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2009年12月

2009.12.31

大晦日

2009年、色々とお付き合いいただきまして
ありがとうございました。<(_ _)>

皆様、良い年をお迎えください。

◎百八煩悩
  http://www2.big.or.jp/~yba/...

◎除夜の鐘
  http://ja.wikipedia.org/...

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Selfpit 2009 レコード大賞

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今年はあまりテレビを観なかったこともあり
2009年の曲として印象に残ったのがこの曲しかありませんでした。^^

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今年の漢字

毎月、何かしらのマイブームが起きていました。
つい先日からも新たなマイブームが・・。^^
ということで、ブーム=流行の「流」な年でした。

昨年の漢字

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2009.12.30

ごてんば線まつり (5)

御殿場駅東西自由通路会場では沿線物産コーナーが登場

御殿場高原ビールさんかつ榮さん、なども出店

鉄道模型コーナー

子供達が集まってきます

御殿場市文化協会さんも出店

コンコース窓部での手作り作品の展示

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◎ごてんばせんネット
  http://www.gotembasen.net/

◎ごてんばせん元気づくり推進機構
  http://blogs.yahoo.co.jp/ias_gotenba/

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向島百花園 初冬 003

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2009.12.29

向島百花園 初冬 002

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向島百花園 初冬 001

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奈良・堂ノ後古墳 国内最古でなかった 築造時期が判明

国内最古の前方後円墳の可能性が指摘されていた
奈良県桜井市の堂ノ後(どうのうしろ)古墳が、
実際は5世紀後半の築造で、最古ではないことが市教委の発掘調査で分かった。

同古墳は、天理大(同県天理市)の学生らのレーダー探査で、
東隣の国内最古とされるホケノ山古墳(3世紀中ごろ)より
古い時代に造られた可能性があるとされたが、
出土した鳥の形をした埴輪(はにわ)の特徴から築造時期が判明した。

学生らは05年1~2月、地上から電磁波を発射し、
地盤構造や埋設物を画像化するレーダー探査を実施。
それまで円墳と思われていた堂ノ後古墳の前方部を見つけた。
さらに、堂ノ後古墳の周濠(しゅうごう)を切り崩して
ホケノ山古墳が築かれた可能性のある痕跡を確認し、
堂ノ後古墳がホケノ山古墳より古いと推定していた。

しかし、市教委が今年6~7月、
学生らがレーダー探査で前方部を見つけた場所を発掘調査したところ、
出土した埴輪などは5世紀後半に作られた特徴があり、
堂ノ後古墳が5世紀後半の築造と判断した。

レーダー探査の結果については、
考古学の専門家から「短絡的に判断するのは危険。
発掘調査して確認する必要がある」と指摘されていた。

◎毎日新聞 2009年12月21日
  http://mainichi.jp/...

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鳥取・奈免羅 西の前遺跡 青銅製腕輪のかけら出土

鳥取県の八頭町教委は11日、八頭町船岡~下濃周辺の
「奈免羅(なめら)・西の前遺跡」で、弥生時代中期のものと考えられる
青銅製腕輪の「有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)」のかけらが出土したと発表した。
全国では30遺跡目で80例目だが、山陰地方では初めての出土だという。

同遺跡は1985年の河川改修に伴い、部分的に発掘調査が実施されていて、
弥生時代後期から古墳時代初頭の溝や土坑、
古墳時代後期の横穴式石室の一部などが確認されている。
鳥取自動車道河原インター線道路改良工事に伴い、
5~10月、同町教委が発掘調査した。

有鉤銅釧は青銅製の腕輪で、
南方産の大型巻き貝で作られた貝製の腕輪を起源とする。
貝輪を着ける習慣は縄文時代から伝統的にみられ、
呪術(じゅじゅつ)的な意味合いも考えられている。

縄文時代の晩期から弥生時代初頭には、
九州北部の沿岸部で特定の南島貝種を好む貝輪を身に付ける習慣が起こっている。

出土した有鉤銅釧のかけらは竪穴住居跡から見つかった。
長さ30ミリ、幅7ミリ、厚さ4ミリの大きさで、
銅質は良好で目立つようなさびもなく、丁寧な作りだという。

同町教委は「有鉤銅釧がこの地で発見されたことは、
九州北部といった当時の先進地とかかわりを持つ勢力が
因幡地方南東部にいたと考えられ、
この地域を再評価できる発見ではないか」と話している。

◎日本海新聞 2009年12月13日
  http://www.nnn.co.jp/...

