弥生時代 2009

2009.12.29

鳥取・奈免羅 西の前遺跡 青銅製腕輪のかけら出土

鳥取県の八頭町教委は11日、八頭町船岡~下濃周辺の
「奈免羅(なめら)・西の前遺跡」で、弥生時代中期のものと考えられる
青銅製腕輪の「有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)」のかけらが出土したと発表した。
全国では30遺跡目で80例目だが、山陰地方では初めての出土だという。

同遺跡は1985年の河川改修に伴い、部分的に発掘調査が実施されていて、
弥生時代後期から古墳時代初頭の溝や土坑、
古墳時代後期の横穴式石室の一部などが確認されている。
鳥取自動車道河原インター線道路改良工事に伴い、
5~10月、同町教委が発掘調査した。

有鉤銅釧は青銅製の腕輪で、
南方産の大型巻き貝で作られた貝製の腕輪を起源とする。
貝輪を着ける習慣は縄文時代から伝統的にみられ、
呪術(じゅじゅつ)的な意味合いも考えられている。

縄文時代の晩期から弥生時代初頭には、
九州北部の沿岸部で特定の南島貝種を好む貝輪を身に付ける習慣が起こっている。

出土した有鉤銅釧のかけらは竪穴住居跡から見つかった。
長さ30ミリ、幅7ミリ、厚さ4ミリの大きさで、
銅質は良好で目立つようなさびもなく、丁寧な作りだという。

同町教委は「有鉤銅釧がこの地で発見されたことは、
九州北部といった当時の先進地とかかわりを持つ勢力が
因幡地方南東部にいたと考えられ、
この地域を再評価できる発見ではないか」と話している。

◎日本海新聞 2009年12月13日
  http://www.nnn.co.jp/...

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2009.12.10

奈良・中西遺跡 県最古級の水田跡

弥生~鎌倉時代の複合遺跡「中西遺跡」(御所市室、條)で、
県内最古級となる弥生時代前期(約2400年前)の水田跡が
約6千平方メートルにわたって見つかり、
県立橿原考古学研究所が5日、現地で地元住民向けの説明会を開いた。
稲作が始まったばかりの弥生時代前期で、
これだけの広さで水田跡が見つかるのは珍しいという。

京奈和自動車道の建設工事のため、約9千平方メートルを調べた。

調査地からは、あぜで細かく区画された約15平方メートル程度の
小さな水田が多数見つかった。
河川跡も見つかり、この川の両側にある緩やかな斜面に水田をつくっていた。
水田跡は調査地の南北へさらに広がるため、
1万平方メートルを超える可能性があるという。

弥生前期の水田跡は、同市玉手や、橿原市川西町の萩之本遺跡でも見つかっているが、
いずれも1千平方メートル程度だった。

調査にあたった橿考研の岡田憲一主任研究員は
「この時代は、狭い範囲で稲作をしていたと思われていたので予想外だった。
米作りの始まりを考えるうえで、貴重な発見だ」と話した。

◎朝日新聞 2009年12月6日
  http://mytown.asahi.com/...

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鳥取県・堂ノ上遺跡 建物跡を発見

県埋蔵文化財調査センターは、益田市久城町の堂ノ上遺跡で
弥生時代後期(約1900年~1700年前)の竪穴住居跡10棟と
掘立柱建物跡8棟、7世紀前半(約1400年前)の古墳1基を発見したと発表した。
掘立柱建物のうち1棟は布掘り建物で、出土は石見地方で初めて。
同遺跡からの弥生時代の建物跡出土はこれで25棟で、
この遺跡が古墳時代まで地域の中核的な集落であった可能性を示唆している。

竪穴住居の一つは床面の直径が9メートルの円形で、
弥生時代のものとしては県内最大級。布掘り建物は、
溝の中を土台として柱を並べて立てる構造。
重い構造物でも柱に均等に力がかかることから、
倉庫に使われた可能性も高いという。
掘立柱建物のうち5棟は焼け落ちているが、失火によるもののほか、
儀式か廃棄のために人為的に焼却したと考えられるものもあるという。

