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2009年7月

2009.07.31

愛知県・岡崎 丸山町

岡崎市教委が、同市丸山町の丸山城跡に
隣接する市道建設予定地で実施した埋蔵文化財発掘調査で、
弥生時代後期から古墳時代後期にかけての
竪穴住居跡などが初めて確認された。

同地区はこれまで多くの古墳が確認されているが、
古墳時代の集落跡が確認されたのは初めてという。

調査は、建設予定地の約500平方メートルを対象に実施した。
確認されたのは、6メートル四方ほどの竪穴住居跡6棟のほか、
古代から平安時代にかけて祭祀(さいし)に使われたと見られる土器や、
中世の掘立柱住居跡2棟、井戸跡などで、土器など約100点が出土した。

同市教委では、今回の調査結果から、古墳を造営した集団が
丸山地区に住んでいた可能性が確認できたほか、
中世の住居跡や井戸などは隣接する
丸山城跡に関連する遺構と考えられるとしている。

◎読売新聞 2009年7月30日
  http://www.yomiuri.co.jp/...

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神奈川・小田原城の堀 壺形埴輪の一部が出土

県立小田原高校(小田原市城山)のグラウンドで実施されていた
小田原城跡八幡山遺構群の発掘調査で、中世の小田原城の堀から
古墳時代前期後半(4世紀中期~後期)のものとみられる
壺形(つぼがた)埴輪(はにわ)の一部が見つかった。
古墳の存在をうかがわせる壺形埴輪の出土は西湘地域で初めてという。

発掘調査は同校のグラウンド整備に伴い、
県教育委員会がかながわ考古学財団(横浜市南区)に依頼し、
6月1日から7月15日まで実施された。

発掘現場は、八幡山丘陵の縁辺部にあたる。
同丘陵は「八幡山古郭」といわれ、現在の同校辺りにあったとされる
中世期の本丸を中心とした一帯を指す。

壺形埴輪が見つかったのは同校グラウンドの南東の隅で、
近世の絵図面に「本曲輪(くるわ)北堀」と描かれた地点。
約350平方メートルの面積を発掘調査したところ、
堀を埋めた土の中から口縁部の一部などが出土した。

人物や馬などをかたどった埴輪より壺形埴輪は古く、
儀礼などに使われたとみられている。
堀が埋まる過程で入り込んだ可能性が高いという。
このほか、幅27~28メートルの本曲輪北堀の一部も見つかった。
発掘現場は28日から埋め戻される。

同財団によると、八幡山丘陵で古墳の存在は知られていないが、
本曲輪北堀の背後に位置し、
櫓(やぐら)台とされてきた「高台」と呼ばれる部分が
古墳の可能性があるという。

壺形埴輪の出土について、同財団は
「古墳時代の西相模地域を考える上で貴重な発見だ」と評価している。

◎神奈川新聞 2009年7月27日
  http://www.kanaloco.jp/...

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京都・備前遺跡 弥生後期の大型竪穴住居跡2棟

八幡市教委は22日、京都府八幡市八幡南山の備前遺跡の発掘調査で、
弥生時代後期(2~3世紀)の竪穴住居跡が見つかったと発表した。
同遺跡ではこれまでも住居跡が見つかっており、
大規模な集落が形成されていた可能性がある。

調査した場所は、洞ケ峠に連なる尾根の先端部分で、
平地から約30メートル高い丘陵地。
集合住宅の建設に伴い、
市教委が7月中旬に約60平方メートルを調査した。

出土した竪穴住居跡は方形の2棟分。
住居を取り囲む溝や柱穴の跡などが確認された。
うち北側のものは、南西部の半分を検出した。一辺が約7・5メートルで、
通常は5~6メートル程度の方形住居としては大きい。
炉跡が3カ所あり、市教委は「単なる住居ではなく、
何らかの共同の作業場があったのでは」としている。

南側の住居は、西辺の一部が確認された。
かめ2個のほか、食器に使う鉢や供え物を置く器台、
高坏(たかつき)が1個ずつ、床面に放置されたような状況で出土した。
一つの住居で使用された土器の組み合わせがわかる貴重な資料という。

今回の調査地から南西350メートルの場所でも、
同時期の竪穴住居が見つかっている。
市教委は「眺望のきく丘陵地に集落を作るのは弥生時代後期の特色で、
この一帯も住居が広がっていたのではないか」としている。

◎京都新聞 2009年7月23日
  http://www.kyoto-np.co.jp/...

◎Google検索「備前遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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京都・上里遺跡 弥生前期の竪穴住居跡を発掘

京都市西京区大原野の上里遺跡で、
弥生時代前期(約2500年前)の竪穴住居跡が16日までに見つかった。
竪穴住居跡を伴う弥生前期の集落跡は全国的に少なく、
府内では初めてという。

市道建設に伴い京都市埋蔵文化財研究所が
2001年度から調査を続けており、
今回は3月中旬から約2240平方メートルを調べた。

見つかった竪穴住居跡は、07年度調査で見つかった1棟を含め計4棟。
円形と方形があり、一辺(直径)5-8メートル。
煮炊きをする炉跡が住居内になく、
屋外に炉跡とみられる焼け土が点々と見つかっており、
当時、煮炊きは屋外で行っていたとみられる。

乙訓地域の弥生前期の集落跡は長岡京市の
雲宮(くものみや)遺跡や向日市の鶏冠井(かいで)遺跡や森本遺跡があるが、
時代を追って淀川水系をさかのぼるように分布しており、
市埋文研は「京都盆地で稲作が受け入れられる過程を示す
重要な成果」と話している。

◎京都新聞 2009年7月16日
  http://www.kyoto-np.co.jp/...

◎Google検索「上里遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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愛知・濃尾平野の遺跡群 卑弥呼没年代と土器の年代一致

女王卑弥呼の墓という説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)と
同時期とされる濃尾平野の遺跡群(愛知県)の土器を
放射性炭素(C14)年代測定で調べたところ、
卑弥呼が没したといわれる西暦250年前後と重なった、と12日、
名古屋大と愛知県埋蔵文化財センターの研究グループが発表した。
濃尾平野は邪馬台国と対立した「狗奴(くな)国」の有力候補地。
同センターは「『魏志倭人伝』に記された
狗奴国の実態を知る手がかりになる」としている。

同日、名古屋大であった日本文化財科学会大会で報告された。
同大学グループは03年から愛知県で出土した
弥生~古墳時代の土器80点以上をC14年代測定で調査。
これまでは欧米の年輪年代を元にした国際標準の補正データを使ってきたが、
1~3世紀の土器の年代が考古学者の見解より最大100年古くなり、
測定結果が疑問視されていた。
今回、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が作成した
日本独自の補正データを用いた結果、
3世紀中ごろから4世紀前半と判定された。

同博物館による補正データは箸墓古墳周辺の土器にも応用され、
同古墳の年代が卑弥呼の没年ごろと重なるとの結果が出ている。
濃尾平野には箸墓古墳と同時期に大型の前方後方墳が相次いで築造され、
邪馬台国に対抗する勢力が形成されたとみられる。

◎朝日新聞 2009年7月13日
  http://www.asahi.com/...

◎Google検索「濃尾平野 遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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石川・チカモリ遺跡 環状木柱列 紀元前800年

金沢市新保本5丁目の国指定史跡、チカモリ遺跡の
環状木柱列が建てられた年代が、能登町の真脇遺跡と同じ、
紀元前800年ごろであることが、福島大などの年輪調査で分かった。
木柱の年代はこれまで紀元前1300~500年の
縄文時代後期から晩期とされており、具体的な年代が確定したのは初めて。
木柱列は全体像や用途がいまだ定かではなく、
謎解明に一歩近づく研究成果として注目を集めそうだ。

調査は、新潟県埋蔵文化財調査事業団の荒川隆史氏と
福島大の木村勝彦准教授らによる合同研究。
文科省の助成を受けて、2006(平成18)年から始まり、
チカモリ遺跡や真脇遺跡のほか、新潟県の野地遺跡、
小矢部市の桜町遺跡などで木柱の年輪調査が行われた。

チカモリ遺跡では、木村准教授が市埋蔵文化財収蔵庫の
水槽に保存展示されている木柱75点を分析。
このうち9点が、真脇遺跡の木柱と年輪パターンが一致し、
両遺跡の木柱列の一部が同年代に建てられたと結論づけた。
該当する真脇遺跡の木柱は既に放射性炭素年代測定法により、
縄文晩期の紀元前800年前後の伐採と判明している。

市埋蔵文化財センターの向井裕知主任主事は
「両遺跡の木柱列が建てられた時期がいずれも
縄文晩期後半の弥生時代への転換期に集中していることが分かった。
時代変化を考える上で重要な研究成果になる」と話している。

◎富山新聞 2009年7月12日
  http://www.toyama.hokkoku.co.jp/...

