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2009.12.22

スサノオノミコトと牛頭天王、蘇民将来 <古事記・日本書紀(6)>

【Podcasting】

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【須佐之男命を主祭神(しゅさいじん)とする神社】

祇園神社、八坂神社、弥栄神社(やえいじんじゃ)、廣峯神社(ひろみねじんじゃ)、
天王神社、天王社、津島神社、八雲神社(やくもじんじゃ)、
素盞嗚神社、素盞雄神社、須佐神社、須賀神社、須我神社、
素鵞神社(そがじんじゃ)、櫛田神社、
氷川神社、簸川神社(ひかわじんじゃ)、等

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【牛頭天王(ごずてんのう)と須佐之男命】

▼Wikipediaより
・牛頭天王は元々は仏教の神で、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神であった。
・祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)は、中インドのシュラーヴァスティー(舎衛城)にあった寺院で、
 釈迦が説法を行ったとされる場所。
 天竺五精舎(てんじくごしょうじゃ)=古代インドにあった初期仏教の5つの寺院の1つ。
・本地仏(ほんじぶつ:本来の姿)は薬師如来とされた。
・これが日本に伝わる前に中国で道教の影響を受け、
 日本ではさらに神道の神である須佐之男命と
 神仏習合(日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰)へ。 →祇園信仰。
・牛頭天王は疫病の神であるところから「蘇民将来」説話と混淆(こんこう)し、
 武塔神(=須佐之男命)と同一視されたり父子関係とされたりするようになる。
・明治の神仏分離(しんぶつぶんり)において仏教と神道が混交した牛頭天王信仰は
 徹底的に弾圧され、これらは牛頭天王ではなくスサノオを祀る神社として再編された。
 ただし、天王神社など牛頭天王を祭神とする神社は今でも全国各地に点在している。
・天王洲アイルの「天王洲」など、各地にある「天王」のつく地名の多くは
 牛頭天王に因むものである。

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【祇園信仰(ぎおんしんこう)と須佐之男命】

▼Wikipediaより
・祇園信仰(ぎおんしんこう)は、牛頭天王・スサノオに対する
 神仏習合(しんぶつしゅうごう)の信仰である。
 明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となっている。
 京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社(ひろみねじんじゃ)を総本社とする。
・平安時代に成立した御霊信仰(ごりょうしんこう:怨霊を鎮めて御霊にする)を背景に、
 行疫神をなぐさめ和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形である。
 その祭礼を「祇園御霊会(御霊会)」といい、10世紀後半に京の市民によって
 祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになった。
 この祭が後の祇園祭となる。
 山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、
 また、行疫神の厄を分散させるという意味もある。

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【蘇民将来(そみんしょうらい)と須佐之男命】

▼関裕二「古代史の秘密を握る人たち」(PHP研究所)より
では、なぜ牛頭天王(ごずてんのう)がスサノオとつながっていったのだろう。
もっとも古い記録は、「備後国風土記(びんごのくにふどき)」逸文(いつぷん)の
蘇民将来(そみんしょうらい)伝説で、そこには、次のような説話がある。

その昔、武塔(むとう)の神がこの地を訪れたときのこと。
日が暮れてしまい、二人の「将来」というもののところに宿を乞(こ)うた。
金持ちの弟は拒み、貧しい兄・蘇民将来はもてなしてくれた。
何年かして、武塔の神はこの地に再びやってくる。
そして、蘇民将来の娘たちに「茅の輪を腰に巻け」と教え、
その夜、茅の輪をつけていないものを、みな殺してしまったという。
武塔の神は、自分がスサノオであること、
のちに疫病がはやったら、蘇民将来の子孫と名乗り、
茅の輪を腰に巻けば、病魔から救われるだろう、といったという。

ここに登場する武塔の神は、あまり聞き慣れない名だが、
これこそ、牛頭天王(ごずてんのう)と同一される神だった。
そして、「備後国風土記(びんごのくにふどき)」逸文(いつぷん)が、
平安時代に書かれたものと考えられているから、スサノオと牛頭天王の
つながりも、ほぼこのころのことと考えられている。
平安時代は、神道と仏教が混ざり合っていく(神仏習合)時代であるとともに、
怨霊を恐れる御霊信仰(ごりょうしんこう)もさかんになって、
守り神として、“強い神”が求められていった。・・・
・・・スサノオが最初に降り立ったのは新羅の「ソシモリ」で、
これは韓国語で「牛の頭」「牛の首」となり、このことも、
スサノオと牛頭天王を結びつける材料になったのかもしれない。

