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2010年8月

2010.08.30

緑陽花

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車窓

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貝塚

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Selfpitter 100830

【鉄道】

先日、ケキ102として紹介した津軽のDD35も頑張ってますな~。^^
http://railf.jp/...

そうだ、この前行ったときには30系が撮れず。(涙) リベンジしなくては。
http://railf.jp/...


【話題】

へぇ、道の駅にも切符があったとは。
http://www.michieki.net/...

ほんとだ、新宿が北海道化!(笑) どこかにじゃがポックルはあるかな。
http://news.nifty.com/...

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2010.08.29

KATO WORKS 加藤製作所 4t 機関車 (DL)

栃木県・足尾歴史館にて平成21年8月に撮影

栃木県・足尾歴史館にて平成21年8月に撮影

栃木県・足尾歴史館にて平成21年8月に撮影

栃木県・足尾歴史館にて平成21年8月に撮影

栃木県・足尾歴史館にて平成21年8月に撮影

栃木県・足尾歴史館にて平成21年8月に撮影

栃木県・足尾歴史館にて平成21年8月に撮影

栃木県・足尾歴史館にて平成21年8月に撮影

栃木県・足尾歴史館にて平成21年8月に撮影

栃木県・足尾歴史館にて平成21年8月に撮影 ※ガソリンカーと共に

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1920年代中盤から1960年代後半まで、加藤鉄工所→加藤製作所は
主として専用鉄道や工事用軌道などで用いられる
小型内燃機関車の製造を行い、大きな成功を収めた。

最初期にはホイットコム社やプリマス社など
アメリカのメーカーから輸入された産業用小型ガソリン機関車を参考として、
輸入品のエンジンとフリクションドライブなどの
動力伝達機構を組み合わせた構造の内燃機関車を製造した。

設計製造技術が確立された1930年代以降は、
主として鋳造台枠の形状・寸法と搭載エンジンの変更による作り分けで
顧客の要望に応じた自重・出力・軌間の機関車を供給する標準設計化が進み、
台枠側面とボンネット前面のラジエータ上部にKATO WORKS
(戦前・戦中に製造されたものの一部ではカトウとカタカナ表記された)と
鋳出しで記された社名は、文字通り同社製機関車のトレードマークとなった。

戦前・戦中は土木業界だけではなく、
海軍省向け納品実績が大きな割合を占めており、
海軍側の指定で社名に代えて海軍の錨マークを
ラジエータ上部に陽刻したそれらの機関車は、
第二次世界大戦中にその大半が戦地の飛行場整備などのために
南方や大陸などへ向けて発送されたが、
輸送船の撃沈で目的地に届かなかったものも多かったという。

第二次世界大戦後は主として建設省(河川改修事業用工事軌道)向けで
大きなシェアを獲得し、主に林野庁(森林鉄道)向けで
大きなシェアを獲得していた酒井工作所と並んで日本国内の
産業用小型ディーゼル機関車市場を二分する大手メーカーとして著名であった。

その作風はライバルであった酒井工作所が主たる顧客である
森林鉄道の軌道条件の特殊性からF型ディーゼル機関車のように
野心的な設計を試みる傾向があったのに対し、
こちらは砂塵や泥などが機構部に入り込むことが当然、という
厳しくかつ乱暴な使用条件にさらされる建設業界が主要顧客であったためもあり、
総じて手堅く単純で平凡な設計に終始した。

この他国鉄向けの貨車移動機や、
純然たる地方鉄道向けディーゼル機関車にも製造実績がある。

1960年代に入り自動車、特にダンプカーなどの大型トラックが普及すると、
これらの小型内燃機関車製造事業は大打撃を受けた。
そのため工事用軌道のトラックへの転換が急速に進んだ1960年代後半には
機関車事業から撤退し、以後は建設機械専業へと
業態転換がなされることとなった。