◎Google検索「チカモリ遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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群馬県・長谷津遺跡 トンネル付き竪穴住居を発見

県埋蔵文化財調査事業団は十日、
安中市西上磯部の長谷津(ながやつ)遺跡の発掘調査で、
弥生時代後期から古墳時代初期(三世紀から四世紀)に造られたとみられる
竪穴住居跡と、住居内部のトンネル状の穴を発見したと発表した。
穴は別の住居などにつながっていた。
事業団は「竪穴住居内でトンネルが見つかったのは
全国で一、二例しかなく、非常に珍しい」としている。

発掘した竪穴住居の中には、縦十メートル、横六メートルと大型のものがあった。
穴は住居の床ではなく壁面から掘られ、直径五十センチ前後。
事業団は「穴が掘られた目的は不明。
大きさを考えると地下通路のような使われ方は考えにくい」としている。

遺跡からは、墓の周囲を溝で囲った周溝墓(しゅうこうぼ)跡も見つかった。
周溝墓は約十メートル四方で、一緒に埋葬されていた土器の形などから、
竪穴住居より後の時期に造られたと推定される。

長谷津遺跡は、JR信越線磯部駅の南にあり、四月から調査を始め、
現在は竪穴住居約三十軒と周溝墓二基が確認されている。

◎東京新聞 2009年7月11日
  http://www.tokyo-np.co.jp/...

◎Google検索「長谷津遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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大阪・シシヨツカ古墳 銀象眼大刀柄頭が出土

天皇をしのぐ勢力を誇った飛鳥時代の大豪族、
蘇我氏一族の墓との説がある大阪府河南町のシシヨツカ古墳(6世紀末)から、
鳳凰(ほうおう)を銀象眼(ぞうがん)で表現した豪華な大刀飾りが
見つかっていたことが9日、分かった。
平成14年の発掘調査時には土やさびのため「鉄の塊」のようだったが、
さびを除去したところ鮮やかな象眼が当時のまま残っており、
被葬者の地位の高さを裏付ける資料となった。

シシヨツカ古墳は東西60メートル、南北53メートルの方墳。
14年に府教委が発掘し、横穴式石室から金象眼のある
鞍(くら)金具などが見つかった。
さらに、さびで覆われた鉄製品が出土。
奈良大学に保存処理を委託したところ、
六角形をした亀甲(きっこう)文の内側に、
2羽の鳳凰が向き合う姿が銀象眼で表現された
大刀の柄頭の飾りの一部(縦8センチ、横6センチ)と分かった。

シシヨツカ古墳の北約3キロには聖徳太子墓や推古天皇陵があり、
一帯は「王陵の谷」といわれている。
保存処理を担当した西山要一奈良大教授(保存科学)は
「鳳凰の象眼のある大刀飾りは全国で30例前後見つかっているが、
シシヨツカ古墳の象眼は特に精巧で、
被葬者の権力の大きさがしのばれる」と話した。

◎産経新聞 2009年7月10日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「シシヨツカ古墳」
  http://www.google.co.jp/...

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奈良・大福遺跡 銅鐸の破片が出土

奈良県桜井市の大福遺跡で、
弥生時代後期後半(2世紀後半)の集落の溝から、
銅鐸(どうたく)の破片が、市教委の調査で見つかった。
弥生時代の祭祀(さいし)で利用された銅鐸を壊して
別の青銅器に〈リサイクル〉していたとみられる。
同遺跡で銅鐸片の出土は2例目。
市教委は「青銅器の再生産の様子がよりはっきりとし、
弥生社会の終わりを表している」としている。

銅鐸片は、縦5・5センチ、横8センチ、厚さ2・5~4ミリ。
銅鐸の胴体部上面の「舞(まい)」と呼ばれる部分とみられ、
溝を埋めた土の中から見つかった。
近くからは、鋳造炉の送風管や青銅の塊、銅のかす、
青銅器の鋳型の外枠、青銅製のやじり(銅鏃)などが出土。
周囲に青銅器の工房があったらしい。

同遺跡は、邪馬台国の有力地で古墳時代の始まりとなる
纒向(まきむく)遺跡の南西約2キロにある。
難波洋三・奈良文化財研究所考古第1研究室長は
「銅鐸を壊して銅鏃に作り直したと考えられる。
銅鐸を使った祭祀を否定していることがわかり、
この地域が大きな宗教改革の震源地だったのかもしれない」と話す。

一方、寺沢薫・県立橿原考古学研究所総務企画部長は、
銅鐸の鋳造をやめ、集落を放棄する時に、
土器などと一緒に溝に捨てた可能性を指摘。
「弥生時代の集落や銅鐸祭祀の最後の様子を明らかにする
極めて重要な遺跡だ」と話している。

◎読売新聞 2009年7月8日
  http://osaka.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「大福遺跡」
  http://www.google.co.jp/...

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2009.07.29

撮影OKな、森美術館の展覧会

http://www.mori.art.museum/...

アイ・ウェイウェイさんの作品は、被写体としても奥深そうですね。camera

◎Google検索より
  http://www.google.co.jp/

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広告演出 類似作品の比較サイト

http://www.joelapompe.net/

ここを参考に、さらに新たな演出案を考えてみるのもいいかも。(笑)

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もうすぐお別れ 名鉄パノラマカー

http://railf.jp/...

あと1ヵ月ほどで、さよならの日が迫る名鉄のパノラマカー。
企画が続いています。

http://www.meitetsu.co.jp/

↑名鉄のページもチェックですね。search

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砂のQRコードは読めるのか?

http://summer.sinap.jp/09/

定着してきたネットサービスをうまく組み合わせ展開していますね。

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2009.07.24

EF53

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・高崎機関区撮影会にて昭和62年8月3日に撮影

静岡県・沼津機関区にて昭和61年8月9日に撮影

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EF53形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が、
1932年(昭和7年)から製造した直流用電気機関車である。

EF52形をベースに旅客列車用電気機関車として誕生した。
EF52形に比べ高速性能の向上、機器類の信頼性と機能の向上が図られており、
省形電気機関車の一つの完成形として、
後続のEF56形、EF57形などの基本となった。
1934年(昭和9年)までに日立製作所・芝浦電気・汽車製造・
三菱電機・川崎造船所・川崎車両で19両が製造された。

直流電化区間用の機関車で、登場間もなくは
東海道本線東京 - 沼津の電化区間において、
特急「富士」・「つばめ」に代表される優等列車の牽引を中心に使用されていた。
そのような列車の牽引を担っただけに性能や取り扱いの面では優れていた。

この高い性能と高い信頼性を受け、
1933年(昭和8年)には16 - 18号機の3両が
お召し列車用の機関車(17号機は予備機)に指定され、
1954年(昭和29年)に後継のEF58形(60・61)が製造されるまで使用された。

太平洋戦争後は、暖房用の蒸気発生装置を搭載するEF58形が登場すると、
蒸気発生装置を搭載しておらず、冬季に旅客列車の牽引を行う時は
暖房車の連結を要したため、高崎線などの地方の電化区間へ転属するか、
東京周辺の小運転用に使用される様になった。

1963年(昭和38年)、山陽本線瀬野 - 八本松間の
急勾配区間「瀬野八」における補助機関車を無煙化するのに伴い、
ある程度両数がまとまっていて、車両の状態が良く、
かつ余剰気味となっていた本形式に白羽の矢が立ち、
EF59形に改造されることになった。
改造に際しては、運用上必要な両数を改造する方式で何度かに分けて改造され、
最後まで残っていた3両が1968年(昭和43年)に改造されたのを最後に、
EF53形は形式消滅した。

EF59形に改造後は、本来後継形式となるはずだったEF61形(200番台)の不具合もあり、
EF67形の投入によって置き換えられるまで長期にわたって使用された。
幸いにも、置換え後も数両が解体されることなく保管され、
その中のEF59 10(EF53 1)は、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時に
展示用の不可動状態とはいえ西日本旅客鉄道(JR西日本)の車籍を得ており、
2006年(平成18年)までその車籍を保持していた。

EF59 11が、EF53 2に外観だけ戻されて、
碓氷峠鉄道文化むらに静態保存されている。

また、EF59 1(EF53 8)が碓氷峠鉄道文化むらに、
EF59 16(EF53 17)がカットボディとして
日本貨物鉄道(JR貨物)の広島車両所に静態保存されている。
なおEF59 10(EF53 1)がJR西日本の下関地域鉄道部下関車両管理室に
保存されていたが、2006年(平成18年)7月に解体されている。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「EF53」
  http://www.google.com/...

