スサノオ[須佐之男命] 八岐大蛇 <古事記・日本書紀(5)>
【Podcasting その1】
【Podcasting その2】
【Podcasting その3】
朗読部分は速度を107%に設定しています。
--------------------------------------------------------------
古事記物語 / 著・鈴木三重吉
須佐之男命(すさのおのみこと)は、大空から追いおろされて、出雲(いずも)の国の、肥(ひ)の河(かわ)の河上(かわかみ)の、鳥髪(とりかみ)というところへおくだりになりました。
すると、その河(かわ)の中にはしが流れて来ました。命(みこと)は、それをご覧(らん)になって、
「では、この河の上の方には人が住んでいるな」とお察しになり、さっそくそちらの方へ向かって探(さが)し探しおいでになりました。そうすると、あるおじいさんとおばあさんとが、まん中に一人の娘(むすめ)をすわらせて三人でおんおん泣(な)いておりました。
命は、おまえたちは何者かとおたずねになりました。
おじいさんは、
「私は、この国の大山津見(おおやまつみ)と申します神の子で、足名椎(あしなずち)と申します者でございます。妻の名は手名椎(てなずち)、この娘の名は櫛名田媛(くしなだひめ)と申します」とお答えいたしました。
命は、
「それで三人ともどうして泣いているのか」と、かさねてお聞きになりました。
おじいさんは涙をふいて、
「私たち二人には、もとは八人の娘(むすめ)がおりましたのでございますが、その娘たちを、八俣(やまた)の大蛇(おろち)と申します怖(おそ)ろしい大じゃが、毎年出てきて、一人ずつ食べて行ってしまいまして、とうとうこの子一人だけになりました。そういうこの子も、今にその大じゃが食べにまいりますのでございます」
こう言って、みんなが泣いているわけをお話しいたしました。
「いったいその大じゃはどんな形をしている」と、命(みこと)はお聞きになりました。
「その大じゃと申しますのは、からだは一つでございますが、頭と尾(お)は八つにわかれておりまして、その八つの頭には、赤ほおずきのようなまっかな目が、燃えるように光っております。それからからだじゅうには、こけや、ひのきやすぎの木などがはえ茂(しげ)っております。そのからだのすっかりの長さが、八つの谷と八つの山のすそをとりまくほどの、大きな大きな大じゃでございます。その腹(はら)はいつも血にただれてまっかになっております」と怖ろしそうにお話しいたしました。命は、
「ふん、よしよし」とおうなずきになりました。そして改めておじいさんに向かって、
「その娘はおまえの子ならば、わしのお嫁(よめ)にくれないか」とおっしゃいました。
「おことばではございますが、あなたさまはどこのどなただか存じませんので」とおじいさんは危(あや)ぶんで怖る怖るこう申しました。命は、
「じつはおれは天照大神(あまてらすおおかみ)の同じ腹(はら)の弟で、たった今、大空からおりて来たばかりだ」
と、うちあけてお名まえをおっしゃいました。すると、足名椎(あしなずち)も手名椎(てなずち)も、
「さようでございますか。これはこれはおそれおおい。それでは、おおせのままさしあげますでございます」と、両手をついて申しあげました。
命は、櫛名田媛(くしなだひめ)をおもらいになると、たちまち媛をくしに化けさせておしまいになりました。そして、そのくしをすぐにご自分のびんの巻髪(まきがみ)におさしになって、足名椎(あしなずち)と手名椎(てなずち)に向かっておっしゃいました。
「おまえたちは、これからこめをかんで、よい酒をどっさり作れ。それから、ここへぐるりとかきをこしらえて、そのかきへ、八(や)ところに門をあけよ。そしてその門のうちへ、一つずつさじきをこしらえて、そのさじきの上に、大おけを一つずつおいて、その中へ、二人でこしらえたよい酒を一ぱい入れて待っておれ」とお言いつけになりました。
二人は、おおせのとおりに、すっかり準備をととのえて、待っておりました。そのうちに、そろそろ大じゃの出て来る時間が近づいて来ました。
命は、それを聞いて、じっと待ちかまえていらっしゃいますと、まもなく、二人が言ったように、大きな大きな八俣(やまた)の大蛇(おろち)が、大きなまっかな目をぎらぎら光らして、のそのそと出て来ました。
大じゃは、目の前に八つの酒(さか)おけが並(なら)んでいるのを見ると、いきなり八つの頭を一つずつその中へつっこんで、そのたいそうなお酒を、がぶがぶがぶがぶとまたたくまに飲み干(ほ)してしまいました。そうするとまもなくからだじゅうによいがまわって、その場へ倒れたなり、ぐうぐう寝(ね)いってしまいました。