なお、約40年にわたって量産されたそれらの小型機関車の大半は
既に廃棄・解体されて現存しないが、
大井川鐵道のDB1形…の他、
王滝森林鉄道を筆頭とする各地の森林鉄道や
建設省利根川上流工事事務所をはじめとする工事軌道等で使用されていた
小型機のいくつかが記念物として保存展示されている。

(Wikipediaより)

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◎加藤製作所
  http://www.kato-works.co.jp/

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▼dd51de10さんの動画より

こちらは、加藤製作所の機関車 DB1形 (8t)

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加藤製作所の機関車に出合える場所

足尾歴史館

羅須地人鉄道協会まきば線

大井川鐵道 川根両国車両区

王滝森林鉄道

加悦SL広場

国立科学博物館

… など

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スメル

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スメル

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おもちゃのおびつ

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店舗

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2010.08.28

伊東刃物店

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中華そば屋さん

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中華そば屋さん

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商家

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布団屋

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眼鏡屋

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2010.08.18

旧 茨城交通 ケキ102

茨城県・那珂湊駅にて平成19年8月に撮影

茨城県・那珂湊駅にて平成19年8月に撮影

茨城県・那珂湊駅にて平成19年8月に撮影

茨城県・那珂湊駅にて平成19年8月に撮影

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新潟鉄工にて製造された。
日本のディーゼル機関車としては初期の部類の車両。
軸配置B-B。貴重なロッド駆動式機関車である。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「ケキ102」
  http://www.google.com/...

◎Google検索「ケキ100」
  http://www.google.com/...

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青森県津軽鉄道の名物「ストーブ列車」を牽引している機関車と同型機です。

◎Google検索「ストーブ列車」
  http://www.google.com/...

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鏡山酒造跡

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鏡山酒造跡

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土金

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看板建築 横

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看板建築 横

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2010.08.17

火星にある層状の丘

マーズ・グローバル・サーベイヤーによる撮影

© MSSS, JPL, NASA

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薄明光線

アメリカ合衆国 ミシガン湖上空にて

© Kurt Voigts

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Selfpitter 100817

【鉄道】

よーし、100系がどんどん原色に戻ってきた。
http://railf.jp/news/...

秋には久々に上毛へ行ってデキに会いたい。
http://railf.jp/news/...

紙製で「アクセス特急とは・・」 ^^
http://railf.jp/news/...

久々にピカピカの国鉄特急色を見た気がする。
http://railf.jp/news/...

キハ11形8連とは‥ある意味、花火並に迫力あったかも。(笑)
http://railf.jp/news/...

なんだかんだ、まだまだボンネットは活躍しているね。
http://railf.jp/news/...


【話題】

へぇ~、ドラえもんのどら焼きって、ココがモデルなんだ。
http://blog.goo.ne.jp/...

へび玉って、子供の頃、ゴミかと思って捨ててた。(笑)
http://portal.nifty.com/...

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2010.08.16

蔵のある家

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蔵のある家

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肉の十一屋

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掲示物

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シャッター

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愛媛・上分西遺跡 銅鐸が愛媛県内で初出土

四国中央市教育委員会は5日、同市内で
発掘調査をしていた「上分(かみぶん ) 西遺跡」(同市上分町) から、
古代の青銅器の一種・銅鐸(どうたく) の一部が出土したと発表した。
銅鐸の出土は、県内で初めてという。

出土したのは、弥生時代中期(2200~2千年前) に
製造されたとみられる「扁平鈕式(へんぺいちゅうしき) 銅鐸」 の
鈕と呼ばれる半円形のつり手部分。
青銅製で高さ8センチ、幅13・5センチ、厚さ3~5ミリで
直径1・5センチほどの穴が開けてある。
重さは約270グラムで、同時期の銅鐸に
特徴的な渦巻き紋やノコギリの歯のような
鋸歯(きょし) 紋が描かれている。
見つかっていない本体部分を含めると約40センチの長さになるとみられる。

