期の
植出(うえだし)遺跡(沼津市)などより400-500年古く、
農耕文化の本格的な伝播(でんぱ)以前の農業の姿をうかがわせる遺構として注目される。 

畑とみられる遺構は、静岡大人文学部考古学研究室が昨年発掘した
国道1号北側の佐渡山の東斜面に残る、
弥生中期後半の方形周溝墓の下層から見つかった。

少なくとも30平方メートルの広さに、何列にも連なる浅い溝状の跡が残り、
人が耕したように土の粒子の大きさが不規則で、古い土と新しい土が混じり合っていた。
遺構の近くからは、同じ弥生時代中期初頭の石クワが見つかっており、
発掘に当たった同研究室の篠原和大准教授は「畑の可能性が極めて高い。
耕す際に、石クワを使ったのではないか」と推測する。

同研究室は2006年3月に手越向山遺跡の発掘調査を開始。
今年3月の第3次調査で方形周溝墓の下から溝状の跡が見つかり、
畑の可能性があるとして8月から第4次調査に入っていた。

発掘現場で3日行われた報道陣向けの調査報告会で、
篠原准教授は「専門機関による土壌の分析が進んでいるところだが、
本格的な水田耕作文化が伝わる以前から、
この一帯に小規模で初期的な農耕文化が存在していたと推測できるのでは」と話した。

◎中日新聞 2008年9月4日
  http://www.chunichi.co.jp/...

◎Google検索「手越向山遺跡」
  http://www.google.com/...

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青谷上寺地遺跡から緑色の顔料 東アジア最古の使用例

鳥取県埋蔵文化財センターは3日、
鳥取市青谷町青谷の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から出土した
弥生時代後期(1~3世紀)の木製の盾に
鉱物の緑土が塗られていたことが分かったと発表した。
緑土は砕いてニカワなどと混ぜると緑色を発色する。

北朝鮮・南浦にある徳興里(とっこうり)古墳の壁画(408年)が
緑色の顔料の使用例としては東アジアで最も古いとされてきたが、
今回の盾はこれを100~300年さかのぼる。

顔料が検出されたのは、遺跡の溝から98年度に掘り出された盾の破片2点。
成瀬正和・宮内庁正倉院事務所保存課長がエックス線で分析した。
盾は祭事の道具や武器として使われていたとみられる。
同センターでは「色を塗る行為は縄文時代に確認されているが、
弥生時代はベンガラや炭を使う『赤と黒の時代』とされてきた。
緑色の使用が分かったことは顔料史上、画期的な発見だ」としている。

〈水野正好・奈良大名誉教授(考古学)の話〉 
色を塗る行為には装飾や魔よけの意味がある。
使う色が多くなるということは色彩感覚の豊かさや文化の高さの表れといえる。
弥生時代に高い発色技術があった可能性を示す発見だ。

◎朝日新聞 2008年9月3日
  http://www.asahi.com/...

◎Google検索「青谷上寺地遺跡」
  http://www.google.com/...

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福岡・御陵遺跡で戦国式系銅剣の鋳型が出土

福岡県春日市教委は1日、同市須玖北9丁目の御陵遺跡から、
弥生時代後期(1世紀ごろ)の戦国式系銅剣の鋳型が出土したと発表した。
この種の鋳型の出土は国内初。
戦国式系銅剣は中国などでつくられて輸入されたとの説が有力だが、
今回の出土は国内での製造を裏付けるものとして注目される。

同市教委によると、鋳型は石英長石斑岩(せきえいちょうせきはんがん)でできており、
長さ30.5センチ、幅9.6センチ、厚さ6.2センチ。重さは約3キロ。
紀元1世紀ごろの竪穴式住居跡から7月に見つかった。
青銅のくずも見つかっており、工房跡とみられる。

鋳型の右側面は銅矛の鋳型として使用された跡があり、
その後に銅剣の鋳型として再利用されたらしい。

春日市にある須玖岡本遺跡は、魏志倭人伝や後漢書に出てくる
弥生時代の「奴国(なこく)」の中心地として知られ、
青銅器の工房跡が多数発見されている。
御陵遺跡は須玖岡本遺跡の約750メートル北西にある。

◎朝日新聞 2008年9月3日
  http://www.asahi.com/...

