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2009年3月

2009.03.31

イカール

函館行ったら、イカばっかり喰ってます。

ごめんなさい。|∀・)

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2009.03.30

AVG Anti-Virus Free 8.5

http://static.avg.com/...

8.5となりました。

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懐かしーエム 005

あのゲームウォッチが2段になった時は
かなりの未来を感じたね。
あぁ、久々にドンキーコングやりたい。^^

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赤組 良曲 003

学生時代にハマっていた女性アーティストの良曲を紹介 (´▽`)

ZARD「もう探さない」 by YouTube
今や午後の顔である宮根さんが絡んでいたとは。(゚o゚)

永井真理子「Ready Steady Go!」 by YouTube
永井真理子からは元気!元気!もらったなぁ~。

井上昌己「Merry X,masをあげたい」 by YouTube
12月の受験の時、試験会場へ向かう東武東上線で聴いていた記憶が鮮明に。

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2009.03.29

【再】 2006年5月 / 第1回 Podcast Summit に行ってきました。

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【再】 2003年12月26日 / ネットで仲間、03年5大ニュース

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2009.03.28

倭国について(3) 米、稲作、畑作、農具

【Podcasting】

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▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より

稲、麻類(紵麻=苧麻[からむし])を植え、くわをつくり、蚕を飼って糸をつむぎ、
麻布や絹、そのほかを織る。

[参考文献]
・石原道博さん編訳「新訂 魏志倭人伝 他三篇」(論創社)
・斎藤忠さんの著書「日本人はどこから来たか」(講談社学術文庫)より
・武光誠さんの著書「邪馬台国と卑弥呼の事典」(平凡社新書)より
・Wikipedia

刈りとられた稲束(いなたば)と稲籾(いねもみ)
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より




復元水田 / 菜畑遺跡
(末盧館パンフレットより引用)




炭化米 / 菜畑遺跡
(末盧館パンフレットより引用)

▼案内板より
菜畑遺跡から出土した米は真っ黒い炭になっており、
炭化米と呼ばれています。
おそらく、水田から倉庫へ運搬の途中に落下したモミや玄米で、
約350粒ほど発見されました。
この中にはモミの先のノゲまで残ったものや、
モミが半分はがれていたものなどがありました。
この炭化米は短粒型(たんりゅうがた)のジャポニカ種と呼ばれるものです。
しかし、縄文時代の炭化米には10%程度シイナ(実らない米)が含まれており、
品種改良と気候条件や栽培技術が未熟だったことがうかがえます。


▼末盧館パンフレットより
菜畑では今から2500~2600年前の縄文時代晩期に、
大陸から伝えられた稲作を日本で初めて行いました。
遺跡からは、これを証明する多数の炭化した米、
稲穂をつみとる石包丁・木のクワ・エブリなどとともに
小区画(20~30㎡)の水田跡も発見されました。
また、水稲だけではなく、アワ・ソバ・ダイズ・ムギなどの
五穀をはじめ、メロン・ゴボウ・クリ・モモなどの果実・根菜も
栽培していました。
家畜としてのブタ(イノシシ)も飼育していたのではないかと考えられ、
菜畑は文字どおり「日本農業の原点」であることを証明しました。


・日本の稲は短粒(たんりゅうしゅ)ジャポニカ種で、
 起源はインド奥地とされる。
・中国大陸から直接伝わった説の他、
 中国中部・南部→東シナ海→山東半島(さんとうはんとう)
 →朝鮮半島→倭国(日本)のルートで伝わった説の支持も高い。
・弥生時代の水田の規模は今よりは小さい
・自然にわき出た地下水を利用のため、低湿地を利用。


青森県弘前市にも弥生時代の水田跡
砂沢遺跡(すなざわいせき)
図解 古代史より
(成美堂出版)


2007年7月26日
沓形遺跡で津波被害を受けた水田跡を発見


2008年6月10日
京都で関西最古級のコメ粒発見


2008年9月4日
東日本最古の畑の跡か 静岡・手越向山遺跡


2007年5月31日
下之郷遺跡でメロンの果肉を発見


2009年3月13日
縄文期の大豆栽培確実 八ケ岳南ろくの遺跡に痕跡


鍬(くわ)出土状況 / 弥生時代中期~後期
吉野ヶ里遺跡
図録・弥生時代の吉野ヶ里より
(佐賀県教育委員会)


木製の農具 / 弥生時代中期~後期
吉野ヶ里遺跡
図録・弥生時代の吉野ヶ里より
(佐賀県教育委員会)


木臼
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

竪杵
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


鋤(すき)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


木製仮面(クワを転用)
纒向遺跡
桜井市立埋蔵文化財センターにて

木製仮面(クワを転用)
纒向遺跡
桜井市立埋蔵文化財センターにて

▼案内板より
この木製仮面は、平成19年4月~6月に桜井市大字太田で実施した
第149次調査において、太田池の底で確認された土坑(どこう)より出土しました。
長さは約26cm、幅は約21.5cmを測り、ちょうど人間の顔を
おおいかくすことができる大きさを持っています。
アカガシ製の鍬(くわ)を転用してつくられたもので、
口は鍬の柄の穴をそのまま利用していますが、両目部分の穴は
新たにあけられており、高く削り残した鼻には鼻孔の表現が見られます。
また眉毛は線刻により表現されており、その周辺にはわずかに
赤色顔料が付着していました。
ヒモを通す孔(あな)などは見られず、手に持って顔を覆ったものと推定されます。
この木製仮面は、共伴(きょうはん)した土器から庄内1式期頃(3世紀前半)の
ものと考えられます。
日本列島では縄文時代の土製仮面の存在が知られていますが、弥生時代や
古墳時代の仮面の実例はほかに見られません。
また木製の仮面としては、これまで7世紀代のものが最古とされていましたが、
本例はそれをはるかに遡る(さかのぼる)事例となりました。
木製仮面は他の多くの木製品とともに、土坑から出土しました。
このことは従来から考えられている土坑祭祀の一場面で、
仮面が用いられていたことを示唆しています。
農具である鍬を転用していることを考えると、
その祭祀は農耕に関連するものであったかもしれません。
纒向遺跡でおこなわれた祭祀の形態は、依然として不明な部分が多く残されています。
土坑出土の木製仮面は、祭祀形態の研究に新たな視点を
与えてくれる貴重な資料と言えるでしょう。

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邪馬台国について

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歴史ラジオ

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兵庫県・東園田遺跡 タコつぼにシカの絵

兵庫県尼崎市の東園田遺跡で出土した
イイダコ漁のつぼ(1世紀、弥生時代中期-後期)に、
線刻されたシカの絵が見つかり、27日、市教育委員会が発表した。
絵付きのタコつぼは全国で初めてという。

シカは毎年、角が生え替わるため豊作の象徴とされており、
市教委の益田日吉学芸員は
「シカの絵で大漁を願ったのではないか」と話している。

つぼは高さ8・7センチの湯飲みのような形で、
ひもを通したとみられる穴もあった。
側面にはシカと格子柄の絵があり、頭と耳は1本の線でY字形に描かれ、
首から下の胴体としっぽは輪郭を描いて表現していた。

シカに夏毛の斑点があり、初夏のころのシカを表現したらしい。
格子柄の意味は不明だが、海の表現の可能性もあるという。

東園田遺跡は弥生時代には海岸沿いで、
2003年に約520個のタコつぼが2カ所からまとまって見つかった。

◎共同通信 2009年3月27日
  http://www.47news.jp/...

◎Google検索「東園田遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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トルコ 世界最古の鉄器を発見

中近東文化センター(東京都三鷹市)が調査を続けている
トルコのカマン・カレホユック遺跡で、
紀元前2100~同1950年の地層から、
小刀の一部と見られる鉄器1点が発見された。
鉄滓(てっさい)(鉄を生産・加工する時に出るかす)と、
鉄分を含んだ石も確認され、鉄づくりが行われていたことが確実になった。
人工の鉄の利用は紀元前15世紀ごろに
同じアナトリア半島のヒッタイト帝国で始まったとされてきた
世界史の通説が書きかえられる。

鉄器は2000年の調査で出土したもの。
折れていて、つなぐと長さ5センチほど。さびがひどいが、
切断して断面をX線で調べると、鋭い元の形が見えた。
片側だけに刃がある小刀の一部と見られる。
鉄滓は1個で直径2センチほど。
原料と考えられる鉄を含んだ石は2個確認された。

同文化センターは中近東の歴史・文化を研究する財団法人として79年に設立、
85年から現地で調査を続けている。
昨年までの調査で紀元前15世紀よりも古い地層から鋼を発見していた。
しかし、上の地層から落ち込んだ可能性も否定できなかった。
そこで出土した金属類の調査・分析を、岩手県立博物館の
赤沼英男上席専門学芸員(文化財科学)が昨年から進めていた。

赤沼さんは「原料も含め加工段階の違う鉄が同じ地層から発見されたことで、
この遺跡で鉄の加工が行われたことに疑いの余地がなくなった」という。

これまでは、人工的に鉄を作り出したのはヒッタイト人とされてきた。
中国で鉄器が登場するのは前7世紀ごろ、
普及したのは戦国時代の前4世紀ごろで、
弥生時代だった日本にもそのころ伝わったらしい。

同文化センターの大村幸弘・アナトリア考古学研究所長は
「鉄の生産はアナトリア半島で独自に始まり、
後に北方から進入し征服したヒッタイト人が武器として利用し、
その技術を秘密として守ることで
オリエントに覇を唱える帝国を築き上げたのだろう」と語った。

◎朝日新聞 2009年3月26日
  http://www.asahi.com/...