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2009.07.23

日本のグラフィックデザイン2009

http://www.designhub.jp/...

~7/30・東京ミッドタウン デザインハブ

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10,000匹の熱帯魚 レストラン 麻布十番 ライム

http://www.opefac.com/aj_lime/

久々に熱帯魚オタの血が復活してしまいそうだ。fish

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ニョキニョキコレクション

http://portal.nifty.com/2009/07/21/a/

こちらもポータルZより。
いつも歩いているけど、あの駅がこんなにニョキニョキしていたとは。coldsweats02

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鉄道ファン以外による紀州鉄道案内

http://portal.nifty.com/2009/07/22/b/

デイリーポータルZより。
最後の写真に “阪和色 113” が・・。scissors
紀州鉄道、いいね~駅周歩したいなぁ。

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ビアホール列車

http://www.fujikyu-railway.jp/...

ビール+鉄分で極上の“ふじやまビール”が飲めると思いますよ!^^ beer
トイレは気をつけて。paper

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ぬ~ぼ~

http://noobow.com/

まだいた・・crying

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NIFTY SERVE経由 1996年の書き込みが・・

Googleのグループ検索で本名を調べてみたら
なんと1996年に書き込みをしたものが出てきた。coldsweats02
まともなサイトで良かった。(笑)

かなり前からインターネットを利用している方
(特にNIFTY SERVE経由でfjなどへ参加されたことのある方)は、
一度確認されてみると良いかもしれません。

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広告スタイル

http://koukoku-style.com/

仕事などで広告に関わりのある人を対象にしたブログポータル。

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ChatPad

http://chatpad.jp/

一期一会的チャットサービス。
ゆる~いツナガリ?が流行っているらしいから、いいのかもね。

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キッズデザイン博

http://www.kidsdesign.jp/kdexpo2009/

8/6-9・青山 TEPIA

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東京・王子の飛鳥山公園にモノレールができたよ

http://railf.jp/...

都電散歩の立ち寄り先がまた1つ増えた。happy01

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情景模型専門店 さかつう

http://www.sakatsu.jp/

ぶらり途中下車の旅で紹介されていたのでメモ。^^

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学術文化講座 三輪山セミナー

http://www.oomiwa.or.jp/...

▼案内サイトより
ヤマト王権発祥の地であり、額田王が愛した三輪に強い関心を抱いている
皆さんのご期待にお応えすべく、
本年も「三輪山セミナーイン東京」を開催致します。
この度講師にお招きするのは、
古代文学研究者で古事記研究の第一人者でいらっしゃる
文学博士の菅野雅雄先生で、演題は「三輪山と神の社」です。
わかりやすい古事記・万葉集の解説をされる菅野先生はご著書多数の中、
『菅野雅雄著作集』を刊行され、ますます研究活動・普及活動にご活躍中です。
もうお一人は、宗教学者でありながら、世界的視点に立つ日本文化論を展開され、
やはりご著書多数で、政府の諮問を始め各方面にご活躍の山折哲雄先生で、
演題は「三輪山の信仰-カミと神-」です。
三輪山麓はいま古代史研究で最も注目されている場所の一つです。
このセミナーが古代大和への回帰・霊性の再発見の時として
お楽しみ頂ければ幸いです。

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2009.07.22

日食

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皆既日食によるコロナ
© Hartwig Luethen

皆既日食 in 中国・嘉峪関
© Terry Cuttle Brisbane, Australia

日食中の地球を宇宙から見ると・・
© CNES

部分日食 in マニラ
© Armando Lee (Astron. League Philippines),
F. Naelga Jr., 100 Hours of Astronomy (IYA2009)

金環食 ※2012年5月21日に日本で見れます。^^
© Dennis L. Mammana (TWAN)

月での日食 ※想定画
© Hana Gartstei

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太陽紅炎(プロミネンス)

© SOHO-EIT Consortium, ESA, NASA

© STEREO Project, NASA

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白組 良曲 008

学生時代にハマっていた男性アーティストの良曲を紹介 (^ω^)

杉山清貴「SHADE 夏の翳り」 by YouTube
自分は夏といえば杉山さんだったなぁ。SHADEは12インチでしたね。

1986オメガトライブ「君は1000%」 by YouTube
当時、カルロスのオメガは認められなかったけど、今は○に感じる。^^

KUWATA BAND「MERRY X'MAS IN SUMMER」 by YouTube
スキップビートとこの曲と最高の夏でした!

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2009.07.21

Idol 良曲 008

学生時代にハマっていたアイドル達の良曲を紹介 (゚ー゚)

渡辺満里奈「マリーナの夏」 by YouTube
とくダネで朝のヒットスタジオ復活させて歌ってもらいたい!(笑)

小泉今日子「夏のタイムマシーン」 by YouTube
実際にはものすごい長い曲です。このあたりからアーティストっぽくなってきたね。

中山美穂「50/50」 by YouTube
小室氏楽曲。「フィフティーー!」の振り向きで悩殺されていた中坊でした。(爆)

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ビール帖 002

やわらか ※発泡酒

オリオン 太陽仕込

オリオン いちばん桜

ブラウマイスター

ブラウマイスター

とれたてホップ 一番搾り

プレミアムモルツ

モルツ

プレミアムモルツ

モルツ 丹沢水系

銀河高原ビール

黒船ペリーエール

ゴールデンホップ

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2009.07.19

粉緑

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頭上通過地

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楽園

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2009.07.17

カセットテープ→デッキ→USB→PC

http://www.alesis.jp/...


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携帯電話カメラ×現実拡張

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Time Lapse for iPhone

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2009.07.16

鎌倉宮の紫陽花 008

鎌倉宮にて

鎌倉宮にて

鎌倉宮にて

鎌倉宮にて

鎌倉宮にて

鎌倉宮にて

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近代日本の写真と絵画

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/...

~8/23・神奈川県立近代美術館 葉山

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世界報道写真展 2009

http://www.syabi.com/...

~8/9・東京都写真美術館

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2009 ADC展

http://www.dnp.co.jp/gallery/ggg/

~7/29・ギンザ・グラフィック・ギャラリーほか

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江戸城 本丸御殿と天守

http://www.tnm.go.jp/...

~8/2・東京国立博物館

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2009.07.14

Twitter Search in Plain English

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2009.07.12

Google携帯

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スサノオ[須佐之男命] 八岐大蛇 <古事記・日本書紀(5)>

【Podcasting その1】

【Podcasting その2】

【Podcasting その3】

朗読部分は速度を107%に設定しています。

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古事記物語 / 著・鈴木三重吉

 須佐之男命(すさのおのみこと)は、大空から追いおろされて、出雲(いずも)の国の、肥(ひ)の河(かわ)の河上(かわかみ)の、鳥髪(とりかみ)というところへおくだりになりました。

 すると、その河(かわ)の中にはしが流れて来ました。命(みこと)は、それをご覧(らん)になって、

「では、この河の上の方には人が住んでいるな」とお察しになり、さっそくそちらの方へ向かって探(さが)し探しおいでになりました。そうすると、あるおじいさんとおばあさんとが、まん中に一人の娘(むすめ)をすわらせて三人でおんおん泣(な)いておりました。

 命は、おまえたちは何者かとおたずねになりました。

 おじいさんは、

「私は、この国の大山津見(おおやまつみ)と申します神の子で、足名椎(あしなずち)と申します者でございます。妻の名は手名椎(てなずち)、この娘の名は櫛名田媛(くしなだひめ)と申します」とお答えいたしました。

 命は、

「それで三人ともどうして泣いているのか」と、かさねてお聞きになりました。

 おじいさんは涙をふいて、

「私たち二人には、もとは八人の娘(むすめ)がおりましたのでございますが、その娘たちを、八俣(やまた)の大蛇(おろち)と申します怖(おそ)ろしい大じゃが、毎年出てきて、一人ずつ食べて行ってしまいまして、とうとうこの子一人だけになりました。そういうこの子も、今にその大じゃが食べにまいりますのでございます」

 こう言って、みんなが泣いているわけをお話しいたしました。

「いったいその大じゃはどんな形をしている」と、命(みこと)はお聞きになりました。

「その大じゃと申しますのは、からだは一つでございますが、頭と尾(お)は八つにわかれておりまして、その八つの頭には、赤ほおずきのようなまっかな目が、燃えるように光っております。それからからだじゅうには、こけや、ひのきやすぎの木などがはえ茂(しげ)っております。そのからだのすっかりの長さが、八つの谷と八つの山のすそをとりまくほどの、大きな大きな大じゃでございます。その腹(はら)はいつも血にただれてまっかになっております」と怖ろしそうにお話しいたしました。命は、

