弥生時代 2008

2008.12.31

広島・坊主山遺跡に1800年前の墓

広島市文化財団が安佐北区大林町で発掘した「坊主山遺跡」で、
弥生時代後期の約1800年前とみられる約40基の墓が確認された。
人骨が出土した箱形石棺墓を、
他の墓穴群が取り囲む市内では例のないケースで、
リーダーが中央に埋葬された集団墓地とみられる。

坊主山遺跡では、古墳の下の層から
弥生時代の集団墓地とも考えられる遺構が出土。
広さ約400平方メートルの範囲に「土壙墓(どこうぼ)」と呼ばれる
素掘りの墓穴が集まり、箱形石棺1基がその中心にあった。

一方、現在も発掘中の柳遺跡では、
直径7―3メートルの竪穴住居約15軒からなる集落跡が見つかった。

◎中国新聞 2008年12月17日
  http://www.chugoku-np.co.jp/...

◎Google検索「坊主山遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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兵庫・有年牟礼・井田遺跡で土葺きの焼失竪穴住居跡

赤穂市有年牟礼の有年牟礼・井田遺跡で、
弥生時代中期(約2200~2000年前)の土葺(つちぶ)きとみられる
竪穴住居の焼け跡が見つかり、10日、市教委が発表した。
井田遺跡での焼失住居跡の発掘は昨年に続き2例目で、
いずれも意図的な焼失とみられる。
今回は屋根の部材とみられる炭化した木材も見つかっており、
当時の建築構造や集落廃絶の様子をうかがわせるという。

土地区画整理に伴い、06年度から約2400平方メートルを調査。
竪穴住居跡は直径約6メートルの円形で、
炭や赤茶けた焼土が見つかった。

焼け跡は住居周辺と同種の土で覆われていたことから、
竪穴住居を掘った土を茅葺(かやぶ)きの屋根にかぶせた
土葺き構造と推定される。
焼失の際に土が崩れ落ち、
茅や部材が灰にならず炭化状態で残されたとみられる。

また、焼け跡に割れた土器数片があったが、
完全な形の生活用品は見つからなかった。
このため不意の失火ではなく、必要な物を持ち出したうえで
意図的に火をつけたことがうかがえるという。

現場の南約50メートルで昨年、同時代とみられる
同じ規模の竪穴住居の焼失跡を発掘。
いずれも柱穴などに建て替えの痕跡はなかったことから、
短期間しか使用されなかったらしい。

竪穴住居の焼失跡は、県内ではたつの市の新宮宮内遺跡や
神戸市の玉津田中遺跡などでも見つかっている。
竪穴住居は従来、茅葺きが定説だったが、
土を上乗せしていた構造もあったという説も出ている。

荒木幸治・市教委学芸員は
「焼失が集落の廃絶と関係しているとみられる。
炭や土の重なりを分析することで
住居の構造解明が期待できる」と話している。

◎毎日新聞 2008年12月11日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「有年牟礼・井田遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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2008.12.13

和歌山・西飯降2遺跡 鹿の絵画土器片 6点出土

県文化財センターは、鹿の絵が描かれた弥生時代中期の絵画土器片6点が、
かつらぎ町妙寺の「西飯降2遺跡」から出土したと発表した。
土器は大和(奈良)で作られた可能性が高く、
同センターは「大和地方の集落と交流があり、
紀の川を通じて、運ばれてきたのでは」と指摘している。

京奈和自動車道の建設に伴う2006年度の発掘調査で、
約2000年前の溝から出土した。

鹿は六つの土器片に計7頭描かれており、
全体が残っているものは、横約5センチ、縦約4センチ。
角のある雄鹿と、ない雌鹿がある。
描き方が似ており、同一人物の作品とみられる。

これらの土器片は、元は二つの壺(つぼ)形土器だったとみられるが、
周辺から出た土器とは色調や含まれる鉱物が違っていた。
350点もの絵画土器が出土している
唐古・鍵遺跡(奈良)と描き方が似ており、
紀の川を通じて、大和地方から入ってきた可能性がある。