◎Google検索「御陵遺跡」
  http://www.google.com/...

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広島県庄原で初期の四隅突出墳丘墓

庄原市宮内町の佐田谷・佐田峠墳墓群を発掘調査している広島大と市教委は28日、
弥生時代中期末葉から後期初頭にかけて築造された
初期段階の四隅突出型墳丘墓を確認したと発表した。
同型墳丘墓の「三次・庄原起源説」を補完する遺跡、という。

墳墓群は20年前、近くの国道工事に伴い発見され、
約300メートル四方に6基の四隅突出型墳丘墓が試掘により確認されている。
今回調査している佐田峠3号墓は、
東西15メートル、南北8メートル、高さ1.2メートルと分かった。

庄原市と広島大は今後、5年かけて同古墳群を調査し、国の史跡への指定を目指す。

◎中国新聞 2008年8月29日
  http://www.chugoku-np.co.jp/...

◎Google検索「佐田峠 遺跡」
  http://www.google.com/...

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2008.08.28


箸墓古墳 天皇陵に規模匹敵「卑弥呼の墓」強まる?

邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説があり、
最古の巨大前方後円墳といわれる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、3世紀後半)の前方部で、
大規模な周濠(しゅうごう)跡が見つかった。
周濠の幅が従来の推定より約40メートル広く、
天皇陵とされる後の大型前方後円墳に匹敵する規模だったことが判明。
ヤマト王権成立を巡る議論の新たな手がかりとなりそうだ。

市教委が5~7月、前方部前面にあたる水田約110平方メートルを調査し、
大きな溝状の落ち込み(深さ1・3メートル以上)を33メートル分確認。
底に水があったことを示す腐植層(植物が腐って土になった層)があった。
落ち込みと墳丘の位置関係や出土した土器の年代から、外濠の一部と判断した。

外濠はこれまで墳丘北側などで一部を検出していた。
今回は墳丘南側で確認された。
墳丘を一定幅で一周する馬てい形で、
内堤を挟んで内濠と外濠が巡る二重構造であることも、ほぼ確定。
周濠を含む古墳の全長は推定で一回り大きい約450メートルになった。

日本書紀は、箸墓古墳の築造を「昼間は人が夜は神が造った。
大坂山の石を山から墓まで人々が連なり手渡しで運んだ」と、その壮大さを伝えている。
墳丘を一定の幅で囲む大規模周濠の存在が明らかになったことは、
箸墓古墳が前方部の周濠が著しく狭い「箸墓以前」の前方後円墳と一線を画すことを示す。
これまで確認された墳丘のふき石や、内堤と墳丘をつなぐ渡り堤の存在と合わせて、
箸墓古墳が後の古墳の原形だったことを改めて裏付けた。

◇解明へ大きな意義
   --寺沢薫・県立橿原考古学研究所総務企画部長(考古学)の話
古墳研究の起点である箸墓古墳の実体がまた一つ解明され、大きな意義がある。
前方後円墳の発展過程で、墳丘の巨大化に伴い周濠の規模も大きくなったのだろう。
周濠の深さや大きさは、王と地方の首長や民衆との距離が一層、隔絶したことを示しており、
箸墓古墳の時代にはヤマト王権の力が全国に及んでいたと考えられる。

◎毎日新聞 2008年8月27日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「箸墓古墳」
  http://www.google.com/...

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白百合遺跡で海浜集落跡見つかる

牧之原市教委が発掘調査を進めている同市静波の白百合遺跡で、
弥生時代後期の掘立柱(ほったてばしら)の建物が
複数建っていたとみられる海浜集落跡が見つかった。
周辺は当時、海岸に近い砂地で、
市教委によると「こうした海岸べりの集落跡は、
浜松市の伊場遺跡で見つかっているが、
天竜川以東の県内では初めて」という。

遺跡は牧之原市役所榛原庁舎から北へ約100メートルの畑地で、
広さ約600平方メートル。
市道建設のため今年の5月中旬から保存調査していた。

集落跡は地表から約1メートルの深さの砂地で見つかった。
縦3メートル、横4メートルのいずれも高床式倉庫など
掘立柱の建物とみられる4棟の跡があり、
それぞれに4-6本の柱を建てたような
穴(直径40-50センチ、深さ30-60センチ)が残っていた。
集落外には砂地を人工的に区画したような大溝も作られていた。

周辺からは食料や水を入れたつぼ、煮炊きに使ったとみられるかめ、
食べ物を盛り付けた高坏(たかつき)の土器も約200点出土した。

市教委では「海岸線に近い砂の堤防か砂丘につくられた集落で、
県内での発見例はほとんどない。
これまで砂丘は人が住みにくいと考えられていたが、
古代人の土木技術の高さがうかがえ、
海浜集落の実態を解明する上で貴重な発見」と話している。

◎中日新聞 2008年8月28日
  http://www.chunichi.co.jp/...