「ふん、よしよし」とおうなずきになりました。そして改めておじいさんに向かって、

「その娘はおまえの子ならば、わしのお嫁(よめ)にくれないか」とおっしゃいました。

「おことばではございますが、あなたさまはどこのどなただか存じませんので」とおじいさんは危(あや)ぶんで怖る怖るこう申しました。命は、

「じつはおれは天照大神(あまてらすおおかみ)の同じ腹(はら)の弟で、たった今、大空からおりて来たばかりだ」

と、うちあけてお名まえをおっしゃいました。すると、足名椎(あしなずち)も手名椎(てなずち)も、

「さようでございますか。これはこれはおそれおおい。それでは、おおせのままさしあげますでございます」と、両手をついて申しあげました。

 命は、櫛名田媛(くしなだひめ)をおもらいになると、たちまち媛をくしに化けさせておしまいになりました。そして、そのくしをすぐにご自分のびんの巻髪(まきがみ)におさしになって、足名椎(あしなずち)と手名椎(てなずち)に向かっておっしゃいました。

「おまえたちは、これからこめをかんで、よい酒をどっさり作れ。それから、ここへぐるりとかきをこしらえて、そのかきへ、八(や)ところに門をあけよ。そしてその門のうちへ、一つずつさじきをこしらえて、そのさじきの上に、大おけを一つずつおいて、その中へ、二人でこしらえたよい酒を一ぱい入れて待っておれ」とお言いつけになりました。

 二人は、おおせのとおりに、すっかり準備をととのえて、待っておりました。そのうちに、そろそろ大じゃの出て来る時間が近づいて来ました。

 命は、それを聞いて、じっと待ちかまえていらっしゃいますと、まもなく、二人が言ったように、大きな大きな八俣(やまた)の大蛇(おろち)が、大きなまっかな目をぎらぎら光らして、のそのそと出て来ました。

 大じゃは、目の前に八つの酒(さか)おけが並(なら)んでいるのを見ると、いきなり八つの頭を一つずつその中へつっこんで、そのたいそうなお酒を、がぶがぶがぶがぶとまたたくまに飲み干(ほ)してしまいました。そうするとまもなくからだじゅうによいがまわって、その場へ倒れたなり、ぐうぐう寝(ね)いってしまいました。

 須佐之男命(すさのおのみこと)は、そっとその寝息(ねいき)をうかがっていらっしゃいましたが、やがて、さあ今だとお思いになって、十拳(とつか)の剣(つるぎ)を引き抜(ぬ)くが早いか、おのれ、おのれと、つづけさまにお切りつけになりました。そのうちに八つの尾(お)の中の、中ほどの尾をお切りつけになりますと、その尾の中に何か固(かた)い物があって、剣の刃先(はさき)が、少しばかりほろりと欠けました。

 命(みこと)は、

「おや、変だな」とおぼしめして、そのところを切り裂(さ)いてご覧になりますと、中から、それはそれは刃の鋭い、りっぱな剣が出て来ました。命は、これはふしぎなものが手にはいったとお思いになりました。その剣はのちに天照大神(あまてらすおおかみ)へご献上(けんじょう)になりました。

 命はとうとう、大きな大きな大じゃの胴体をずたずたに切り刻(きざ)んでおしまいになりました。そして、

「足名椎(あしなずち)、手名椎(てなずち)、来て見よ。このとおりだ」とお呼(よ)びになりました。

 二人はがたがたふるえながら出て来ますと、そこいら一面は、きれぎれになった大じゃの胴体から吹き出る血でいっぱいになっておりました。その血がどんどん肥(ひ)の河(かわ)へ流れこんで、河の水もまっかになって落ちて行きました。

 命はそれから、櫛名田媛(くしなだひめ)とお二人で、そのまま出雲(いずも)の国にお住まいになるおつもりで、御殿(ごてん)をおたてになるところを、そちこちと、探(さが)してお歩きになりました。そして、しまいに、須加(すが)というところまでおいでになると、

「ああ、ここへ来たら、心持がせいせいしてきた。これはよいところだ」とおっしゃって、そこへ御殿をおたてになりました。そして、足名椎神(あしなずちのかみ)をそのお宮の役人の頭(かしら)になさいました。

 命にはつぎつぎにお子さまお孫さまがどんどんおできになりました。その八代目のお孫さまのお子さまに、大国主神(おおくにぬしのかみ)、またの名を大穴牟遅神(おおなむちのかみ)とおっしゃるりっぱな神さまがお生まれになりました。

青空文庫より

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【奥出雲・鳥上】

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【船通山(せんつうざん)】

・古来より「鳥上山(鳥髪山)」と言われる。

◎島根県ホームページより
  http://www.pref.shimane.lg.jp/...

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【大山津見(おおやまつみ)】

・イザナギとイザナミとの間に生まれた山と海を司る神。
・初めて神々へ酒造をしたので酒造の神ともされる。
・神奈川県の大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)、
 京都府の梅宮大社(うめのみやたいしゃ)、
 静岡県の三嶋大社(みしまたいしゃ)、全国の三島神社、
 愛媛県の大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)などの主祭神。

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【三嶋大社】

大鳥居

参道

神池

総門

総門

総門

神門

神門

神門の彫刻

神門の彫刻

舞殿

拝殿

拝殿

拝殿

拝殿の彫刻

拝殿の彫刻

拝殿の彫刻

拝殿の彫刻

拝殿

拝殿と本殿

本殿

本殿

境内のキンモクセイ

樹齢1200年と伝えられる天然記念物指定のキンモクセイは、
日本一の大木であると共に、9月上旬と9月下旬から10月上旬にかけて
2回薄黄色の小花を全枝につけ、その芳香は二里に及ぶと伝えられている。
(案内より)

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【祭神】
大山祇命(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神(つみはやえ ことしろぬしのかみ)

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▼三島市教育委員会 案内板より
三嶋大社の創建は明らかではないが、
鎌倉時代(1192年~1333年)初期には
関東総鎮守(かんとうそうちんじゅ)として
源頼朝や多くの武将の尊崇(そんすう)を受けた名社である。
一遍聖絵(いっぺんひじりえ)の社頭と現在のそれとではかなり異なり、
焼失記録を見ると、文永5年(1268年)と永仁4年(1296年)に焼け、
また延享元年(1744年)と安政元年(1854年)の地震で倒壊している。
今の社殿は万延元年(1860年)から明治2年(1869年)にかけて
再建されたものである。
本殿は流れ造(ながれづくり)
[棟(むね)より前方の屋根が、後方の屋根よりも長く反っている建築様式]で
切妻屋根(きりづまやね)[本を半ば開いて伏せた様な形の屋根]、
棟には千木(ちぎ)、鰹木(かつおぎ)をつけている。
拝殿は入母屋造(いりもやづくり)
[上部を切妻屋根とし、下部が四すみに棟をおろしている屋根をもった建築様式]で、
前面には三間の向拝(こうはい)をつけ、正面に千鳥破風(ちどりはふ)と
軒唐破風(のきからはふ)がつく。
両殿の間には軒下に納まるように相の間(あいのま)が造られている。
この建築の様式は権現造(ごんげんづくり)といわれる。
全国的にみて拝殿の大きな神社は数多いが、
本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級であり、
高さ23m、鬼瓦の高さ4mという豪壮なものである。
彫刻は伊豆国名工小沢希道(おざわきどう)、
駿河国名工後藤芳治良(ごとうよしじろう)がそれぞれ門人(もんじん)とともに
技を 競い合って完成した傑作である。

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▼Wikipediaより
・伊豆国一宮・総社
・三島神社(みしまじんじゃ)や三島社(みしましゃ)という名前の神社は
 日本全国に存在する。それらは、伊予大三島の大山祇神社か
 伊豆の三嶋大社と関係のある神社である。
 どちらを総本社とするかは諸説ある。
・三島駅の昭和9年の開業当初から使用される駅舎は、
 三嶋大社と富士山をイメージしたデザインである。
 屋根のカーブも、富士山の稜線に加え、
 三嶋大社の諸殿にみられる意匠を想起させる。
・三島由紀夫のペンネーム「三島」は、三嶋大社に因んだという説がある。
・松坂大輔・柴田倫世夫妻が2004年に結婚式を行った。

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◎三嶋大社
  http://www.mishimataisha.or.jp/