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鳥取県・本高弓ノ木遺跡 穂摘具の完形出土

鳥取市本高の古墳時代(4~6世紀)の集落跡「本高弓ノ木遺跡」から、
鉄製の刃で稲穂を摘み取った穂摘具
(縦5センチ、横10・4センチ、厚さ0・8センチ)が見つかり、
県埋蔵文化財センターが26日、発表した。
刃が木製台に差し込まれた当時の形状を
ほぼ完全に残す出土例は全国で初めて。
木製台には、手に固定するためにひもを使った跡がくっきりと残り、
同センターは「穂摘具の全体像や使用法を明らかにする貴重な資料」としている。

木製台に鉄製刃先が付いた穂摘具と、それより古い平行四辺形の穂摘具

山陰自動車道の工事に伴い、昨年9月から遺跡の約2500平方メートルを調査。
穂摘具は、11月に水田跡近くの古墳時代中期の溝跡から見つかった。

刃は厚さ1ミリ。
木製台にはひもを通す二つの穴があり、刃の両脇には
木クギを打ち込んだとみられる穴とひもずれの跡があった。
木クギでひもの脱落を防いだうえで、手に縛り付けて使ったらしい。

さらに下の古墳時代前期の地層からも、
弥生時代に稲穂を摘んだ木包丁に似た平行四辺形の穂摘具が出土し、
鉄製の刃がわずかに残っていた。

穂摘具には石を研磨したいわゆる石包丁など数種類があり、
鉄製の刃をつけたものは古墳時代前期から普及。
石や木包丁ではノコギリをひくように動かす必要があるが、
鉄製の刃では手首を返すだけで摘むことができるという。

同センターの久保穣二朗所長は「新旧二つの違いなどを分析し、
農具の変遷を明らかにしたい」と話している。

古代の農業に詳しい大阪府立狭山池博物館(大阪府大阪狭山市)の
工楽善通(くらくよしゆき)・館長は
「刃の形も含めた全体像を明らかにする貴重な発見だ。
古墳時代前期から、貴重な鉄を小さな農具にまで使って
生産性を上げようとしていた先人の工夫がわかる」と話している。

◎読売新聞 2009年3月27日
  http://osaka.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「本高弓ノ木遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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奈良県・纒向遺跡 新たに建物や柵の延長部分

邪馬台国(やまたいこく)畿内説の有力候補地、
奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、
新たに建物や柵の延長部分が確認され、
それらが整然と並ぶ3世紀前半(古墳時代前期)の
集落中枢部周辺の様相が浮かび上がってきた。
桜井市教育委員会が発表した。
市教委は「柵の東側に大きな中心建物などがあった可能性が高い」とみている。

1978年の調査で見つかった建物跡や柵跡の周辺を調べるため、
この調査地を含む約380平方メートルを発掘。
柵は約5メートル四方の建物の西側を
「凸の字形」に取り巻いて南北に延びていることが分かった。

柵は南で東方向へ直角に曲がり、柵内の建物跡の東約5メートルで
一回り大きい建物跡の一部が新たに見つかったことから、
柵で区画された集落中枢部が柵の東側に広がることが分かった。
柵で囲まれる範囲の南北推定長は約26メートルという。

78年に出土した2棟の建物跡とともに、東西の向きが一致しており、
市教委は「建物や柵の方向をそろえるなど
同時期の遺構としては珍しく規格性があり、集落の中でも特別なエリア。
調査を継続して実態を解明したい」としている。

纒向遺跡は3世紀の国内最大級の集落跡とされ、
邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓説もある
箸墓(はしはか)古墳など初期の前方後円墳が点在する。

◎中日新聞 2009年3月21日
  http://www.chunichi.co.jp/...

◎Google検索「纒向遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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2009.03.26

皇居桜周歩

景感写眞 -皇居桜周歩-

  

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◎皇居 - Wikipedia
  http://ja.wikipedia.org/wiki/...

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【再】 2007年8月 鉄道トーク ロビーカー

再生ページ

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【再】 2005年7月 聖徳太子のお墓にて

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2009.03.25

AM/FMラジオをMP3で予約録音

マイコミジャーナルより

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2009.03.24

野口聡一さん「宇宙を旅したデジタル機器」

マイコミジャーナルより

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祝!日本 WBC連覇

久々にスポーツで泣いた。

いや~ ・・・ いや~ ・・・

あまりに色々ありすぎて、この言葉ばっかりだ。(笑)

村田もお疲れ様!

それにしても、仕事にならない日々だった。(ナイアガラの滝級汗)

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2009.03.23

外タレ 良曲 003

学生時代にハマっていた外国アーティストの良曲を紹介 (・△・)

Journey「Separate Ways」 by YouTube
WBC応援ソング!ということで。^^ 頑張れ日本!
プロデューサーも学生時代にこの曲にハマった?
でも、この曲かけるとアメリカが勝ちそうで怖い。(((;°°)~

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2009.03.20

黒部ダム(黒部川第四発電所)

通称「くろよん」。
高さは186m、堤の長さは492m。
もちろん日本最大、世界でも最高クラスのダムです。

嵐の前の静けさです。
赤茶けたダム壁の汚れが、なんとも物々しさを漂わせています。
どこから放水されるかわかります?

ちょっとアップしてみました。
なにやら人が歩くためのような通路がありますね。

放水開始しました。

ドアがあの大きさ・・ ってことは。

両サイド キマシタ!

とっ、鳥が・・ mm 早く逃げろぉ~

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黒部ダム(くろべダム)は、富山県中新川郡立山町、
黒部川水系黒部川に建設されたダムである。
ダムに貯えられた水を利用している発電所が
黒部川第四発電所(黒四)であることから、
俗に黒四ダム(くろよんダム)とも呼ばれることがあるが、
関西電力では、あくまでも「黒部ダム」であるとしている。

黒部ダムは、富山県東部の黒部川上流に建設されたアーチ式コンクリートダム。
発電に利用する水を確保することを主目的として関西電力によって建設された。
ダムの高さ(堤高)は186mで日本一を誇り、現在でも破られていない。
総貯水容量は約2億tで北陸地方で屈指の黒部湖(くろべこ)を形成する。
日本を代表するダムのひとつである。総工費は建設当時の費用で513億円。
これは当時の関西電力資本金の5倍という金額である。
作業員延べ人数は1,000万人を超え、工事期間中の転落や
トラック・トロッコなどによる交通事故等による殉職者は171人で、
いかにダム建設工事が苦難を極めたのかがうかがえる。

黒部ダムが建設された地点は黒部川の水量も多く、
水力発電所設置に適した場所であることは大正時代から知られていた。
ただ、第二次世界大戦などもあり、黒部川の開発は下流の仙人谷ダム
および黒部第三発電所にとどまっていた。
戦後、高度経済成長期を迎えると電力需給が逼迫し、
関西電力の代表取締役(当時)太田垣士郎は1956年、
戦前に調査(一割強程度)・計画・設計は実施したものの、
開戦以降お蔵入りとなっていた黒部ダム建設事業を急遽たちあげた。
それは、同社の社運をかけた一世一代の大規模プロジェクトであり、
近畿(関西)地方への電力供給ひいては経済活動の命運がかかっていた。
黒部ダム建設にあたって工区を5つに分割し、
それぞれに異なる建設会社が請け負った。

黒部ダム建設工事現場はあまりにも奥地であり、
初期の工事は建設材料を徒歩や馬やヘリコプターで輸送するというもので、
作業ははかどらず困難を極めた。
このため、ダム予定地まで大町トンネル(現在の関電トンネル)を掘ることを決める。
しかし、破砕帯から大量の冷水が噴出し、死者が多数出る大変な難工事となった。
別に水抜きトンネルを掘り、
薬剤とコンクリートで固めながら(グラウチング)掘り進めるという、
当時では最新鋭の技術が導入され、トンネルは貫通し、工期が短縮された。
2006年時点での土砂堆積率は14%であり、ダム本体の耐久性とあわせて考えると、
これからも約250年はダムとして機能するとみこまれている。

ダムから川へ放水する際に霧状にしているが、
これは放水の勢いで川底が削れてしまうのを防ぐためである。
当ダムでは110mの高さから毎秒10トン以上の水が放水されていて、
その巨大な力によって川底が大きく削れ
ダムの運営に影響を与える可能性があったためである。

(Wikipediaより)

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◎黒部ダムオフィシャルサイト
  http://www.kurobe-dam.com/

◎立山黒部アルペンルート オフィシャルガイド
  http://www.alpen-route.com/

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>> 旅と散歩・目次に戻る
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皇太子様 水問題解決「日本史にヒント」

トルコ訪問中の皇太子さまは17日、
当地で開催中の国際会議「第5回世界水フォーラム」で基調講演をされた。

皇太子さまはこの中で、
日本人が歴史の中でいかに水問題に対処してきたか具体的な事例を挙げ、
経験を世界各地の水問題解決に役立てることができると訴えた。

皇太子さまは弥生時代の「唐古・鍵遺跡」の環濠(かんごう)が、
集落防衛や洪水防止、農業用水供給、汚水浄化など
多様な役割を果たした可能性に言及。

また、関東地方の重要水源でありながら、
歴史の中で繰り返し災害を引き起こしてきた利根川の治水対策などについて、
自ら撮影した写真や図表を使いながら丁寧に紹介した。

◎時事通信 2009年3月17日
  http://www.jiji.com/...

◎Google検索「唐古・鍵遺跡 環濠」
  http://www.google.com/...