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2009.12.26

秩父鉄道 機関車 デキ 100形 200形 300形 500形

▼デキ100形

第二次世界大戦後に日立製作所が日本各地の私鉄や専用線に供給した
50t級電気機関車の一つで、
デキ101、デキ102 - デキ106、それにデキ107・108の3グループに分類される。

埼玉県・武川駅にて平成21年5月に撮影

埼玉県・武川駅にて平成21年5月に撮影

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▼デキ200形

東京オリンピックの前年、1963年(昭和38年)に建設ラッシュで
セメント需要が増加したことから3両(デキ201 - 203)を日立製作所で新製したものである。
出力をデキ100形の200kW×4から230kW×4に増強。
定格引張力も9440kgに増し、制御ノッチも多段式になっている。
台車はL型軸梁式の片押しブレーキ方式という独特な構造である。
車体はデキ100形と同様の前面に貫通扉を設けたデッキ付きの箱形車体であるが、
丸みが増して、前面窓が上下方向に小さくなり、窓上にひさしがついた。
また、前照灯が2灯になっており、大型のライトケースに収められて
貫通扉の上部に取付けられている。
この前照灯は当初は白熱灯であったが、のちにシールドビームに変更されている。
貨物輸送量の減少により、デキ202・203が2000年(平成12年)6月30日付けで廃車になり、
中部国際空港建設用埋立土砂輸送にともなう入換用として三岐鉄道に譲渡された。

埼玉県・熊谷駅にて平成21年5月に撮影

秩父鉄道に残ったデキ201は、「パレオエクスプレス」用の
12系客車と同じ深緑に金色帯の塗装に変更され、
二代目のパレオエクスプレスをサポートする機関車になった。
現在は、パレオエクスプレスの広瀬川原(熊谷工場) - 熊谷間の牽引(回送)や
パレオエクスプレス運休時の貨物列車の牽引が主な用途である。
また、パレオエクスプレスのC58形故障時のパレオエクスプレス牽引は、
デキ201が先頭に立つ。

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▼デキ300形

1967年に3両が日立製作所で新製された。
1963年に製造されたデキ200形の特殊な部分を普通に戻した形態の機関車である。
制御ノッチは16段に戻り、新たに空転時に警報が鳴り
自動的に各台車進行方向側の主電動機が弱め界磁になるシステムが採用された。
台車は一般的な軸ばね式。
車体はデキ200形とほぼ同じで、ひさしがなくなり、避雷器が屋根上に移設された。
当初は前照灯は白熱灯であったが、のちにシールドビームに変更された。
現在でも3両全車が現役で活躍中。

埼玉県・武川駅にて平成21年5月に撮影

埼玉県・武川駅にて平成21年5月に撮影

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▼デキ500形

日立製作所製の直流用電気機関車である。501, 502は1973年に登場。
実質的にはデキ300形の増備機で、空気圧縮機がAK4から
高速型のC-1000に変更されたこと以外はほぼ同一。
ただし、塗装が従来の茶色から現在の標準色である青に白帯に変わり、
ライトがシールドビームになったことが外観上の識別点である。

埼玉県・武川駅にて平成21年5月に撮影

503, 504は1979年10月の三ヶ尻線開通に先立ち、同年3月に入線。
正面窓が大きくなりひさしもついた。

(文・Wikipediaより)

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▼tomaremiyoさんの動画より

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大豊ビル(水上ビル)

平成21年8月撮影

平成21年8月撮影

平成21年8月撮影

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豊橋ビル(水上ビル)

平成21年8月撮影

平成21年8月撮影

平成21年8月撮影

平成21年8月撮影

平成21年8月撮影

平成21年8月撮影

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2009.12.22

スサノオノミコトと牛頭天王、蘇民将来 <古事記・日本書紀(6)>

【Podcasting】

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【須佐之男命を主祭神(しゅさいじん)とする神社】

祇園神社、八坂神社、弥栄神社(やえいじんじゃ)、廣峯神社(ひろみねじんじゃ)、
天王神社、天王社、津島神社、八雲神社(やくもじんじゃ)、
素盞嗚神社、素盞雄神社、須佐神社、須賀神社、須我神社、
素鵞神社(そがじんじゃ)、櫛田神社、
氷川神社、簸川神社(ひかわじんじゃ)、等

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【牛頭天王(ごずてんのう)と須佐之男命】

▼Wikipediaより
・牛頭天王は元々は仏教の神で、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神であった。
・祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)は、中インドのシュラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、
 釈迦が説法を行ったとされる場所。
 天竺五精舎(てんじくごしょうじゃ)=古代インドにあった初期仏教の5つの寺院の1つ。
・本地仏(ほんじぶつ:本来の姿)は薬師如来とされた。
・これが日本に伝わる前に中国で道教の影響を受け、
 日本ではさらに神道の神である須佐之男命と
 神仏習合(日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰)へ。 →祇園信仰。
・牛頭天王は疫病の神であるところから「蘇民将来」説話と混淆(こんこう)し、
 武塔神(=須佐之男命)と同一視されたり父子関係とされたりするようになる。
・明治の神仏分離(しんぶつぶんり)において仏教と神道が混交した牛頭天王信仰は
 徹底的に弾圧され、これらは牛頭天王ではなくスサノオを祀る神社として再編された。
 ただし、天王神社など牛頭天王を祭神とする神社は今でも全国各地に点在している。
・天王洲アイルの「天王洲」など、各地にある「天王」のつく地名の多くは
 牛頭天王に因むものである。