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【八岐大蛇(やまたのおろち)】

▼yanchako様の動画より
石見神楽「大蛇(おろち)」

▼武光誠「古代史ミステリー」(学習研究社)より
山の神であるという説。古代人は、・・・
・・・「自分たちは神の領域を侵したのではないか、暴風雨や洪水はそれに対する
神の怒りではないか」と考えた。そして神の怒りを鎮めるために、酒を供えた。・・・
・・・別の解釈もある。・・・
古代から鉄をとる技術に長けた集団がいくつかあった。・・・
その技術者集団の神だったのではないかというもの。・・・
・・・すぐれた技術者(素戔嗚尊)が現れ、人々に知恵をつけたため、
人は鉄(オロチ)から剣を作り出すことができたというのである。・・・
・・・しかし『日本書紀』『古事記』の編纂者(へんさんしゃ)にとって
重要なのは、八岐大蛇の正体ではなく、素戔嗚尊と天照大神の
上下関係にあったようだ。

▼Wikipediaより
・“毎年古志からヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまった。”
 『古事記』では高志と表記。越国とも出雲国古志郷とも考えられる。
 あるいはその時代製鉄の先進地帯で、
 出雲側から山越しするので吉備地方を古志としていたとも考えられる。
・出雲国は実際に越国(北陸地方)との交戦状態にあり、
 『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現在の島根県安来市)の
 地名説話において「越の八口(こしのやくち)」を平定したと記されており、
 これがこの神話の原型ではないかという説もある。
 高志=越とみる向きには、福井県に『高志(こし)』『九頭竜(くずりゅう)』という
 名称や地名が残っていることが挙げられる(例:高志高校、九頭竜川など)。
・島根県の斐伊川には、出水後に「鱗状砂洲」と呼ばれる、
 蛇の鱗を思わせる砂洲が幾条も構成される。
 これが大蛇のイメージを作り上げたとの説がある。

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【斐伊川(ひいかわ)】

・昔から洪水が多い川で、治水に悪戦苦闘していた。
・上流で良質な砂鉄を採取できる。
・『その腹(はら)はいつも血にただれてまっかになっております』
 →鉄を含み赤い色になった川の水を表現したという説あり。

◎島根県ホームページより
  http://www.pref.shimane.lg.jp/...

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【八岐大蛇 中国の説話説】

▼諏訪春雄「日本王権神話と中国南方神話」(角川書店)より
ヤマタノオロチ神話については、西方に起源を求める大林太良氏の説が
すでに提出されています。・・・
・・・大林氏の説は『日本神話の起源』(角川選書、1973年)に
まとまった形でみることができます。・・・
・・・大林氏は、ヤマタノオロチ神話の直接の源流として、
中国の長江流域とその南に分布している竜蛇退治説話に注目し、
・・・類話を紹介しています。・・・

東越の庸嶺(福建省)の西北の湿地に大蛇がいた。
長さ七、八丈、大きさは十余抱えにもおよんだ。
大蛇はだれかの夢や巫祝(ふしゅく)をとおして少女の犠牲を要求した。
毎年、役人たちは奴隷の生んだ娘や罪人の娘をさがしだしては大蛇にささげ、
その数は合計九人におよんだ。
将楽県の李誕の家に六人の娘がおり、
寄(き)という名の末娘が大蛇にささげられることを志望した。
寄はよく切れる剣を懐にし、蛇を噛む犬をともなって、
八月一日の朝に蛇の洞穴の近くの廟におもむきなかにすわった。
あらかじめ数石の蒸し米で団子をこしらえ、
それに蜜と炒り麦の粉をまぜたものをかけて、
大蛇の穴のなかにおいた。
香気をかぎつけて蛇が出てきてたべようとすると、犬が噛みつき、
それにつづいて少女が蛇を切った。蛇は庭に出て死んだ。
越王はこれを聞いて寄を后にし、
父を将楽県の知事にし、母や姉にも賞をたまわった。

・・・私は、ヤマタノオロチ神話の系譜関係については、
つぎのように考えています。
(1)
ヤマタノオロチ神話の原型は中国南部にある。
朝鮮、インドシナ、日本などの伝承は、農耕や鉄器の文化とともに、
中国を基点に左右対称に広がっていったものが残留した。
(2)
ヨーロッパのペルセウス・アンドロメダ型説話の影響も東南アジアから
東アジアにおよんだが、それは二次的な影響にとどまっていた。

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【十拳剣(とつかのつるぎ)】

▼Wikipediaより
十束剣(とつかのつるぎ)は日本神話に登場する剣。
「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記される。
様々な場面で登場していることや、
「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、
一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、
それぞれ別の剣であるとされる。
最初に登場するのは神産みにおいてイザナギがカグツチを斬る場面である。
その後、黄泉の国から逃げる際に、十拳剣を後手に振って追っ手から逃れている。
アマテラスとスサノオの誓約の場面では、
古事記ではスサノオが持っていた十拳剣からアマテラスが3柱の女神を産んでいる。
最も有名なのはヤマタノオロチ退治の時にスサノオが使った
十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」。“羽々”とは“大蛇”の意味)で、
ヤマタノオロチの尾の中にあった草薙剣に当たって刃が欠けたとしている
(この十拳剣は[岡山県・吉備]石上布都魂神社[いそのかみふつみたまじんじゃ]に祭られ
崇神天皇の代に石上神宮に納められたとされる)。

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【石上神宮(いそのかみじんぐう)】

入口

鳥居

鳥居

鏡池

ワタカ(奈良県指定天然記念物)

楼門(重要文化財)

楼門(重要文化財)

拝殿(国宝)

拝殿(国宝)、奥に本殿

禁足地

神庫

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【祭神】
布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)
布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)

▼案内より
石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、
龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま)[標高266m]の
北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、
神さびた自然の姿を今に残しています。
北方には、布留川が流れ、周囲は古墳密集地帯として知られています。
当神宮は、日本最古の神社の1つで、
武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、
健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。
御祭神は、神武天皇御東征の砌(とき)、国土平定に偉巧をたてられた
天剣[平国之剣(くにむけしつるぎ)]とその霊威を布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、
鎮魂(たまふり)の主体である天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)の
起死回生の霊力を布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇を退治された
天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の威霊(いれい)を
布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)と称(とな)え、
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰ぎ、
第10代崇神天皇(すじんてんのう)7年に現地
石上布留(いそのかみふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。
当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を
御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎(まいさい)され、
諸神は拝殿に配祀(はいし)されていました。
明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司(だいぐうじ)により
禁足地が発掘され、御神体の出御(しゅつぎょ)を仰ぎ、
大正2年御本殿が造営されました。
禁足地は現在も「布留社」と刻まれた
剣先状石瑞垣(けんさきじょういしみずがき)で囲まれ、
昔の佇まいを残しています。

▼Wikipediaより
・『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけであり、
 その記述によれば、日本最古設立の神宮となる。
・古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、
 ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。


▼禁足地から出土した剣の模写図を元に制作されたもの

(勉誠出版・安本美典著「邪馬台国と出雲神話」より)

八岐大蛇を斬った十拳剣か、建御雷(たけみかづち)の神が
大国主(おおくにぬし)の神に、国譲りをせまったときの十掬剣か、の二説あり。

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【天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙剣(くさなぎのつるぎ)】

・船通山に天叢雲剣の記念碑がある。

▼黒岩重吾(くろいわじゅうご)「古代史の真相」より
草薙剣は、従来出雲が鉄の産地なので出雲を代表する大河
斐伊川をシンボライズした大蛇の蛇身から出たという説話が成立したと、
合理的科学的に解釈されてきました。だが、358本もの銅剣が出土した
今となってはやはり視点を変えざるを得ないでしょう。
草薙剣は現在、愛知県の熱田神宮に祀られていますが、
江戸時代に神官たちがそれを盗み見た記録が残っており、
その記録では剣は赤土の中に埋められていたらしい。
荒神谷遺跡の銅剣も赤土の中に埋められており、
草薙剣はどうも鉄剣ではなく銅剣の可能性が強いのです。

▼安本美典著「邪馬台国と出雲神話」より
明治30年(1897年)、東京帝国大学の栗田寛教授が、「神器考証」という
本を書いている。・・・この中で・・・熱田大宮司社家4、5人が
志を合わせて、草薙の剣を見たということを記した記事を引用して、
そのことを紹介している。
・・・彼らが最初に見たものは剣を収めた箱であった。
その箱は、まわりが五尺ほどの木の箱になっていて、これを開けると
次に赤土がある。その次には石の箱があって、これをあけると
さらに赤土になっている。
その奥に樟(くす)の木をくりぬいた箱があって、そこには黄金がつめてあり、
そこに御神体が鎮座ましましていたというのである。
・・・神体は、・・・
・・・大宮司がうかがい見たことは、神のお心にかなわなかったのであろうか。
不慮のことで、流罪(るざい)となった。その他の人々も、重病や悪病でなくなり、
そのうちの1人が、さいわいに生き残って、このことを、あい伝えた。
・・・剣は、次のような特徴をもっていることになる。
1.長さは二尺七、八寸(81cm~84cm)
2.刃先は菖蒲の葉のようも中ほどに厚みあり。
3.本(もと=ツカ)の方六寸(18cm)は筋立っていて魚の骨に似ている。
4.色は全体に白い。