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紀元前1世紀の楽浪郡木簡発見

北朝鮮で紀元前1世紀の木簡の発見が伝えられ、
日本や韓国の研究者の注目を集めている。
日韓で見つかっている木簡よりも500年以上さかのぼり、
中国より東では群を抜いて古い。
情報は断片的だが、中国文化が東アジアに波及する過程を示すものとして、
「画期的史料」との見方が強まっている。

早稲田大の李成市教授によると、木簡は北朝鮮の学術誌に
06年に載った論文で明らかになった。
平壌の古代の墓から出土したといい、
「楽浪郡初元四年県別戸口多少」との題がついていた。
「初元」は前漢の年号で、4年は紀元前45年に当たる。
戸籍の統計と見られ、楽浪郡の人口は28万人といった内容と推定できる。

この木簡が研究者の注目を集めるのは、まずその古さ。
日本で見つかっている木簡は7世紀以降のもので、
韓国でもそれより1世紀早い程度。
前1世紀といえば日本ではまだ弥生時代だ。

楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地。
韓国・翰林大の金秉駿教授は「文字を使った行政をはじめ、
中国文化はまず楽浪郡で受容され韓半島に広がり、日本列島へと渡った。
楽浪は東アジアの古代を考えるために決定的に重要だ」とその意義を語る。

楽浪郡による支配は420年にもわたり、日本との外交の窓口でもあった。
日本が記録に初めて登場する漢書には
「楽浪の先の海中に倭人がおり、百余国に分かれている」と記されている。
「漢委奴国王」の金印をもらった奴をはじめ、
日本のクニグニは楽浪に使いを送ったはずだ。
出土場所が墓だったので、戸籍を担当した役人の副葬品との見方もあるが、
平壌では楽浪時代の墓が千基以上も調査されているという。
日本にかかわりのある木簡も眠っているのでは……
研究者の視線が熱を帯びる理由だ。

朝鮮半島北部には古代から自主独立の国があったとする
独自の歴史観を掲げる北朝鮮は、
楽浪郡は中国の遼東半島だったと主張しており、
論文もそうした論理の中で木簡を紹介していた。
はるか遠い時代の歴史だが、現代の政治と直結しているだけに、
公開は容易ではなさそうだ。

◎朝日新聞 2009年3月19日
  http://www.asahi.com/...

◎Google検索「楽浪郡」
  http://www.google.com/...

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鳥取県・青谷上寺地遺跡 縄文土器片二点が出土

「交易拠点としての港湾集落」の特徴を備えた
鳥取市青谷町青谷の青谷上寺地遺跡で、
約二千四百年前(縄文時代晩期)の縄文土器片二点が出土したことが、
十七日までに分かった。

弥生時代後期(約千八百年前)が最盛期とされる同遺跡ではこれまで、
約二千二百年前の弥生時代前期後葉の貝塚が最も古い遺構だった。
縄文土器の発見で同遺跡の始まりは、さらに約二百年古くなる。

温暖化による海面上昇「縄文海進」があった後、水が引き、
土器と同時期には同遺跡が陸地化したこともボーリング調査で判明。
遺跡の形成過程を知る上で貴重な発見となった。

十六日に市青谷町総合支所であった同遺跡発掘調査委員会で、
鳥取県埋蔵文化財センターの担当者が報告した。

土器片は深鉢の破片で、縦八・五センチ、幅一〇・五センチの口縁部と、
縦一四センチ、幅一四・五センチある胴部分の二点。
地面から一・二メートル掘り下げた地層面で、並んで見つかった。

持ち運んで使う器でないことから、
同調査委の委員長を務める工楽善通大阪府立狭山池博物館長(考古学)は
「人々が定着し始めたことを示す資料。
漁労で暮らしたのではないか」と指摘した。

同遺跡のボーリング調査は二〇〇六-〇七年度に十二カ所で実施。
二千四百-二千五百年前に陸地化したことが判明し、
縄文土器の時期と符合した。

同調査委の辻誠一郎東京大学大学院教授(古環境)は
「陸地化して集落を造りやすい環境になったので、住み着いたのだろう」と
陸地化と同時に定住が始まったと推測した。

同調査委は〇九年度に同遺跡南西部の端を発掘調査することも確認。
ムラの出入り口発見に期待がかかる。

◎山陰中央新報 2009年3月18日
  http://www.sanin-chuo.co.jp/...

◎Google検索「青谷上寺地遺跡」
  http://www.google.com/...

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山梨県・南アルプス市 六角の竪穴住居跡発掘

南アルプス市教委は、同市上宮地の市道建設予定地で行った発掘調査で、
縄文時代中期-古墳時代初期の竪穴住居跡を発見した。
6辺の壁を5本の柱で支えていた六角形の住居跡もあり、
市教委は「六角形がはっきり分かる形で発見されるのは珍しい」としている。

市教委文化財課によると、発掘現場は櫛形総合公園から西に約1キロの農地で、
曽根遺跡の一部。市之瀬台地と呼ばれる高台にあり、
周辺には多くの遺跡や古墳が点在している。

2007年度の試掘調査で住居跡などが発掘され、
昨年12月から本調査を行ってきたところ、計25軒の住居跡や土器が見つかった。

このうち唯一見つかった六角形の住居跡は、
約4500年前(縄文時代中期)のものとみられ、6辺の壁の跡や、
入り口以外の5カ所に立てた柱の跡、炉の跡が発掘された。

「これまで見つかっている住居跡はほとんどが丸や楕円だえん形。
六角形には何らかの意味があるとみられ、
縄文文化を研究する上で参考になる」(同課)としている。

発掘現場は、今月下旬までの調査が終わり次第埋め戻される計画。

◎Google検索「竪穴 六角」
  http://www.google.com/...

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縄文期の大豆栽培確実 八ケ岳南ろくの遺跡に痕跡

山梨県立博物館、県考古博物館、県埋蔵文化財センター、
熊本大が3年ほど前から進めている共同研究で、
酒呑場(さけのみば)遺跡(北杜市)と
女夫石(めおといし)遺跡(韮崎市)から出土した
煮炊き用の土器から複数の大豆痕が見つかり、
縄文時代中期(約5000年前)に八ケ岳南ろく地域で
大豆を栽培していたことがほぼ確実になった。

両遺跡からはアズキ痕も見つかり、
これまで特定できなかった種類も分かった。
植物栽培は弥生時代からという定説を覆す可能性が高まり、
研究チームは「縄文人は多様な食文化を持っていた」とみている。

一昨年、土器に残る跡にシリコンを流して型を取る
「レプリカ・ム法」を用いた研究で、酒呑場遺跡で出土した土器から
日本最古といわれる大豆痕が見つかり注目された。

昨年4月から9月に行われた研究で女夫石遺跡の土器からも大豆痕を発見、
合わせて5例となり、栽培利用がほぼ確実になった。
これらの大豆は野生種より大ぶりであることから、
食用として栽培する過程で大きくなったと研究者は見ている。

また両遺跡の土器からはアズキ痕も見つかった。
研究の結果、栽培されたアズキか、野生のヤブツルアズキであることが分かった。
今後はアズキが栽培されていたかどうかを詳しく調査する。

また縄文時代前期(約6000年前)の天神遺跡(北杜市)で発掘された土器からは、
野生のシソやエゴマ、栽培大豆の野生種ツルマメの種子痕も多数見つかった。
県立博物館の中山誠二学芸課長は、
一連の研究から「シソやエゴマは香りが強く殺菌作用がある。
香辛料などにも利用したのではないか」と分析している。

研究が進む一方で、新たな謎が深まった。
最初に大豆痕が見つかった酒呑場遺跡の土器を
コンピューター断層撮影(CT)で調べたところ、
内部にもう一粒の大豆痕を確認。豆は生育が早いことから
意図的に土器に埋めて豊作を祈願した可能性も考えられる。

今後は大豆のルーツやアズキ栽培の開始時期、
なぜ土器から豆類痕が見つかるかなどを研究していく。

中山課長は「狩猟・採取が中心で原始的なイメージのある縄文人だが、
想像以上に多様な食文化を持っていたのではないか」と話している。

◎山梨日日新聞 2009年3月13日
  http://www.sannichi.co.jp/...

◎Google検索「縄文 植物」
  http://www.google.com/...

◎Google検索「縄文 大豆」
  http://www.google.com/...

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鹿児島県・トマチン遺跡 3重構造の石棺墓を確認

縄文時代から弥生時代の石棺墓が複数見つかっている
伊仙町佐弁のトマチン遺跡で、2重構造とみられていた石棺墓が
上中下段の3重構造であることが確認された。
2004年度から調査している鹿児島大学埋蔵文化財調査室の
新里貴之助教(37)が7日発表した。

3重構造の石棺墓はサンゴ石灰岩を平積みした珍しい構造で、
縦2メートル、横0.5メートル。
昨年まで実施した上段の調査では
新潟県糸魚川産のヒスイ玉やゴホウラ貝輪、3体の人骨が出土。
中段には女性の人骨1体と貝小玉などのほか、
別の頭骨があったことから3重構造が指摘されていた。
 
4日まで実施する今回の第5次調査では下段を発掘。
人骨1体とオオベッコウガサガイ10枚が出土。
あらためて3重構造が確認された。

新里助教は「墓の上に墓を作る方法が珍しい。
全国的にも類例はみられない」という。

◎南日本新聞 2009年3月8日
  http://www.373news.com/...

◎Google検索「トマチン遺跡」
  http://www.google.com/...