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【祇園信仰(ぎおんしんこう)と須佐之男命】

▼Wikipediaより
・祇園信仰(ぎおんしんこう)は、牛頭天王・スサノオに対する
 神仏習合(しんぶつしゅうごう)の信仰である。
 明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となっている。
 京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社(ひろみねじんじゃ)を総本社とする。
・平安時代に成立した御霊信仰(ごりょうしんこう:怨霊を鎮めて御霊にする)を背景に、
 行疫神をなぐさめ和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形である。
 その祭礼を「祇園御霊会(御霊会)」といい、10世紀後半に京の市民によって
 祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになった。
 この祭が後の祇園祭となる。
 山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、
 また、行疫神の厄を分散させるという意味もある。

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【蘇民将来(そみんしょうらい)と須佐之男命】

▼関裕二「古代史の秘密を握る人たち」(PHP研究所)より
では、なぜ牛頭天王(ごずてんのう)がスサノオとつながっていったのだろう。
もっとも古い記録は、「備後国風土記(びんごのくにふどき)」逸文(いつぷん)の
蘇民将来(そみんしょうらい)伝説で、そこには、次のような説話がある。

その昔、武塔(むとう)の神がこの地を訪れたときのこと。
日が暮れてしまい、二人の「将来」というもののところに宿を乞(こ)うた。
金持ちの弟は拒み、貧しい兄・蘇民将来はもてなしてくれた。
何年かして、武塔の神はこの地に再びやってくる。
そして、蘇民将来の娘たちに「茅の輪を腰に巻け」と教え、
その夜、茅の輪をつけていないものを、みな殺してしまったという。
武塔の神は、自分がスサノオであること、
のちに疫病がはやったら、蘇民将来の子孫と名乗り、
茅の輪を腰に巻けば、病魔から救われるだろう、といったという。

ここに登場する武塔の神は、あまり聞き慣れない名だが、
これこそ、牛頭天王(ごずてんのう)と同一される神だった。
そして、「備後国風土記(びんごのくにふどき)」逸文(いつぷん)が、
平安時代に書かれたものと考えられているから、スサノオと牛頭天王の
つながりも、ほぼこのころのことと考えられている。
平安時代は、神道と仏教が混ざり合っていく(神仏習合)時代であるとともに、
怨霊を恐れる御霊信仰(ごりょうしんこう)もさかんになって、
守り神として、“強い神”が求められていった。・・・
・・・スサノオが最初に降り立ったのは新羅の「ソシモリ」で、
これは韓国語で「牛の頭」「牛の首」となり、このことも、
スサノオと牛頭天王を結びつける材料になったのかもしれない。

▼八坂神社編纂「八坂神社」(學生社)より
蘇民将来の説話とは、「釈日本紀」が所引している「備後国風土記」逸文に、

昔、北の海に居た武塔(むとう)神が南海を旅して日暮れになった。
そこには蘇民将来と巨旦(こたん)将来の二人がいて、
兄の蘇民将来は貧しく、弟の巨旦将来は富み栄えていた。
武塔神が宿を乞うたところ、巨旦は貸さず、兄の蘇民は快く貸して
粟穀で座をつくり粟飯でもてなした。
やがて年を経て武塔神は八柱のみ子を連れて再び来訪、
さきの礼をしたいと蘇民とその家族には茅の輪をつけて疫病にかからないようにしたが、
他の者は、ことごとく死に絶えてしまった。
神は「われはハヤスサノヲの神なり。後の世に疫病流行すれば、
蘇民将来の子孫といい、茅の輪を腰につけておれば免れさせる」と仰せられた。(現代語訳)

というくだりである。

▼Wikipediaより
この逸話を基に平安時代中期には蘇民祭の原形が
出来上がっていたのではないかと考えられている。
武塔神の正体も地域により様々で、
(岩手県奥州市水沢区の)黒石寺においては薬師如来であったとされる。

■その他・参考文献

・祇園信仰 神道信仰の多様性/真弓常忠 (著)/朱鷺書房
・牛頭天王と蘇民将来伝説 消された異神たち/川村湊 (著)/作品社
・図説 日本人の源流を探る 風土記/坂本勝 (監修) /青春出版社

茅の輪

神社幟

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【素盞雄神社(すさのおじんじゃ)】

鳥居

祭神

狛犬

獅子山

獅子山

拝殿

拝殿

拝殿

拝殿

本殿

本殿

境内にて

瑞光石

▼荒川区教育委員会案内板より
瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて
降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石(ずいこうけいせき)」
とも称される。
また、この塚を「古塚(こづか)」と呼んだことから、
小塚原(こづかはら)の地名の由来をこれにもとめる説もある。
嘉永4年(1851年)には周囲に玉垣(たまがき)を築き、
元治元年(1864年)には浅間神社(せんげんじんじゃ)を祀った。
万延元年(1860年)に編纂(へんさん)された
「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この石の根が
荒川(現隅田川)まで延びていたため、
橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。