絵画土器は、祭事など儀礼的な用途で作られたと推測され、
県内ではこれまでに、和歌山市の太田・黒田遺跡など
3遺跡の7点しか見つかっていない。
同センターは
「西飯降2遺跡が、この地区の中心的集落だったことを裏付ける資料。
角が生え替わる鹿は、農作社会における
豊穣(ほうじょう)の象徴だったのでは」と話している。

土器片は、県立紀伊風土記の丘(和歌山市岩橋)で
来年1月24日から公開される予定。

◎読売新聞 2008年12月9日
  http://www.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「西飯降 遺跡」
  http://www.google.com/...

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沖縄・南城市玉城の武芸洞 洞穴から石棺墓、県内で初出土

南城市玉城の武芸洞で、
縄文時代晩期から弥生並行時代(約二千九百年前から二千年前)
のものとみられる箱式石棺墓が二十七日までに出土した。
大人と子どもとみられる人骨がそれぞれ一体見つかった。
同式の墓は県内で十基以上確認されているが、洞穴内では初めて。
港川人の居住跡の発見に向け調査を続けている
県立博物館・美術館が同日、公開した。

武芸洞は、おきなわワールド敷地内にあり、
発見された墓は洞穴入り口近く。
琉球石灰岩が縦二メートル余、横約八十センチの大きさで並べられた中に、
大人の人骨が確認された。

洞穴の別の場所では、崖葬墓から四体以上の人骨が出土。
爪形文土器を含む土器片約四十点、貝殻、イノシシの骨、炉跡も発掘した。
南部地域で爪形文土器が出たのは初。

武芸洞は東西にそれぞれ入り口があり、長さ約二十五メートル。
内部は約七百平方メートルの広さ。
くぼ地に位置し、雨や風が入りにくく、住居に適していたとみられる。

現場を確認した知念勇さん(恩納村博物館長)は
「洞穴内での発見はたいへん興味深い。港川フィッシャー遺跡から近いので、
今後の調査で港川人の居住跡が見つかることを期待したい」と話した。

箱式石棺墓は九州一帯で多く確認されている。

◎沖縄タイムス 2008年11月28日
  http://www.okinawatimes.co.jp/...

◎Google検索「武芸洞」
  http://www.google.com/...

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福井・大町田遺跡 敦賀では初、弥生期末の集落跡

福井県敦賀市羽織町の大町田遺跡で、
弥生時代末(約1800年前)から
古墳時代初頭(約1750年前)の9つの住居跡や、
かめ、つぼの破片などが出土し、同市教委は26日、報道陣に公開した。
この時期の集落跡が見つかるのは、同市では初めて。
同市教委文化振興課の中野拓郎学芸員は
「遺跡がある中郷地区は当時、人口密集地だったことが分かる。
空白の時期を埋める貴重な発見」としている。

新中郷公民館建設に伴い、
同市教委は5月から建設予定地の西側約2500平方メートルを発掘調査していた。

今回見つかったのは、竪穴住居跡など9の住居跡と、
煮炊き用のかめや貯蔵用のつぼ、高坏(たかつき)などの食器の破片数万点。
住居跡は最大で約7メートル四方で、発掘エリアだけでも
数十人規模の住人が住んでいたと推定される。
また色合いや形状から近江や東海製の土器の破片も混じり、
遠隔地との交流もうかがわせている。

同遺跡の東約300メートルには、
弥生時代中期(約2000年前)の吉河遺跡があり、
南東約300メートルには古墳時代前期(約1700年前)の
明神山1号墳が存在している。

この間の空白時期を埋める発見となり、
中野学芸員は「山側の吉河から集落ができ、
平地へ定住が拡大していったとみられる」と分析。
「かまど跡は見つかっていないが、
弥生時代以降の生活ぶりが推察できる」と話している。

発掘調査は12月中に終了する予定。
新公民館は来年度中に着工し、2010年度秋の完成を目指す。

◎福井新聞 2008年11月26日
  http://www.fukuishimbun.co.jp/...