銅鐸は、6月下旬に作業員が、直径約20センチ、
深さ約20センチの穴の中から見付けた。
断面の状態などから、意図的に鈕だけ切り離して埋めたらしい。

同遺跡は国道11号バイパス建設のために、
2002~07年にかけて
県埋蔵文化財調査センター(松山市) が第1次調査。
今回、国道に面した約7千平方メートルの敷地に
店舗ができることになったため、市教委が第2次調査として
4月から今月中旬までの予定で約1400平方メートルを発掘している。

同市教委文化図書課の中勇樹さんは
「銅鐸は、近畿を中心に多数見付かっており、
四国でも愛媛以外の3県では出土していた。
畿内を中心とした銅鐸分布圏の再評価につながる発見」と話している。

◎朝日新聞 2010年8月7日
  http://mytown.asahi.com/...

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奈良・中西遺跡 埋没林と水田跡が出土

奈良県御所市の中西遺跡で、
弥生時代前期(約2400年前)の大規模な埋没林と
水田跡が見つかり、奈良県立橿原考古学研究所が4日、発表した。
火で焦がしながら石(せき)斧(ふ)で
伐採した痕跡が残る切り株も初めて確認されるなど、
当時の生活を生々しく伝える貴重な発見。
橿考研は「森林と水田が同時に、
かつこれだけ大規模に見つかるのは全国で初めて。
弥生時代の集落の周辺に広がる景観のモデルになる」としている。

見つかったのは森林域約3千平方メートル、
水田域約1700平方メートル。
洪水による砂により厚さ1~1・5メートルが「真空パック」され、
埋没した時点の状況をそのまま残している。

森林域では樹木約200本が見つかり、うち186本の樹種を確認。
多い順にヤマグワ44本▽ツバキ39本▽カエデ21本
▽イヌガヤ12本▽コクサギ10本▽オニグルミ、カシ、エノキ各7本など
22種以上あり、食用の木の実が成る樹種が多い。
人為的に割られたクルミの殻も見つかった。

伐採痕のある切り株はエノキで直径約1メートル、高さ約80センチ。
削りやすくするため幹の繊維を燃やしながら石斧で切り倒したとみられる。
周辺では弥生土器片やサヌカイト片(石器の破片)、
人の足跡なども見つかり、木陰で活動していた様子がうかがえる。

◎産経新聞 2010年8月4日
  http://sankei.jp.msn.com/...

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新潟・山元遺跡 最北の青銅器出土

日本海東北道の延伸工事に伴う試掘調査で発見された
村上市下助渕(しもすけぶち)の山元遺跡で、
弥生時代後期(2~3世紀)の青銅器が出土し、
24日、報道陣に公開された。
村上市教委によると、出土した青銅器は「筒形銅製品」と呼ばれ、
全国で9例目だが、最北の出土例になる。

山元遺跡は弥生時代の高地性環濠(かんごう)集落。
09年9~11月に村上市教委が行った調査で、
「土坑墓(どこうぼ)」という共同墓地から
青銅器の破片二つが見つかった。
調査に携わってきた明治大文学部の石川日出志教授(考古学)によると、
この二つは同一個体の破片で、類似例などから長さ約10センチ、
直径約2センチの筒状のものであると推測されるという。
用途は不明だが、儀礼の際などに
音響道具として利用されていた可能性が考えられるという。

山元遺跡では、北海道系の「続縄文土器」も1点出土しており、
石川教授は「(青銅器の)西の文化と北の文化の人々が、
ここで道具交換などの交渉を行っていたことを示すものと考えられ、
大変意義深い」と話している。

◎毎日新聞 2010年7月25日
  http://mainichi.jp/...