瑞光石

浅間神社

境内にて

大イチョウ

境内にて

鳥居

境内にて

境内にて

境内にて

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▼境内案内より
当社の開祖となる黒珍
(こくちん・修験道の開祖役小角[えんのおずめ]の高弟)
の住居東方の小高い塚上に奇岩がありました。
黒珍はそれを霊場と崇(あが)め日夜斎戒礼拝すると、
延暦(えんりゃく)14年(795年)4月8日の夜、
小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が
翁に姿を変えて現れ、
「吾はスサノオ大神(だいじん)・アスカ大神なり。
吾らを祀らば疫病を祓(はら)い福を増し
永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、
黒珍は一祠(ほこら)を建て鄭重にお祀りし、
当社が御創建されました。

▼荒川区教育委員会案内板より
小塚原、三の輪、下谷通新町、三河島、町屋など
区内で最も広い地域を氏子圏(うじこけん)とする
鎮守(ちんじゅ)で、「てんのうさま」とも呼ばれる。
石を神として尊崇(そんすう)する信仰は全国各地に
みられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。
延暦(えんりゃく)14年(795年)、荊石(けいせき)が
微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神
(素盞雄命、事代主命[ことしろぬしのみこと])が
現われて神託を告げたという。
そのためその石は「瑞光石(ずいこういし)」と呼ばれ、
出現した二神を祭神として祀る。

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▼Wikipediaより
・地元では天王様と呼ばれている。
・古くから疫病除けで知られ、
 安政5年(1858年)江戸にコレラが流行した際は
 疫除守を求めて参詣者が群れ集まった。
・明治初期の廃仏毀釈により祭神名を
 素盞雄大神・飛鳥大神へ改め、社名も素盞雄神社へ改称した。

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【氷川信仰(ひかわしんこう)と須佐之男命】

▼Wikipediaより
・祇園信仰とは異なり、自然神である氷川神(ひかわのかみ)と
 スサノオが習合した独特の信仰である。

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【氷川神社 総本社 (大宮)】

参道

三之鳥居

祭神

祭神

楼門

楼門

楼門

楼門

舞殿と拝殿

拝殿

拝殿

奥に本殿

▼案内より
上代のことは詳かにすることが出来ませんが、
治承4年(1180年)源頼朝公が土肥次郎実平に命じて
社殿を再建、文禄5年(1595年)8月には徳川氏、
伊奈備前守忠次を奉行として、社頭を残らず造営せしめ、
次いで寛文7年(1667年)3月には阿部豊後守を奉行として
社殿の建立をしております。
以来幾度の御造営あって今の御社殿は昭和15年(1940年)6月の
竣成で、流造りであります。

境内にて

境内にて

門客人神社

▼Wikipediaより
神社関係者が物部の末裔との伝承を持つ
埼玉の氷川神社の門客人神社は
元々荒脛巾(あらはばき)神社と呼ばれ
謎の神アラハバキを祭る神社であるが
ここにはなぜかアシナヅチ、テナヅチの2神が
アラハバキと共に奉られている。
物部の本来の祭神とも言われ、祟り神として神話に現れる
三輪山のオオモノヌシが蛇神とされ、
また物部の聖地であった大阪四天王寺の地に
アラハバキ信仰の痕跡が残ることから
オオモノヌシ=アラハバキ説があるが、
この氷川神社の謎からさらにヤマタノオロチとアラハバキ、
そして物部の関連が指摘されることがある。

祭神

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▼さいたま市教育委員会 案内板より
「大宮」の地名は、“大きなお宮”であるここ氷川神社に由来しています。
武蔵一宮(むさしいちのみや)の格式を持ち、
平安時代前期に朝廷がまとめた「延喜式(えんぎしき)」に
すでに「大社」であると記されています。
氷川神社は現在のところ関東地方に約250社が
祀(まつ)られており、いずれも2000年の歴史をもつ
この氷川神社を御本社(ごほんしゃ)として
分霊(ぶんれい)されたものです。
スサノオノミコトほか二柱を祭神としており、
古代に稲作を司る神として祀られたものが始まりと思われます。
鎌倉時代以降は源頼朝、徳川家康といった武士に、
明治以降は皇室の尊崇(そんすう)が篤(あつ)く、
明治天皇は東京遷都直後に参拝され
国の安泰(あんたい)を祈願するなど、古くより為政者(いせいしゃ)から
厚く遇(ぐう)されてきました。
しかし、最も深く関わり守り育ててきたのは、
江戸時代以来“お氷川様”と呼び親しみ、何度となく参拝し手を合わせた
地域の人々・大宮に住む人達であったに違いありません。
初詣にはじまり12月10日の
大湯祭(だいとうさい)[十日市(とおかまち)]まで、
四季を通じて心を託し得ることのできる
身近で大きな存在になっています。