▼Wikipediaより
・三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。
 草薙剣(くさなぎのつるぎ・くさなぎのけん)とも称される。
 三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。
・剣はスサノオからアマテラス(天照大神)に奉納され、
 天孫降臨の際にニニギ(瓊瓊杵尊)に手渡された。
・神話上重要な剣であるため、
 この剣は模造、偽造、盗難、消失、水没と様々な遍歴を辿った。
 結果、現在の所在については諸説語られている。
・熱田神宮説
 熱田神宮の奥深くに神体として安置されているという説。
 神話の記述の通りであればこうなる。
・壇ノ浦水没説
 平家滅亡の折に、二位の尼[平時子(たいらのときこ)]が腰に差して入水し、
 そのまま上がっていないとする説。
・宮中安置説
 宮中儀式に使われているものが本物だという説である。

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【熱田神宮】



一番奥に最も高く見える社殿が「本殿」。



三種の神器の1つである「草薙の剣(天叢雲剣)」を御霊代として、
熱田大神(アツタノオオカミ)が祀られています。



拝所は外玉垣御門の前。これより中には普段は入れません。

◎熱田神宮
  http://www.atsutajingu.or.jp/

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【三種の神器】

・八咫鏡(やたのかがみ)~ 伊勢神宮[三重県]に

・草薙剣(くさなぎのつるぎ)~ 熱田神宮[愛知県]に

・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)~ 皇居[東京都]に

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【須我神社(すがじんじゃ)=日本初之宮(にほんはつのみや)】

・すがすがしい気分になったので、“すが”と名づけた。

▼Wikipediaより
『古事記』によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治した後、
妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、
当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀(須我)」と命名し、
そこに宮殿を建てて鎮まった。
これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、
この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということで、
「和歌発祥の地」とされている。
この宮殿がそのまま神社になったものと伝える。

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【日本最古の歌(和歌)】

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

(やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを)

▼学研「古事記」より
新しい館はむら雲の立ち昇るところ。
その美しさをことほいでスサノオは喜びの歌を詠んだ。
立派な垣根をめぐらした館の奥に美しい妻を隠して
人目に触れさせず、むつまじく暮らしていこう、という意気込みである。

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【八重垣神社(やえがきじんじゃ)】

拝殿

拝殿

本殿

境内にて

境内にて


▼安本美典著「邪馬台国と出雲神話」より
天保3年(1683年)に成立した「出雲風土記鈔(いずものくにふどきしょう)」の、
・・・海潮(うしお)の須我社の説明につぎのようにある。
「須佐の男の命が、大蛇退治のあと、須我社の地に宮をつくり、
稲田姫をめとって、須我湯山主(すがゆやまぬし)の命
(大己貴[おおなむち]の命の別名)が生まれた。そこで、この三神をこの里に
あわせ祭った。のちに、東北四里(約16km)ばかりはなれた・・・佐草村に
遷したのが、今の八重垣社である。」
・・・現在の八重垣神社の地には、もともと「延喜式」に記されている
「佐久佐神社」が存在し、そこに八重垣神社がうつってきたので、
それまでの佐久佐神社は、八重垣神社の境内社となった。

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【日本最古の神社壁画(八重垣神社)】

・須佐之男命(すさのおのみこと)と櫛名田媛(くしなだひめ)など6神像を描いたもの
・社伝では893年に平安時代前期の宮廷画家である
 巨勢金岡(こせのかなおか)が描いたとある。
・描かれている板壁を年輪年代測定法で調査した結果、
 13世紀に伐採された杉を使用していることが明らかになっている。
 →同時期に描かれたとの説あり。

◎Google検索「八重垣神社 壁画」
  http://images.google.com/...

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【須佐之男命-新羅-出雲-蘇我氏】

・出雲の前に新羅に居たという記述あり。

▼日本書紀より
一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇

▼Wikipediaより
五十猛神(イソタケル)は、日本神話に登場する神。「イタケル」とも読まれる。
素戔嗚尊(スサノオ)の子。
天を追放された素戔嗚尊とともに新羅曽尸茂梨(そしもり)に天降り、
スサノオがこの地吾居ること欲さずと言ったので、
一緒に埴土船で渡って出雲斐伊川上の鳥上峯に至ったとある。
五十猛神が天降る際に多くの樹木の種を持っていたが、
新羅には植えずに全てを持ってきて、
九州からはじめて大八洲国に植えたので、青山に被われる国となったという。

▼司馬遼太郎「この国のはじまりについて」より
<対談:日本史学者・林屋辰三郎(はやしやたつさぶろう)氏>
出雲というのは、むしろ海洋-朝鮮との関係から考えてみるほうが、
当時古代においてもふさわしいのではないかと思うのです。・・・
・・・朝鮮は『古事記』にいう根(ね)の国だというのです。・・・
・・・須佐之男は・・、根の国に追放されることになります。
これに対して、別に素戔嗚尊は朝鮮に天降りしたという伝承もでてくるのです。・・・
・・・根の国のルーツ(根)は朝鮮だということを、かなりいろいろな
伝承で説明できるようですね。・・・
・・・だから根の国への道というひとつの特別な道のイメージを、
出雲に持っていたのだろうと考えるのですよ。・・・
・・・出雲というのはかなり大事な国であったし、
根の国という発想をしたということは、大和朝廷の側からは、
朝鮮が日本の文化の原点であるという認識が、
早くからあったのではないでしょうか。

▼黒岩重吾(くろいわじゅうご)「古代史の真相」より
数々の神話中、どの部分が忠実として考えられるかといえば、
まず素戔嗚の出自(しゅつじ)が『日本書紀』に「一説によれば」の断わりつきで
新羅になっていること。・・・
・・・荒ぶる国とされていた新羅から、荒ぶる神の素戔嗚がやって来たという
伝承は、新羅と出雲の地理的関係を念頭におけば、一層現実的な色合いをおびる。
が、素戔嗚が新羅に降りて出雲に来たのか、つまり新羅系の渡来人が出雲に
現れ支配者になったのかといえば、これは疑わしいですね。・・・
・・・つぎに、出雲を論ずる場合に欠かすことのできないのが
四隅突出型方墳です。・・・
・・・具体的にいえば358本の銅剣が出土した荒神谷遺跡から数キロ離れた
西谷古墳群、鳥取県倉吉の阿弥大寺遺跡(あみだいじいせき)、富山県の杉谷古墳群、
素戔嗚が天降ったという伝承の残る島根と広島の県境の山中にある安芸の
可愛(えの)[可愛川]などに見られます。・・・
・・・高句麗や新羅の墓は四隅突出型方墳とはいえないまでも
それに似た特徴をもっており、この特異な墓を出雲で造った人たちの中に、
渡来系の人もかなり交じっていたのではないか。
いずれにしろ、朝鮮半島の影響をうけた可能性は濃厚です。

▼「古代史と日本神話」 金井清一“造船説話とスサノヲノ命”より
日本書紀神代紀(じんだいき)第8段は、
八岐大蛇退治を中心としたスサノヲノ命関係の段落である。
その第五の一書(いっしょ)に、スサノヲが「韓国(からくに)には金銀がある。
しかしわが子孫の支配する国に浮宝(うくたから)[船]がないのは良くない」
と言って、ひげや胸毛を抜いて、杉、檜となし、これを以て浮宝とせよ。と命じた
という神話がある。
この神話はスサノヲが他の木材の用途をも定め、その子神(ししん)らも
木種をよく分布させた。
そして紀伊国に移り住んだとも述べているが、今、その辺のことは採りあげない。
注目したいのは、スサノヲが造船用の木材生成の神となっていること、
また元来韓国(からくに)にいた神であると神話が語っていることである。
後者については第四の一書には、
初め子神をを率いて新羅国に降った(くだった)のだとある。
そして子神と共に出雲国に渡ってたのであるが、
子神五十猛命(いたけるのみこと)が天から持ち来たった木種は
韓地には殖えず(ふえず)、すべて大八州国(おおやしまこく)に
播殖(はしょく)させたのだと記している。
こちらには造船の件はなく木材のことだけが書かれている。
しかし両書によってスサノヲ及びの子神が船材を含む木材生成の
祖神(そしん)と崇(あが)められていたという信仰的事実の存在したことが分かる。

▼関裕二「神武東征の謎~出雲神話の裏に隠された真相」より
蘇我氏と出雲を結びつけるのは、まず第一に「方墳」である。
7世紀、蘇我氏はどういう理由からか、好んで方墳を造営した。
しかも、他の豪族の方墳造営は、けっして許さなかった。
この蘇我氏の「特権」が唯一許されたのは、出雲国造家(こくそうけ)である。・・・
・・・出雲大社本殿の真裏には、素戔嗚尊を祀る社があって、
「素鵞社(そがしゃ)」と呼ばれている。
なぜ出雲の祖神(おやがみ)を祀る神社の名が「ソガ」なのだろう。・・・
・・・「スガ」が音韻変化して「ソガ」になったのだろう。・・・

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◎Google検索「古事記」
  http://www.google.com/...