◎Google検索「白百合遺跡」
  http://www.google.com/...

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弥八田遺跡で「再葬墓」出土

【西方】町教委が県立博物館の協力で発掘調査していた真名子地区で、
弥生時代中期後半から後期初頭の遺跡「再葬墓」二基が二十六日までに見つかった。
県立博物館の上野修一特別研究員の協力で十八日から調査を行っており、
「弥八田遺跡」と名付けた。
県考古学会の塙静夫会長は「弥生時代の遺跡は県内では数少なく、貴重な発見」と話している。

再葬墓は、墓を掘り起こし白骨化した骨を骨つぼである土器に入れ、
再び埋葬した墓のことで、弥生時代の特徴的な埋葬方式という。

同遺跡は、三月に実施した町史編さん・古代中世に伴う遺跡分布調査で、
同所の狐塚宏一さん(81)が三年前に自宅近くの斜面で見つけた土器が、
約千九百年前の弥生時代中期後半の再葬墓に使用されたものと見られたため、
町教委が発掘調査を行っていた。

現場は小高い丘の竹やぶ。調査範囲は約二十平方メートルで、
遺跡は約二・五メートルの小高い丘を削り取った斜面近くにあり、
二基の再葬墓が並んでいた。

再葬墓は南北に細長い楕円形で、穴の大きさは
縦約百十センチ、横八十センチと、縦約百センチ、横七十センチ。
出土した土器は、県内で見られる紋様のほか、
長野県や群馬県で見られる紋様が確認されており、弥生時代中期後半と思われる。

上野特別研究員は「遺跡の西側が削り採られているため、
全体の規模は分からないが、弥生時代の祭葬墓が確認できて、
この周辺に集落があったことが分かった。
町の歴史を知る上で貴重な資料となった」と話している。

県内では栃木市の大塚遺跡や旧粟野町の戸木内遺跡、
佐野市の出流原遺跡などで再葬墓が確認されている。
町教委は今後つぼの中身などの調査を進める。

◎下野新聞 2008年8月27日
  http://www.shimotsuke.co.jp/...

◎Google検索「弥八田遺跡」
  http://www.google.com/...

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十王堂遺跡で縄文中期から中世の集落跡

県教育財団は19日、日立市末広町5の「十王堂遺跡」が発掘調査の結果、
縄文中期から中世にわたる集落跡の複合遺跡と判明したと発表した。

調査では、縄文時代中・後期の竪穴住居跡12軒やフラスコ状土坑7基、
弥生時代の土坑墓、平安時代の竪穴住居、中世の井戸跡などの遺構が見つかった。

出土品では、弥生時代の墓から、首飾りなどに使われたとみられる
砕かれた石の管玉が見つかった。
砕かれた管玉は福島、群馬県などで見つかっているが、県内の出土は初めてだという。
また、同遺跡土坑の底面付近からは、
縄文時代晩期から弥生時代のものとみられる直径約40センチの柱材も見つかった。

このほか、多量の縄文・弥生土器や、中世の青銅製和鏡も出土した。

◎毎日新聞 2008年8月20日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「十王堂遺跡」
  http://www.google.com/...