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2010.08.09

長崎平和宣言

8月9日は、長崎に原子爆弾が投下された日です。
平和公園で「原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」がありました。
長崎市長による“長崎平和宣言”の全文を紹介しておきたいと思います。

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▼2010年 長崎市長 田上富久 「長崎平和宣言」

 被爆者の方々の歌声で、今年の平和祈念式典は始まりました。
 「あの日を二度と繰り返してはならない」という強い願いがこもった歌声でした。
 1945年8月9日午前11時2分、アメリカの爆撃機が投下した一発の原子爆弾で、長崎の街は、一瞬のうちに壊滅しました。すさまじい熱線と爆風と放射線、そして、燃え続ける炎……。7万4千人の尊い命が奪われ、かろうじて死を免れた人びとの心と体にも、深い傷が刻みこまれました。
 あの日から65年、「核兵器のない世界」への道を一瞬もあきらめることなく歩みつづけ、精一杯歌う被爆者の姿に、私は人間の希望を感じます。

 核保有国の指導者の皆さん、「核兵器のない世界」への努力を踏みにじらないでください。
 今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議では、当初、期限を定めた核軍縮への具体的な道筋が議長から提案されました。この提案を核兵器をもたない国々は広く支持しました。世界中からニューヨークに集まったNGOや、私たち被爆地の市民の期待も高まったのです。
 その議長案をアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の核保有国の政府代表は退けてしまいました。核保有国が核軍縮に誠実に取り組まなければ、それに反発して、新たな核保有国が現れて、世界は逆に核拡散の危機に直面することになります。NPT体制は核兵器保有国を増やさないための最低限のルールとしてしっかりと守っていく必要があります。
 核兵器廃絶へ向けて前進させるために、私たちは、さらに新しい条約が必要と考えます。潘基文国連事務総長はすでに国連加盟国に「核兵器禁止条約」の検討を始めるように呼びかけており、NPT再検討会議でも多くの国がその可能性に言及しました。すべての国に、核兵器の製造、保有、使用などのいっさいを平等に禁止する「核兵器禁止条約」を私たち被爆地も強く支持します。

 長崎と広島はこれまで手を携えて、原子爆弾の惨状を世界に伝え、核兵器廃絶を求めてきました。被爆国である日本政府も、非核三原則を国是とすることで非核の立場を明確に示してきたはずです。しかし、被爆から65年が過ぎた今年、政府は「核密約」の存在をあきらかにしました。非核三原則を形骸化してきた過去の政府の対応に、私たちは強い不信を抱いています。さらに最近、NPT未加盟の核保有国であるインドとの原子力協定の交渉を政府は進めています。これは、被爆国自らNPT体制を空洞化させるものであり、到底、容認できません。
 日本政府は、なによりもまず、国民の信頼を回復するために、非核三原則の法制化に着手すべきです。また、核の傘に頼らない安全保障の実現のために、日本と韓国、北朝鮮の非核化を目指すべきです。「北東アジア非核兵器地帯」構想を提案し、被爆国として、国際社会で独自のリーダーシップを発揮してください。
 NPT再検討会議において、日本政府はロシアなど41か国とともに「核不拡散・軍縮教育に関する共同声明」を発表しました。私たちはそれに賛同すると同時に、日本政府が世界の若い世代に向けて核不拡散・軍縮教育を広げていくことを期待します。長崎には原子爆弾の記憶と爪あとが今なお残っています。心と体の痛みをこらえつつ、自らの体験を未来のために語ることを使命と考える被爆者がいます。被爆体験はないけれども、被爆者たちの思いを受け継ぎ、平和のために行動する市民や若者たちもいます。長崎は核不拡散・軍縮教育に被爆地として貢献していきます。

 世界の皆さん、不信と脅威に満ちた「核兵器のある世界」か、信頼と協力にもとづく「核兵器のない世界」か、それを選ぶのは私たちです。私たちには、子供たちのために、核兵器に脅かされることのない未来をつくりだしていく責任があります。一人ひとりは弱い小さな存在であっても、手をとりあうことにより、政府を動かし、新しい歴史をつくる力になれます。私たちの意志を明確に政府に伝えていきましょう。
 世界には核兵器廃絶に向けた平和の取り組みを続けている多くの人々がいます。長崎市はこうした人々と連携し、被爆地と心をひとつにした地球規模の平和市民ネットワークをはりめぐらせていきます。

