倭国について(3) 米、稲作、畑作、農具
【Podcasting】
--------------------------------------------------------------
▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より
稲、麻類(紵麻=苧麻[からむし])を植え、くわをつくり、蚕を飼って糸をつむぎ、
麻布や絹、そのほかを織る。
[参考文献]
・石原道博さん編訳「新訂 魏志倭人伝 他三篇」(論創社)
・斎藤忠さんの著書「日本人はどこから来たか」(講談社学術文庫)より
・武光誠さんの著書「邪馬台国と卑弥呼の事典」(平凡社新書)より
・Wikipedia
刈りとられた稲束(いなたば)と稲籾(いねもみ)
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より
復元水田 / 菜畑遺跡
(末盧館パンフレットより引用)
炭化米 / 菜畑遺跡
(末盧館パンフレットより引用)
▼案内板より
菜畑遺跡から出土した米は真っ黒い炭になっており、
炭化米と呼ばれています。
おそらく、水田から倉庫へ運搬の途中に落下したモミや玄米で、
約350粒ほど発見されました。
この中にはモミの先のノゲまで残ったものや、
モミが半分はがれていたものなどがありました。
この炭化米は短粒型(たんりゅうがた)のジャポニカ種と呼ばれるものです。
しかし、縄文時代の炭化米には10%程度シイナ(実らない米)が含まれており、
品種改良と気候条件や栽培技術が未熟だったことがうかがえます。
▼末盧館パンフレットより
菜畑では今から2500~2600年前の縄文時代晩期に、
大陸から伝えられた稲作を日本で初めて行いました。
遺跡からは、これを証明する多数の炭化した米、
稲穂をつみとる石包丁・木のクワ・エブリなどとともに
小区画(20~30㎡)の水田跡も発見されました。
また、水稲だけではなく、アワ・ソバ・ダイズ・ムギなどの
五穀をはじめ、メロン・ゴボウ・クリ・モモなどの果実・根菜も
栽培していました。
家畜としてのブタ(イノシシ)も飼育していたのではないかと考えられ、
菜畑は文字どおり「日本農業の原点」であることを証明しました。
・日本の稲は短粒(たんりゅうしゅ)ジャポニカ種で、
起源はインド奥地とされる。
・中国大陸から直接伝わった説の他、
中国中部・南部→東シナ海→山東半島(さんとうはんとう)
→朝鮮半島→倭国(日本)のルートで伝わった説の支持も高い。
・弥生時代の水田の規模は今よりは小さい
・自然にわき出た地下水を利用のため、低湿地を利用。
青森県弘前市にも弥生時代の水田跡
砂沢遺跡(すなざわいせき)
図解 古代史より
(成美堂出版)
2007年7月26日
沓形遺跡で津波被害を受けた水田跡を発見
2008年6月10日
京都で関西最古級のコメ粒発見
2008年9月4日
東日本最古の畑の跡か 静岡・手越向山遺跡
2007年5月31日
下之郷遺跡でメロンの果肉を発見
2009年3月13日
縄文期の大豆栽培確実 八ケ岳南ろくの遺跡に痕跡
鍬(くわ)出土状況 / 弥生時代中期~後期
吉野ヶ里遺跡
図録・弥生時代の吉野ヶ里より
(佐賀県教育委員会)
木製の農具 / 弥生時代中期~後期
吉野ヶ里遺跡
図録・弥生時代の吉野ヶ里より
(佐賀県教育委員会)
木臼
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて
竪杵
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて
鋤(すき)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて
木製仮面(クワを転用)
纒向遺跡
桜井市立埋蔵文化財センターにて
木製仮面(クワを転用)
纒向遺跡
桜井市立埋蔵文化財センターにて
▼案内板より
この木製仮面は、平成19年4月~6月に桜井市大字太田で実施した
第149次調査において、太田池の底で確認された土坑(どこう)より出土しました。
長さは約26cm、幅は約21.5cmを測り、ちょうど人間の顔を
おおいかくすことができる大きさを持っています。
アカガシ製の鍬(くわ)を転用してつくられたもので、
口は鍬の柄の穴をそのまま利用していますが、両目部分の穴は
新たにあけられており、高く削り残した鼻には鼻孔の表現が見られます。
また眉毛は線刻により表現されており、その周辺にはわずかに
赤色顔料が付着していました。
ヒモを通す孔(あな)などは見られず、手に持って顔を覆ったものと推定されます。
この木製仮面は、共伴(きょうはん)した土器から庄内1式期頃(3世紀前半)の
ものと考えられます。
日本列島では縄文時代の土製仮面の存在が知られていますが、弥生時代や
古墳時代の仮面の実例はほかに見られません。
また木製の仮面としては、これまで7世紀代のものが最古とされていましたが、
本例はそれをはるかに遡る(さかのぼる)事例となりました。
木製仮面は他の多くの木製品とともに、土坑から出土しました。
このことは従来から考えられている土坑祭祀の一場面で、
仮面が用いられていたことを示唆しています。
農具である鍬を転用していることを考えると、
その祭祀は農耕に関連するものであったかもしれません。
纒向遺跡でおこなわれた祭祀の形態は、依然として不明な部分が多く残されています。
土坑出土の木製仮面は、祭祀形態の研究に新たな視点を
与えてくれる貴重な資料と言えるでしょう。
--------------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------------
iTunesで自動的に最新回のダウンロード(定期購読)を希望される場合には、
↓下記画像をクリックください。
--------------------------------------------------------------