向島百花園 初冬 014

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弥生時代では国内最大規模の鍛冶(か・じ)工房跡が見つかった
淡路市黒谷の垣内(かい・と)遺跡(2~3世紀)から出土した
鉄製の斧(おの)が、朝鮮半島南部でつくられた可能性が高いことがわかった。
26日に発表した同市教委は、同遺跡で当時活躍していた
鍛冶集団の外部との交流や鉄の入手ルートを解明するうえで
重要な手がかりになるとみている。
垣内遺跡は海岸線から約3キロ入った丘陵地にあり、
斧は08年10月の調査で、南北約50メートル、東西約500メートルと推定される
遺跡のほぼ中央部から出土した。
23棟見つかった竪穴建物跡のうち、3番目に大きい建物の端にあったという。
付着したさびを取り除いたところ、
全長17・9センチ、最大幅4・9センチ、厚さ1・3センチ、重さ263グラムの斧と判明した。
朝鮮半島南部で見つかった斧と形状が似ているという。
当時、国内では鉄をつくる技術はなく、
原料の鉄素材は朝鮮半島や中国から手に入れていたと考えられている。
市教委によると、見つかった斧は木の伐採や鍛冶工具として使われていた以外に、
鉄製品をつくる素材だった可能性も考えられるという。
垣内遺跡からは他にも矢じりや鉄片など120点以上の鉄製品が出土しており、
市教委は詳しい形状などを調べるため、さびを落とす作業を続けている。
同遺跡をめぐっては、この場所で鉄器が作られていた時代が
中国の史書「魏志倭人伝」に「倭国乱れる」と記された2世紀後半と重なることから、
邪馬台国との関連が関心を集めている。
◎朝日新聞 2010年1月27日
http://mytown.asahi.com/...
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奈良県御所市の秋津遺跡で、
古墳時代前期(4世紀前半)の祭祀(さいし)の場とみられる施設跡が出土し、
県立橿原考古学研究所が20日、発表した。
施設の周囲には、両側から柱で支える前例のない強固な塀の跡が見つかり、
5世紀以降、周辺を支配したことが知られる
有力豪族・葛城氏につながる施設とみられる。
施設は、大阪府八尾市の心合寺山(しおんじやま)古墳(5世紀前半)で見つかった、
建築物を塀で囲った「囲形埴輪(かこいがたはにわ)」に酷似しており、
実際に遺構が確認されたのは初めて。
施設は三つあり、最大で東西40メートル以上、南北19メートル以上。
幅約20センチの溝の両側に、約2~2・5メートルおきに柱穴(直径30~70センチ)があり、
高さ2メートル前後の板を溝に立て、両側を柱で支えたとみられる。
調査地の約1キロ南西には被葬者が葛城氏の始祖・葛城襲津彦(そつひこ)とされる
宮山古墳(5世紀前半)がある。
◎読売新聞 2010年1月21日
http://osaka.yomiuri.co.jp/...
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大野城市教委は15日、同市曙町の石勺(こくじゃく)遺跡から
古墳時代前期-中期(4世紀後半-5世紀前半)の
大規模集落跡が見つかったと発表した。
首長の副葬品として一般的な銅鏃(どうぞく)(銅製矢じり)や、
5世紀前半に朝鮮半島から伝わったかまど跡などが出土したことから、
同市教委は「朝鮮半島の文化を積極的に受け入れた
先進性の高い権力者の拠点集落だったのではないか」と分析している。
石勺遺跡は総面積約14万平方メートル。
1988年から10回発掘調査し、縄文時代から室町時代の遺構・遺物が出土。
今回の調査地点は遺跡西側のマンション建設予定地(約3千平方メートル)。
確認されたのは、古墳時代の竪穴住居跡33棟、掘立(ほったて)柱建物2棟。
複数の住居跡で、壁際に粘土で固めたかまどや炉とみられる跡が見つかった。
かまどは5世紀前半に朝鮮半島から伝わり、6世紀までに日本に定着したとされ、
同遺跡のかまどは伝来初期のものとみられる。
畿内で権力者の権威を示す副葬品として多数出土する銅鏃1点が出土。
同市教委によると、集落跡からの出土は珍しい。
朝鮮半島系土器1点も見つかり、
製法などから朝鮮半島の土器をまねて国内で造られた可能性が高いという。
同規模の集落は周辺に九州大学構内遺跡(春日、大野城市)などがあり、
こうした遺跡と並んで半径約2キロ四方の中心的な集落だったとみられる。
◎西日本新聞 2010年1月16日
http://www.nishinippon.co.jp/...
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浦賀湾 (写真中央の沖付近に黒船が来航)