古墳は直径10メートルの円墳で、
長さ4メートル、幅1・4メートルの横穴式石室を持っている。
同遺跡での古墳確認は初めて
。金メッキの施された装飾品「耳環(じかん)」や
鉄製の刀子(小刀)、須恵器のつぼなどが出土したことから、
身分の高い人物の墓とみられるが、
同遺跡の北にあるスクモ塚古墳(5世紀ごろ)のものよりはるかに小さく、
同時代のものの中でも最小クラスのサイズであることから、
この集落か周辺の複数の集落のリーダー格の墓と、同センターでは見ている。

◎毎日新聞 2009年11月28日
  http://mainichi.jp/area/...

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2009.12.07

鳥取・本高14号墳 山陰最古級と発表

鳥取県教育文化財団は27日、発掘調査を進めている
鳥取市本高(もとだか)の本高古墳群のうち、
「本高14号墳」は山陰地方に前方後円墳が導入された時期にあたる
古墳時代前期中葉(4世紀前半)の
大型前方後円墳(全長63メートル)であると発表した。
出土した土器や古墳の形の特徴などから、山陰地方最古級とみられる。

国道9号(鳥取西道路)の改築工事に伴い、今年5月から発掘調査を進めていた。
県内で全長が50メートルを超える大型の前方後円墳の全体調査は初めてで、
同市内では6番目の大きさという。

これまで山陰地方では、4世紀前半までの有力首長墳は前方後方墳か方墳で、
湯梨浜町にある国史跡「馬ノ山2・4号墳」(4世紀後半)が、
山陰最古の前方後円墳とされていた。

同財団調査室の大川泰広文化財主事は
「山陰地方における前方後円墳の成立を考える上で貴重な発見」とし、
埋葬されている人物として「鳥取平野の中心部を見渡せる位置にあることからもみて、
大和(奈良県)を中心とした近畿中枢の政権と強い結びつきを持った
有力首長の可能性が高い」と推測している。

同財団によると、後円部は直径30~33メートルの楕円(だえん)形。
前方部の平面形は細長く柄鏡のような形で、後円部は2段に造られ、
古い前方後円墳の特徴を備えていた。

墳頂部と前方部、周辺平坦(へいたん)部に
それぞれ2基ずつ計6基の埋葬施設が確認され、
このうち墳丘のすそにある埋葬施設から4世紀前半の特徴を持つ小型のつぼが出土した。

畿内の前方後円墳に見られるような墳丘に並べられた埴輪(はにわ)や葺石(ふきいし)はなく、
日本海沿岸地域の初期段階の前方後円墳の特徴と共通していた。

◎日本海新聞 2009年11月28日
  http://www.nnn.co.jp/...

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広島・甲田町上甲立江田地区の雑木林に前方後円墳

広島県安芸高田市教委は19日、同市甲田町上甲立で、
広島大考古学研究室の踏査により、4世紀後半に築造されたと見られる
前方後円墳が確認されたと発表した。
県内では3番目の大きさで、辰の口古墳(神石高原町)と並び最古級といい、
市教委は「甲立古墳(仮称)」として、市史跡に指定する方針。

市教委によると、確認された古墳は全長75メートルで、
後円部の直径は約15メートル、高さ13メートル。
県内では東広島市の三ッ城古墳(全長92メートル)、辰の口古墳(同77メートル)に次ぐ規模で、
江の川流域では最大級。
墳丘の斜面には川原石が全面に敷き詰められているとみられ、所々で石が露出している。

埴輪(はにわ)を置くテラス状の段築(だんちく)が2段に築かれ、
周辺からは円筒埴輪や舟形埴輪の破片が約20点見つかった。
未盗掘でほぼ原型のまま残っており、
後円部中央に竪穴(たてあな)式石室があると見られる。

古墳は、国道54号から北側の山林を約200メートル登った場所にあり、ヒノキ林となっている。
戦国時代に一帯を統治していた宍戸氏の居城跡に近く、
城郭の一部と伝えられていたが、
昨年1月に山城を調査に来た東広島市教育文化振興事業団の吉野健志さん(46)から
「古墳では」と指摘を受け、調べた。

調査を担当している安芸高田市教委の川尻真主査は、
「前方後円墳があるということは大和朝廷に関係する有力者がいたことを示す。
安芸地方の古代史解明に重要な資料」とし、来年1月に市史跡に指定、
6月頃から試掘調査を始める。
問い合わせは安芸高田市教委生涯学習課(0826・42・0054)。

◎読売新聞 2009年11月20日
  http://osaka.yomiuri.co.jp/...