須佐之男命(すさのおのみこと)は、そっとその寝息(ねいき)をうかがっていらっしゃいましたが、やがて、さあ今だとお思いになって、十拳(とつか)の剣(つるぎ)を引き抜(ぬ)くが早いか、おのれ、おのれと、つづけさまにお切りつけになりました。そのうちに八つの尾(お)の中の、中ほどの尾をお切りつけになりますと、その尾の中に何か固(かた)い物があって、剣の刃先(はさき)が、少しばかりほろりと欠けました。
命(みこと)は、
「おや、変だな」とおぼしめして、そのところを切り裂(さ)いてご覧になりますと、中から、それはそれは刃の鋭い、りっぱな剣が出て来ました。命は、これはふしぎなものが手にはいったとお思いになりました。その剣はのちに天照大神(あまてらすおおかみ)へご献上(けんじょう)になりました。
命はとうとう、大きな大きな大じゃの胴体をずたずたに切り刻(きざ)んでおしまいになりました。そして、
「足名椎(あしなずち)、手名椎(てなずち)、来て見よ。このとおりだ」とお呼(よ)びになりました。
二人はがたがたふるえながら出て来ますと、そこいら一面は、きれぎれになった大じゃの胴体から吹き出る血でいっぱいになっておりました。その血がどんどん肥(ひ)の河(かわ)へ流れこんで、河の水もまっかになって落ちて行きました。
命はそれから、櫛名田媛(くしなだひめ)とお二人で、そのまま出雲(いずも)の国にお住まいになるおつもりで、御殿(ごてん)をおたてになるところを、そちこちと、探(さが)してお歩きになりました。そして、しまいに、須加(すが)というところまでおいでになると、
「ああ、ここへ来たら、心持がせいせいしてきた。これはよいところだ」とおっしゃって、そこへ御殿をおたてになりました。そして、足名椎神(あしなずちのかみ)をそのお宮の役人の頭(かしら)になさいました。
命にはつぎつぎにお子さまお孫さまがどんどんおできになりました。その八代目のお孫さまのお子さまに、大国主神(おおくにぬしのかみ)、またの名を大穴牟遅神(おおなむちのかみ)とおっしゃるりっぱな神さまがお生まれになりました。
--------------------------------------------------------------
【奥出雲・鳥上】
--------------------------------------------------------------
【船通山(せんつうざん)】
・古来より「鳥上山(鳥髪山)」と言われる。
◎島根県ホームページより
http://www.pref.shimane.lg.jp/...
--------------------------------------------------------------
【大山津見(おおやまつみ)】
・イザナギとイザナミとの間に生まれた山と海を司る神。
・初めて神々へ酒造をしたので酒造の神ともされる。
・神奈川県の大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)、
京都府の梅宮大社(うめのみやたいしゃ)、
静岡県の三嶋大社(みしまたいしゃ)、全国の三島神社、
愛媛県の大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)などの主祭神。
--------------------------------------------------------------
【三嶋大社】
大鳥居
参道
神池
総門
総門
総門
神門
神門
神門の彫刻
神門の彫刻
舞殿
拝殿
拝殿
拝殿
拝殿の彫刻
拝殿の彫刻
拝殿の彫刻
拝殿の彫刻
拝殿
拝殿と本殿
本殿
本殿
境内のキンモクセイ
樹齢1200年と伝えられる天然記念物指定のキンモクセイは、
日本一の大木であると共に、9月上旬と9月下旬から10月上旬にかけて
2回薄黄色の小花を全枝につけ、その芳香は二里に及ぶと伝えられている。
(案内より)
----------
【祭神】
大山祇命(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神(つみはやえ ことしろぬしのかみ)
----------
▼三島市教育委員会 案内板より
三嶋大社の創建は明らかではないが、
鎌倉時代(1192年~1333年)初期には
関東総鎮守(かんとうそうちんじゅ)として
源頼朝や多くの武将の尊崇(そんすう)を受けた名社である。
一遍聖絵(いっぺんひじりえ)の社頭と現在のそれとではかなり異なり、
焼失記録を見ると、文永5年(1268年)と永仁4年(1296年)に焼け、
また延享元年(1744年)と安政元年(1854年)の地震で倒壊している。