燈明堂から眺めた浦賀沖
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1853年(嘉永6年6月3日)4隻の黒船が浦賀に来航しました。
突然現れた大きな黒船は、およそ2世紀に渡って鎖国を続けていた日本人を、
驚かせました。
黒船を率いるペリー提督の目的は、当時のアメリカ大統領、
ミラード・フィルモアからの親書を日本に手渡すことでした。
親書の内容は友好を願うものでしたが、アメリカ政府の本来の目的は
次の点にありました。
「日本近海で難破した船や、悪天候のために日本の港に入った
アメリカ船の乗組員の生命や財産を保護すること。
アメリカ船が食料、水、燃料を積み込んだり、船を修理するために
入港できるようにすること。
アメリカ船が寄港し、
物々交換や積み荷を売ることができるようにすること」
ペリー提督は、親書を上陸して手渡したいと幕府に要求しました。
両者は旗艦・サスケハナ号で交渉の末、7月14日(太陽暦[グレゴリオ暦])、
ペリー一行の久里浜への上陸が実現します。
幕府は浦賀奉行・戸田伊豆守氏栄(とだいずのかみうじよし)と、
井戸石見守弘道(いどいわみのかみひろみち)を応接役として、
ペリーから大統領の親書を受け取りました。
この出来事を契機として、日本は開国への道を歩み始めたのです。
当時、日本では1635年(寛永12年)から鎖国が続いていました。
外国船は、中国とオランダの船以外の来航が禁じられ、
貿易は長崎一港だけに制限されていたのです。
それだけに突然現れた大きな黒船に、庶民はとても驚き、
浦賀はもとより日本中が大騒ぎになりました。
(ペリー記念館)
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▼Wikipediaより
幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、
ペリーの来航が将軍に
アメリカ合衆国大統領親書を渡すことを目的とすることを把握したが、
ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。
続いて同じく香山栄左衛門が訪ねたが対応は変わらず、
親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。
香山は上司と相談する為に4日の猶予をくれるように頼んだが、
ペリーは3日なら待とうと答え、
さらに親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、
江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすると脅しをかけた。
このとき第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、
国家の重大事を決定できる状態には無かった。
老中首座阿部正弘は、
6月6日(同年7月11日)に国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論に至ったため、
嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、
下曽根信敦率いる部隊の警備の下、
浦賀奉行の戸田伊豆守・井戸石見守がペリーと会見した。
ペリーは彼等に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡したが、
幕府は将軍が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求したため、
ペリーは返事を聞く為、1年後に再来航すると告げた。
艦隊は6月12日(同年7月17日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して香港へ帰った。
それからわずか10日後の6月22日(同年7月27日)に将軍家慶は死去すると、
13代将軍に家定が就いたが、彼は病弱で国政を担えるような人物ではなかった。
しかし老中等にも名案は無く、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、
老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。
そこで彼は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、
幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を聞こうとしたが、
これは開幕以来初めてであった。
◎Wikipedia 黒船来航
http://ja.wikipedia.org/...
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■1853年にやって来た4隻の黒船
蒸気船 サスケハナ号 SUSQUEHANNA 旗艦
艦長 F.ブキャナン
全長257フィート、2,450トン、大砲6門
蒸気船 ミシシッピー号 MISSISSIPPI
艦長 S.S.リー
全長225フィート、1,692トン、大砲12門
帆船 プリマス号 PLYMOUTH
艦長 J.ケリー
全長147フィート、989トン、大砲4門
帆船 サラトガ号 SARATOGA
艦長 W.S.ウォルター
全長150フィート、882トン、大砲4門

▲サスケハナ号
1850年進水、外輪式スチーム・スループ、
木骨木皮、一部鉄材、総トン数2,450t、
排水量3,824t、長さ257フィート(約78.4m)、
幅45フィート(約13.7m)、速力12.5ノット、
砲16門、乗組員平時230人、戦時306人。
(浦賀郷土資料館)
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1853年
6月 3日 浦賀来航
6月 4日 与力中島に代わって香山が交渉
6月 6日 ミシシッピー号江戸湾侵入。香山が抗議し引き返す。
6月 9日 アメリカ大統領の国書受理