▼八坂神社編纂「八坂神社」(學生社)より
蘇民将来の説話とは、「釈日本紀」が所引している「備後国風土記」逸文に、

昔、北の海に居た武塔(むとう)神が南海を旅して日暮れになった。
そこには蘇民将来と巨旦(こたん)将来の二人がいて、
兄の蘇民将来は貧しく、弟の巨旦将来は富み栄えていた。
武塔神が宿を乞うたところ、巨旦は貸さず、兄の蘇民は快く貸して
粟穀で座をつくり粟飯でもてなした。
やがて年を経て武塔神は八柱のみ子を連れて再び来訪、
さきの礼をしたいと蘇民とその家族には茅の輪をつけて疫病にかからないようにしたが、
他の者は、ことごとく死に絶えてしまった。
神は「われはハヤスサノヲの神なり。後の世に疫病流行すれば、
蘇民将来の子孫といい、茅の輪を腰につけておれば免れさせる」と仰せられた。(現代語訳)

というくだりである。

▼Wikipediaより
この逸話を基に平安時代中期には蘇民祭の原形が
出来上がっていたのではないかと考えられている。
武塔神の正体も地域により様々で、
(岩手県奥州市水沢区の)黒石寺においては薬師如来であったとされる。

■その他・参考文献

・祇園信仰 神道信仰の多様性/真弓常忠 (著)/朱鷺書房
・牛頭天王と蘇民将来伝説 消された異神たち/川村湊 (著)/作品社
・図説 日本人の源流を探る 風土記/坂本勝 (監修) /青春出版社

茅の輪

神社幟

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【素盞雄神社(すさのおじんじゃ)】

鳥居

祭神

狛犬

獅子山

獅子山

拝殿

拝殿

拝殿

拝殿

本殿

本殿

境内にて

瑞光石

▼荒川区教育委員会案内板より
瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて
降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石(ずいこうけいせき)」
とも称される。
また、この塚を「古塚(こづか)」と呼んだことから、
小塚原(こづかはら)の地名の由来をこれにもとめる説もある。
嘉永4年(1851年)には周囲に玉垣(たまがき)を築き、
元治元年(1864年)には浅間神社(せんげんじんじゃ)を祀った。
万延元年(1860年)に編纂(へんさん)された
「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この石の根が
荒川(現隅田川)まで延びていたため、
橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。

瑞光石

浅間神社

境内にて

大イチョウ

境内にて

鳥居

境内にて

境内にて

境内にて

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▼境内案内より
当社の開祖となる黒珍
(こくちん・修験道の開祖役小角[えんのおずめ]の高弟)
の住居東方の小高い塚上に奇岩がありました。
黒珍はそれを霊場と崇(あが)め日夜斎戒礼拝すると、
延暦(えんりゃく)14年(795年)4月8日の夜、
小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が
翁に姿を変えて現れ、
「吾はスサノオ大神(だいじん)・アスカ大神なり。
吾らを祀らば疫病を祓(はら)い福を増し
永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、
黒珍は一祠(ほこら)を建て鄭重にお祀りし、
当社が御創建されました。

▼荒川区教育委員会案内板より
小塚原、三の輪、下谷通新町、三河島、町屋など
区内で最も広い地域を氏子圏(うじこけん)とする
鎮守(ちんじゅ)で、「てんのうさま」とも呼ばれる。
石を神として尊崇(そんすう)する信仰は全国各地に
みられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。
延暦(えんりゃく)14年(795年)、荊石(けいせき)が
微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神
(素盞雄命、事代主命[ことしろぬしのみこと])が
現われて神託を告げたという。
そのためその石は「瑞光石(ずいこういし)」と呼ばれ、
出現した二神を祭神として祀る。

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▼Wikipediaより
・地元では天王様と呼ばれている。
・古くから疫病除けで知られ、
 安政5年(1858年)江戸にコレラが流行した際は
 疫除守を求めて参詣者が群れ集まった。
・明治初期の廃仏毀釈により祭神名を
 素盞雄大神・飛鳥大神へ改め、社名も素盞雄神社へ改称した。