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高知県・上ノ村遺跡 鉄製品大量出土

県埋蔵文化財センターは6日、土佐市新居の上ノ村遺跡から
弥生時代中期末(1世紀初め)の鉄製品や鉄片などが
大量に出土したと発表した。
砥石(といし)も見つかっていることから
鉄製品の加工拠点だった可能性が高く、
県内では同時代末~古墳時代初頭(2~3世紀)と考えられていた
鉄製品の生産・加工の歴史が200年近くさかのぼる可能性が出てきた。

波介川河口導流事業に伴う発掘調査で、04年度から実施。
これまでに縄文時代晩期から江戸時代までの遺物が切れ目なく発見されている。
今年度は約2万1000平方メートルを調査した。

出土したのは、弥生時代中期末の円形の
竪穴遺構(直径約10メートル)からで、鉄製品約170点。
小さい物で約1センチ四方、大きな物では縦約6センチ、横約1・5センチで、
用途が具体的に分からない鉄片などが多いという。
遺構の周辺も合わせると計約250点の鉄製品が見つかっている。

県内の同時期の遺跡では鉄製品は数点見つかる程度で、
矢尻など用途が判明している物がほとんど。
また住居で大量の鉄製品を使用することは考えにくいことから、
鉄製品の加工場所として使用されていた可能性が高いという。

同センターは「弥生時代の鉄製品の流通経路や使い方にとどまらず、
生産や加工の実態に迫る研究の第一歩を踏み出す発見」と評価している。

◎毎日新聞 2009年3月7日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「上ノ村遺跡」
  http://www.google.com/...

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福岡県・高江辻遺跡 弥生期の墓地群発見

筑後市教委は5日、発掘中の高江辻遺跡(同市高江)から、
弥生時代中期から後期にかけての墓地群が見つかったと発表した。
当時北部九州で主流のかめなどをひつぎにする甕棺墓(かめかんぼ)ではなく、
石棺、木棺墓であることから、同市教委は
「甕棺墓を作らない集団がこの地方にあることがわかった。
当時の習慣を知る貴重な資料だ」としている。

同遺跡は、国道442号の建設工事のため、
1月から同市教委が発掘を行っていた。
調査面積は約2500平方メートル。

見つかったのは石棺墓や木棺墓と、土を掘って作った土壙墓(どこうぼ)、
土壙墓に木や石でふたをした墓など計26基。
うち弥生中期の墓とみられる16基は遺跡の北西から南東に2列に並んでいた。
棺の大きさは最大で長さ2.5メートル、幅0.5メートル。副葬品は見つかってない。

弥生後期の墓とみられる10基は石棺墓で保存状態が良く、
棺内は朱色に塗られていた。中から人骨4体が見つかった。

発掘にあたった九州大大学院の中橋孝博教授は
「弥生後期の人骨出土は珍しい。
当時の生活を知るため食性分析などを行いたい」と話している。

◎西日本新聞 2009年3月6日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

◎Google検索「高江辻遺跡」
  http://www.google.com/...

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白組 良曲 004

学生時代にハマっていた男性アーティストの良曲を紹介 (^ω^)

浜田省吾「MIDNIGHT FLIGHT」 by YouTube
NYに留学を決めた彼女と別れた年の冬に出合った曲。状況酷似で驚き&涙し。m

オフコース「君住む街へ」 by YouTube
遠距離恋愛の時には、この気持ちを伝えたく切なくなり・・。あの頃は色々と燃えてたな~(笑)

徳永英明「Myself~風になりたい~」 by YouTube
TMの曲に続いて、更にこの曲で “Self” という言葉を意識するようになったのかも。

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Idol 良曲 006

学生時代にハマっていたアイドル達の良曲を紹介 (゚ー゚)

中山美穂「ただ泣きたくなるの」 by YouTube
ドラマも面白かったなぁ~。ミポリンは本当に名曲多し。

岡田有希子「Love Fair」 by YouTube
アイドル曲にしては、なかなか斬新なメロディ構成で印象に残った曲。

薬師丸ひろ子「メイン・テーマ」 by YouTube
中学校の合唱コンクールで、自分のクラスはこの曲を歌いました。

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2009.03.19

懐かしーエム 004

今、唯一欲しい車「ラシーン」。

なんとレンタカーがあるではないか!^^
http://www.toprasheen.com/...

それにしても、気づいたら日産のCMばかり貼ってるな。(゚o゚)

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【記憶の小箱】 東京生活時代 ~3歳まで

記憶が消える前にメモメモ。(゚ー゚)

・最初の友達は2歳の時に知り合った隣家のヨッちゃん=タメ&鉄オタ。

・ヨッちゃんの家の大きなブランコで乗り物ゴッコをして遊んだ。

・ヨッちゃんの家の大きなブランコに乗りながら食パンを食べた。
 甘くてとても美味しかった。パン耳は食べれなかった。

・近所のお姉ちゃんのシーちゃんが子供グループを仕切っていた。

・シーちゃんの家は大きな亀を漬物空バケツの中で飼っていた。

・シーちゃんの家は豪邸だった。

・シーちゃんの家の納屋を秘密の基地にして、
 真っ暗な基地の中で遊んだ。

・最寄り駅の商店街に1軒だけおもちゃ屋があり
 通りかかると、外からプラレールの在庫状況が見えたので
 親に内緒で常に横目でチェックしていた。

・ある日、東海道色のプラレールが置いてあった。

・商店街のパン屋には、赤ラベルの食パンと青ラベルの食パンがあった。
 自分は赤ラベルが食べたかったのに、親はいつも青ラベルばっかり
 買っていたので、気に食わなかった。

・食パンのラベルに思いっきり顔をぶつけると、いい匂いがして幸せだった。

・駅の隣にあるアーケード内の魚屋にたまに行った。

・駅の踏み切りで、いつも西武バスが走っているのが見えた。
 決して乗ることがなかったので、いつか乗ってみたいと夢に描いていた。

・夏は萩山のプールに行った。
 親父はガツガツ泳いでいた気がする。

・西武園には沢山行った。
 いつも西武山口線でユネスコ村へ。
 行きはバッテリー電気機関車で、帰りはSLだった。

・ユネスコ村には大きな風車があった気がする。

・青梅街道駅付近の線路沿いにある保健所で何度か注射をした。
 友達のヨッちゃんは泣き叫んでいたので、自分は絶対に泣かないようにした。
 結果、親に褒められた。

・家の風呂は木の桶の大きな感じのものだった。

・風呂でダイヤブロックを洗った。

・風呂でトイレをしてしまった。

・歯ブラシを入れるケースが、とてもメカちっくで興味があった。

・寝るとき、「ねんねするのよ」と言われていた気がする。

・親父の自転車は青のゴツい自転車だった気がする。

・自分の自転車も青の自転車。

・・・ 続く

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2009.03.18

【再】 2005年2月11日 / 三角牛乳 010

再生ページ

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2009.03.17

8620形 蒸気機関車 58654号機 SL人吉号 SLあそBOY

鉄友からもらった写真

鉄友からもらった写真

鉄友からもらった写真

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8620形は、日本国有鉄道(国鉄)前身である鉄道院が製造した、
日本で初めて本格的に量産された国産旅客列車牽引用テンダー式蒸気機関車。
「ハチロク」と愛称され、国鉄蒸気機関車の末期まで全国で使用された。

明治末期に急行列車用として各国から輸入された
8700形・8800形・8850形などを参考に、
日本の蒸気機関車国産化技術の確立を目的として設計、製造された。
当時としても、あえて最高の性能を狙わずに、汎用性を追求し、
将来輸送量が増加した際には地方線区に転用することを考慮して設計された。

車軸配置は2-6-0(1C)型で、本来は先台車をボギー式にして
軌道に対する追随性を良くするのが設計の常道であるが、
本形式では先輪と第1動輪を心向キ棒で一体化した特殊な台車に置き換え、
第1動輪に32mmの横動を与えて曲線通過性能を良くしている。
その半径は80mで、後のC12形並みであった。

この方式は、オーストリアとイタリアに例があった、
クラウス・ヘルムホルツ式、ツァラ式に着想を得て、
島安次郎が考案したもので、日本独特のものである。
これは島式あるいは省式心向キ台車と呼ばれ、
構造が簡単で曲線通過性能も良いと奨励されたが、
先輪フランジの偏摩耗が生じることがあり、
検修サイドの評判は必ずしも良くなかったようで、
本形式以外での採用例はない。

動輪の粘着力(摩擦力)がシリンダーの出力を大きく上回っており、
「絶対に空転しない機関車」と言われていた。
しかし、これは過加重などで引き出しができない場合、
コネクションロッドの折損につながるものであり
(蒸気機関車に限らず、どの動力車も空転することで
機構が大規模な破壊を受けることを避けている)、
乗務員の評判はよかったが、
設計時の日本の基礎技術力の低さを露呈してもいる。

最初は東海道本線、山陽本線などの幹線を中心に配置されたが、
より高性能な形式が投入されるにつれて
幹線からローカル線へと活躍の場を移していった。
平坦で距離の長い路線に向き、
客貨両用に効率よく使えるという特徴をもって長く愛用され、
「鉄路あるところ、ハチロクの機影見ざるはなし」とも形容された。

品川機関区の28661は、お召列車専用機に指定され、
横浜港へのボート・トレインの牽引も担った。

9600形のように軍に徴発されることはなかったが、
南樺太の鉄道が国鉄に編入された1943年以降に14両が樺太に渡っている。
1両は1944年に本土に送還されたが、
他の13両は終戦とともにソ連に接収され、以後の消息は明らかでない。

9600形ほど高い需要はなかったこともあって
昭和30年代には大量に廃車されたが、
それでも昭和40年代に入るとその使いやすさが買われて廃車が少なくなり、
ローカル線や入換用としてかなりの数が蒸気機関車の最末期まで残った。
特に7kmにわたって33.3‰の上り勾配が続く花輪線では三重連運用があり、
多くのファンの注目を集めたが、これも1972年に消滅した。
1975年3月末には人吉に48679が1両、湯前線用に残るのみとなっていた。