画像の暦は、太陽暦(グレゴリオ暦)
(ペリー記念館)
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■ペリー艦隊 来航 略年譜 (太陽暦[グレゴリオ暦])
1852年(嘉永5年)11月24日
アメリカ・ノーフォークを出航
1853年(嘉永6年) 5月23日
中国・香港を出航
1853年(嘉永6年) 7月 2日
沖縄・那覇を出航
1853年(嘉永6年) 7月 8日
浦賀沖に到着
1853年(嘉永6年) 7月14日
久里浜に上陸(国書を渡す)
1853年(嘉永6年) 7月17日
江戸湾を退去(香港へ)
1854年(嘉永7年) 1月14日
中国・香港を出航
1854年(嘉永7年) 2月13日
横浜・小柴沖に来航
1854年(嘉永7年) 3月 8日
横浜村に上陸
1854年(嘉永7年) 3月31日
神奈川条約[日米和親条約]締結
1854年(嘉永7年) 4月14日
伊豆・下田港開港(ペリー寄港)
1854年(嘉永7年) 5月17日
北海道・箱館港開港(ペリー寄港)
1854年(嘉永7年) 6月28日
日本を退去・・・香港へ
香港集結後、各船 単独帰国
1854年(嘉永7年) 9月11日
ペリー提督は蒸気船ヒンドゥスタンにて
単身帰国(疲れと持病のリゥマチ悪化のため)
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■ペリー提督(マシュー・カルブレイス・ペリー)

マシュー・カルブレイス・ペリーは1794年、
ロードアイランド州ニューポートに生まれました。
ペリーは、15歳でアメリカ海軍に士官候補生として入り、
世界の海で経験を積み重ねました。
1852年(嘉永5年)に東インド艦隊司令長官に任命され、
日本遠征の重責を担いました。
1853年、浦賀沖に来航し、日本に開国を要求。
翌年に再び江戸湾に入港して日米和親条約(神奈川条約)を締結しました。
帰国後に「日本遠征記」を編纂しましたが、編纂が終わった翌年の
1858年3月、リューマチ性の心臓発作により、63年の生涯を閉じました。

(ペリー記念館)
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■1853年 ペリー来航に関係した人々
戸田伊豆守(とだいずのかみ) 氏栄(うじよし) 奉行
ペリー司令官よりアメリカ大統領フィルモアの国書受け取る
井戸石見守(いどいわみのかみ) 弘道(ひろみち) 奉行
在府浦賀奉行とし江戸に居た
浦賀に帰り、戸田伊豆守の補佐として接見した
中島三郎助(なかじまさぶろうすけ) 与力
通訳の堀達之助と最初に「サスケハナ」に乗り込み交渉の立役者になる。
外国との付き合いは無く外国船は長崎(出島)に行く様に話す。
長崎なら外交交渉が出来る事をペリー提督に伝えた。
香山栄左衛門(かやまえいざえもん) 与力
中島三郎助と義兄弟。
中島三郎助の紹介により、ニセ浦賀奉行として交渉に当たる。
ペリー側の信頼が高く、1954年、横浜の交渉にも参加する。
堀達之助(ほりたつのすけ) 通訳
1848年、漂着した捕鯨船員「マクドナルト」から日本で初めて
「英語」を学んだ。
中島三郎助が「サスケハナ」を訪れた時、通訳として同行した。
語学の評価が高く、1954年の日米和親条約の和解(和訳)にも当たる。

戸田伊豆守 氏栄

中島三郎助 与力
(ペリー記念館)
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■浦賀奉行所
享保5年(1720年)に奉行所が下田から浦賀へ移されました。
その業務は、船改め(ふなあらため)をはじめとして、
海難救助や地方役場としての仕事などを行いました。
また、文化・文政(1804年~1830年)のころから、
たびたび日本近海に出没するようになった異国船から
江戸を防備するため、海防の最前線として、
さらに重要な役割を果たすようになりました。
享保5年から、江戸幕府が終わる慶応4年(1868年)までの
約150年間に、奉行は2人制の時期もありましたが、
初代の堀隠岐の守から最後の土方出雲守まで53人が勤めました。
また奉行所には、与力10騎同心50人の役人たちも勤めていました。
現在では、奉行所をとり囲む堀の石垣と、
表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が4~5枚あるだけで、
当時の様子を偲ぶことはむずかしくなっています。
(浦賀観光協会)

浦賀奉行所跡

浦賀奉行所跡

浦賀奉行所跡

浦賀奉行所 復元図
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■ペリーと浦賀奉行
浦賀奉行は、黒船がやって来た時、
応対をする役目を持っていました。
しかし、鎖国をしている限り、
浦賀において対話することを、基本的に拒否しました。
1653年久里浜に応接所が建てられたのは、
浦賀に近く広い場所があったからです。
翌年、ペリーが、江戸幕府から返事をもらったのは
より江戸に近い横浜でした。
(ペリー記念館)
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■ペリー来航ころの三浦半島警備の様子
黒船を江戸湾へ進入させないために、
18か所の御台場が置かれました。
万一に備えて、主な施設どうしの
連絡網(御用道路筋)が決められました。
御台場を警備していたのは、有力な大名たちでした。
大名は、陣屋を置いて村々の支配もしました。
東海道より南の村々は、黒船来航の時は
警備の手伝いをさせられました。