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西野遺跡群で銅矛の再加工品が初出土

高知県香南市の西野遺跡群で、弥生時代の祭りの道具である銅矛の芯の一部を再加工し、
棒状にした青銅器が出土し、同市教育委員会が14日、発表した。
銅矛の再利用例は国内初という。

鑑定した愛媛大の吉田広准教授(考古学)は
「祭祀用だった銅矛を剣として再利用した可能性が高い。
祭器の使い方を考える上で貴重な史料だ」としている。

市教委などによると、青銅器は全長13・8センチ、幅2・2センチ。
銅矛の芯に当たる盛り上がった部分を利用、片方の端に直径約5ミリの穴が開けてあった。
穴の周辺には磨いた跡も残っていた。
木などの柄を付けて剣などの武器として利用したか、
銅鐸を鳴らすために内側にぶら下げて使用した可能性もあるという。

銅矛は1世紀ごろに九州北部で鋳造され、3世紀初めごろまでに再加工されたらしい。

西野遺跡群では、これまでに土器など計約15万6000点が出土。
青銅器は竪穴住居跡から見つかった。
15日から県立歴史民俗資料館で展示される。

◎共同通信 2008年8月14日
  http://www.47news.jp/...

◎Google検索「西野遺跡」
  http://www.google.com/...

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日本人解剖 ルーツ 二重構造は語る(3)

◎産経新聞 2008年8月10日
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2008.08.26


日本人解剖 ルーツ 二重構造は語る(2)

◎産経新聞 2008年8月4日
  http://sankei.jp.msn.com/...

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あなたは縄文系?弥生系?

◎産経新聞 2008年8月4日
  http://sankei.jp.msn.com/...

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梅田萱峯墳丘墓 建造物の柱穴を新たに4個発見

県埋蔵文化財センターは1日、県内最古の墳丘墓、
梅田萱峯(かやうね)墳丘墓(琴浦町梅田)で石棺を囲むように建てられていた
建造物の柱穴が新たに4個見つかり、9個になったと発表した。
建造物は、埋葬時の葬儀で使った後に取り壊され、その後、墳丘に石が張られたことも分かった。

墳丘墓は、弥生時代中期(約2000年前)に造られた「方形貼石墓」とされる。
柱穴は直径60~90センチ、深さ80~100センチ。
以前見つかった5個と合わせると、8本の柱は東西2・7~2・8メートル、
南北6・4~6・6メートルの長方形になり、その北にもう1本柱があったことになる。
同センターはこの柱は、屋根を支える独立棟持柱(むなもちばしら)ではないかと見ている。

兵庫県立考古博物館の石野博信館長は
「古墳の埋葬施設内に建物を建てる例は奈良県の3世紀のホケノ山古墳にあるが、
ルーツは中国・漢代の葬制、陵寝制だろう。
中国の思想的影響を検討する必要を生じさせた貴重な発見だ」と話している。

◎毎日新聞 2008年8月2日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「梅田萱峯」
  http://www.google.co.jp/...

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2008.07.30


丸亀市で弥生期の方形区画発掘

丸亀市飯山町東坂元秋常で、弥生時代中期~後期の
約10メートル四方の方形に区画した溝跡が見つかり、
県埋蔵文化財センターが26日、発表した。
同じ場所から平安時代の掘っ立て柱建物跡や
鎌倉時代から室町時代にかけての溝も出土。
同センターは大規模な集落があったとみており、さらに発掘調査を進める。

同センターによると、国道438号の拡幅工事に伴って今年5月から、
約2200平方メートルを発掘。溝は2本が並行して東西に並び、
その東端を結ぶように南北に1本見つかった。

溝の内側から建物跡と見られる柱穴などは出ていないが、
東に向かって溝が延びており、土器や石器の破片、
土器製造時に出る石くずが多数出土したことなどから、
同センターは方形区画の溝と推定した。

平安時代の掘っ立て柱建物跡は、東西8・3メートル、南北4・2メートルと大きく、
中央に巨大な柱穴があることから倉庫と考えられる。
鎌倉~室町時代の溝跡は用水路とみられるという。

近くには「讃岐富士」と呼ばれる飯野山(421・9メートル)がそびえ、
山の周辺には古墳や集落跡の遺構が多数あり、
山下平重・文化財専門員は「讃岐富士は古代信仰の山と考えられる。
今後の調査で集落跡や大きな社跡が出るかもしれない」と期待している。

◎読売新聞 2008年7月27日
  http://www.yomiuri.co.jp/...