 被爆者の平均年齢は76歳を越え、この式典に参列できる被爆者の方々も、少なくなりました。国内外の高齢化する被爆者救済の立場から、さらなる援護を急ぐよう日本政府に求めます。
 原子爆弾で亡くなられた方々に、心から哀悼の意を捧げ、世界から核兵器がなくなる日まで、広島市とともに最大限の努力を続けていくことを宣言します。

続きを読む "長崎平和宣言"

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2010.08.06

原爆の日 - 広島

8月6日は、人類史上最初の原子爆弾が広島に投下された日です。
原爆投下から今年で65年が経過しました。

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広島被爆地

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被爆建物 - 原爆ドーム

◎Google検索「原爆ドーム」
  http://www.google.com/...

◎kizasi検索「原爆ドーム」
  http://kizasi.jp/...

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被爆建物 - 旧広島文理科大学

◎被爆建物 刻まれた記憶 ~ 被爆60年 2005年NHK広島放送局
  http://www.nhk.or.jp/hiroshima/...

◎arch-hiroshima 広島の建築 旧広島文理科大学本館
  http://www.arch-hiroshima.net/arch-hiroshima/...

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被爆建物 - 日本赤十字社広島病院

◎広島赤十字・原爆病院
  http://www.hiroshima-med.jrc.or.jp/

◎hiroshima nisseki hospital - Oct.1945 Hiroshima
  http://www.peace-museum.org/...

◎2bx26 広島赤十字病院原爆殉職職員慰霊碑
  http://yutaka901.web.infoseek.co.jp/...



▼以下、2010年の平和宣言等です。

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■広島市長 秋葉忠利 「広島平和宣言」

 「ああ やれんのう、こがあな辛(つら)い目に、なんで遭わにゃあ いけんのかいのう」―――65年前のこの日、ようやくにして生き永らえた被爆者、そして非業の最期を迎えられた多くの御霊(みたま)と共に、改めて「こがあな いびせえこたあ、ほかの誰(だれ)にも あっちゃあいけん」と決意を新たにする8月6日を迎えました。

 ヒロシマは、被爆者と市民の力で、また国の内外からの支援により美しい都市として復興し、今や「世界のモデル都市」を、そしてオリンピックの招致を目指しています。地獄の苦悩を乗り越え、平和を愛する諸国民に期待しつつ被爆者が発してきたメッセージは、平和憲法の礎であり、世界の行く手を照らしています。

 今年5月に開かれた核不拡散条約再検討会議の成果がその証拠です。全会一致で採択された最終文書には、核兵器廃絶を求める全(すべ)ての締約国の意向を尊重すること、市民社会の声に耳を傾けること、大多数の締約国が期限を区切った核兵器廃絶の取組に賛成していること、核兵器禁止条約を含め新たな法的枠組みの必要なこと等が盛り込まれ、これまでの広島市・長崎市そして、加盟都市が4000を超えた平和市長会議、さらに「ヒロシマ・ナガサキ議定書」に賛同した国内3分の2にも上る自治体の主張こそ、未来を拓(ひら)くために必要であることが確認されました。

 核兵器のない未来を願う市民社会の声、良心の叫びが国連に届いたのは、今回、国連事務総長としてこの式典に初めて参列して下さっている潘基文閣下のリーダーシップの成せる業ですし、オバマ大統領率いる米国連邦政府や1200もの都市が加盟する全米市長会議も、大きな影響を与えました。

 また、この式典には、70か国以上の政府代表、さらに国際機関の代表、NGOや市民代表が、被爆者やその家族・遺族そして広島市民の気持ちを汲(く)み、参列されています。核保有国としては、これまでロシア、中国等が参列されましたが、今回初めて米国大使や英仏の代表が参列されています。