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【氷川信仰(ひかわしんこう)と須佐之男命】

▼Wikipediaより
・祇園信仰とは異なり、自然神である氷川神(ひかわのかみ)と
 スサノオが習合した独特の信仰である。

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【氷川神社 総本社 (大宮)】

参道

三之鳥居

祭神

祭神

楼門

楼門

楼門

楼門

舞殿と拝殿

拝殿

拝殿

奥に本殿

▼案内より
上代のことは詳かにすることが出来ませんが、
治承4年(1180年)源頼朝公が土肥次郎実平に命じて
社殿を再建、文禄5年(1595年)8月には徳川氏、
伊奈備前守忠次を奉行として、社頭を残らず造営せしめ、
次いで寛文7年(1667年)3月には阿部豊後守を奉行として
社殿の建立をしております。
以来幾度の御造営あって今の御社殿は昭和15年(1940年)6月の
竣成で、流造りであります。

境内にて

境内にて

門客人神社

▼Wikipediaより
神社関係者が物部の末裔との伝承を持つ
埼玉の氷川神社の門客人神社は
元々荒脛巾(あらはばき)神社と呼ばれ
謎の神アラハバキを祭る神社であるが
ここにはなぜかアシナヅチ、テナヅチの2神が
アラハバキと共に奉られている。
物部の本来の祭神とも言われ、祟り神として神話に現れる
三輪山のオオモノヌシが蛇神とされ、
また物部の聖地であった大阪四天王寺の地に
アラハバキ信仰の痕跡が残ることから
オオモノヌシ=アラハバキ説があるが、
この氷川神社の謎からさらにヤマタノオロチとアラハバキ、
そして物部の関連が指摘されることがある。

祭神

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▼さいたま市教育委員会 案内板より
「大宮」の地名は、“大きなお宮”であるここ氷川神社に由来しています。
武蔵一宮(むさしいちのみや)の格式を持ち、
平安時代前期に朝廷がまとめた「延喜式(えんぎしき)」に
すでに「大社」であると記されています。
氷川神社は現在のところ関東地方に約250社が
祀(まつ)られており、いずれも2000年の歴史をもつ
この氷川神社を御本社(ごほんしゃ)として
分霊(ぶんれい)されたものです。
スサノオノミコトほか二柱を祭神としており、
古代に稲作を司る神として祀られたものが始まりと思われます。
鎌倉時代以降は源頼朝、徳川家康といった武士に、
明治以降は皇室の尊崇(そんすう)が篤(あつ)く、
明治天皇は東京遷都直後に参拝され
国の安泰(あんたい)を祈願するなど、古くより為政者(いせいしゃ)から
厚く遇(ぐう)されてきました。
しかし、最も深く関わり守り育ててきたのは、
江戸時代以来“お氷川様”と呼び親しみ、何度となく参拝し手を合わせた
地域の人々・大宮に住む人達であったに違いありません。
初詣にはじまり12月10日の
大湯祭(だいとうさい)[十日市(とおかまち)]まで、
四季を通じて心を託し得ることのできる
身近で大きな存在になっています。

▼案内(1)より
氷川神社は今からおよそ二千余年前、
第5代孝昭天皇(こうしょうてんのう)の御代(みだい)
3年4月末の日の御創立と伝えられます。
当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く(あつく)、
景行天皇の御代日本武尊(やまとたけるのみこ)は
東夷鎮圧の祈願をなされ、
成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命(えたもひのみこと)が
朝命により武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)となって
氷川神社を専ら(もっぱら)奉崇(ほうすう)し、
善政を布(し)かれてから益々神威(しんい)輝き、
格式高く聖武天皇(しょうむてんのう)の御代
武蔵一宮と定められ、醐醍天皇の御代に制定された
延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)には
名神大社(みょうじんたいしゃ)として、
月次神嘗(かんなめ)案上の官幣(かんぺい)に預り
又臨時祭にも奉幣(ほうへい)に預っています。
武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の
名将軍家等相継いで尊仰(そんぎょう)し、
奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、
祭祀も厳重に行われていました。

▼案内(2)より
氷川神社名の社は大宮を中心に、
埼玉県下及び東京都下、神奈川県下に及び
その数は280数社をかぞえます。
武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の子孫が
この大宮の地を本拠として民族的政治的に
著しい発展をしたことを物語っているものと考えられます。