今の社殿は万延元年(1860年)から明治2年(1869年)にかけて
再建されたものである。
本殿は流れ造(ながれづくり)
[棟(むね)より前方の屋根が、後方の屋根よりも長く反っている建築様式]で
切妻屋根(きりづまやね)[本を半ば開いて伏せた様な形の屋根]、
棟には千木(ちぎ)、鰹木(かつおぎ)をつけている。
拝殿は入母屋造(いりもやづくり)
[上部を切妻屋根とし、下部が四すみに棟をおろしている屋根をもった建築様式]で、
前面には三間の向拝(こうはい)をつけ、正面に千鳥破風(ちどりはふ)と
軒唐破風(のきからはふ)がつく。
両殿の間には軒下に納まるように相の間(あいのま)が造られている。
この建築の様式は権現造(ごんげんづくり)といわれる。
全国的にみて拝殿の大きな神社は数多いが、
本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級であり、
高さ23m、鬼瓦の高さ4mという豪壮なものである。
彫刻は伊豆国名工小沢希道(おざわきどう)、
駿河国名工後藤芳治良(ごとうよしじろう)がそれぞれ門人(もんじん)とともに
技を 競い合って完成した傑作である。
----------
▼Wikipediaより
・伊豆国一宮・総社
・三島神社(みしまじんじゃ)や三島社(みしましゃ)という名前の神社は
日本全国に存在する。それらは、伊予大三島の大山祇神社か
伊豆の三嶋大社と関係のある神社である。
どちらを総本社とするかは諸説ある。
・三島駅の昭和9年の開業当初から使用される駅舎は、
三嶋大社と富士山をイメージしたデザインである。
屋根のカーブも、富士山の稜線に加え、
三嶋大社の諸殿にみられる意匠を想起させる。
・三島由紀夫のペンネーム「三島」は、三嶋大社に因んだという説がある。
・松坂大輔・柴田倫世夫妻が2004年に結婚式を行った。
----------
◎三嶋大社
http://www.mishimataisha.or.jp/
--------------------------------------------------------------
【八岐大蛇(やまたのおろち)】
▼yanchako様の動画より
石見神楽「大蛇(おろち)」
▼武光誠「古代史ミステリー」(学習研究社)より
山の神であるという説。古代人は、・・・
・・・「自分たちは神の領域を侵したのではないか、暴風雨や洪水はそれに対する
神の怒りではないか」と考えた。そして神の怒りを鎮めるために、酒を供えた。・・・
・・・別の解釈もある。・・・
古代から鉄をとる技術に長けた集団がいくつかあった。・・・
その技術者集団の神だったのではないかというもの。・・・
・・・すぐれた技術者(素戔嗚尊)が現れ、人々に知恵をつけたため、
人は鉄(オロチ)から剣を作り出すことができたというのである。・・・
・・・しかし『日本書紀』『古事記』の編纂者(へんさんしゃ)にとって
重要なのは、八岐大蛇の正体ではなく、素戔嗚尊と天照大神の
上下関係にあったようだ。
▼Wikipediaより
・“毎年古志からヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまった。”
『古事記』では高志と表記。越国とも出雲国古志郷とも考えられる。
あるいはその時代製鉄の先進地帯で、
出雲側から山越しするので吉備地方を古志としていたとも考えられる。
・出雲国は実際に越国(北陸地方)との交戦状態にあり、
『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現在の島根県安来市)の
地名説話において「越の八口(こしのやくち)」を平定したと記されており、
これがこの神話の原型ではないかという説もある。
高志=越とみる向きには、福井県に『高志(こし)』『九頭竜(くずりゅう)』という
名称や地名が残っていることが挙げられる(例:高志高校、九頭竜川など)。
・島根県の斐伊川には、出水後に「鱗状砂洲」と呼ばれる、
蛇の鱗を思わせる砂洲が幾条も構成される。
これが大蛇のイメージを作り上げたとの説がある。
--------------------------------------------------------------
【斐伊川(ひいかわ)】
・昔から洪水が多い川で、治水に悪戦苦闘していた。
・上流で良質な砂鉄を採取できる。
・『その腹(はら)はいつも血にただれてまっかになっております』
→鉄を含み赤い色になった川の水を表現したという説あり。
◎島根県ホームページより
http://www.pref.shimane.lg.jp/...