◎Google検索「大町田遺跡」
  http://www.google.com/...

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福井・曽根田遺跡 弥生から平安期の集落跡

福井県埋蔵文化財調査センターが発掘調査を進めている
若狭町上黒田の曽根田遺跡で21日までに、
弥生時代後期から平安時代にかけての集落跡が確認された。
同センターでは「若狭地方でこれだけ広い面積の発掘は初めてで、
当時の村の様子が分かる貴重な資料になる」と話している。

同遺跡は「若狭梅街道」沿いの山すそに広がる水田地帯にある。
調査は、同遺跡上に設置される舞鶴若狭自動車道(小浜西―敦賀間)の
上中インターチェンジの工事に伴い、昨年11月に開始。
これまで延べ約1万3000平方メートルを発掘した。

集落跡には幅約10メートル、深さ約1メートルの2本の川跡があり、
その間を中心に、時期は不明だが、
34戸の掘立柱建物(最大で35平方メートル)の柱の跡や、
竪穴住居跡1基が確認された。
掘立柱建物は倉庫などとして使ったとみられ、
集落の中心はさらに山際にあったらしい。

川跡からは、弥生後期の土器片(甕(かめ)や壺(つぼ))や、
平安時代の須恵器片が大量に出土した。
縄文時代後・晩期の土器、弥生前期の遠賀川式土器数点のほか、
中世の越前焼の甕、中世以降の陶磁器などもあり、
この地域に縄文から中世にかけて人が住み続けていたことが分かった。

◎福井新聞 2008年11月21日
  http://www.fukuishimbun.co.jp/...

◎Google検索「曽根田遺跡」
  http://www.google.com/...

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佐賀・四本柳遺跡 国内最古か、花弁状住居跡を確認

佐賀県三養基郡みやき町原古賀の西寒水(にししょうず)四本柳遺跡から、
弥生時代中期前半(紀元前1一世紀ごろ)に建てられたとみられる
竪穴式の花弁状住居跡が見つかった。
これまでは南九州特有の形態と考えられており、
北部九州での確認は初めて。
町教委は「現時点では日本最古と考えられる」としており、
住居形態の伝播(でんぱ)ルートを探る上で、
大きな影響を与える遺構として注目される。

同教委が18日発表した。住居跡は直径約5メートルの円形部分の周りを、
大小8つの長方形(最大横約2メートル、縦約1・5メートル)が
花びらのように囲んでおり、全体の直径は約8メートル。
円形部分は現在の居間のような役割で、
長方形部分は寝室や物置などに使われていたとみられる。
円形中央に1本その周りに8八本の柱穴が配置されている。

花弁状住居跡はこれまに宮崎県中南部や
鹿児島県大隅半島などで多数確認されている。
西寒水四本柳遺跡からは花弁状住居の類似型で、
朝鮮半島から伝わったとされる「松菊里(しょうきくり)型住居」も同時に発見され、
両方が確認できる「貴重な遺跡」(町教委)という。

佐賀女子短大の高島忠平学長(考古学)は
「北部九州と南九州の交流が稲作以外からも証明された。
佐賀は弥生の先進地。南九州と朝鮮半島を結ぶ役割を担っていたのではないか。
寝室などの占有スペースの設置は、家族間の位置づけが明確になり
住居形態にも表れてきたのだろう」と見ている。

同遺跡は吉野ケ里遺跡から東へ約5キロの場所。
物流倉庫建設に伴い6月から約1万7000平方メートルの発掘調査を開始。
来年12月まで続ける。

◎佐賀新聞 2008年11月18日
  http://www.saga-s.co.jp/...

◎Google検索「四本柳遺跡」
  http://www.google.com/...