◎Google検索「日本書紀」
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【古事記・日本書紀 Podcasting】
(1)概要紹介
(2)天地開闢・国産み・黄泉の国
(3)黄泉の国・天照大神の誕生
(4)天の岩屋
(5)八岐大蛇
(6)スサノオノミコトと牛頭天王、蘇民将来
(7)因幡の白兎 八上媛
(8)根堅州国 須勢理媛
(9)大国主神の国づくり

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歴史ラジオ

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2009.07.11

石上神宮

入口

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2009.07.09

素盞雄神社

鳥居

続きを読む "素盞雄神社"

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氷川神社 総本社 (大宮)

参道

続きを読む "氷川神社 総本社 (大宮)"

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Google Chrome OS

http://googlejapan.blogspot.com/...

いよいよ、Google OSの扉が・・。pc

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MAGASTORE

http://magastore.jp/web/

電通などが夏からスタートする電子雑誌有料販売サービス。mobilephone

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2009.07.07

鎌倉宮の紫陽花 007

鎌倉宮にて

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自転車用デジカメスタンド

http://direct.sanwa.co.jp/...

列車との並走シーン撮影にも使えそう。bicycle

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LOVE DISTANCE

http://www.lovedistance.jp/

※音が出ます。

カンヌ国際広告祭 PR部門金賞受賞 フィルム部門金賞受賞

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クルーたちの衣装は・・

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戦慄迷宮ついに閉鎖!

http://www.fujiq.jp/...

※音出ます。

まだ行けてなかったのに残念。
でも、この調子だと・・wink

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沖縄ドライブ気分

http://www.okinawa-drive.net/

その名の通り、沖縄ドライブ気分を動画で疑似体験できます。rvcar

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七夕ぼん

http://www.pishari.com/tanabata/

七夕神社へ8月7日に奉納してくれます。pencil

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おうちで開通!鉄道レストラン&ゲーム 新幹線N700系

http://epoch.jp/ty/tetsurest/

これからは寿司ゲージの時代さ!happy02

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鎌倉宮の紫陽花 006

鎌倉宮にて

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兵庫・豊岡(北但馬) 縄蓆文土器破片を確認

兵庫県の豊岡市教委は1日、市内2カ所の遺跡から出土していた土器片が、
渡来人が使用していた5世紀後半の縄蓆文(じょうせきもん)土器の
破片だったことを確認したと発表した。
縄蓆文のある土器片の発見は北但馬では初めて。
市教委では、朝鮮半島から日本に渡ってきた
渡来人「アメノヒボコ」の伝説につながる貴重な資料としている。

同市中谷の中谷貝塚と同市土渕(ひじうち)の
八坂神社古墳から出土していた計13の土器片を、
企画展出展のため専門家が鑑定したところ
縄蓆文土器の破片であることが分かった。
それぞれ中サイズの甕(かめ)か壺(つぼ)の破片とみられる。

縄蓆文は、土器の成型技法によって生まれる表面模様の一つで、
朝鮮半島三国時代(4~6世紀)の韓式土器の特徴的技法。
縄蓆文土器を焼いた窯は日本ではほとんど見つかっておらず、
確認された土器片が甕か壺といった実用品であることから、
市教委では渡来人が直接持ち込んだものと判断している。

県内では、播磨地域を中心に約20例の縄蓆文土器の出土が確認されているが、
アメノヒボコの伝説の舞台となった但馬地域では、
朝来市で1例が確認されている程度で、極めて少ないのが現状だった。

今回の発見で北但馬地域でも
確実に朝鮮半島系の渡来人の存在を示す資料が得られたことになり、
市教委では今後の研究に期待を寄せている。

◎日本海新聞 2009年7月3日
  http://www.nnn.co.jp/...

◎Google検索「縄蓆文」
  http://www.google.com/...

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放射性炭素年代測定法の信頼性

放射性炭素年代測定法を使って
箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)の築造を240~260年とした
国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究結果が
各マスコミで大々的に取り上げられた。
古代史上最大の謎、邪馬台国の所在地問題に直結するためだが、
その報道のありようには一考の余地がある。

同測定法は自然界に一定の比率で存在する放射性炭素(炭素14)を利用する。
生物は死後、炭素を取り込まなくなり、年を経るごとに炭素14の濃度が低下。
その濃度を測定することで、生物が死んだ絶対的な年代を特定する。
が、年代ごとの濃度は一定ではないため、
年代が確実な試料の炭素濃度データを蓄積したグラフ(較正(こうせい)曲線)を作成、
それに照合することで年代を特定する。
もちろん較正曲線に誤りがあれば、導き出された年代を間違えることになる。

同測定法が注目されたのは平成15年5月、
歴博が行った文部科学省での発表だった。
弥生時代早期の土器の付着物を測定した結果、
弥生時代の開始時期は定説である紀元前5世紀を
500年さかのぼる紀元前10世紀と発表した。

その発表を現場で取材し、まず疑問に思ったのは鉄の問題だった。
日本最古とされる福岡・曲(まが)り田遺跡出土の鉄斧(てっぷ)は
弥生早期の地層から出土したとされ、歴博の発表通りとすると、
中国・西周時代にすでに日本に鉄製品が存在したことになる。
鉄斧は鋳造とみられ、中国で鋳造の鉄が流通するのは
西周、春秋に続く戦国時代(前403~前221年)とされる。
中国より先に日本に鉄製品があったというのは説明がつかない。

歴博側はその後、曲り田遺跡の鉄斧の出土報告に
疑問があると主張しているが、論争に決着がついたわけではない。
さらに、九州大学の研究チームが曲り田遺跡の弥生早期の地層から出土した
シカの骨を同測定法で測定した結果、
紀元前600年ごろと発表、歴博側との隔たりは大きい。

今回の発表は、箸墓古墳の周濠(しゅうごう)から出土した
土器付着のススを測定した結果で、
中国の史書・魏志倭人(ぎしわじん)伝に記された
邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の死亡時期(248年ごろ)がその範囲に入り、
歴博側は「箸墓古墳は卑弥呼の墓が確定的」とまで明言した。
確かに最近の考古学の研究成果に近い結果であるのは間違いない。
が、弥生の開始時期問題もまだ、歴博説が定説となっているわけではない。
重要な物差しである可能性はあるが、
報道に当たってはなお、慎重さが求められる。

(大阪編集長 上坂徹)

◎産経新聞 2009年7月1日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「放射性炭素年代測定法」
  http://www.google.com/...

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大阪・池島 福万寺遺跡 弥生時代の大洪水跡

生駒山地西麓に広がる東大阪市池島町の池島・福万寺遺跡で、
弥生時代前期~中期初め(紀元前4~1世紀)の
大規模な洪水跡が大阪府文化財センターの発掘調査で
見つかっていたことが30日、分かった。
この一帯は、昭和47年7月に大阪府大東市を中心に発生した
「大東水害」でも被害を受けており、
古代から洪水に悩まされ続けた実態が明らかになった。

発掘調査は、洪水対策の一環として東大阪市から大東市を流れる恩智川で、
増水した水を一時的にためる調整池整備に伴って行われた。
地表から約5メートル掘り下げたところ、高さ約1メートルにわたって
弥生時代の堆積(たいせき)土を検出。
そのうち、粘土層にはさまれた厚さ50センチ以上の砂の層が確認され、
大規模な洪水に伴って砂が一気に流されて堆積した痕跡と分かった。

同遺跡一帯は当時、大阪平野の形成以前に存在したと推定される
大規模な湖「河内湖」岸に位置。当時は海抜数メートルしかなかったとみられ、
生駒山地からの雨水によって洪水が起こりやすかったという。

同遺跡では平安~江戸時代の洪水の跡が発見されているほか、
平成11年8月11日の大雨では、整備中の調整池に雨水が流れ込み、
同遺跡がすべて水没する被害も出た。
古代の洪水に詳しい同センターの井上智博副主査は
「現在は治水が進んだとはいえ、洪水の危険性は
古代も今も変わっていないことを改めて認識させられる発見」と話している。

◎産経新聞 2009年7月1日
  http://sankei.jp.msn.com/...