--------------------------------------------------------------
【八岐大蛇 中国の説話説】
▼諏訪春雄「日本王権神話と中国南方神話」(角川書店)より
ヤマタノオロチ神話については、西方に起源を求める大林太良氏の説が
すでに提出されています。・・・
・・・大林氏の説は『日本神話の起源』(角川選書、1973年)に
まとまった形でみることができます。・・・
・・・大林氏は、ヤマタノオロチ神話の直接の源流として、
中国の長江流域とその南に分布している竜蛇退治説話に注目し、
・・・類話を紹介しています。・・・
東越の庸嶺(福建省)の西北の湿地に大蛇がいた。
長さ七、八丈、大きさは十余抱えにもおよんだ。
大蛇はだれかの夢や巫祝(ふしゅく)をとおして少女の犠牲を要求した。
毎年、役人たちは奴隷の生んだ娘や罪人の娘をさがしだしては大蛇にささげ、
その数は合計九人におよんだ。
将楽県の李誕の家に六人の娘がおり、
寄(き)という名の末娘が大蛇にささげられることを志望した。
寄はよく切れる剣を懐にし、蛇を噛む犬をともなって、
八月一日の朝に蛇の洞穴の近くの廟におもむきなかにすわった。
あらかじめ数石の蒸し米で団子をこしらえ、
それに蜜と炒り麦の粉をまぜたものをかけて、
大蛇の穴のなかにおいた。
香気をかぎつけて蛇が出てきてたべようとすると、犬が噛みつき、
それにつづいて少女が蛇を切った。蛇は庭に出て死んだ。
越王はこれを聞いて寄を后にし、
父を将楽県の知事にし、母や姉にも賞をたまわった。
・・・私は、ヤマタノオロチ神話の系譜関係については、
つぎのように考えています。
(1)
ヤマタノオロチ神話の原型は中国南部にある。
朝鮮、インドシナ、日本などの伝承は、農耕や鉄器の文化とともに、
中国を基点に左右対称に広がっていったものが残留した。
(2)
ヨーロッパのペルセウス・アンドロメダ型説話の影響も東南アジアから
東アジアにおよんだが、それは二次的な影響にとどまっていた。
--------------------------------------------------------------
【十拳剣(とつかのつるぎ)】
▼Wikipediaより
十束剣(とつかのつるぎ)は日本神話に登場する剣。
「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記される。
様々な場面で登場していることや、
「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、
一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、
それぞれ別の剣であるとされる。
最初に登場するのは神産みにおいてイザナギがカグツチを斬る場面である。
その後、黄泉の国から逃げる際に、十拳剣を後手に振って追っ手から逃れている。
アマテラスとスサノオの誓約の場面では、
古事記ではスサノオが持っていた十拳剣からアマテラスが3柱の女神を産んでいる。
最も有名なのはヤマタノオロチ退治の時にスサノオが使った
十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」。“羽々”とは“大蛇”の意味)で、
ヤマタノオロチの尾の中にあった草薙剣に当たって刃が欠けたとしている
(この十拳剣は[岡山県・吉備]石上布都魂神社[いそのかみふつみたまじんじゃ]に祭られ
崇神天皇の代に石上神宮に納められたとされる)。
----------
【石上神宮(いそのかみじんぐう)】
入口
鳥居
鳥居
鏡池
ワタカ(奈良県指定天然記念物)
楼門(重要文化財)
楼門(重要文化財)
拝殿(国宝)
拝殿(国宝)、奥に本殿
禁足地
神庫
----------
【祭神】
布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)
布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)
▼案内より
石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、
龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま)[標高266m]の
北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、
神さびた自然の姿を今に残しています。
北方には、布留川が流れ、周囲は古墳密集地帯として知られています。
当神宮は、日本最古の神社の1つで、
武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、
健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。
御祭神は、神武天皇御東征の砌(とき)、国土平定に偉巧をたてられた
天剣[平国之剣(くにむけしつるぎ)]とその霊威を布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、
鎮魂(たまふり)の主体である天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)の