▼案内(1)より
氷川神社は今からおよそ二千余年前、
第5代孝昭天皇(こうしょうてんのう)の御代(みだい)
3年4月末の日の御創立と伝えられます。
当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く(あつく)、
景行天皇の御代日本武尊(やまとたけるのみこ)は
東夷鎮圧の祈願をなされ、
成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命(えたもひのみこと)が
朝命により武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)となって
氷川神社を専ら(もっぱら)奉崇(ほうすう)し、
善政を布(し)かれてから益々神威(しんい)輝き、
格式高く聖武天皇(しょうむてんのう)の御代
武蔵一宮と定められ、醐醍天皇の御代に制定された
延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)には
名神大社(みょうじんたいしゃ)として、
月次神嘗(かんなめ)案上の官幣(かんぺい)に預り
又臨時祭にも奉幣(ほうへい)に預っています。
武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の
名将軍家等相継いで尊仰(そんぎょう)し、
奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、
祭祀も厳重に行われていました。

▼案内(2)より
氷川神社名の社は大宮を中心に、
埼玉県下及び東京都下、神奈川県下に及び
その数は280数社をかぞえます。
武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の子孫が
この大宮の地を本拠として民族的政治的に
著しい発展をしたことを物語っているものと考えられます。

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▼Wikipediaより
・大宮の地名は氷川神社を「大いなる宮居」
 すなわち「大宮」と称えたことに由来する。
・他の氷川神社と区別するために「大宮氷川神社」とも呼ばれる。
・旧中山道の大宮区吉敷町から神社まで、
 およそ2kmの表参道が、ほぼ南北に延びており、「氷川参道」と呼ばれている。
・横浜で保存されている「氷川丸」の船名は
 この氷川神社に由来するものである。
 これにちなみブリッジの神棚には氷川神社の祭神が勧請され、
 保存船となった後も氷川神社を祀っている。

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【川越 氷川神社 八坂神社】

大鳥居[明神型・杉材]

平成の御代替わりを奉祝し同2年に建立された
高さ15mの大鳥居は、木製のものとしては
国内随一の規模を誇る[笠木の幅20m、柱周6m]。
(案内より)

※木製の鳥居の高さ日本一は広島・厳島神社[16m]。

大鳥居の中央扁額

社号文字は幕末の幕臣、勝海舟の直筆によるものである。
(案内より)

鳥居

鳥居の中央扁額

拝殿

拝殿

本殿

本殿

本殿の彫刻

本殿

本殿の彫刻

本殿の彫刻

ご神木

ご神木

御神水

絵馬参道

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【祭神】
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
脚摩乳命(あしなづちのみこと)
手摩乳命(てなづちのみこと)

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▼案内より(1)
川越の総鎮守(そうちんじゅ)である氷川神社の歴史は古く、
その創建は欽明天皇の即位2年(540年)9月15日、
武蔵国足立郡氷川神社(=大宮・氷川神社)を
分祀奉斎(ぶんしほうさい)したと伝える。
本殿は、川越城主松平斉典(まつだいらなりつね)を筆頭として、
同社氏子(どうしゃうじこ)の寄進によって
天保13年(1842年)に起工され5ヶ年の歳月を要して建立されたものである。
彫刻がすばらしく、当代の名工嶋村源蔵と飯田岩次郎が技を競っている。
構造材の見え掛りは50種におよぶ地彫が施され、
その間江戸彫と称す精巧な彫刻を充填し、
十ヶ町の山車から取材した彫刻や、
浮世絵の影響をうけた波は豪壮華麗である。

▼案内より(2)
神道では毎年水無月(6月、当社では旧暦に従い7月に)、師走(12月)に
半年間の罪穢れ(けがれ)を祓い(はらい)清める神事を行います。
これを大祓(おおはらえ)と呼びます。
特に水無月(6月)の大祓は夏越の祓(はらえ)あるいは
チノワクグリとも呼ばれ、蒸し暑く厳しい夏を、
病気や夏バテせずに元気に過ごすための大事な神事とされてきました。
夏越の祓では神社の鳥居に茅草(かやくさ)で大きな茅の輪(ちのわ)を
つくります。このチノワを8の字を描くように左、右、左とまわって参拝します。
こうすることでその夏は疫病や夏バテせずに過ごせると信じられてきました。
これは昔々、スサノオノミコト様(牛頭天王さま)が
教えてくださったものといわれます。

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▼Wikipediaより
・川越有数のイベントである川越祭り(川越氷川祭)は
 氷川神社の祭礼である。
・さいたま市大宮区の氷川神社と区別するため、
 川越氷川神社と称されることもある。