1988年(昭和63年)に58654が静態保存から復活して
九州旅客鉄道(JR九州)に所属し、2005年(平成17年)8月まで
豊肥本線の「SLあそBOY」、肥薩線の「SL人吉」として、
アメリカ風に改装された客車と共に運用されていた。

この機関車は1922年(大正11年)日立製作所製で、
九州地方で300万km余りを走った後、1975年(昭和50年)に廃車され、
肥薩線矢岳駅前の人吉市SL展示館に展示されていたが、
1988年に小倉工場で修復された。
ボイラーは新日鐵で新製し、
動輪は住友金属で新たに制作され大がかりな修復となった。
再登場当時はほぼ原型であったが、
1993年(平成5年)頃に客車のイメージにあわせて
水戸岡鋭治の監修下に濃緑色に塗装され、
カウキャッチャーが取り付けられたこともあった。
沿線の山林で列車通過後にぼやが起きてから回転火の粉止めを装備し、
体裁を整えるためダイヤモンドスタック型の
煙突カバーが常用されるようになった。
また、ATSもATS-SK形に換装された。

しかし、元々古い車両だったために老朽化が進んでおり、
台枠の歪みにより機体のバランスが崩れたために車軸などに負担がかかり
車軸焼けなど起こすことがその運命を決定づけた。
当初は修復不可能と判断され、
2005年8月28日をもって列車の運行が休止された。
それに伴い機関車も一旦静態保存されることとなったが、
JR九州としては動態保存の可能性を模索し、除籍を行わなかった。
その後の調査により奇跡的にも日立製作所に
製造時の図面が残されていると判明したことや、
九州新幹線の延伸開業などもあり観光資源として
有効活用できるとの判断から、台枠を日本車両で、
ボイラをサッパボイラで修繕するなど約4億円の費用(客車等の修復も含む)をかけ
修復を行い2009年に復活することが決定し、2007年2月21日より
JR九州小倉工場にて修復が始まった。
そして2008年9月に、2009年4月25日より定期運行開始予定として
復活を公式発表した。
運転区間は熊本駅~人吉駅、
列車名は休止前に同区間を運行していた際の名称である
「SL人吉」を選定、としている。

また、京都市の梅小路蒸気機関車館には車籍はないものの
8630が動態保存されており、館内の専用線で運転されている。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「8620形」
  http://www.google.com/...

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外タレ 良曲 002

学生時代にハマっていた外国アーティストの良曲を紹介 (・△・)

Bon Jovi「Born To Be My Baby」 by YouTube
文化祭はBon Joviのコピーバンドばかりだったなぁ~。

a-ha「Stay on These Roads」 by YouTube
同題のアルバムはテープがすり減りそうになるまで聴きまくりました。

TEARS FOR FEARS「The Seeds Of Love」 by YouTube
シルビアのCMソングで使われていましたね。

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教習所が消えた(;д;)

自動車の免許を取った
大崎にある「国際自動車教習所」が閉鎖されていた。
http://www.kokusai-ds.com/

マッチを教えたという教官や超美人教官など
個性豊かで楽しかったのですが・・。

お世話になりました。m

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2009.03.16

懐かしーエム 003

またまた日産ですが、イチロー応援キャンペーン!ということで。^^
この頃は、「変わらなきゃ」「変わらなきゃ」と言っていましたね。
下手な自己啓発本より効き目あるCMでした。笑

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景感写眞 -梅-

  

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2009.03.14

懐かしーエム 002

このCMで夢への扉が開き、それから数年経った19才の時
低ランクの中古を39万円でGET!(もちろん親借金m)

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懐かしーエム 001

火星人の「カーカ」は、自分の部屋にいますよ。笑 ^^

金星人「キンキン」にも会いたい・・(;ω;)

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赤組 良曲 002

学生時代にハマっていた女性アーティストの良曲を紹介 (´▽`)

浜田麻里「Call My Luck」 by YouTube
この曲で大ファンに。^^ ヘヴィメタの女王終焉の頃でした。

中森明菜「LIAR」 by YouTube
個人的には中森明菜は、こういう楽曲系が好きでした。

松田聖子「天使のウインク」 by YouTube
松田聖子の曲でリアルな記憶がある最初の曲かな。その後、結婚休業へ。

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奈良県・大福遺跡 炭化米や農具確認

弥生時代の木のよろい(2世紀後半)が見つかった大福遺跡(桜井市)で、
集落を区切る溝から、炭化した米や脱穀に使った竪杵(たてぎね)、
農耕に用いた鍬(くわ)、稲を刈り取った木包丁などの農具や
青銅器鋳造にかかわる遺物が見つかった。

炭化米は溝の西側を中心に大量に見つかり、
脱穀されないまま火を受けていた。
近くからは、高床式倉庫にかけるはしごも見つかり、
集落の西側には、刈り取った稲を保管した倉庫があり、
何らかの理由で火事に遭ったことが分かった。

溝の東側では、送風管や青銅のかたまり、
銅のかすなど青銅器鋳造にかかわる遺物を検出。
同遺跡では昨年度の調査で、銅鐸(どうたく)を破砕して
別の物に作り替えた痕跡が確認されており、
2世紀後半~末にかけて継続的に青銅器鋳造をしていたことが裏付けられた。

市教委は「溝の西側には倉庫が、
北東側には青銅器鋳造の工房があった集落の様子が
具体的にイメージできる」と話している。

◎毎日新聞 2009年3月5日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「大福遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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奈良県・大福遺跡 木製よろい出土

奈良県桜井市の大福遺跡で、
溝跡から弥生時代後期後半(2世紀後半)の木製よろいが見つかり、
市教育委員会が4日、発表した。

文様や彩色がない質素で実用的な造り。
これまで国内で約15例確認されている弥生時代の木製よろいのうち、
残存状態は最良といい、当時の武具の様子を知る貴重な資料となりそうだ。

よろいはトチノキ製で、前側の左右2枚、背中側の1枚を
革ひもなどで結んで装着する構造。
右前は大半が残り、縦27センチ、横21センチ、厚さ4-7ミリあった。
左前は脇下の一部、背中側は左半分が見つかった。

出土した部分は全体の約6割に当たり、
本来は縦36・5センチ、横約40センチだったとみられる。

全面に多数の小穴があり、水平方向にひもを通して補強したか、
色の付いた糸で飾っていたようだ。
実際の戦闘で付いた傷はなかった。

中国の歴史書「魏志倭人伝」は当時の日本の状況を「倭国乱」と記している。
しかし、実際には防衛機能を持つ高地性集落などが衰退。
市教委は「戦乱は終息に向かうが政治的な緊張は続いたようで、
よろいは戦への備えだったかもしれない」としている。

◎共同通信 2009年3月4日
  http://www.47news.jp/...

◎Google検索「大福遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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兵庫県・飯田遺跡 竪穴住居跡から板壁確認

兵庫県立考古博物館(播磨町)は十二日、姫路市飯田二の飯田遺跡で、
弥生時代末-古墳時代初頭(三世紀半ば)の竪穴住居跡から、
炭化した板壁や、板壁を挟む杭(くい)が出土したと発表した。
他の遺跡の出土例から、
同時期の竪穴住居に板壁が使われたとみられていたが、遺物の出土は初。
十四棟の住居跡が密集して出土、播磨の一大集落だった可能性も高まった。

発掘は二月から約五百二十平方メートルで実施。
竪穴住居跡から、高さ一・二メートル、幅〇・七メートルなどの板壁約二十枚と、
板を挟む杭十二本が、炭化した状態で見つかった。

過去に大阪府泉南市の男里(おのさと)遺跡から
板を支えたとみられる杭列跡が出土。
三世紀半ばの板壁の存在が推測されたが、今回は板壁が出土した。
同館によると、それ以前の竪穴住居は円錐(えんすい)型で屋内は狭く暗い。
だが、この時期以降、板壁を立てて窓を設けたため、光が差し込み、
屋内で手仕事が可能になったとみられる。

当時の先端技術を駆使した薄い庄内式土器や、
山陰、吉備、讃岐から持ち込まれたとみられる土器類も多数出土した。

同館は、飯田遺跡と近くの長越遺跡が一体の集落で、
人・物の一大交流拠点だった可能性を指摘。
石野博信館長は「板壁と窓のある建物の存在が
三世紀にさかのぼって実証された意義は大きい」とする。

◎神戸新聞 2009年3月13日
  http://www.kobe-np.co.jp/...

◎Google検索「飯田遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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京都府・恵解山古墳 後円部からも埴輪の列

長岡京市埋蔵文化財センターは11日、古墳時代中期(5世紀中前半)の
前方後円墳「恵解山(いげのやま)古墳」=同市勝竜寺=の後円部から、
初めて埴輪(はにわ)の列が見つかったと発表した。
同センターは「今回の発掘で、古墳の全周に埴輪が並んでいたと推測できる」としている。

同古墳は全長約130メートルの3段構造で、乙訓地域最大級。
これまでの調査で、前方部で埴輪列が見つかっていた。
今回は後円部の北端と、東側の前方部と後円部のくびれ部分の2カ所で
計21個の円筒埴輪がびっしり並んでいるのが発掘された。

くびれ部分からは、墓前祭祀(さいし)の場とされる「造り出し部」も見つかり、
同センターは05年に西側から発掘されたものと対となるとしている。
また、ひつぎを納めた石室の壁に使ったと見られる石片も見つかった。

◎毎日新聞 2009年3月12日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「恵解山古墳」
  http://www.google.co.jp/...