(ペリー記念館)
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■船番所
18世紀に入るころから国内では生活物資の生産量が拡大し、
それまでの関西方面からでなく、東北や南関東からも江戸へ
大量の物資が入ってくるようになりました。
この流通の変化は、幕府に経済政策の見直しを迫るものでした。
幕府の対応の一つが、享保5年(1720年)12月、
それまで伊豆下田にあった奉行所を浦賀に移転させ、
江戸へ出入りする船の積荷を厳しく管理し、
江戸の物価の安定をはかることでした。
この船の検査「船改め」を行ったのが、船番所です。
ここは船の関所ですから、積荷の他に「入り鉄砲に出女」の検査もし、
乗組員もチェックされました。
積荷の中でも生活必需品の、米、塩、味噌、から木綿や薪までの
11品目について3ヶ月ごとに集計したものを、
幕府の勘定奉行に提出していました。
1日に50隻にも及ぶ船が出入りしていましたので、
「船改め」の業務は、奉行所の役人だけでは人手が足りず、
この検査は廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されました。
廻船問屋は、下田時代からやっていて、奉行所の移転に伴い、
浦賀に来た通称下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒、
の合計105軒で行っており、この業務に就いた時だけは、
奉行所の足軽役になったので、苗字を名乗ることが許されました。
この頃になると、外国船が日本近海に出現するようになり、
1837年、浦賀沖にも現れました。
そうした外国船への対応も、しなければならなくなりました。
この「船改め」は、慶応4年(1868年)閏4月
奉行所がなくなっても継続され、業務が終了したのは
明治5年(1872年)3月のことでした。

(浦賀観光協会)
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■ペリー来航までの外国艦隊の主な来航
1792年(寛政4年)
ロシア使節ラクスマン 根室へ
1792年(寛政6年)
イギリス人・ブロートン 室蘭へ
1804年(文化元年)
ロシア使節レザノフ 長崎へ
1808年(文化5年)
イギリス船フェートン号事件
(長崎へオランダ船に偽装し入港)
1818年(文政元年)
イギリス船ブラザース号 浦賀へ
1822年(文政5年)
イギリス捕鯨船サラセン号 浦賀へ
1825年(文政8年)
=幕府 異国船打ち払い令を出す=
1837年(天保8年)
アメリカ船モリソン号 浦賀へ
(砲撃→退去)
1842年(天保13年)
=幕府 異国船打ち払い令を緩和=
1844年(弘化元年)
オランダ軍艦マンハッタン号 長崎へ
(国王・開国勧告)
1845年(弘化2年)
アメリカ捕鯨船マンハッタン号 浦賀へ
1846年(弘化3年)
アメリカ・ビットル提督(軍艦2隻) 野比沖へ
1849年(嘉永2年)
イギリス船マリーナ号 浦賀へ
1852年(嘉永5年)
ロシア船 下田へ
1853年(嘉永6年)
アメリカ・ペリー提督(黒船艦隊4隻) 浦賀へ

アメリカ捕鯨船マンハッタン号

(ペリー記念館、浦賀郷土資料館)
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■ペリー来航とクジラの関係
産業革命によって、クジラの油の需要が高まりました。
その結果、ヨーロッパやアメリカの各国が大西洋でクジラを獲りつくしてしまいました。
そこでアメリカは、日本周辺に残るクジラの漁場に狙いをつけ、
鎖国していた日本に開国を迫ったわけです。
日本を開国させることで、アメリカの捕鯨船の補給と
捕鯨中に漂流してしまった船員の救助基地に利用できると考えたのです。
そのようなことを踏まえて選ばれたのが、横浜や函館の港であります。
開国後、アメリカが日本沿岸でおこなったクジラの乱獲によって
クジラの数が減少したことは言うまでもない話です。
(くじらフェスティバル[南氷洋鯨類捕獲調査船団])
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■ペリーの久里浜上陸
1853年(嘉永6年)6月3日、米国東インド艦隊司令長官ペリーは
軍艦4隻を率いて浦賀に来航した。
4隻とはサスケハナ、ミシシッピーの蒸汽船と
サラトガ、プリマスの帆前船であった。
浦賀奉行所与力・中島三郎助らが交渉にあたり、
与力・香山栄左衛門が応援掛として折衝したが
米国側の強硬な態度にやむなく、久里浜海岸で、
米国大統領の親書を授受、翌年、再び来航したペリーと、
日米和親条約を締結した。
(浦賀郷土資料館)

ペリーの久里浜上陸図

ペリーの久里浜上陸図

ペリーの久里浜上陸図

ペリー上陸直前を描いた絵巻物

上陸した海兵隊員の行進を描いた絵巻物

肖像画
(ペリー記念館)