起死回生の霊力を布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇を退治された
天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の威霊(いれい)を
布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)と称(とな)え、
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰ぎ、
第10代崇神天皇(すじんてんのう)7年に現地
石上布留(いそのかみふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。
当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を
御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎(まいさい)され、
諸神は拝殿に配祀(はいし)されていました。
明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司(だいぐうじ)により
禁足地が発掘され、御神体の出御(しゅつぎょ)を仰ぎ、
大正2年御本殿が造営されました。
禁足地は現在も「布留社」と刻まれた
剣先状石瑞垣(けんさきじょういしみずがき)で囲まれ、
昔の佇まいを残しています。
▼Wikipediaより
・『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけであり、
その記述によれば、日本最古設立の神宮となる。
・古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、
ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。
▼禁足地から出土した剣の模写図を元に制作されたもの
(勉誠出版・安本美典著「邪馬台国と出雲神話」より)
八岐大蛇を斬った十拳剣か、建御雷(たけみかづち)の神が
大国主(おおくにぬし)の神に、国譲りをせまったときの十掬剣か、の二説あり。
----------
--------------------------------------------------------------
【天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙剣(くさなぎのつるぎ)】
・船通山に天叢雲剣の記念碑がある。
▼黒岩重吾(くろいわじゅうご)「古代史の真相」より
草薙剣は、従来出雲が鉄の産地なので出雲を代表する大河
斐伊川をシンボライズした大蛇の蛇身から出たという説話が成立したと、
合理的科学的に解釈されてきました。だが、358本もの銅剣が出土した
今となってはやはり視点を変えざるを得ないでしょう。
草薙剣は現在、愛知県の熱田神宮に祀られていますが、
江戸時代に神官たちがそれを盗み見た記録が残っており、
その記録では剣は赤土の中に埋められていたらしい。
荒神谷遺跡の銅剣も赤土の中に埋められており、
草薙剣はどうも鉄剣ではなく銅剣の可能性が強いのです。
▼安本美典著「邪馬台国と出雲神話」より
明治30年(1897年)、東京帝国大学の栗田寛教授が、「神器考証」という
本を書いている。・・・この中で・・・熱田大宮司社家4、5人が
志を合わせて、草薙の剣を見たということを記した記事を引用して、
そのことを紹介している。
・・・彼らが最初に見たものは剣を収めた箱であった。
その箱は、まわりが五尺ほどの木の箱になっていて、これを開けると
次に赤土がある。その次には石の箱があって、これをあけると
さらに赤土になっている。
その奥に樟(くす)の木をくりぬいた箱があって、そこには黄金がつめてあり、
そこに御神体が鎮座ましましていたというのである。
・・・神体は、・・・
・・・大宮司がうかがい見たことは、神のお心にかなわなかったのであろうか。
不慮のことで、流罪(るざい)となった。その他の人々も、重病や悪病でなくなり、
そのうちの1人が、さいわいに生き残って、このことを、あい伝えた。
・・・剣は、次のような特徴をもっていることになる。
1.長さは二尺七、八寸(81cm~84cm)
2.刃先は菖蒲の葉のようも中ほどに厚みあり。
3.本(もと=ツカ)の方六寸(18cm)は筋立っていて魚の骨に似ている。
4.色は全体に白い。
▼Wikipediaより
・三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。
草薙剣(くさなぎのつるぎ・くさなぎのけん)とも称される。
三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。
・剣はスサノオからアマテラス(天照大神)に奉納され、
天孫降臨の際にニニギ(瓊瓊杵尊)に手渡された。
・神話上重要な剣であるため、
この剣は模造、偽造、盗難、消失、水没と様々な遍歴を辿った。
結果、現在の所在については諸説語られている。
・熱田神宮説
熱田神宮の奥深くに神体として安置されているという説。
神話の記述の通りであればこうなる。