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奈良・石上神宮 国宝拝殿近くでぼや

12日午前4時半ごろ、奈良県天理市布留(ふる)町の
石上(いそのかみ)神宮(森正光宮司)境内にある
国宝の「摂社出雲(いずも)建雄(たけお)神社拝殿」(13世紀)付近から出火。
当直の職員が消火器で約5分後に消し止めたが、
同拝殿の格子戸や縁側、土壁など計7カ所が焦げた。けが人はなかった。
天理署は、付近に火の気がないことから放火の可能性が強いとみて、
非現住建造物等放火、文化財保護法違反の疑いで捜査を始めた。

同署や消防によると、火災報知機の警報に気付いた職員が
同拝殿に駆けつけたところ、3カ所から火が上がり、油のにおいがしたという。
消防の調べで、近くに油の入った瓶とライターが落ちているのが見つかった。
同拝殿の東約10メートルにある「摂社天神社」の石段にも油をまいた跡があった。
境内の一部は夜間でも自由に出入りすることができるが、
同拝殿周囲には高さ約50センチの鉄さくがあり、立ち入りが禁止されている。
職員が11日午後11時ごろに見回ったときは異常がなかったという。

石上神宮は出雲大社(島根県出雲市)などとともに国内最古の神社の一つとされる。
古墳時代の鉄剣、七支刀(しちしとう)(国宝、4世紀)など
古代の武器を多数所有していることで知られる。

◎朝日新聞 2009年3月12日
  http://www.asahi.com/...

◎Google検索「石上神宮」
  http://www.google.co.jp/...

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徳島県・天河別神社古墳群3号墳 岩並べた装飾

鳴門市大麻町池谷にある古墳時代前期(4世紀前半)の
前方後円墳・天河別(あまのかわわけ)神社古墳群3号墳で、
東側のくびれ部から約40センチ四方の大きな砂岩を並べた装飾が見つかり、
市教委が11日発表した。
当時、海に面していた古墳東側の見栄えを良くする狙いがあったらしい。
同古墳群は畿内と関係があったと考えられており、
市教委は「海上の船に、古墳の存在をアピールしていたのでは」と分析している。

市教委は今年1月から3号墳の規模を調査した。
墳丘は標高26メートルの尾根にあり、全長約40メートル。
盛り土を2段に積み上げた「2段築成」と呼ばれる構造で、
各段のすそに直径10~20センチの石を列に並べて飾っていた。

これら石列のうち、特に古墳東側では、
前方部と後円部の付け根に当たるくびれ部に、大型の砂岩を並べた。
さらに、石列の外側にテラスのような場所を設け、
小ぶりの砂岩れきを敷き詰めていた。
県内の前方後円墳で、このようなくびれ部の装飾が確認されたのは初めてという。

同古墳群は、丘陵地に古墳時代前期~中期(4~5世紀)の
古墳11基以上が並ぶ。3号墳は最大規模。
古代には、丘陵地近くまで紀伊水道や吉野川河口が迫っていたといい、
阿波で採れた青石や水銀朱を、摂津や河内に運び出す港、
集落があったと考えられている。

市教委は「3号墳には港や集落を治めた首長が葬られたのでは。
海上の船は、この古墳を目印に港に入った」とみている。

◎読売新聞 2009年3月12日
  http://www.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「天河別神社古墳」
  http://www.google.co.jp/...

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奈良県・纒向遺跡 古墳誕生の謎に一石

邪馬台国の最有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(3世紀)にある
国内最古級の前方後円墳の矢塚、勝山、東田大塚の3古墳について、
県立橿原考古学研究所と同市教育委員会は5日、
前方部の形によって2つのタイプに分かれていたことが判明したと発表した。
3古墳は、いずれも前方部が極端に短い「纒向型」で
前方後円墳の祖型との見方もあったが、
古墳誕生直後から2つの系統があった可能性が浮上。
前方後円墳の発展過程を考える上で貴重な資料になりそうだ。

同遺跡では、3古墳のほかに纒向石塚古墳(全長96メートル)など
計5基の最古級の前方後円墳が相次いで築造され、
邪馬台国時代のトップクラスの墓とされる。

「纒向型」は、前方部の長さが後円部のほぼ半分しかなく、
天皇陵など巨大な前方後円墳とは形が異なるのが特徴。
今回の調査によって、矢塚古墳(3世紀中ごろ)は全長96メートル、
前方部は後円部のほぼ半分の34メートルで纒向型と確認。
一方で、東田大塚古墳(3世紀後半)は全長120メートルで
前方部は50メートル、勝山古墳(3世紀半ば以降)は全長115メートルで
前方部が48メートルと、いずれも前方部が従来の想定より長いことが判明、
纒向型ではないと分かった。

前方後円墳は、纒向型から前方部の長い墳形に発展し、
邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説が根強い
箸墓古墳(全長280メートル)が築かれたという説が有力。

寺沢薫・同研究所総務企画部長は
「纒向型以外に前方部の長いタイプが当初から併存していた可能性も出てきた。
日本列島の王権につながる纒向地域の前方後円墳の成立に、
新たな謎が生まれた」と話した。

◎産経新聞 2009年3月5日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「纒向遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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京都府・鞍岡山2号墳 おしどり夫婦?の墓出土

京都府精華町にある古墳時代中期(5世紀初頭)の鞍岡山2号墳で、
棺を収めるための穴(墓壙(こう))から、同時に埋葬されたとみられる
2基の木棺跡が並んで見つかり、
府埋蔵文化財調査研究センターが3日、発表した。
1つの墓壙に2つの棺を収めた例は全国的にも珍しく、
センターは「地域を支配した武人と、
その妻が埋葬された可能性が高い」と推測している。

墓壙は長さ7.4メートル、最大幅3.4メートル、深さ1.6メートル。
底部で南北に平行に並べられた2基の木棺跡が確認された。
西側の木棺跡は長さ約6メートル、東側は同約5メートルで、
いずれも半円状の溝が掘られており、
丸太をくり抜いた形の割竹形木棺が収められていたことがわかった。

西側は一部盗掘されていたが、
すぐ脇に長短の鉄剣5本(長さ20~50センチ、幅4~5センチ)が副葬されていた。
東側からは青銅鏡(直径約7センチ)や
首飾りの管玉や勾玉(まがたま)が見つかった。

センターは西側に一帯を支配した武人の男性が、
東側には妻が埋葬されたと推測。
「一方が死亡した後、もう一人が亡くなった際に
同時に埋葬されたのではないか」とみている。

◎産経新聞 2009年3月3日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「鞍岡山2号墳」
  http://www.google.co.jp/...

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2009.03.13

【通常国会】 2月4日 参・国民生活、経済に関する調査会

http://www.webtv.sangiin.go.jp/...

人口減少及び経済・国民の幸福度について

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2009.03.10

さようなら 「富士・はやぶさ」

ayokoiさんの動画より
最後尾からの光景(東京駅→品川駅)

ayokoiさんの動画より
途中の横浜駅で故障してしまい、一度品川へ引き返したことも。

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「富士」 東京~大分 全区間車窓 by 車窓.comさん

「はやぶさ」 東京~熊本 全区間車窓 by 車窓.comさん

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2009.03.09

【通常国会】 3月5日 参・予算委員会

http://www.webtv.sangiin.go.jp/...

平成21年度総予算について

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【再】 2005年2月10日 / 三角牛乳 008 ゲスト:例文君

再生ページ

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寝台特急 はやぶさ



神奈川県・戸塚駅付近にて撮影



神奈川県・東戸塚駅付近にて撮影



神奈川県・根府川駅周辺にて撮影



神奈川県・新鶴見機関区にて昭和61年8月6日に撮影



神奈川県・新鶴見機関区にて撮影



東京都・田端機関区にて撮影



神奈川県・大船駅にて撮影



鉄友からもらった写真



鉄友からもらった写真

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はやぶさとは、九州旅客鉄道(JR九州)が、
東京駅 - 熊本駅間を東海道本線・山陽本線・鹿児島本線経由で
運行する寝台特急列車(ブルートレイン)。
2009年3月14日のダイヤ改正で併結する「富士」と共に
廃止されることが正式に決定した。

JR運行の定期列車としては、
かつての併合相手「さくら」が2005年2月28日に廃止されたため
日本一の長距離旅客列車である。
ただし、臨時列車を含めると、「さくら」廃止以前から、
日本海縦貫線を経由して大阪 - 札幌間を運行する
「トワイライトエクスプレス」が日本一の長距離旅客列車である。

京都と九州方面を結ぶ「なは」・「あかつき」が
2008年3月14日発(始発駅基準)の運行をもって廃止されたため、
翌日の3月15日以降では併結する「富士」と合わせて
関東・東海・関西から九州へ直通する唯一の夜行列車にもなっている。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「寝台特急 はやぶさ」
  http://www.google.com/...