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◎川越氷川神社
  http://www.hikawa.or.jp/jinja/

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八坂神社

八坂神社

八坂神社

【祭神】
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)

▼案内より
八坂神社の神様は氷川神社のご本殿同様、
スサノオノミコト様がおまつりされています。
スサノオノミコト様はその後、祇園精舎の守護神である
牛頭天王と習合して、天王さまと呼ばれてきました。
この天王様は水を治め、疫病を治める神様として
昔から信仰されてきました。
夏越の祓いの茅の輪くぐりも天王様が
授けてくれた神事です。

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【櫛名田媛(くしなだひめ)】

・日本書紀では奇稲田姫と表記。
・稲田の神として信仰されている。
・氷川神社、八坂神社、八重垣神社、須我神社、櫛田神社、等の主祭神。

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【古事記・日本書紀 Podcasting】
(1)概要紹介
(2)天地開闢・国産み・黄泉の国
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歴史ラジオ

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2009.12.19

明月院の紅葉 004

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明月院の紅葉 003

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2009.12.17

岳南鉄道 ED50形

静岡県・比奈駅にて平成21年9月に撮影

静岡県・比奈駅にて平成21年9月に撮影

静岡県・比奈駅にて平成21年9月に撮影

静岡県・比奈駅にて平成21年9月に撮影

静岡県・比奈駅にて平成21年9月に撮影

静岡県・比奈駅にて平成21年9月に撮影

静岡県・比奈駅にて平成21年9月に撮影

静岡県・比奈駅にて平成21年9月に撮影

静岡県・比奈駅にて平成21年9月に撮影

静岡県・比奈駅にて平成21年9月に撮影

静岡県・比奈駅にて平成21年9月に撮影

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岳南鉄道ED50形電気機関車は、
岳南鉄道が所有する直流用電気機関車である。
入換用として使用されている。

元は上田温泉電軌が1928年に川崎造船所に発注した機関車デロ301で、
西武鉄道のE21形や小田急電鉄のデキ1010形等の同形機がある。

当初は同社北東線で使用されていたが、
1940年に名鉄三河線の前身である三河鉄道に譲渡され、
同社が名古屋鉄道に合併された後も使用されていたが、
後に岳南鉄道が借り入れ1970年に購入した。

小さなボンネット部分には抵抗器が納められており、
本体の窓の上縁には大きなアールが取り付けられている。

また、当初はパンタグラフは1基だけ設置されていたが、
岳南鉄道にて2基に増設された。

現在は比奈駅に常駐し、
日本大昭和板紙吉永の工場に到着する貨物列車の入換に従事している。

定期運用を持つ電気機関車としては国内最古参級である。

(Wikipediaより)

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▼shizuokaminさんの動画より 250系

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2009.12.14

全天の様子

詳細拡大画像

3,000枚以上の画像をデジタル処理し、
地球から見える全天の様子をパノラマ画像にまとめたものです。

見える星の多くは地球と同じ天の川銀河の星で
天の川銀河の中央部の帯もはっきりとわかります。

こちらは過去のフィルム撮影によるもの。

天の川銀河想像図。
太陽のような恒星が2,000~3,000億個集っています。

地球をピンポン玉の大きさとすると
天の川銀河は直径25~30億Kmになります。

この想像図では見える点にもなりません。

そして、宇宙には天の川銀河のような銀河が
1,000億個以上はあります。

地球なんて、本当に小さい小さい小さい小さい小さいわけです。

© Axel Mellinger (Central Mich. U)
A. Ginsburg (U. Colorado - Boulder) et al.,
BGPS Team, GLIMPSE II Team
NASA

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土星の月 エンケラドゥス 氷の噴出

エンケラドゥスの地表は氷で覆われていますが
その下には海が存在すると考えられています。
塩も確認されており、生命存在の可能性が期待されています。

© NASA/JPL/SSI; Mosaic: Emily Lakdawalla

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2009.12.10

明月院の紅葉 002

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奈良・中西遺跡 県最古級の水田跡

弥生~鎌倉時代の複合遺跡「中西遺跡」(御所市室、條)で、
県内最古級となる弥生時代前期(約2400年前)の水田跡が
約6千平方メートルにわたって見つかり、
県立橿原考古学研究所が5日、現地で地元住民向けの説明会を開いた。
稲作が始まったばかりの弥生時代前期で、
これだけの広さで水田跡が見つかるのは珍しいという。

京奈和自動車道の建設工事のため、約9千平方メートルを調べた。

調査地からは、あぜで細かく区画された約15平方メートル程度の
小さな水田が多数見つかった。
河川跡も見つかり、この川の両側にある緩やかな斜面に水田をつくっていた。
水田跡は調査地の南北へさらに広がるため、
1万平方メートルを超える可能性があるという。

弥生前期の水田跡は、同市玉手や、橿原市川西町の萩之本遺跡でも見つかっているが、
いずれも1千平方メートル程度だった。

調査にあたった橿考研の岡田憲一主任研究員は
「この時代は、狭い範囲で稲作をしていたと思われていたので予想外だった。
米作りの始まりを考えるうえで、貴重な発見だ」と話した。

◎朝日新聞 2009年12月6日
  http://mytown.asahi.com/...