 このように、核兵器廃絶の緊急性は世界に浸透し始めており、大多数の世界市民の声が国際社会を動かす最大の力になりつつあります。

 こうした絶好の機会を捉(とら)え、核兵器のない世界を実現するために必要なのは、被爆者の本願をそのまま世界に伝え、被爆者の魂と世界との距離を縮めることです。核兵器廃絶の緊急性に気付かず、人類滅亡が回避されたのは私たちが賢かったからではなく、運が良かっただけだという事実に目を瞑(つぶ)っている人もまだ多いからです。

 今こそ、日本国政府の出番です。「核兵器廃絶に向けて先頭に立」つために、まずは、非核三原則の法制化と「核の傘」からの離脱、そして「黒い雨降雨地域」の拡大、並びに高齢化した世界全(すべ)ての被爆者に肌理(きめ)細かく優しい援護策を実現すべきです。

 また、内閣総理大臣が、被爆者の願いを真摯(しんし)に受け止め自ら行動してこそ、「核兵器ゼロ」の世界を創(つく)り出し、「ゼロ(0)の発見」に匹敵する人類の新たな一頁を2020年に開くことが可能になります。核保有国の首脳に核兵器廃絶の緊急性を訴え核兵器禁止条約締結の音頭を取る、全(すべ)ての国に核兵器等軍事関連予算の削減を求める等、選択肢は無限です。

 私たち市民や都市も行動します。志を同じくする国々、NGO、国連等と協力し、先月末に開催した「2020核廃絶広島会議」で採択した「ヒロシマアピール」に沿って、2020年までの核兵器廃絶のため更に大きなうねりを創(つく)ります。

 最後に、被爆65周年の本日、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げつつ、世界で最も我慢強き人々、すなわち被爆者に、これ以上の忍耐を強いてはならないこと、そして、全(すべ)ての被爆者が「生きていて良かった」と心から喜べる、核兵器のない世界を一日も早く実現することこそ、私たち人類に課せられ、死力を尽して遂行しなくてはならない責務であることをここに宣言します。

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■こども代表 「平和への誓い」

 ぼくの大好きな街、広島。緑いっぱいの美しい街です。65年前の8月6日、午前8時15分。人類史上初めて、原子爆弾が広島に落とされました。

一瞬のうちに奪われた尊い命。変わりはてた家族の姿。原子爆弾は人々が築きあげた歴史や文化をも壊し、広島の街を何もかも真っ黒にしてしまったのです。

 しかし、焼け野原の中で、アオギリやニワウルシの木は、緑の芽を出しました。人々も、街の復興を信じて、希望という種をこの地に蒔きました。傷つきながらも力いっぱい生き、広島の街をよみがえらせてくださった多くの方々に、ぼくたちは深く感謝します。

 今、世界は、深刻な問題を抱えています。紛争や貧困のために笑顔を失った子どもたちもたくさんいます。私たちの身近でも、いじめや暴力など、悲しい出来事が起こっています。これらの問題を解決しない限り、私たちの地球に明るい未来はありません。

 どうしたら争いがなくなるのでしょうか。どうしたらみんなが笑顔になれるのでしょうか。ヒロシマに生きるぼくたちの使命は、過去の悲劇から学んだことを、世界中の人々に伝えていくことです。悲しい過去を変えることはできません。しかし、過去を学び、強い願いをもって、一人一人が行動すれば、未来を平和に導くことができるはずです。

 次は、ぼくたちの番です。この地球を笑顔でいっぱいにするために、ヒロシマの願いを、世界へ、未来へ、伝えていくことを誓います。

 (こども代表)
  広島市立袋町小学校6年 高松樹南
  広島市立古田台小学校6年 横林和宏

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■潘基文国連事務総長 Message

 私たちは今、この神聖な場所に身を置き、自らの目で見て、感じ、吸収し、そして深く考えます。

 私は初の国連事務総長として、この平和記念式典に参加できたことを光栄に思います。そして今、深い感動に包まれています。

 広島と長崎に原爆が投下された当時、私はまだ1歳でした。私がここで何が起きたのかを十分に把握したのは、しばらく後になってからのことでした。

 私は少年時代を朝鮮戦争のさなかに過ごしました。

 炎上する故郷の村を後にして、泥道を山中へと逃れたことが、私にとって最初の記憶の一つとして残っています。

 多くの命が失われ、家族が引き裂かれ……、後には大きな悲しみが残されました。

 それ以来、私は一生を平和のために捧げてきました。

 私が今日、ここにいるのもそのためです。

 私は世界平和のため、広島に参りました。(この一文は日本語)