上陸した海岸(現在) 左上が東京湾フェリー乗り場
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■ペリー上陸記念碑

ペリー公園にて

ペリー公園にて

ペリー公園にて

ペリー公園にて(伊藤博文の筆による碑文)

ペリー公園にて

ペリー公園にて

ペリー公園にて
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■燈明堂とその周辺

慶安元年(1648年)、幕府の命でつくられた
日本式の灯台である燈明堂は明治5年(1872年)まで
その役割を果たしました。
燈明堂の背後の山には平根山台場がつくられ
外国船に備えました。
平根山台場は天保8年(1837年)、
日本人漂流民を送り届けに来航した米商船モリソン号を
最初に砲撃した台場として知られています。
ここから海岸沿いに海に突き出た所には幕府期に、
千代ヶ崎台場がつくられました。
燈明堂付近には、供養碑などが立ち並び、
かつてここが首切場と呼ばれた
浦賀奉行所の処刑場だったことが偲ばれます。

幕末期

燈明堂から見た浦賀~久里浜沖 (東京湾)

燈明堂から見た浦賀湾
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【Podcasting】
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【近代日本 Podcasting】
(1)黒船来航 ペリー 浦賀 久里浜
(2)プチャーチン来航 安政の大地震
(3)ペリー退去後 [1853年6月-11月] 品川台場 韮山反射炉
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栃木県・大間々駅にて平成21年8月に撮影