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寝台特急 富士

神奈川県・新鶴見機関区にて昭和61年8月6日に撮影

神奈川県・新鶴見機関区にて昭和61年8月6日に撮影

神奈川県・根府川駅付近にて撮影

神奈川県・戸塚駅付近にて撮影

神奈川県・戸塚駅付近にて撮影

神奈川県・新鶴見機関区にて昭和61年8月6日に撮影

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富士とは、九州旅客鉄道(JR九州)が
東京駅 - 大分駅間を東海道本線・山陽本線・日豊本線経由で
運行する寝台特急列車(ブルートレイン)。
2009年3月14日のダイヤ改正で併結する
「はやぶさ」と共に廃止されることが正式に決定した。

1912年(明治45年)6月 東海道・山陽本線の
旧新橋駅 - 下関駅間に、一等・二等車のみで編成された
日本初の特別急行列車として1・2列車が運行開始。
最後尾には一等展望車を連結。

運行当時より、「富士」の終着駅であった下関から、
当時日本領であった朝鮮の釜山へ、
鉄道省による鉄道連絡船の関釜航路が運航されており、
そこから先の鉄道・航路と連絡し、
朝鮮、満州、中国、さらにはシベリア鉄道を経由して
パリ(フランス)、ロンドン(イギリス)に至るまでの
国際連絡運輸が行われていた。

「富士」はその一翼を担うことにもなるため、
日本の威信をかけ、当時の最高水準ともいえる設備とサービスを有していた。

例えば、展望車には「桃山式」と呼ばれる装飾が施され、
ソファーや書棚が置かれ、他の当時の多くの列車の食堂車が
「和食堂車」であったのに対して、
「富士」は高貴な「洋食堂車」を連結していたことなどがその例といえる。

1944年(昭和19年)4月 太平洋戦争の激化により運行中止。

戦後、「富士」の列車愛称は、
戦前に日本を代表する列車名称であったことから
「それにふさわしい列車が出るまでは」と使用に慎重な姿勢が続いた。

例えば、「こだま」の名称公募の際も
「富士」は将来別途使用の計画があるという理由で温存され、
投票対象から除外された。

結局、1961年10月のダイヤ改正で列車の増発により
東海道本線の電車特急に使用されたが、
「機会を逸した」との意見も少なからずあったとされる。

1961年(昭和36年)10月1日 
東京駅 - 神戸駅・宇野駅間の151系電車特別急行列車に「富士」と命名。
「つばめ」、「はと」、「こだま」と並び、東海道本線の昼行特急列車群の一翼を担う。

1964年9月30日 
翌10月1日に控えた東海道新幹線開業により、
東海道本線の電車特急は新幹線列車へ移行し、
全廃されることとなった。
このため、昼行列車としての「富士」は廃止となった。

1964年(昭和39年)以降
「富士」は日豊本線の寝台特急となり、
それ以前から既に運行されていた
東京 - 西鹿児島間急行列車「高千穂」の上位格の列車となった。
また、翌1965年に宮崎県へ乗り入れ、初の同県対東京直通特急となった。

1964年(昭和39年)10月 
東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正により、
特急「みずほ」の大分駅発着編成を分離独立させ、それに「富士」の名称を与える。

1976年(昭和51年)10月 
使用車両を24系25形客車に変更。
「はやぶさ」、「出雲」と同時に、
東京発着の定期寝台特急初の2段B寝台車を投入。
同時に新形の1人用個室A寝台、「オロネ25形車両」も連結される。
なお、1986年に1人用個室A寝台は「シングルデラックス」と命名される。

2005年(平成17年)3月 
この時のダイヤ改正で「はやぶさ」に併結していた「さくら」が廃止、
同時に「富士」は「はやぶさ」との併結列車となり、
使用車両は全車14系客車となった。
これに伴い「ロビーカー」と荷物車の連結が無くなり、
小荷物輸送の「ブルートレイン便」の取扱いも終了した。

2009年(平成21年)3月13日 
この日に始発駅を発車する列車をもって
「富士」、「はやぶさ」ともに廃止が決定、
列車愛称としては実に80年近くの歴史に幕を閉じる。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「寝台特急 富士」
  http://www.google.com/...

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2009.03.08

倭国について(2) 髪、衣服、繊維

【Podcasting】

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▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より

男たちは皆、髪をたばね木綿を頭に巻き
横幅の広い布を縫わずに体へ巻きつけ服にしている。

女たちは髪をたばねて頭の上に折りまげ、のせている。
その着物は、一枚の布の真ん中に穴をあけ、そこから頭を出して着る。

稲、麻類(紵麻=苧麻[からむし])を植え、くわをつくり、蚕を飼って糸をつむぎ、
麻布や絹、そのほかを織る。

[参考文献]
・石原道博さん編訳「新訂 魏志倭人伝 他三篇」(論創社)
・斎藤忠さんの著書「日本人はどこから来たか」(講談社学術文庫)より
・武光誠さんの著書「邪馬台国と卑弥呼の事典」(平凡社新書)より
・Wikipedia


頭に巻いていた木綿は木緜(ゆふ)と記され
楮(こうぞ)等の樹皮をはぎ、繊維を糸として布に織ったものと考えられ
当時は現在のように<木綿=コットン>と限られた意味ではなかった。

古代の衣のはなし・徳島県埋蔵文化財センター


弥生時代の男性の服を袈裟衣(けさい)、
女性の服を貫頭衣(かんとうい)ということもある。

袈裟衣と貫頭衣は東南アジアを中心に分布。
フィリピン→台湾→沖縄→倭国へと伝わったという説あり。
貫頭衣は今でも東南アジアの一部に残っている。
現在の貫頭衣 by Google検索


▼豆メモ
大袈裟とは


弥生人の衣装
風俗博物館
図解古代史(成美堂出版)より


弥生人の服(貫頭衣)を復元 / 板付遺跡弥生館


織物片のなかには、日本茜や貝紫(かいむらさき)による
染色がなされているものが確認された。
写真は復元された「弥生時代上層人の衣装」
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より


復元:貝紫で染色した布・糸
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より


貝紫を採取したアカニシと染めた布(参考品)
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


朱の付着がみられる織りが繊細な透目(とうめ)の絹
弥生時代中期
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より


左:縫い針、右:麻縄
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より

唐古・鍵遺跡では、主に大麻を利用して糸の製作が行われた。
糸を撚る(よる)道具として、紡錘車が知られており、
回転を利用して均質な糸を撚ることができた。


糸を撚る(よる)紡錘車(ぼうすいしゃ)
弥生時代中期
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクションVol.1」より

写真は鹿角の根元を輪切りにし、薄く丁寧に磨き上げた
精巧な仕上げが施された紡錘車。


糸を撚る(よる)道具と糸巻き
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より


機を織る道具
上:布巻具、下:緯打具(よこうちぐ)
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より


機織り(はたおり)の風景
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より

弥生時代には、大陸から機織り技術が伝わった。
唐古・鍵遺跡で出土した布切れには、二本の糸をあわせて撚る
「併糸(あわせいと)」という技術がみられ、織りはたいへん細密である。
併糸は平絹にみられる技術でもある。


大麻製の布切れ
弥生時代中期
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクションVol.1」より

偶然に火を受け炭化したため、原形を保った状態で出土。
織りが細密で、経糸(たていと)や緯糸(よこいと)の一部に
併糸(あわせいと)がみられることから、当時の布としては高級品であると見られる。


甕棺から、人骨、イモガイ製腕輪と共に検出された絹、大麻片
弥生時代後期初頭
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より


縫い目の残る絹織物
弥生時代中期
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より


巾着状絹製品
図録「ヤマト王権はいかにして始まったか」より

纏向遺跡で唯一の絹製品。
巾着は平織りの絹の布で物を包んだ後、口部分は糸は束ねて
僅かにねじっただけの撚りのかかっていない紐で結んでいる。
大きさは高さ3.4cm、厚みは2.4cm、内部に何が納められているかを
調べるためX線撮影を行ったが反応は少なく、金属質のものではなく
有機質の物が包まれている事以外はよく解っていない。


佐賀県・吉野ヶ里遺跡の織物


JANJAN
からむし織の機音

福島県昭和村 からむし織


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邪馬台国について

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歴史ラジオ

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↓下記画像をクリックください。

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2009.03.07

【再】 2006年9月9日 / 愛する人、救えますか?

再生ページ

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月-水-木-火

オーストラリアにて

IMAGE DATA © Mike Salway

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壺形の月

地球上の大気によって起こる現象です。

IMAGE DATA © John Stetson

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赤い空

アメリカ合衆国ミネソタ州にて、飛行機の乗客が撮った光景。
雨域で散乱した夕日の光との説が強いです。

IMAGE DATA © Tyler Blessing

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南極の氷棚

1994年に撮影

IMAGE DATA © Helmut Rott (U. Innsbruck)

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2009.03.06

【通常国会】 1月28日 参・国民生活、経済に関する調査会

http://www.webtv.sangiin.go.jp/...

人口減少及び経済・国民の幸福度について
(4分50秒あたりからスタート)

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2009.03.05

【通常国会】 2月27日 衆・本会議

http://www.shugiintv.go.jp/...

平成21年度総予算について

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【通常国会】 2月27日 衆・予算委員会

http://www.shugiintv.go.jp/...

平成21年度総予算について

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【通常国会】 2月26日 衆・予算委員会

http://www.shugiintv.go.jp/...

平成21年度総予算について

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白組 良曲 003

学生時代にハマっていた男性アーティストの良曲を紹介 (^ω^)

TM NETWORK「Resistance」 by YouTube
TMの曲で一番好きな曲。アルバム「DRESS」バージョンも◎です。^^

C-C-B 「抱きしめたい」 by YouTube
シングルで米川君がVoを初担当。ここからが楽しみだったのに、人気は急へ↓。

関口誠人「東京・LoversMap」 by YouTube
C-C-Bつながりで、関口さんのソロデビュー曲。「天河伝説~」ヒット前。

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Idol 良曲 005

学生時代にハマっていたアイドル達の良曲を紹介 (゚ー゚)

立花理佐「キミはどんとくらい」 by YouTube
立花理佐でもちゃんとアイドルできるんだ!って感動した曲。(笑)

工藤静香「ミステリアス」 by YouTube
最も惚れたアイドル工藤静香。100時間は連続で語れますよ。(爆)

酒井法子「さよならを過ぎて」 by YouTube
のりピーが髪を伸ばしはじめて、この曲の頃にやっと好きになりました。

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2009.03.01

東海道 荷物列車

神奈川県・根府川駅付近にて撮影

神奈川県・戸塚駅~大船駅間にて撮影

神奈川県・東戸塚駅付近にて撮影

神奈川県・戸塚駅付近にて撮影

神奈川県・東戸塚駅付近にて撮影

神奈川県・大船駅にて撮影

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◎Google検索「東海道 荷物」
  http://www.google.com/...