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2008.11.15

岐阜・荒尾南遺跡 川辺から儀礼用土器

県教育文化財団文化財保護センターが、
大垣市の荒尾南遺跡で進めている今年度の発掘調査で、
約2000年前の河川跡周辺から、
儀礼用とされる約3万3000点の土器が見つかった。
「水辺の祭祀(さいし)」跡と見られ、県内では4、5例が確認されているが、
自然の川際での発見は初という。

水辺の祭祀は、作物の豊作を願い、
川辺や大溝周辺で営まれていたと考えられている。
土器は、幅約20メートル、深さ約2メートルの河川跡の
東側約100メートルにわたって重なるように見つかり、
弥生時代後期から古墳時代前期の約100年間、
祭祀が行われていたと推定される。

調査では、約1800年前の四角い墳丘墓(ふんきゅうぼ)
(1辺約10メートル)も1基見つかった。
同センターは、「盛り土が残っており、県内では珍しい」と話している。
同遺跡は約17万平方メートル。
今回を含め計6回、発掘調査が行われている。

◎読売新聞 2008年11月13日
  http://www.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「荒尾南遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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広島・池之坊墳墓群 3種類の墳墓が集中して出土

福山市神辺町東中条の池之坊墳墓群で、
弥生後期から古墳時代初期の権力者の墓である
石棺墓や木棺墓、土坑墓(どこうぼ)が見つかった。
3種類が集中して見つかるのは備後地方では珍しいという。

市教委は、標高約75メートルの丘陵
約450平方メートル内を対象に9月中旬から発掘調査を開始。
墳墓群は溝によって南北2ブロックに分かれている。

2、3世紀に作られたとみられ、
市教委文化課は「南側の方が人の配置を意識した作りであることから、
北側より新しい」と推測する。
埋葬後も集落を見渡せるようにと斜面に土坑墓を掘ったのでは、
と文化課はみる。

◎中国新聞 2008年10月31日
  http://www.chugoku-np.co.jp/...

◎Google検索「池之坊墳墓」
  http://www.google.co.jp/...

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福岡・元岡・桑原遺跡群 琴にシカなど4種の絵

シカ、太陽、建物、トリが一緒に描かれている
弥生時代中期末(約2千年前)の木製の琴が
福岡市西区の元岡・桑原遺跡群で出土した。
4種類の絵がそろっている木製品が見つかったのは全国で初めて。
弥生時代の農耕祭祀(さいし)の情景を物語る貴重な資料となりそうだ。

福岡市教委が29日、発表した。

出土した木製品は、長さ89センチ、幅19センチ、厚さ1センチのスギ材の板で、
琴の側板とみられる。
音を共鳴させるために開けられた円形の穴をはさんで、
左側に2頭のシカ、1頭のシカの脚が彫り込まれている。
穴の右側に大小二つの高床式の建物、さらにその右に1羽のトリがある。

市教委によると、穴は太陽を象徴し、シカやトリは大地や穀物の霊とされている。
建物は穀物を収めた倉庫で、寄せ棟造りの珍しいものだ。
これらの組み合わせで、弥生時代の農耕儀礼の様子を表しているという。
弥生時代の琴は100例ほど出土しているが、
絵があるのは数例しかなく、4種類も絵があるものはこれまで発見されていない。

同遺跡は、中国の歴史書の「魏志倭人伝」にある「伊都国」の一角とされる。
祭祀用とされる丹塗(にぬ)りの土器などが大量に出土しており、
琴も祭祀の儀式に使われたとみられる。

大阪府立弥生文化博物館の金関恕(かなせき・ひろし)館長(考古学)は
「画題はすべて稲作の祭りに関係し、その状況がよくわかる。
山陰などにも類例があり、共通の精神文化が根付いていたことが確認できる」という。

◎朝日新聞 2008年10月29日
  http://www.asahi.com/...

◎Google検索「元岡 桑原遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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