栃木県・大間々駅にて平成21年8月に撮影

栃木県・大間々駅にて平成21年8月に撮影

栃木県・大間々駅にて平成21年8月に撮影

車内にて平成21年8月に撮影

車内にて平成21年8月に撮影

車内にて平成21年8月に撮影

車内にて平成21年8月に撮影

車内にて平成21年8月に撮影
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わたらせ渓谷鐵道開業時に用意された軽快気動車で、
富士重工業製のバス車体を基本にした車体長15m級のLE-CarIIである。
前面貫通式。
100番台はロングシート、200番台はセミクロスシートを装備する。
当初の塗色は、車体下半分をベージュ、上半分を各車異なる色とし、
窓下に動物のシルエットを帯状に配するものであったが、
後に310形にあわせ、あかがね色に統一された。
また、各車に愛称が付されており、101が「こうしん」、
201が「くろび」、202が「けさまる」、203が「あづま」である。
なお、100形は2両あったが、102「ようがい」が
1989年5月14日に発生した落石事故により大破し、
同年7月1日付けで廃車となっている。
(Wikipediaより)
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走行音
わ89-200形 大間々駅→上神梅駅
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邪馬台国の所在地論争で脚光を浴びている纒向(まきむく)遺跡に近い
奈良県桜井市の「桜井茶臼山古墳」(3世紀末~4世紀初め)から
大量の鏡の破片が出土し、その石室が、おびただしい数の鏡で
埋め尽くされていたことがわかった。
最新の3次元(3D)計測によって分析された小さな破片が、
邪馬台国と大和王権との関係をはじめ、
古代日本の国家形成を解き明かす手がかりとなった。
「ここまで一致するものか」――。
わずか約2センチ大の銅鏡片に刻まれた「是」の1文字。
昨年7月、鏡の破片の3D計測を担当した県立橿原考古学研究所の
奥山誠義・主任研究員は驚いた。
蟹沢古墳(群馬県高崎市)で見つかった
「正始元年陳是作」という銘文入りの鏡の「是」の文字と、ぴたりと一致したのだ。
同研究所は1996年から銅鏡の精密な計測を始め、
700面以上のデータを蓄積している。
2004年には鏡の一部からでも
同じ元型や鋳型でつくられた鏡を突き止められるようになった。
3か月がかりで破片を照合した結果、81面分を確認することができた。
桜井茶臼山古墳は、3~4世紀の大型前方後円墳が集中する
奈良盆地南東部にある。
邪馬台国畿内説の最有力地とされ、
3世紀で国内最大の建物跡が出土した纒向遺跡が北西に広がる。
中国の史書「魏志倭人伝」は、239年に卑弥呼が魏の皇帝に使いを出し、
翌年に「銅鏡百枚」を賜ったと記す。
福永伸哉・大阪大教授は「『正始元年』の鏡は、
卑弥呼が魏の皇帝から賜った銅鏡の1枚。
この鏡の年号から、大和王権と邪馬台国が
一続きの政治勢力だった可能性がさらに高まった」と指摘する。
正始元年銘鏡は、蟹沢古墳や森尾古墳(兵庫県)、
竹島御家老屋敷古墳(山口県)で見つかっているが、
奈良県内では初めて。
権威の象徴として大和王権が地方の豪族らに与えたとされてきたが、
今回の発見で、大王自身も所持していたとみられることが明らかになった。
鏡の種類が豊富だったことも研究者の注目を集める。
30面以上の鏡が出土した黒塚古墳(奈良県天理市)や
椿井大塚山古墳(京都府木津川市)ではほとんどが三角縁神獣鏡だったが、
今回は全体の3分の1に満たなかった。
岡村秀典・京都大教授は
「本来、多種類の鏡を副葬するのが基準だったのだろう。
小さな古墳は一部の種類だけを取り入れたのでは」とし、
岸本直文・大阪市立大准教授は
「王権が支配を広げるには権力を示す大量の鏡などが必要で、
国内で製造し求心力を得ようとしたことがわかる」と話す。
一方、国内最長の長さ8センチのガラス製管玉などの副葬品も見つかり、
大王の強大な権力をうかがわせる。
大塚初重・明治大名誉教授は
「今回の成果によって、古墳の被葬者の実力差や階級差などを
細かく再検討する材料が得られた」と期待する。
桜井茶臼山古墳で銅鏡が多種、大量に副葬されていたことは、
大王級墓の実態を明らかにし、巨大古墳研究の基準となった。
「正始元年鏡」は邪馬台国が
初期大和王権に発展したことを示すとする専門家も少なくない。
3~4世紀の古代国家の成立を解明するには、
政治や社会、文化を反映した200メートル超の巨大古墳の調査が不可欠。
しかし畿内の33基のうち27基は陵墓で調査が進まず、実態は不明だ。
桜井茶臼山古墳で出土した国内最多の13種81面以上の鏡は、
被葬者の強大な権力をうかがわせ、
その実力や階級を検討する材料となった。
中でも大型の国産鏡の価値が高まった。
これまで地方でしか出土しなかった「正始元年鏡」の発見は、
初期大和王権の地と地方との関連を浮上させ、
邪馬台国の所在地論争にも影響するといえる。
今回の成果が、巨大古墳の調査の重要性を改めてはっきりさせたことは確かで、
研究の深化が求められる。
◎読売新聞 2010年1月8日
http://osaka.yomiuri.co.jp/...
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越前町教育委員会は七日、文化財の分布調査で、
同町天王と宝泉寺にまたがる標高一五五メートルの尾根に、
五世紀中ごろの前方後円墳とみられる古墳を発見したと発表した。
多くの川原石のほか、埴輪(はにわ)が同時に見つかっており、
町教委は「被葬者はかなりの政治権力者では」と推測している。
発見された古墳は、同町天王の八坂神社北側の山中に位置する
栃川古墳群の番城谷(ばんじょうだに)山五号墳。
全長は五十五メートル、円形部分の直径は三十八メートルと、
同時期の古墳としては県内最大級。
同古墳は従来弥生時代の墳丘墓とされ、具体的な調査はされてこなかった。
古墳のすそから円筒埴輪の底部が発見され、
突起などの形態から築造された時期が判明した。
付近に散乱していた十五~三十センチの川原石は古墳の全面を覆うため、
ふもとの天王川から約百四十メートルの標高差を運んできたとみられ、
計算上では十一万個の石が必要だったと推定される。
丹南地域では全長五十メートル以上の古墳は六基確認されているが、
川原石と埴輪が同時に見つかったのは初めて。
これまで高所で川原石や埴輪が見つかった古墳は
北陸最大級の六呂瀬山一号墳(坂井市丸岡町)や
手繰ケ城山古墳(永平寺町)など、いずれも首長級だったことから、
町教委の堀大介学芸員は「古代の越の国の盟主的な
政治権力者に匹敵する人物だった可能性が高い」と話している。
分布調査は昨年五月に実施し、同七~九月に測量調査した。
<森浩一・同志社大名誉教授(考古学)の話>
各地域の古代史はまだまだ考古学の基礎的なデータが不足している。
基礎資料が出そろわない限り古代史の諸問題は解けない。
その意味で福井県にとっては重要な資料といえる。
◎中日新聞 2009年1月8日
http://www.chunichi.co.jp/...
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一畑電気鉄道3000系電車は、
一畑電気鉄道(現・一畑電車)が1996年に導入した通勤形電車。
一畑電気鉄道(現・一畑電車)の車両近代化のため、
2100系に続いて導入された車両で、
本系列の導入によって北松江線の近代化が完了した。
南海電気鉄道21000系を譲受・改造し、
1996年(平成8年)12月27日に2連4本の計8両が竣工した。
編成はモハ3000形(Mc) - モハ3010形(Mc)となっている。
モハ3000型に設置されているパンタグラフは、
貫通路側のものが撤去されて1基のみとなり、
ワンマン運転用に前面窓両側にサイドミラーが取り付けられている。
前面側面ともに行先方向幕はなく、
前後の運転台の窓に行先が書かれたプレートが取り付けられている。
イエローを主体として、側窓下がホワイト、
側扉・前照灯周りがダークブルーで塗装され、
前面窓下には同じくダークブルーで太帯が描かれている。
車内はロングシートで、側扉付近に乗車整理券発行機を、
運転台後部に運賃表示機と自動両替機付運賃箱を設置している。
(Wikipediaより)
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国鉄キハ58系気動車は、旧日本国有鉄道が
1961年に開発した急行形気動車である。
1969年まで大量に増備され、
1960年代から1980年代にかけて幹線・ローカル線を問わず
日本全国で急行列車を中心に投入された。
なお、「キハ58系」という表記は、
同用途の同系車体を持つ国鉄気動車を趣味的もしくは
便宜的に分類したものであり、国鉄が定めた正式のものではない。
1960年代に、蒸気機関車牽引列車を置き換え、
スピードアップと居住性改善を図る無煙化を目的に大量製造され、
日本全国で急行列車を中心に運用された。
明るく見通しの良い広い車内と大きな1段上昇窓を備え、
蒸気機関車の引く旧来の客車とは一線を画した
『速くゆとりのある旅』を乗客に提供した。
幹線・ローカル線の別なく全国に気動車急行列車網を完成させた車両である。
1970年代以降、幹線電化の著しい進展に伴い、急行列車の電車化、
さらには特急列車への格上げが進められたことから、
気動車急行列車は徐々にその運用域を狭めた。
本系列も1980年代以降はローカル線の普通列車用として多くが転用されている。