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2009.11.21

鹿児島・下鶴遺跡 県内最古、国内最南端の青銅製銅戈出土

鹿児島県立埋蔵文化財センターは19日、伊佐市大口下殿の下鶴遺跡から
県内最古の青銅器「銅戈(どうか)」の一部が見つかったと発表した。
弥生時代中期前半(2200年前)で墓の副葬品とみられる。

同センターによると出土したのは遺跡北部で30基が確認された土坑の一つ。
出土品は長さ8センチ、幅3.3センチ、厚さ0.6センチで
長さ20センチ前後の本体の先端部分とみられる。
別の土坑から見つかった入来式土器や青銅器に詳しい
九州大学総合研究博物館の岩永省三教授の見立てにより、遺物の時代を判断した。

銅戈は武器形青銅器の一種で柄の先に取り付け、相手を引っかけて倒す。
県内で同青銅器が発見されたのは志布志市有明町野井倉の
銅矛(どうほこ)=弥生時代後期=に続き2例目。
銅戈は九州北部での出土が多いが、これまで熊本県山鹿市が南限で、
今回の発見により、当時に九州中北部と当地の往来があったことがうかがえる

◎南日本新聞 2009年11月19日
  http://www.373news.com/...

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富山・百塚遺跡 ガラス玉 県内最多の70個出土

富山市百塚の百塚遺跡で19日までに、
弥生時代後期から古墳時代初頭(1~3世紀ごろ)の墳墓11基が見つかり、
副葬品とみられる約70個のガラス玉が出土した。
1カ所から出土したガラス玉としては県内最多となる。
また、県内最古となる、石で棺を固定したとみられる埋葬部分も見つかった。
市埋蔵文化財センターは「呉羽山丘陵北部に有力な集団がいた証拠になる」としている。

ガラス玉は直径3~5ミリの鮮やかな青色で、
首飾りなどに使われたとみられる。
1カ所からの出土例では、
これまで同市杉谷の杉谷A遺跡の27個が県内最多だった。

棺の固定に使われた石は直径30センチ程度の川原石で、
長さ約2・5メートル、幅約1・2メートル、深さ約1メートルの埋葬施設に61個が確認された。
同センターの鹿島昌也主任学芸員は
「当時の墳墓で石を使う例は、県内では珍しい」と話している。

富大人文学部の高橋浩二准教授は、百塚遺跡に円形周溝墓が集まっている点に注目し、
「有力者が古墳を築き始めるまでの過程を明らかにする貴重な資料」としている。

◎富山新聞 2009年11月20日
  http://www.toyama.hokkoku.co.jp/...

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2009.11.20

福岡・城野遺跡 弥生時代末期では九州最大級の方形周溝墓

北九州市教委は17日、同市小倉南区城野の城野遺跡から、
弥生時代末期(150年ごろ-250年ごろ)としては
九州最大規模の方形周溝墓が出土したと発表した。

周溝墓からは2基の石棺が並んだ状態で発見された。

発掘調査を担当した同市芸術文化振興財団は、
城野遺跡が近隣の二つの遺跡とともに
弥生のムラを形成していたのではないかとみている。
石棺は18日に開封し、内部を調べる。

方形周溝墓は一辺23メートルで、同時期の遺構では
福岡県みやこ町の川ノ上遺跡の17・5メートルをしのぎ、九州最大規模という。
周辺からは竪穴住居跡9棟、深さ約1・5メートルのコメの貯蔵穴と炭化米、
食物を供える高坏(たかつき)などが出土。
弥生時代には珍しい鉄製刀の破片も見つかった。