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明月院の紅葉 001

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奈良・コナベ古墳丘に円筒埴輪

宮内庁は4日、奈良市のコナベ古墳(5世紀ごろ、陵墓参考地)の墳丘周辺で、
円筒埴輪三十数本や、家形、柵形埴輪などの破片が見つかったことを明らかにした。
護岸整備工事に伴う発掘調査で見つかったもので、
同日午前、報道陣に現地を公開した。

調査は墳丘周辺の18カ所を発掘。
円筒埴輪は数カ所に分かれ、墳丘に沿ってすき間を空けずに並んでいた。

前方部は保存状態が良く、ほぼ当時のまま残っていた。
葺石は10センチ大の石の上に30センチ大の石を重ねる
二重構造だったことも分かった。

工事は周濠の水により、墳丘のすそが浸食されていることから実施を決定。
事前に遺構や遺物の状況を確認し、
保全方法を検討するため、11月4日から調査を始めた。

コナベ古墳は奈良市北部の佐紀丘陵の東側にある前方後円墳で、
長さ約200メートル、前方部幅129メートル。
丘は3段築成で、くびれ部の両側に造り出しがある。
江戸時代には一時、元正天皇陵とされた。

◎47NEWS 2009年12月4日
  http://www.47news.jp/...

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鳥取県・堂ノ上遺跡 建物跡を発見

県埋蔵文化財調査センターは、益田市久城町の堂ノ上遺跡で
弥生時代後期(約1900年~1700年前)の竪穴住居跡10棟と
掘立柱建物跡8棟、7世紀前半(約1400年前)の古墳1基を発見したと発表した。
掘立柱建物のうち1棟は布掘り建物で、出土は石見地方で初めて。
同遺跡からの弥生時代の建物跡出土はこれで25棟で、
この遺跡が古墳時代まで地域の中核的な集落であった可能性を示唆している。

竪穴住居の一つは床面の直径が9メートルの円形で、
弥生時代のものとしては県内最大級。布掘り建物は、
溝の中を土台として柱を並べて立てる構造。
重い構造物でも柱に均等に力がかかることから、
倉庫に使われた可能性も高いという。
掘立柱建物のうち5棟は焼け落ちているが、失火によるもののほか、
儀式か廃棄のために人為的に焼却したと考えられるものもあるという。

古墳は直径10メートルの円墳で、
長さ4メートル、幅1・4メートルの横穴式石室を持っている。
同遺跡での古墳確認は初めて
。金メッキの施された装飾品「耳環(じかん)」や
鉄製の刀子(小刀)、須恵器のつぼなどが出土したことから、
身分の高い人物の墓とみられるが、
同遺跡の北にあるスクモ塚古墳(5世紀ごろ)のものよりはるかに小さく、
同時代のものの中でも最小クラスのサイズであることから、
この集落か周辺の複数の集落のリーダー格の墓と、同センターでは見ている。

◎毎日新聞 2009年11月28日
  http://mainichi.jp/area/...

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2009.12.08

長谷寺の紅葉 003

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2009.12.07

鳥取・本高14号墳 山陰最古級と発表

鳥取県教育文化財団は27日、発掘調査を進めている
鳥取市本高(もとだか)の本高古墳群のうち、
「本高14号墳」は山陰地方に前方後円墳が導入された時期にあたる
古墳時代前期中葉(4世紀前半)の
大型前方後円墳(全長63メートル)であると発表した。
出土した土器や古墳の形の特徴などから、山陰地方最古級とみられる。

国道9号(鳥取西道路)の改築工事に伴い、今年5月から発掘調査を進めていた。
県内で全長が50メートルを超える大型の前方後円墳の全体調査は初めてで、
同市内では6番目の大きさという。

これまで山陰地方では、4世紀前半までの有力首長墳は前方後方墳か方墳で、
湯梨浜町にある国史跡「馬ノ山2・4号墳」(4世紀後半)が、
山陰最古の前方後円墳とされていた。

同財団調査室の大川泰広文化財主事は
「山陰地方における前方後円墳の成立を考える上で貴重な発見」とし、
埋葬されている人物として「鳥取平野の中心部を見渡せる位置にあることからもみて、
大和(奈良県)を中心とした近畿中枢の政権と強い結びつきを持った
有力首長の可能性が高い」と推測している。

同財団によると、後円部は直径30~33メートルの楕円(だえん)形。
前方部の平面形は細長く柄鏡のような形で、後円部は2段に造られ、
古い前方後円墳の特徴を備えていた。

墳頂部と前方部、周辺平坦(へいたん)部に
それぞれ2基ずつ計6基の埋葬施設が確認され、
このうち墳丘のすそにある埋葬施設から4世紀前半の特徴を持つ小型のつぼが出土した。

畿内の前方後円墳に見られるような墳丘に並べられた埴輪(はにわ)や葺石(ふきいし)はなく、
日本海沿岸地域の初期段階の前方後円墳の特徴と共通していた。

◎日本海新聞 2009年11月28日
  http://www.nnn.co.jp/...