 私たちは65年前に命を失った人々、そして、その一生を永遠に変えられてしまったさらに多くの人々に対して哀悼と敬意の念を表するため、一堂に会しているのです。

 命は短くとも、記憶は長く残ります。

 皆さんの多くにとって、あの日はまるで、空を焼き尽くした閃光のように鮮明に、また、その後に降り注いだ黒い雨のように暗く、記憶に残り続けていると思います。

 私は皆さんに、希望のメッセージを送りたいと思います。

 より平和な世界を手にすることは可能です。

 皆さんの力は、それを実現する助けとなります。

 被爆者の皆さん、あなた方の勇気で、私たちは奮い立つことができました。

 次の世代を担う皆さん、あなた方はよりよい明日の実現に努めています。

 皆さんは力を合わせ、広島を平和の「震源地」としてきました。

 私たちはともに、グラウンド・ゼロ(爆心地)から「グローバル・ゼロ」(大量破壊兵器のない世界)を目指す旅を続けています。

 それ以外に、世界をより安全にするための分別ある道はありません。なぜなら、核兵器が存在する限り、私たちは核の影に怯えながら暮らすことになるからです。

 そして、私が核軍縮と核不拡散を最優先課題に掲げ、5項目提案を出した理由もそこにあります。

 私たちの力を合わせる時がやって来たのです。

 私たちには至るところに新しい友や同志がいます。

 最も強大な国々もリーダーシップを発揮し始めました。国連安全保障理事会でも、新たな取り組みが生まれています。また、市民社会にも新たな活力が見られます。

 ロシアと米国は新しい戦略兵器削減条約に合意しました。

 私たちはワシントンでの核セキュリティーサミットで重要な進展を遂げることができました。その成果を踏まえ、2012年には次回のサミットが韓国で開催される予定です。

 私たちはこの勢いを保たなければなりません。

 私は9月にニューヨークで軍縮会議を招集する予定です。

 そのためには、核軍縮に向けた交渉を推し進めなければなりません。

 それは、包括的核実験の禁止に向けた交渉です。

 また、兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)に向けた交渉でもあります。

 また、被爆者の証言を世界の主要言語に翻訳するなど、学校での軍縮教育も必要です。

 地位や名声に値するのは核兵器を持つ者ではなく、これを拒む者であるという基本的な真実を、私たちは教えなければならないのです。

 皆さん、

 65年前、この地には地獄の炎が降り注ぎました。

 今日、ここ平和記念公園には、一つのともしびが灯っています。

 それは平和の灯、すなわち、核兵器が一つ残らずなくなるまで消えることのない炎です。

 私たちはともに、自分たちが生きている間、そして被爆者の方々が生きている間に、その日を実現できるよう努めようではありませんか。

 そしてともに、広島の炎を消しましょう。

 その炎を希望の光へと変えようではありませんか。

 核兵器のない世界という私たちの夢を実現しましょう。私たちの子どもたちや、その後のすべての人々が自由で、安全で、平和に暮らせるために。 

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■内閣総理大臣 菅直人 あいさつ

 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。

 そして今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からお見舞いを申し上げます。

 核兵器の惨禍を、人類は二度と繰り返してはなりません。唯一の戦争被爆国である我が国は、「核兵器のない世界」の実現に向けて先頭に立って行動する道義的責任を有していると確信します。私は、様々な機会をとらえ、核兵器保有国を始めとする各国首脳に、核軍縮・不拡散の重要性を訴えてまいります。また、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて、日本国憲法を遵守(じゅんしゅ)し、非核三原則を堅持することを誓います。