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伊古遺跡で熊本産土器1000点出土

雲仙市教育委員会は、同市瑞穂町西郷の伊古(いこ)遺跡で、
弥生時代から古墳時代にかけて
熊本県の菊池川流域で作られたとみられる
土器の破片が約1000点出土したと発表した。
同市教委は「古くから有明海を挟んで
盛んに交流が行われたことを示す資料だ」としている。

同遺跡は縄文時代草創期から近代までの複合遺跡で、
2005年度から発掘調査が始まった。
今回の発掘は昨年11月から今年1月にかけて行われ、
長さ2.3メートル、幅3.5メートル、深さ90センチの溝状遺構から
かめやつぼなどの土器や破片が出土した。

同市教委は、土器の形状や土質などを分析した結果、
南島原市北有馬町の今福遺跡や雲仙市国見町の十園(じゅうぞの)遺跡で
過去に出土した土器と同様、
熊本県内で製造された土器である可能性が高いと判断したという。

◎西日本新聞 2008年7月26日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「伊古遺跡」
  http://www.google.com/...

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日本人解剖 ルーツ 二重構造は語る(1)

◎産経新聞 2008年7月28日
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日本人解剖 ルーツ 民族の形成(8)

◎産経新聞 2008年7月21日
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2008.07.16


田熊石畑遺跡ですべての墓から武器

弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓域や集落跡が広がる
田熊石畑遺跡(宗像市)に、研究者の熱い視線が集まっている。
今月上旬までに出土した青銅武器の数は、同時期とされる
吉武高木遺跡(福岡市西区)の11本をしのぐ15本で、今後さらに増えそうだ。
特殊な「再葬墓」も見つかった。「邪馬台国」の時代をさかのぼること400年。
現在の宗像地域にいったいどんな有力集団がいたのか。
壮大な謎解きが待ち受ける。

「すべての墓から武器が出ること自体が極めて珍しい」。
調査担当の宗像市文化財係職員は発掘成果に驚きを隠さない。

墓域の調査区域約200平方メートルに確認された9基のうち、
これまで発掘した6基すべてで銅剣や銅矛など計15本が出土。
中でも5本が副葬されていた1号墓の被葬者は、
大きな力を持っていたとの想像が広がる。

出土した銅戈(どうか)の1つは全長13センチと、同時期としては国内最小。
国外でもこれほどの極小サイズは報告例がないという。
舶来品ならば朝鮮半島との交易路が、国産品ならば製造地がどこなのかが問題となる。
小田富士雄・福岡大学名誉教授は
「流通ルートなどを考える上でも、青銅器の成分分析の結果が待たれる」と
今後に期待する。

また、銅剣1本が出土した3号墓で、頭骨や腕骨、あばら骨、鎖骨などを見た
田中良之・九州大学教授は「骨の位置が不自然。
ばらばらの骨を意図的に並べ直した『再葬墓』だ」と指摘した。

「再葬墓」は元の墓を掘り起こし、別の場所に埋葬し直す習慣。
甕棺墓(かめかんぼ)には1基に複数の人骨を埋葬する形で多く見られるが、
木棺墓での出土例はほとんどない。
田中教授は「共に葬られるべき特別な人物たちが、
この墓域に集められたためではないか」と、
この地に君臨した「華麗なる一族」の存在を推測する。

墓域の調査はいったん終了し、今後は墓域に隣接する集落遺構に焦点が移る。
居住域や貯蔵域などから当時の人口や集落規模、生活の様子が明らかになるに違いない。
首長の大型居館や祭殿、集落の防衛機能などを持つ環濠(かんごう)跡などが見つかれば
「いよいよ有力な地域集団の存在が裏付けられる」(西谷正・九州歴史資料館長)ことになる。

◎西日本新聞 2008年7月15日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「田熊石畑遺跡」
  http://www.google.com/...

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竹林寺天文台遺跡で竪穴式住居跡など発見

口市鴨方町本庄の岡山天文博物館に隣接する竹林寺天文台遺跡の発掘調査で、
弥生時代後期(約1900年前)の竪穴式住居跡や掘立柱建物跡などが見つかった。
現場は瀬戸内海を望む標高340メートルの高台にあり、高地性集落と見られる。
同市教委が明らかにした。

国立天文台の新観測施設建設に伴う調査で、
今年4月30日から約700平方メートルを調査した。
遺構は鎌倉時代の土溝墓と弥生時代後期の建物跡の2層構造になっていた。
竪穴式住居は、直径6・5メートルと同8・3メートルの2棟があった。
土砂の流入を防ぐため、建物を囲う板を立てるための溝
「壁体溝(へきたいこう)」が周囲に巡らされ、
建て替えで生じたと見られる柱穴が多数残されていた。
また、遺物の中には、石錐(いしきり)など石器や甕(かめ)など
生活道具が多く含まれていた。

岡山市や井原市、香川県などにも瀬戸内海を望む高台に
同時代の集落跡が見つかっており、
担当者は「当時の瀬戸内海周辺の歴史を考える上で
重要な手がかりになるのでは」としている。

◎毎日新聞 2008年7月11日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「竹林寺天文台遺跡」
  http://www.google.com/...