1987年の国鉄分割民営化後も、相当数がJR各社に引き継がれ、
未電化の地方ローカル線の普通列車や快速列車を中心に運用される一方、
一部の車両は「ジョイフルトレイン」と呼ばれる団体専用列車用に改造されたものもある。
しかし、老朽や後継形式の増備に伴って淘汰・廃車が進行し、
2009年時点では極めて限定された少数が運用されているに過ぎない。
(Wikipediaより)
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◎Google検索「キハ58」
http://www.google.co.jp/...
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新幹線0系電車は、1964年の東海道新幹線開業時に開発された
初代の新幹線車両である。
1964年から1986年まで38次にわたり、
改良を重ねつつ総計3,216両が製造された。
世界ではじめて200km/hを超える営業運転を達成し、
航空機に範をとった丸みを帯びた先頭形状と、青・白塗り分けた流線形の外観で、
初期の新幹線のイメージを確立した。
第8回(1965年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。
1964年の開業から、東海道・山陽新幹線用として
足かけ44年にわたって運用されたが、
新型車両の登場や経年による老朽化から晩年は山陽新幹線区間のみの運転となり、
2008年11月30日定期営業運転を終了、
同年12月14日のさよなら運転をもって営業運転を終えた。
(Wikipediaより)
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昭島市・新幹線電車図書館にて