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▼Wikipediaより
・大宮の地名は氷川神社を「大いなる宮居」
 すなわち「大宮」と称えたことに由来する。
・他の氷川神社と区別するために「大宮氷川神社」とも呼ばれる。
・旧中山道の大宮区吉敷町から神社まで、
 およそ2kmの表参道が、ほぼ南北に延びており、「氷川参道」と呼ばれている。
・横浜で保存されている「氷川丸」の船名は
 この氷川神社に由来するものである。
 これにちなみブリッジの神棚には氷川神社の祭神が勧請され、
 保存船となった後も氷川神社を祀っている。

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【川越 氷川神社 八坂神社】

大鳥居[明神型・杉材]

平成の御代替わりを奉祝し同2年に建立された
高さ15mの大鳥居は、木製のものとしては
国内随一の規模を誇る[笠木の幅20m、柱周6m]。
(案内より)

※木製の鳥居の高さ日本一は広島・厳島神社[16m]。

大鳥居の中央扁額

社号文字は幕末の幕臣、勝海舟の直筆によるものである。
(案内より)

鳥居

鳥居の中央扁額

拝殿

拝殿

本殿

本殿

本殿の彫刻

本殿

本殿の彫刻

本殿の彫刻

ご神木

ご神木

御神水

絵馬参道

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【祭神】
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
脚摩乳命(あしなづちのみこと)
手摩乳命(てなづちのみこと)

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▼案内より(1)
川越の総鎮守(そうちんじゅ)である氷川神社の歴史は古く、
その創建は欽明天皇の即位2年(540年)9月15日、
武蔵国足立郡氷川神社(=大宮・氷川神社)を
分祀奉斎(ぶんしほうさい)したと伝える。
本殿は、川越城主松平斉典(まつだいらなりつね)を筆頭として、
同社氏子(どうしゃうじこ)の寄進によって
天保13年(1842年)に起工され5ヶ年の歳月を要して建立されたものである。
彫刻がすばらしく、当代の名工嶋村源蔵と飯田岩次郎が技を競っている。
構造材の見え掛りは50種におよぶ地彫が施され、
その間江戸彫と称す精巧な彫刻を充填し、
十ヶ町の山車から取材した彫刻や、
浮世絵の影響をうけた波は豪壮華麗である。

▼案内より(2)
神道では毎年水無月(6月、当社では旧暦に従い7月に)、師走(12月)に
半年間の罪穢れ(けがれ)を祓い(はらい)清める神事を行います。
これを大祓(おおはらえ)と呼びます。
特に水無月(6月)の大祓は夏越の祓(はらえ)あるいは
チノワクグリとも呼ばれ、蒸し暑く厳しい夏を、
病気や夏バテせずに元気に過ごすための大事な神事とされてきました。
夏越の祓では神社の鳥居に茅草(かやくさ)で大きな茅の輪(ちのわ)を
つくります。このチノワを8の字を描くように左、右、左とまわって参拝します。
こうすることでその夏は疫病や夏バテせずに過ごせると信じられてきました。
これは昔々、スサノオノミコト様(牛頭天王さま)が
教えてくださったものといわれます。

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▼Wikipediaより
・川越有数のイベントである川越祭り(川越氷川祭)は
 氷川神社の祭礼である。
・さいたま市大宮区の氷川神社と区別するため、
 川越氷川神社と称されることもある。

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◎川越氷川神社
  http://www.hikawa.or.jp/jinja/

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八坂神社

八坂神社

八坂神社

【祭神】
素盞鳴尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)

▼案内より
八坂神社の神様は氷川神社のご本殿同様、
スサノオノミコト様がおまつりされています。
スサノオノミコト様はその後、祇園精舎の守護神である
牛頭天王と習合して、天王さまと呼ばれてきました。
この天王様は水を治め、疫病を治める神様として
昔から信仰されてきました。
夏越の祓いの茅の輪くぐりも天王様が
授けてくれた神事です。

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【櫛名田媛(くしなだひめ)】

・日本書紀では奇稲田姫と表記。
・稲田の神として信仰されている。
・氷川神社、八坂神社、八重垣神社、須我神社、櫛田神社、等の主祭神。

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【古事記・日本書紀 Podcasting】
(1)概要紹介
(2)天地開闢・国産み・黄泉の国
(3)黄泉の国・天照大神の誕生
(4)天の岩屋
(5)八岐大蛇
(6)スサノオノミコトと牛頭天王、蘇民将来
(7)因幡の白兎 八上媛
(8)根堅州国 須勢理媛
(9)大国主神の国づくり

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