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カーネルサンダースさん

やっぱり似てる・・。 どっちが?(笑)

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どうして、三国志?邪馬台国?

現在、歴史ラジオで進めている内容について

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奈良県・第11代垂仁天皇皇后 日葉酢媛陵 立ち入り調査

宮内庁が日葉酢媛(ひばすひめ)陵として管理する
奈良市の佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(奈良市)に20日、
立ち入り調査した研究者らは「一歩前進だ。
やはり入ってみないと分からないことも多い」と立ち入り調査の実現を歓迎、
墳丘の大きさを再検討する必要性を訴える意見もあった。

陵墓は古事記、日本書紀などの記述を根拠に
江戸時代末期から明治時代にかけて指定された。
宮内庁は、長年研究者らの立ち入りを認めず、
79年から改修工事に伴う発掘調査の際に研究者らに
見学を認める「限定公開」を許可しただけだった。

05年に学会側が11カ所の立ち入りを要望。
神功(じんぐう)皇后陵(奈良市、五社神(ごさし)古墳)で昨年初めて、
学会側の要望を受けた立ち入り調査が認められた。
日葉酢媛陵の立ち入り調査は2例目。

日本考古学協会理事で陵墓担当の
福永伸哉・大阪大大学院教授(考古学)は
「現地でしか分からないことがある。さまざまな学術団体の調査も含めて、
今後もこの流れが続いていけば良い」と今回の意義を話し、
陵墓調査の継続に期待した。

立ち入り調査に参加した
森岡秀人・兵庫県芦屋市教委文化財担当主査(日本考古学)は
「学会の代表としてだけではなく、
国民の代表という気持ちを持って参加した」と話した。

日葉酢媛陵は、昨年立ち入り調査があった神功皇后陵と並び、
佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群の中で最古級とされる。

茂木雅博・日本考古学協会陵墓担当理事(考古学)は
「墳丘のすそ部分の形は後の時代に改変を受けている可能性がある。
全体の規模は小さくなって200メートルを切るかもしれない。
測量をし直す必要がある」と指摘した。

坂靖・県立橿原考古学研究所総括研究員は
「中に入って見ることの大切さを改めて感じた」と話した。

高木博志・京都大准教授(近現代史)は
「日葉酢媛陵は江戸時代まで地元で神功皇后陵と考えられ、
後円部の頂上に安産祈願の神社があった。
今回その神社への参道跡や、妊婦の腰に当てていたという白い石も確認でき、
江戸時代の陵墓と地域社会のかかわりを考える上で重要」と話した。

◎毎日新聞 2009年2月21日
  http://mainichi.jp/...

◎Google検索「日葉酢媛陵」
  http://www.google.com/...

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群馬県・富田大泉坊遺跡 草の茎製 全国初出土

前橋市富田町の富田大泉坊A遺跡から、
四世紀(古墳時代前期)とみられる草の茎製の
結歯式竪櫛(けっししきたてぐし)の一部が出土したことが十九日、
県埋蔵文化財調査事業団の調査で明らかになった。
同事業団によると、古墳時代ごろの結歯式竪櫛は
全国で千点以上出土しているが、大半が竹製で、
茎製は全国で初めて。
県内出土の結歯式竪櫛四十数点では最古ともなる。

結歯式竪櫛とは主に竹を細長く切り、
糸などで束ねた「結歯式」の縦長の櫛。
当時は男女が髪を留めるのに使ったらしい。

茎製の竪櫛は約三年前、県道の工事に伴う発掘調査で、
集落に近い水田跡の水路から出土。
昨年、埼玉県の分析会社に送ったところ、
イグサ類などの茎を使った点が判明した。

出土したのは、竪櫛からすべての歯が取れた「頭」の部分で
縦三・一センチ、横三・五センチ、厚さ〇・三センチ。
直径約〇・八ミリの茎を二十本並べて中央を束ね、
逆U字形に曲げた後、頭と歯の境を糸で二十四回巻くなどして留めている。
さらに、黒漆を塗って固めた。
茎を二十本束ねて曲げたため、歯は四十本あったとみられ、
歯の長さは約十センチと推測される。

石守晃主任専門員は「精巧で、時間をかけて作られ、
日用品として使われている。竹よりも強度のない茎が使われたのは、
茎の方が加工しやすかったからなのか。
素材が手に入りやすかった可能性も考えられる」と、
深まる謎に首をかしげている。

◎東京新聞 2009年2月20日
  http://www.tokyo-np.co.jp/...

◎Google検索「富田大泉坊遺跡」
  http://www.google.com/...

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長野県・柳沢遺跡 新たに「銅戈」と「銅鐸」

県埋蔵文化財センター(長野市)は27日、
2007年に東日本で初めて弥生時代中期の
青銅製祭器「銅(どう)戈(か)」と「銅鐸(どうたく)」が一緒に出土した
中野市の柳沢遺跡で、新たに銅戈1本、銅鐸1個が見つかったと発表した。
これで同遺跡の銅戈は計8本、銅鐸は計5個になった。
発掘調査は本年度で終了する。

同センターは排水路を設けるため昨年度に重機で掘った土の中に、
ほかの青銅器が含まれている可能性があるとみて調査。
昨年9月までに18点の銅鐸片が見つかり、
その後の調査で新たに21点を確認。つなぎ合わせるなどして
銅鐸を計5個とした。

見つかった銅鐸は高さ20センチほどで、
僧侶の袈裟(けさ)に似た形の文様「袈裟襷(だすき)文(もん)」を確認。
同遺跡調査指導委員会委員の
難波洋三・奈良文化財研究所考古第一研究室長によると、
銅鐸の比較的古い型の
「外(がい)縁(えん)付(つき)紐(ちゅう)1式」とみられる。

一方、銅戈は刃の先が半分ほど欠けた状態で見つかり、
先の部分は発見されていない。
のこぎりの刃に似た文様「複合鋸(きょ)歯(し)文」があり、
大阪湾周辺で見つかっている「大阪湾型」と確認した。
長さ7・5センチ、幅9・5センチ。

同遺跡からは弥生時代の住居跡6棟や水田跡、
礫(れき)床(しょう)木棺墓、シカが描かれた土器なども見つかっている。
同指導委員の工楽(くらく)善通・大阪府立狭山池博物館長は
「こうした条件が整って青銅器が出土したのは全国でこの遺跡だけ。
近畿と北信濃のつながりなどを調査する上で非常に貴重な遺跡だ」
としている。

◎信濃毎日新聞 2009年2月28日
  http://www.shinmai.co.jp/...

◎Google検索「柳沢遺跡」
  http://www.google.com/...

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京都府・温江遺跡 弥生人はウルトラマン?

京都府埋蔵文化財調査研究センターは26日、
与謝野町温江の温江遺跡で弥生時代前期(紀元前4世紀)の
「人面付き土器」が出土したと発表した。人の顔を写実的にかたどり、
とさかのような頭は一見、ウルトラマンのよう。
同センターは「弥生人の顔や当時の習俗を示す貴重な資料」としている。

土器は、弥生前期の集落を囲む溝跡(幅約2メートル、深さ1・2メートル)から、
つぼやかめの破片とともに出土した。

顔の長さ、幅ともに7・6センチ。
切れ長の目や筋の通った鼻が特徴的で、見る角度によって表情が変わる。

後頭部にくしで結ったまげがあり、
その上にかんざしのようなものを刺していたと見られる穴もあった。
両耳にも耳飾りを通していたような穴が開いており、
同センターは「土器には農耕祭祀で使う
特別な道具を入れた可能性が高い」と推測している。

設楽博己・駒澤大教授(日本考古学)の話
髪型は、先祖の住む世界から米を運び、豊作をもたらす
使いの鳥の「とさか」を表現していると思われ、
儀式で鳥にふんして踊る人の顔を表しているのではないか。

◎京都新聞 2009年2月26日
  http://www.kyoto-np.co.jp/...

◎Google検索「温江遺跡」
  http://www.google.com/...

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愛知県・平手町遺跡 日本最古の舟形木棺出土

名古屋市教育委員会は21日、同市北区の平手町遺跡から、
舟形木棺が出土したことを明らかにした。
約2000年前の弥生時代中期のものとみられ、
これまで確認された中では日本で最古の舟形木棺という。

舟形木棺は、古墳時代に多く作られ、
あの世に死者を送り出す乗り物と考えられていたとみられる。

市教委は「この時代から舟に乗せて死者を送る習慣があったと
考えられる貴重な発見」(文化財保護室)としている。

舟形木棺は、四角形の方形周溝墓と呼ばれる墳墓の
中央付近で見つかった。
木棺は長さ2.8メートル、幅80センチ、深さ10センチで、
舟形の棺とふたの一部が出土した。
内部には人骨があり、身長は約155センチ、
性別は不明だが成人とみられる。

◎時事通信 2009年2月21日
  http://www.jiji.com/...

◎Google検索「平手町遺跡」
  http://www.google.com/...

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【通常国会】 2月25日 衆・予算委員会

http://www.shugiintv.go.jp/...

平成21年度総予算について

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