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加茂岩倉遺跡の銅鐸が国宝に

国の文化審議会が国宝に指定するよう答申していた
加茂岩倉遺跡(雲南市)から出土した銅鐸(どうたく)三十九個が十日、
官報告示され、正式に国宝になった。
島根県関係の国宝指定はこれで六件となった。

一九九六年に出土した弥生時代の銅鐸は一カ所での出土数では全国最多。
県立古代出雲歴史博物館(出雲市)で保管・展示されている。

◎中国新聞 2008年7月10日
  http://www.chugoku-np.co.jp/...

◎Google検索「加茂岩倉遺跡」
  http://www.google.com/...

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縄文、弥生時代に大津波か

南三陸町戸倉の波伝谷地区で六月末から二日まで、
歴史上の記録が存在しない過去の大規模地震の周期や、
それに伴う津波の浸水域などを探る地質調査が行われた。

海から約三百メートル離れた湿地の下から泥炭層を挟む形で
海浜礫(れき)と海の砂の二つの地層が確認され、
三千?二千年前(縄文?弥生時代)に
大きな津波が二度あったことが推定されるという。

大阪市立大大学院理学研究科の原口強・准教授と
東北大大学院付属災害制御研究センターの後藤和久・助教が共同で行った。
過去の津波の浸水域のほか、宮城県沖地震で想定されている連動型は
過去に本当にあったのかなどを調べ、今後の防災や減災に役立てる。

史書に残されている日本での大規模な地震、津波は、
平安前期の八六九年七月にあった「貞観(じょうがん)の津波」が最古で、
津波は仙台平野一帯を水没させ、千人を超える水死者が出たとされている。

今回の調査地点となった波伝谷地区は、
一九六〇年のチリ地震津波で浸水した場所。
さらに、神様の御座船が停泊中に大波で打ち上げられ、
動けなくなったことが起源とされる戸倉神社もあり、
歴史的な背景も調査対象としての関心を高めた。

同神社の氏子総代で町文化財保護委員も務める後藤一磨さん(六〇)の案内で、
神社裏手の湿地で地下約四メートルまでのサンプルを採取した。
原口准教授は「海浜の礫層と砂の層が確認できた。
海から運ばれた堆積(たいせき)物で、津波の痕跡と思われる」と説明。
「おそらく縄文から弥生時代にかけてのもの」と話し、今後、年代を特定するという。

同地区での周期や浸水域の推定には
「チリ地震津波、明治、昭和の三陸大津波の痕跡も必要」としており、
秋から冬にかけて、さらに海岸寄りの地点で再調査をすることにしている。

◎三陸河北新報 2008年7月4日
  http://www.sanriku-kahoku.com/...

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2008.07.03


太田・黒田遺跡 弥生土器に倉庫の絵

和歌山市の太田・黒田遺跡から出土した弥生土器の破片に、
高床式倉庫とみられる建物が描かれていたことがわかり、
和歌山市教委が2日、発表した。
同遺跡は、弥生前期から中期にかけての県内最大規模の集落跡で、
土器は祭祀(さいし)に用いられたとみられる。
市教委は「祭祀の内容を理解して土器に描く技能を持った人物が、
集落にいたことを示す貴重な資料」としている。

市教委文化振興課によると、土器片は、
昨年4~8月の第59次発掘調査で弥生時代の小穴から出土し、
縦約5センチ、横約6センチ。
弥生中期の壺(つぼ)の胴体部で、
切妻屋根を持つ高床式倉庫の柱と壁の一部が描かれていた。

同遺跡では、これまで竪穴住居や井戸、水田などの遺構、埋葬施設が確認された。
高床式倉庫の柱穴とみられる遺構も見つかっており、
自然を崇拝して豊漁や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る祭祀が、
土器を使って行われていたとみられる。

弥生時代の絵画土器は、これまで県内で5点見つかっており、
このうち3点は同遺跡で出土。
同遺跡の3点を含む4点はシカ、残る1点は水鳥が描かれていた。
建物を描いた土器片の出土は、県内で初めてという。

◎読売新聞 2008年7月3日
  http://www.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「太田 黒田遺跡」
  http://www.google.com/...