石棺は2基とも、白色の粘土で外側から目張りされ、密封された状態で出土。
周囲には魔よけとみられる赤色塗料が塗られていた。
近くの重留遺跡からは権力を象徴する広形銅矛も出土しており、
同財団はこの地域に有力な首長がいたと推測。
水田を挟んで三つの集落が共存しながら、近くを流れる紫川の中流域に
弥生のムラを形成していたとみている。

福岡大の武末純一教授(考古学)は
「九州最大規模の周溝墓を持つほどの権力者が
この地域にいたということは画期的発見。
出土品などから権力者像の解明につながるのではないか」と話している。

◎西日本新聞より 2009年11月18日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

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2009.11.18

纒向遺跡 大型建物の発見について

佐賀女子短期大学 高島忠平氏

◎佐賀新聞 2009年11月10日
  http://www.saga-s.co.jp/...

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大阪府立近つ飛鳥博物館長 白石太一郎氏

◎中日新聞 2009年11月11日
  http://www.chunichi.co.jp/...

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橿原考古学研究所総務企画部長 寺澤薫氏

◎産経新聞 2009年11月13日
  http://sankei.jp.msn.com/...

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奈良・纒向遺跡 3世紀前半の国内最大面積の建物跡を発見

邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の
纒向(まきむく)遺跡(2世紀末~4世紀初め)で、
3世紀前半(弥生時代末~古墳時代初め)の大型建物跡1棟が見つかった。
市教委が10日発表した。

同時期の建物としては、国内最大の面積で、
邪馬台国の女王・卑弥呼が君臨した時期にあたり、
専門家は「邪馬台国の中枢施設の可能性がある」と指摘している。
畿内説と九州説が対立する邪馬台国の所在地論争に影響を与える発見となる。

市教委によると、周辺で以前に発掘された3棟とともに
中心軸が東西の同一線上に並ぶなど例のない計画的な配置が施されていた。

大型建物は南北19.2メートル、東西12.4メートル、
床面積は約238平方メートルと推定している。
柱穴13個(直径32~38センチ)を確認。
その間には、一回り小さい柱穴9個(直径23~25センチ)もあった。
南北の柱間(約4.8メートル)を支える束柱(つかばしら)だったとしている。
東西の柱間(約3.1メートル)にはなかった。

出土した柱穴群の西側は6世紀に造られた溝で削られていた。
しかし、見つかった柱穴の形や並び方から見て、
削られた部分にも同様の柱列があったと判断した。

また、大型建物跡の西側では、すでに3世紀前半の小中規模の建物跡3棟が見つかっていた。
大型建物跡と同じ方位を向き、中軸線も東西の同一直線上に並んでいた。
周囲からは総延長40メートル以上の柵(さく)列も出ており、
大型建物跡など東側の3棟は柵内に区画されていたとみられる。
計画的に配列された建物群は、飛鳥時代の宮殿や寺では一般化するが、
今回は最古の例という。

大型建物跡の一部は、方形周溝墓とみられるL字形の溝で壊されていた。
溝から3世紀中ごろの土器が出土したため、大型建物の時期は3世紀前半と判断した。
纒向遺跡中心部の全体像を探るため、9月から約390平方メートルで調査を進めていた。
これまでの調査面積は、遺跡全体の約5%にすぎず、
今後の調査によって、さらに東側などに建物などが確認される可能性も期待されている。

3世紀後半までの大型建物跡としては、
吉野ケ里遺跡(佐賀県)の高床式建物跡(2世紀、約156平方メートル)や、
樽味四反地(たるみしたんじ)遺跡(松山市)の
掘っ立て柱建物跡(3世紀後半、約162平方メートル)などがある。

邪馬台国は、3世紀末の中国・三国時代の史書「魏志倭人伝」に記載されている。
宮殿や物見櫓(やぐら)、城柵があったと記されているが、
纒向遺跡ではこれまで大型建物跡が出土しておらず、畿内説の「弱点」とされてきた。

◎朝日新聞 2009年11月10日
  http://www.asahi.com/...

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