・壇ノ浦水没説
平家滅亡の折に、二位の尼[平時子(たいらのときこ)]が腰に差して入水し、
そのまま上がっていないとする説。
・宮中安置説
宮中儀式に使われているものが本物だという説である。
----------
【熱田神宮】
一番奥に最も高く見える社殿が「本殿」。
三種の神器の1つである「草薙の剣(天叢雲剣)」を御霊代として、
熱田大神(アツタノオオカミ)が祀られています。
拝所は外玉垣御門の前。これより中には普段は入れません。
◎熱田神宮
http://www.atsutajingu.or.jp/
----------
【三種の神器】
・八咫鏡(やたのかがみ)~ 伊勢神宮[三重県]に
・草薙剣(くさなぎのつるぎ)~ 熱田神宮[愛知県]に
・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)~ 皇居[東京都]に
--------------------------------------------------------------
【須我神社(すがじんじゃ)=日本初之宮(にほんはつのみや)】
・すがすがしい気分になったので、“すが”と名づけた。
▼Wikipediaより
『古事記』によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治した後、
妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、
当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀(須我)」と命名し、
そこに宮殿を建てて鎮まった。
これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、
この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということで、
「和歌発祥の地」とされている。
この宮殿がそのまま神社になったものと伝える。
----------
【日本最古の歌(和歌)】
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
(やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを)
▼学研「古事記」より
新しい館はむら雲の立ち昇るところ。
その美しさをことほいでスサノオは喜びの歌を詠んだ。
立派な垣根をめぐらした館の奥に美しい妻を隠して
人目に触れさせず、むつまじく暮らしていこう、という意気込みである。
--------------------------------------------------------------
【八重垣神社(やえがきじんじゃ)】
拝殿
拝殿
本殿
境内にて
境内にて
▼安本美典著「邪馬台国と出雲神話」より
天保3年(1683年)に成立した「出雲風土記鈔(いずものくにふどきしょう)」の、
・・・海潮(うしお)の須我社の説明につぎのようにある。
「須佐の男の命が、大蛇退治のあと、須我社の地に宮をつくり、
稲田姫をめとって、須我湯山主(すがゆやまぬし)の命
(大己貴[おおなむち]の命の別名)が生まれた。そこで、この三神をこの里に
あわせ祭った。のちに、東北四里(約16km)ばかりはなれた・・・佐草村に
遷したのが、今の八重垣社である。」
・・・現在の八重垣神社の地には、もともと「延喜式」に記されている
「佐久佐神社」が存在し、そこに八重垣神社がうつってきたので、
それまでの佐久佐神社は、八重垣神社の境内社となった。
----------
【日本最古の神社壁画(八重垣神社)】
・須佐之男命(すさのおのみこと)と櫛名田媛(くしなだひめ)など6神像を描いたもの
・社伝では893年に平安時代前期の宮廷画家である
巨勢金岡(こせのかなおか)が描いたとある。
・描かれている板壁を年輪年代測定法で調査した結果、
13世紀に伐採された杉を使用していることが明らかになっている。
→同時期に描かれたとの説あり。
◎Google検索「八重垣神社 壁画」
http://images.google.com/...
--------------------------------------------------------------
【須佐之男命-新羅-出雲-蘇我氏】
・出雲の前に新羅に居たという記述あり。
▼日本書紀より
一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇
▼Wikipediaより
五十猛神(イソタケル)は、日本神話に登場する神。「イタケル」とも読まれる。
素戔嗚尊(スサノオ)の子。
天を追放された素戔嗚尊とともに新羅曽尸茂梨(そしもり)に天降り、
スサノオがこの地吾居ること欲さずと言ったので、
一緒に埴土船で渡って出雲斐伊川上の鳥上峯に至ったとある。
五十猛神が天降る際に多くの樹木の種を持っていたが、
新羅には植えずに全てを持ってきて、
九州からはじめて大八洲国に植えたので、青山に被われる国となったという。
▼司馬遼太郎「この国のはじまりについて」より
<対談:日本史学者・林屋辰三郎(はやしやたつさぶろう)氏>
出雲というのは、むしろ海洋-朝鮮との関係から考えてみるほうが、