昭島市・新幹線電車図書館にて
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1989年にボイジャー2号が撮影したものです。
ちなみにボイジャー2号は
2009年2月9日現在、太陽から約132.3億km離れた場所にあり
秒速約15.5kmで太陽系から脱出しつつあります。
© Voyager 2, NASA
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中央の黒いところ(左は三角状)は、観測時にうまく画像化できなかった部分ですが
ここで注目なのは特異な六角形の雲の渦の部分です。
(六角形の渦は回転しています)
どうしてこのような六角形状が誕生するのか
そのメカニズムなど、まだまだ不明な点が多く
研究が続けられている状況です。
© Cassini Imaging Team, SSI, JPL, ESA, NASA
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1986年に地球に接近した時には大フィーバーとなったハレー彗星
周期約76年で、次の接近は2061年7月28日の予定です。
© Halley Multicolor Camera Team, Giotto Project, ESA
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▼2011年の様子
<往路>
・京急蒲田 「ムッサ」「八重」
・権太坂 ミーオ の応援
・権太坂 「福田」
・茅ヶ崎 「スキップ」
・千歳橋 「ど」「で」
・小涌園前 「西」「花」「愛」
<復路>
・二宮 「ど」「で」
・茅ヶ崎 「スキップ」
・遊行寺坂 「ど」「で」 「ほそで」
・権太坂 「瀬古」
▼2010年の様子
<往路>
・京急蒲田 「ムッサ」 ←東海大 村澤選手のことと思われ
・藤沢 「ど」 「で」 「○_○」
・小涌園前 「福田」
・小涌園前 スパネコ2匹の応援
<復路>
・二宮 「ど」 「で」 「○_○」
・藤沢 「ど」「で」
・藤沢 「オレ参上」
・新子安 はまりん の応援
▼2009年のブログより
ここ数年、密かに箱根駅伝の視聴者間で話題になっていることがあります。
「ど」 「で」 「○_○」
沿道に、このプラカードや旗を持った人が現れるのです。(笑)
今年はどうかな?と思っていたのですが
いたぁぁ ( ^ω^ )
↓2006年時に話題にされていたのはブログ・えるみれさん。(追加取材記あり)
http://www.el30.net/...
↓2007年の様子を紹介しているのはヒムカイシャシンさん。
http://f.hatena.ne.jp/...
「○_○」はテープに引っかけ、『巻き返せ!』
「ど」と「で」はクルクル回転させ、『どんでん返しを!』という意味なようです。
自分が今年確認できたのは、往路・藤沢の他、復路・二宮、蒲田の踏切でした。
もはや、これを見かけないと安心できない自分がいます。
そして、見かけると「あぁぁぁイタァァァァー」と大騒ぎしています。(笑)
来年は、インタビュー取材に行ってみようかな?
いや・・このなんとも微妙な謎感はいつまでもとっておきたい気も。^^
果たして、選手の中で気づいている人はいるのでしょうか?
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◎Google検索「箱根駅伝 ど で」
http://www.google.com/...
◎ブログ・気まぐれ!適当!ある~の日記 さん
http://alue.blog.ocn.ne.jp/...
◎ブログ・ただならぬ気配。さん
http://d.hatena.ne.jp/...
◎ブログ・Twinkle Streamer さん
http://10heart.blog119.fc2.com/...
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箱根湯本といえば温泉街という印象が強いのですが、
貴重な建築物も数多くあります。

高助さん。

町の防災倉庫。

山の写真家さん。

小田原日交さん。

ちもとさん。

早川に架かる国道1号線の旭橋(昭和8年竣工)。
箱根駅伝の選手もこの橋を駈け抜けます。
アーチ両端の支点をつないだ
RC(鉄筋コンクリート)タイドアーチ橋と呼ばれる構造で、
長さ39.5メートルは国内最大級。

平成17年度土木学会選奨土木遺産や
かながわの橋100選にも選ばれています。

箱根大名行列を伝える橋柵。

旭橋付近には「横穴式源泉跡」があります。

この洞窟は、箱根火山の基礎岩の1つ早川凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)の
約100万年~300万年前の地層の割れ目から湧出する温泉をたよりに、
手作業で掘り進められた横穴式の源泉跡です。
この付近は湯本温泉発祥の地でもあり、かつては数ヶ所に横穴源泉がありました。
当時は、岩盤の亀裂を通して湧出してくる温泉を、
横穴入口に造った浴槽に集めて入浴しました。
(案内看板より)

箱根駅伝でもおなじみ、国道1号線の函嶺洞門です。
復路の映像では、下(↓)写真の早川からこの函嶺洞門へのパーン映像が
毎年必ず映されますね。
竣工は昭和6年と大変に古いものです。
昭和初期では珍しいRC(鉄筋コンクリート)シェルターで、
王宮をイメージした美しさが評価され、
平成17年度土木学会選奨土木遺産に認定されました。
(紹介済の旭橋も共に認定)

横には早川が流れています。
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【箱根登山鉄道】

1.箱根湯本~強羅間の大部分が1,000分の80の急勾配のため
途中3ヵ所でスイッチバックを行います。
2.山の中腹を巡って走っているため半径30米という
非常に小さい曲線が6ヶ所あります。
3.急こう配を運転するため1台の車両に105馬力のモーターが
4個備え付けられております。
4.下り急こう配を運転するため一般のブレーキの他に
レール圧着ブレーキ(非常用)が装備してあります。
5.曲線が多いため車輪とレールの摩擦による抵抗を防ぐため
水を散きながら走っております。
6.急な下りこう配を運転するのに電気ブレーキを常用しております。
そのために屋根の上に大きな抵抗器が取り付けてあります。
(彫刻の森駅案内版より)

モハ1形(昭和25年製造)

モハ1形の網棚

モハ2形(昭和32年製造)

クモハ1000形(昭和56年製造)

クモハ1000形(昭和59年製造)

2000形(平成9年製造)

◎箱根登山電車ホームページ
http://www.hakone-tozan.co.jp/
◎箱根登山鉄道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/...
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以上.2007年UPの記事より
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◎小田原城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/...
◎小田原城 - はてな
http://d.hatena.ne.jp/...
◎小田原城址公園
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/...
◎銅門
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/...
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