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田熊石畑遺跡 青銅武器計13本に

弥生時代中期前半(紀元前二世紀)の墓から
銅剣などの青銅武器5本が出土した福岡県宗像市の田熊石畑遺跡で、
周囲の墓から8本が新たに見つかり、1日までに計13本に達した。

この時期の集団墓から出土した青銅武器は、
吉武高木遺跡と吉武大石遺跡(ともに福岡市西区)の
各11本が最多とされていたが、これを上回る。
研究者らは「北部九州の有力な地域集団の1つが存在していたことを示す」と注目している。

同遺跡は、宗像市役所の南西約600メートルに位置する弥生時代の集落遺跡。
多数の住居跡などに隣り合う形で墓域がある。
現在までに約200平方メートルの区画で計9基の木棺墓を確認。
このうち、先に5本の青銅武器が出土した墓のほか5基から、
新たに同時代中期前半ごろの細形、中細形の銅剣4本、銅戈(どうか)2本、銅矛2本が見つかった。
装飾品の勾玉(まがたま)、垂飾(すいしょく)、管玉も出土した。
銅戈の1本は全長13センチで、同時期の出土品としては最小。

田熊石畑遺跡の青銅武器の数は宇木汲田(うきくんでん)遺跡(佐賀県唐津市)の9本、
吉野ケ里遺跡(同県神埼市、吉野ケ里町)の8本などもしのぐ。
小田富士雄・福岡大学名誉教授は「この時期の遺跡で中細形の青銅器が
集中して見つかったのは初めて。当時の社会構造を知る上でも重要な遺跡」と指摘。
西谷正・九州歴史資料館館長は「首長とその一族の墓域だろう。
福岡平野や佐賀平野と並ぶ有力な地域集団が宗像地域にいたのではないか」と話している。

◎西日本新聞 2008年7月2日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「田熊石畑遺跡」
  http://www.google.com/...

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日本人解剖 ルーツ 民族の形成(7)

◎産経新聞 2008年6月30日
  http://sankei.jp.msn.com/...

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2008.06.28


桜馬場遺跡で国内最大径?管玉出土

甕棺墓(かめかんぼ)の遺構が確認され
中国の史書「魏志倭人伝」に記述がある「末盧国(まつろこく)」の王墓と特定された
唐津市の桜馬場遺跡で、直径が最大1・3センチのガラス製管玉7点が新たに見つかった。
弥生時代のものとしては国内最大級の直径とみられ、
同遺跡で昨年出土した管玉のほぼ2倍。
唐津市教委は「大きさが異なる大小2種類の管玉発見は手厚い埋葬の証しで、
遺跡が王墓であることを強く補強する資料」と注目している。

今回出土した7点は直径0・9-1・3センチ、長さ2・6-3・8センチ。
うち最も大きい管玉は直径1・3センチ、長さ3・8センチだった。
王墓遺構内の土砂を精査する中で確認した。
出土場所と表面の風化の程度から、ほかの副葬品とともに
弥生後期前半(1世紀後半-2世紀前半)に埋葬されたと考えられる。

製造時期や生産地などは調査中だが、
弥生時代最大級の環壕(かんごう)集落「吉野ケ里遺跡」の確認例では、
長さは6・81センチと今回の管玉より長いものがあるが、直径は最大で0・97センチ。
同教委は「これまでの出土例と比べても、特異の形状をしており、
外国との交流で得た可能性もある」とし、成分分析など詳しい調査を進める。

今回、昨年までに見つかったものと同型の巴形銅器1点も出土。
多様な管玉や銅器類が副葬されていたことで、
同教委は「相当の権力を持っていたことがうかがえる」と見ている。

◎佐賀新聞 2008年6月27日
  http://www.saga-s.co.jp/...

◎Google検索「桜馬場遺跡」
  http://www.google.com/...

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