◎Google検索「池島 福万寺遺跡」
  http://www.google.com/...

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大阪・今城塚古墳 幻の陵墓参考地

〈真の継体天皇陵〉と呼ばれる大阪府高槻市の「今城塚古墳」(6世紀前半)。
宮内庁は、茨木市の「太田茶臼山古墳」(5世紀中頃)を継体陵とするが、
大正から昭和初期、今城塚を継体陵とみて
陵墓参考地の指定も検討していたことが、研究者の調査で明らかになった。
同庁の陵墓指定古墳は現在、原則立ち入りも許されていない。
しかし、今城塚は市が2011年春の完成を目指して史跡公園整備を進めており、
事実上、公園として一般開放される唯一の大王墓(天皇陵)となる。
真の継体陵とされるに至る、経緯をひもといてみた。

史跡公園整備が進む今城塚古墳(高槻市郡家新町で) 日本の古墳は、
名前が記された墓誌などが納められていないため、
被葬者をほとんど特定できない。
それは、陵墓も例外ではない。
では、今城塚はいつ頃、誰が「継体陵」と説いたのだろうか……。
高木博志・京都大准教授(近代史)が、宮内庁所蔵の文書を調査したところ、
戦災で焼失した「府庁文書」の写しが残されていた。
府知事が、1922年(大正11年)に内務大臣あてに起案した文書だ。

〈元ヨリ陵墓タリシモノニシテ、然(しか)モ陵制宏大ナルヨリ考フレハ
高貴ノ陵墓タルコトヲ知ルヲ得ヘシ〉。
このように、今城塚周辺にある「陪塚」(現在は陪塚と認められていない)の
保護を訴えていたことがわかった。

高木准教授は、府史蹟(しせき)調査委員の天坊幸彦氏が原案を作成したとみて、
「今城塚を文化財として保存しようとした嚆矢(こうし)」と指摘。
それだけではない。継体陵の所在地は、律令の施行細則「延喜式」(927年)に
「摂津国島上郡」と記されている。
今城塚は「島上郡」にあるが、太田茶臼山は「島下郡」。
天坊氏は郡境を突き止め、今城塚こそ継体陵にふさわしいと説いた。

これを受けた形で29年(昭和4年)、当時の宮内省の陵墓考証担当者が、
内部文書で今城塚が真の継体陵と主張。
36年(同11年)には宮内大臣の諮問に、同省の臨時陵墓調査委員会が
「今城塚を陵墓参考地に編入すべき」と答申した。

だが、58年。国史跡に指定されたが陵墓参考地にはならなかった。
その理由を高木准教授は「歴代の天皇陵すべてが19世紀の学知に基づき治定され、
その体系が変更なく、凍結されてきたため」と説明。
1881年の天武・持統合葬陵以来、陵墓の指定変更はない。
一つ認めれば次々に変更を余儀なくされる恐れがあったため、と推測できる。

◎読売新聞 2009年6月29日
  http://osaka.yomiuri.co.jp/...

◎Google検索「今城塚古墳」
  http://www.google.com/...

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川越 氷川神社 八坂神社

大鳥居[明神型・杉材]

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2009.07.05

三嶋大社

大鳥居

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583系

静岡県・熱海駅にて平成21年7月に撮影

静岡県・熱海駅にて平成21年7月に撮影

静岡県・熱海駅にて平成21年7月に撮影

静岡県・熱海駅にて平成21年7月に撮影

静岡県・熱海駅にて平成21年7月に撮影

静岡県・熱海駅にて平成21年7月に撮影

静岡県・熱海駅にて平成21年7月に撮影

大阪府・高槻駅にて昭和63年3月17日に撮影

大阪府・高槻駅にて昭和63年3月17日に撮影

鉄友からもらった写真

鉄友からもらった写真

鉄友からもらった写真

鉄友からもらった写真

青森県・青森駅にて平成元年8月4日に撮影

青森県・青森駅にて平成元年8月4日に撮影

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国鉄583系電車は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した
動力分散方式の寝台電車。交直両用特急形電車。
当初581系電車として開発・製造された。

最初に使用された列車にちなんで「月光形電車」の異名を持つ。

寝台設備を持つ電動車は、20世紀初頭のアメリカにおける
インターアーバン(都市間電車)などで数例見られ、営業運転も行われていたが、
静粛性の問題や昼夜兼行とする経済的メリットが存在しなかった事から、
少数・短期間にとどまり、本格的な寝台電車は以下で示す581系が
世界で最初かつ唯一のものである。

本系列の開発の経緯は、以下に示すとおり、日本の鉄道の特異性が関係していた。

日本において、1960年代初頭より、昼行列車は
加・減速や上り勾配での速度に優れている電車ないしは気動車による
動力分散方式が一般化してきた。

一方、夜行列車は一部が動力分散方式に切り替えられたものの、
寝台車については静粛性の観点から、従来どおり機関車牽引の客車で運行される
動力集中方式が一般的であり、高速化には限界があった。

1960年代に入ると好景気による輸送需要増大に伴い、
全国的に優等列車の増発が進められた。
この過程で、運転本数が多くなった急行・特急列車に対し、
運行する車両を置く車両基地の容量の問題が浮上してきた。

更に、必要な車両を新規製造する費用の捻出が問題にもなってきた。
これらの解決策として、昼夜兼行で使用可能な
寝台兼用電車を設計することになったものである。

当初は、寝台車の接客設備水準を考慮し、
昼行列車では急行列車で使用する運用が想定されていたが、
特急列車に対する需要が大きいことと、平均時速が遅い急行列車で使用する場合、
十分な転換時間が得られないとの理由から、
特急形電車として設計された。その結果、以下のことを可能とした。

寝台列車としては、当時の日本最速120km/hでの走行を可能にした。

朝夕のラッシュ時間帯に通勤用車両が出払っていて
余裕のある車両基地で寝台設備の解体・セットを行うことにより、
新規の地上設備投資を抑えた。

昼夜兼行形の車両とすることで、1日により多くの仕事をすることができ、
投資に対する費用対効果を高めた。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「583系」
  http://www.google.com/...

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2009.07.03

鎌倉宮の紫陽花 005

鎌倉宮にて

鎌倉宮にて

鎌倉宮にて

鎌倉宮にて

鎌倉宮にて

鎌倉宮にて

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playMUJI

http://www.muji.com/playmuji/

無印良品の動画サイト。 ※音出ます。

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アメリカンドッグの “あの部分”

http://portal.nifty.com/...

わかるわかる。(笑)
自分も “あの部分” 食いまくりたい!happy02

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変わり種アメリカンドッグ

http://portal.nifty.com/...

ハハ、これはアメリカンドッグ・・まだまだ隙間ビジネス行けそう!scissors

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工事中の山手トンネル

http://portal.nifty.com/...

広角マジックはあるにしろ、やはり規模デカ。coldsweats02

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久留里線のキハ30が国鉄色に

http://railf.jp/...

この秋、絶対行コ!happy01

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泣かせる空に会いたい 【立山の恋人編】

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abic(アビック)

http://www.dentsu.co.jp/abic/

電通の地域ブランド・マネジメント。

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Air Action Vigorsol

冷たい空気って、本当に売れるかも。(笑)sweat02

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2009.07.02

帰ってきたNAVER

http://www.naver.jp/

その昔、かなり注目された検索サイトでしたよね。
あらためて、リスタートということで。
“まとめ”の機能が特長の1つなようです。search

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500色の色えんぴつ

http://500f.jp/

家にチラシが入っていた。memo
色鉛筆を毎月揃えていくとは・・面白い発想ですね。flair

http://www.felissimo.info/contents/colors/...
↑500色の名前

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京急マガジンWe~b

http://www.keikyu.co.jp/magazine/

京急は頻繁に様々なガイド冊子を作成していますが
その一部がWebマガジンスタイルでご覧いただけます。happy01

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2009.07.01

ドラドラ動画

http://www.drive-drive.jp/...

JAF MATEが作ったドライブレコーダーで撮った動画の投稿サイト。movie

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電車銀行

http://www.targa-japan.com/...

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NYK スーパーエコシップ2030 太陽光燃料電池帆船

http://www.nyk.com/

IMAGE DATA © NYK Line

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タケコプター?

http://www.gen-corp.jp/

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水陸両用バス

http://www.japan-ducktour.com/

LEGEND零TWO号が本日デビュー!busship

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