 昨年4月のオバマ大統領のプラハ演説を契機に、核軍縮・不拡散に向けた動きが活発化してきています。

 こうした中、本日の式典には、潘基文国連事務総長、さらにはルース駐日米国大使を始め70か国を超える国の代表の方々が出席されています。心より歓迎いたします。日本国民の、二度と核による被害をもたらさないで欲しいという思いを受けとめていただくよう祈念をいたします。

 核兵器廃絶を訴えるNGOである「平和市長会議」に加盟する都市は、広島や長崎を筆頭に、世界で4000を超えています。こうしたNGOや市民を母体とする活動は、世界的な核軍縮の機運を高めていく上で、重要な役割を果たしています。

 5月の核兵器不拡散条約運用検討会議の際には、100人近くの被爆者の方々がニューヨークに赴き、会場や街頭で、核兵器被害の悲惨さを訴え、秋葉広島市長も現地で尽力をされました。この会議が最終文書採択という成果を収めた背景には、こうした被爆者の方々とそれを支援するNGOや市民の方々の貢献がありました。

 今後は、被爆者の方々が例えば「非核特使」として日本を代表して、様々な国際的な場面で、核兵器使用の悲惨さや非人道性、平和の大切さを世界に発信していただけるようにいたしたいと考えています。

 政府としても、将来を見据えた具体的な核軍縮・不拡散の措置を積極的に提案し、国際社会の合意形成に貢献していく決意であります。

 政府は、被爆により苦しんでおられる方々に、これまで保健、医療及び福祉にわたる総合的な援護策を講じてまいりました。

 長く続いてきた原爆症認定集団訴訟については、昨年8月に終結に関する確認書を交わしました。この確認書に基づき、控訴の取り下げや基金の創設などを行っております。

 一方、原爆症の認定を待っておられる方々に関しては、一日でも早く認定すべく最善を尽くしたいと思っております。さらに、法律改正による原爆症認定制度の見直しについて検討を進めてまいります。

 また、母親の胎内で被爆された方々やご家族のご要望を踏まえ、こうした方々への支援体制も強化します。

 結びに、犠牲となられた方々のご冥福と、被爆された方々並びにご遺族の皆様の今後のご多幸を心からお祈りし、併せて参列者並びに広島市民の皆様のご健勝を祈念申し上げ、私のあいさつといたします。

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2010.08.01

ED500形 501 大井川鐵道 (旧・大阪窯業セメント いぶき)

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影

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かつて大阪窯業セメント(大阪セメントを経て現、住友大阪セメント)が
伊吹工場専用線で使用していた直流用電気機関車。
同専用線廃止後は大井川鉄道(現、大井川鐵道)に譲渡され、
同社ED500形電気機関車となっている。

1956年に日立製作所で2両が製造された50t箱形機で、
近江長岡駅から分岐していた伊吹工場専用線で使用されていた。
形式名の「いぶき」は同専用線の名の由来になった
伊吹山から取られたもので、
車両中央に大阪セメントの「ライオン印」が掲げられていた。

同線のセメント輸送が1999年6月末限りで
トラックに切り替えられ廃線となったため
大井川鉄道に譲渡され、ED500形ED501・502となった。

2000年2月22日に竣工し、3月18日から運転を開始したが、
2005年開港の中部国際空港埋立土砂輸送のため
急遽三岐鉄道へ異動し、501は貸し出し、502は同社へ売却となり、
同年5月18日に三岐線での運用を開始した。

中部国際空港埋立土砂輸送が終了した
2002年10月29日付けで廃車となり、
2003年3月18日に501は大井川鐵道に返却され、
502は西藤原駅構内で静態保存された。
501は返却の際、「ライオン印」と車体裾の白帯が省略されている。

(Wikipediaより)

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◎三岐鉄道 ウィステリア鉄道に保存されている いぶき502号機
  http://www.sangirail.co.jp/contents/...

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ヨシダデンキ

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突き出し灯のある建物

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肉の東屋

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靴のマルデン

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川越水族館

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