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長谷寺の紅葉 002

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広島・甲田町上甲立江田地区の雑木林に前方後円墳

広島県安芸高田市教委は19日、同市甲田町上甲立で、
広島大考古学研究室の踏査により、4世紀後半に築造されたと見られる
前方後円墳が確認されたと発表した。
県内では3番目の大きさで、辰の口古墳(神石高原町)と並び最古級といい、
市教委は「甲立古墳(仮称)」として、市史跡に指定する方針。

市教委によると、確認された古墳は全長75メートルで、
後円部の直径は約15メートル、高さ13メートル。
県内では東広島市の三ッ城古墳(全長92メートル)、辰の口古墳(同77メートル)に次ぐ規模で、
江の川流域では最大級。
墳丘の斜面には川原石が全面に敷き詰められているとみられ、所々で石が露出している。

埴輪(はにわ)を置くテラス状の段築(だんちく)が2段に築かれ、
周辺からは円筒埴輪や舟形埴輪の破片が約20点見つかった。
未盗掘でほぼ原型のまま残っており、
後円部中央に竪穴(たてあな)式石室があると見られる。

古墳は、国道54号から北側の山林を約200メートル登った場所にあり、ヒノキ林となっている。
戦国時代に一帯を統治していた宍戸氏の居城跡に近く、
城郭の一部と伝えられていたが、
昨年1月に山城を調査に来た東広島市教育文化振興事業団の吉野健志さん(46)から
「古墳では」と指摘を受け、調べた。

調査を担当している安芸高田市教委の川尻真主査は、
「前方後円墳があるということは大和朝廷に関係する有力者がいたことを示す。
安芸地方の古代史解明に重要な資料」とし、来年1月に市史跡に指定、
6月頃から試掘調査を始める。
問い合わせは安芸高田市教委生涯学習課(0826・42・0054)。

◎読売新聞 2009年11月20日
  http://osaka.yomiuri.co.jp/...

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2009.12.05

長谷寺の紅葉 001

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2009.12.02

初秋白馬 018

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初秋白馬 017

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初秋白馬 016

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初秋白馬 015

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初秋白馬 014

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2009.12.01

東武200系 特急 りょうもう

群馬県・赤城駅にて平成21年8月に撮影

群馬県・赤城駅にて平成21年8月に撮影

群馬県・赤城駅にて平成21年8月に撮影

群馬県・赤城駅にて平成21年8月に撮影

群馬県・赤城駅にて平成21年8月に撮影

群馬県・赤城駅にて平成21年8月に撮影

東京都・浅草駅にて撮影

東京都・浅草駅にて撮影

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東武200系電車は、東武鉄道の特急形車両。
1991年(平成3年)2月1日より運用を開始した。

前頭部は1枚の大型曲面ガラスを使用したくさび形。

車体の塗装はジャスミンホワイトが基調となっており、
ローズレッドの帯を巻いている。ただし、窓周りは黒塗りである。

後期編成(207F~209F)および250系では、
集電装置としてシングルアーム式パンタグラフを搭載している。

全編成が6両固定となっており、200系はオールM方式(全車両電動車)、
250系はMT比3M3T(3両が電動車、3両が付随車)となっている。

車体側面のロゴは、Ryomoの英字が大きく描かれ、
その右下にTOBU LIMITED EXPRESS(1999年3月まではTOBU EXPRESS)と表記している。

200系は、急行「りょうもう」号で使用されていた1800系を置き換える目的で、
1991年から製造された。
この「りょうもう」号は1999年3月16日のダイヤ改正で急行から特急に格上げされた。

特急「けごん」「きぬ」用100系の就役により運用を終了した1700系・1720系「DRC」を種車として、
台車・モーターなどの主要機器を流用するとともに、
更新車扱いとして新製した車体を組み合わせて登場している。

1998年4月2日に登場した1本は、30000系とほぼ同一の制御装置に
VVVFインバータ制御方式やボルスタレス台車を採用するなど走行関連機器が異なるため、
250系として200系とは区別されている。
この車両は200系と異なり、純然たる新造車である。
なお、1700系・1720系は全9編成で、200系とするべき種車もなかったため、
250系の製造に関しては1800系からの更新も検討されていた、と言われている。

200系は6両編成9本(計54両)、250系は6両編成1本(計6両)が在籍している。

(Wikipediaより)

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▼lofterxさんの動画より 250系

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走行音

200系・特急「りょうもう」 浅草駅出発

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