ノルウェイ上空のオーロラ

© Ole Christian Salomonsen
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ビーナス・エクスプレス号より撮影
© ESA, Venus Express, VIRTIS, INAF-IASF, Obs. de Paris-LESIA
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古墳時代前期(3世紀後半)の前方後方墳、
元稲荷古墳(向日市向日町)で第7次発掘調査を進めていた
向日市埋蔵文化財センターは22日、
葺(ふ)き石のある西側くびれ部の盛り土基礎部分で、
堅固に築くため改良土を盛る工法
「基礎地業(ちぎょう)」が確認されたと発表した。
元稲荷古墳は全長約92メートル、
後方部の最大幅約51メートルの大形前方後方墳。
西側くびれ部約100平方メートルを調査し、
巨大な石壇のような作りだったと推定される
後方部と前方部の墳丘の基底部から第2段斜面を確認した。
葺き石は卵大の小さな石が多く、
斜面に石を直角に当てて積み重ねる「小口積み」を採用。
強度を変えながら盛土を行うなど高度な構築技術が伺えるという。
同センターでは「最古級の前方後方墳の造営方法が
詳しく分かったのは初めて。
大和の大王墓級の古墳で確立した技術が用いられており、
有力な首長が埋葬されていたのでは」としている。
◎毎日新聞 2010年9月23日
http://mainichi.jp/...
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愛知県・豊橋駅にて平成21年8月に撮影

愛知県・豊橋駅にて平成21年8月に撮影
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780形は、1997年(平成9年)から2005年(平成17年)まで
名古屋鉄道(名鉄)で使用されていた路面電車車両である。
名鉄での使用後に豊橋鉄道に譲渡された。
名鉄において岐阜市内線及び揖斐線近代化の一環として
1997年(平成9年)から1998年(平成10年)にかけて
日本車輌製造にて7両が製造された両運転台車両。
これにより揖斐線専用の鉄道車両が大幅に淘汰された。
VVVFインバータ制御(東洋電機製)・
電気指令式ブレーキ・シングルアーム式パンタグラフなどの
新鋭車の装備を多く有している。
運転台は横軸マスコンが採用されている。
単行運転中心の運用だったが、ラッシュ時には
最大3両(岐阜市内線では2両)連結の姿を見ることもあった。
2005年(平成17年)4月1日の名鉄岐阜600V線区
(岐阜市内線・揖斐線・美濃町線・田神線)の廃止により、
名古屋鉄道において廃車となった。
豊橋鉄道東田本線へは、7両全車が名古屋鉄道より譲渡され、
2005年5月頃にまずモ781 - 783が、
モ800形電車1両とともに豊橋鉄道赤岩口工場に入庫した。
その後、2005年10月に
残りのモ784 - 787の4両も赤岩口工場に入庫している。
営業運転開始にあたっては豊橋鉄道仕様のワンマン設備を実装・
自動連結器の撤去・急カーブ対応のための床下機器位置変更
などの改造が豊橋鉄道赤岩口工場にて実施され、
同年8月2日より第1陣として781の運用が開始され、
2006年3月までに全7両が運用についている。
なお、3つある扉のうち、進行方向向かって運転席右側の扉は
締め切り扱いで、「締切」とシールが貼られているが、
競輪場前電停の安全地帯新設により、赤岩口方のものは、
競輪場前電停停車時のみ乗車口として使用されるようになった。
車体カラーは名鉄時代はアイボリーを基調に
スカーレットとグリーンを配した塗装だったが、
豊橋鉄道では置き換え対象である
モ3100形を受け継いで(一部を除く)全面広告塗装となっている。
現在、豊橋鉄道東田本線の主力車両として活躍している。
(Wikipediaより)
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▼SawadaStudioさんの動画より 名鉄時代
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長野県・長野駅にて撮影
1965年7月から9月にかけて落成した1次量産車で、
奥羽本線板谷峠対応用に製造されたグループ。
外観上の特徴は、尾灯が小型の内はめ式で、
避雷器はLA15形をパンタグラフ前方に設置している。
(Wikipediaより)
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長野県・辰野駅にて撮影

新潟県・妙高高原駅にて昭和63年8月15日に撮影
1966年3月から6月にかけて落成した2次量産車で、
中央東線輸送力増強用および
中央西線名古屋 - 瑞浪間電化開業用の名目で
製造されたグループ。
貨物専用機として製造されたためにEGは非搭載で、
相当する重量の死重を搭載した。
外観的には、尾灯が大型化された。
(Wikipediaより)
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1970年1月から4月にかけて落成した4次量産車で、
31・32号機は新東京国際空港建設資材輸送用の名目で、
33~36号機は中央東線・飯田線・身延線
貨物列車輸送力増強用の名目でそれぞれ製造された。
名目はいずれも貨物列車に関連するが、
旅客列車牽引にも対応するためにEGを搭載している。
本グループから、室内灯が白熱電球から蛍光灯に変更され、
EB・TE装置が設置された。
(Wikipediaより)
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長野県・長野駅にて撮影
1971年3月から5月にかけて落成した5次量産車で、
飯田線・身延線等貨物列車輸送力増強用ならびに
中央東線電気機関車新性能化の名目で製造された。
旅客列車牽引にも対応するためにEGを搭載している。
(Wikipediaより)
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群馬県・高崎第二機関区にて昭和62年8月3日に撮影