当時古代においてもふさわしいのではないかと思うのです。・・・
・・・朝鮮は『古事記』にいう根(ね)の国だというのです。・・・
・・・須佐之男は・・、根の国に追放されることになります。
これに対して、別に素戔嗚尊は朝鮮に天降りしたという伝承もでてくるのです。・・・
・・・根の国のルーツ(根)は朝鮮だということを、かなりいろいろな
伝承で説明できるようですね。・・・
・・・だから根の国への道というひとつの特別な道のイメージを、
出雲に持っていたのだろうと考えるのですよ。・・・
・・・出雲というのはかなり大事な国であったし、
根の国という発想をしたということは、大和朝廷の側からは、
朝鮮が日本の文化の原点であるという認識が、
早くからあったのではないでしょうか。
▼黒岩重吾(くろいわじゅうご)「古代史の真相」より
数々の神話中、どの部分が忠実として考えられるかといえば、
まず素戔嗚の出自(しゅつじ)が『日本書紀』に「一説によれば」の断わりつきで
新羅になっていること。・・・
・・・荒ぶる国とされていた新羅から、荒ぶる神の素戔嗚がやって来たという
伝承は、新羅と出雲の地理的関係を念頭におけば、一層現実的な色合いをおびる。
が、素戔嗚が新羅に降りて出雲に来たのか、つまり新羅系の渡来人が出雲に
現れ支配者になったのかといえば、これは疑わしいですね。・・・
・・・つぎに、出雲を論ずる場合に欠かすことのできないのが
四隅突出型方墳です。・・・
・・・具体的にいえば358本の銅剣が出土した荒神谷遺跡から数キロ離れた
西谷古墳群、鳥取県倉吉の阿弥大寺遺跡(あみだいじいせき)、富山県の杉谷古墳群、
素戔嗚が天降ったという伝承の残る島根と広島の県境の山中にある安芸の
可愛(えの)[可愛川]などに見られます。・・・
・・・高句麗や新羅の墓は四隅突出型方墳とはいえないまでも
それに似た特徴をもっており、この特異な墓を出雲で造った人たちの中に、
渡来系の人もかなり交じっていたのではないか。
いずれにしろ、朝鮮半島の影響をうけた可能性は濃厚です。
▼「古代史と日本神話」 金井清一“造船説話とスサノヲノ命”より
日本書紀神代紀(じんだいき)第8段は、
八岐大蛇退治を中心としたスサノヲノ命関係の段落である。
その第五の一書(いっしょ)に、スサノヲが「韓国(からくに)には金銀がある。
しかしわが子孫の支配する国に浮宝(うくたから)[船]がないのは良くない」
と言って、ひげや胸毛を抜いて、杉、檜となし、これを以て浮宝とせよ。と命じた
という神話がある。
この神話はスサノヲが他の木材の用途をも定め、その子神(ししん)らも
木種をよく分布させた。
そして紀伊国に移り住んだとも述べているが、今、その辺のことは採りあげない。
注目したいのは、スサノヲが造船用の木材生成の神となっていること、
また元来韓国(からくに)にいた神であると神話が語っていることである。
後者については第四の一書には、
初め子神をを率いて新羅国に降った(くだった)のだとある。
そして子神と共に出雲国に渡ってたのであるが、
子神五十猛命(いたけるのみこと)が天から持ち来たった木種は
韓地には殖えず(ふえず)、すべて大八州国(おおやしまこく)に
播殖(はしょく)させたのだと記している。
こちらには造船の件はなく木材のことだけが書かれている。
しかし両書によってスサノヲ及びの子神が船材を含む木材生成の
祖神(そしん)と崇(あが)められていたという信仰的事実の存在したことが分かる。
▼関裕二「神武東征の謎~出雲神話の裏に隠された真相」より
蘇我氏と出雲を結びつけるのは、まず第一に「方墳」である。
7世紀、蘇我氏はどういう理由からか、好んで方墳を造営した。
しかも、他の豪族の方墳造営は、けっして許さなかった。
この蘇我氏の「特権」が唯一許されたのは、出雲国造家(こくそうけ)である。・・・
・・・出雲大社本殿の真裏には、素戔嗚尊を祀る社があって、
「素鵞社(そがしゃ)」と呼ばれている。
なぜ出雲の祖神(おやがみ)を祀る神社の名が「ソガ」なのだろう。・・・
・・・「スガ」が音韻変化して「ソガ」になったのだろう。・・・
--------------------------------------------------------------
◎Google検索「古事記」
http://www.google.com/...
◎Google検索「日本書紀」
http://www.google.com/...
--------------------------------------------------------------
【古事記・日本書紀 Podcasting】
(1)概要紹介
(2)天地開闢・国産み・黄泉の国
(3)黄泉の国・天照大神の誕生
(4)天の岩屋
(5)八岐大蛇
(6)スサノオノミコトと牛頭天王、蘇民将来
(7)因幡の白兎 八上媛
(8)根堅州国 須勢理媛
(9)大国主神の国づくり
--------------------------------------------------------------
iTunesで自動的に最新回のダウンロード(定期購読)を希望される場合には、
↓下記画像をクリックください。
--------------------------------------------------------------
« 石上神宮 | トップページ | Google携帯 »