群馬県・高崎第二機関区にて昭和62年8月3日に撮影
1000番台は1970年代末期に国鉄が最後に開発した
直流電気機関車である。
上越線や高崎線で当時使われていた
EF58形・EF15形・EF16形の置き換え用に1980年より投入された。
性能は基本番台とほぼ同様であるが、
各部仕様は基礎から再検討がなされたため、
基本番台との差異は大きい。
計画にあっては形式の変更もあり得たが、
労働組合との間で新型機関車導入に関わる
難しい折衝を行う必要があるので
在来機のマイナーチェンジ(新規番台区分)扱いとした。
高崎車両センターに配置されている1001号機は、
1987年3月にお座敷客車「くつろぎ」をはじめとする
イベント列車牽引ならびに、EF55形1号機の補機として
ぶどう色1色に白帯を配した塗装に変更された。
同機は主に高崎・上越線の
工事列車・臨時列車で使用されているほか、
団体臨時列車の牽引などで
東海道・中央・信越・伊東線・日光線などに入線した事例もある。
また、同センターに配置されている
D51形498号蒸気機関車の無火回送の
牽引仕業に充てられる場合もある。
(Wikipediaより)
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EF64形は、日本国有鉄道(国鉄)が1964年に開発した、
勾配線区用向け直流電気機関車である。
1960年に国鉄の大型電気機関車としては
最初の近代化形であるEF60形が完成して以後、
本線の列車牽引用としては東海道・山陽本線向けのEF61形と
信越本線用のEF62形・EF63形が開発されていた。
EF60形・EF61形は平坦路線牽引用、
またEF62形は信越本線横川~軽井沢間の
国鉄最急勾配に対応した本務機、
EF63形は碓氷峠用補機という特殊設計となっており、
他の一般勾配路線では、EF62形・EF63形が備える
急勾配用の装置は必要としなかった。
しかし一方で、奥羽本線の板谷峠越えや中央本線など、
勾配区間に対応する新型機関車が必要な直流電化路線も多く、
これに対応するために開発され、
1964年に登場したのが本形式である。
1964年から1976年の間に基本番台(1~79)が79両、
1980年から1982年の間に大幅な設計変更を行った
1000番台(1001~1053)が53両の計132両が製造された。
客車列車に使用するため電気暖房装置(EG)を搭載した車両と、
未搭載の貨物列車専用機が存在する。
重連運転を行うことからEF62形・EF63形と同様の
前面貫通形となっているが、
前面窓部分の傾斜をなくしているため
EF62形・EF63形とは若干印象の異なる前面形状となった。
また本形式では車体塗装を茶色ではなく、
青15号に前面下半部のみクリーム1号の新塗装としている。
従来は寝台特急列車牽引用のEF60形500番台のみが
青色とクリーム色のツートンカラーであったが、
本形式以降、直流新形電気機関車は
すべてこの塗装が採用されることとなった。
(Wikipediaより)
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神仙思想に基づく祭祀(さいし)に使われたとみられる
大量の桃の種が出土した桜井市の纒向(まきむく)遺跡。
今回の調査では、3世紀の遺構、遺物のほかに、
2世紀の銅鐸(どうたく)の破片や、県内では珍しい
5世紀末~6世紀初めの豪族居館の一部となる
石張り溝も見つかっており、同遺跡の変遷をたどれる
重要な成果が得られた。
銅鐸の破片(長さ3・7センチ、幅3・2センチ、厚さ3ミリ)は、
復元すれば高さ約1メートルになると推定される。
1972年、今回の調査地の西約100メートルで行われた調査でも
銅鐸の破片が見つかっており、大きさなどから同一個体の可能性がある。
当時、調査した石野博信・兵庫県立考古博物館長は
「王宮とみられる大型建物を建てる際、銅鐸を壊す祭祀をした。
その建物を壊した後、桃を使った祭祀をしたのだろう。
王宮の出現と終わりの儀礼にかかわるものが見つかったのは、
大変意義がある」と話している。
また、同市内の脇本遺跡や大福遺跡の
3世紀初めの遺構で出土した銅鐸の破片などから、
弥生時代の祭祀で使われた銅鐸を壊し、
他の青銅器にリサイクルしたことが考えられており、
今回も同様とみられる。
一方、調査地西側で見つかった石張り溝
(幅4・5メートル、残存の深さ0・8メートル)は、
溝が切れた場所(長さ8メートル)を挟んで北側に16メートル、
南側に6メートル延びていた。
溝が切れた部分が出入り口で、
地形から東に遺構が広がるとみられる。
近くに同時期の古墳があり、その被葬者が住んでいた可能性がある。
橋本輝彦・市教委文化財課係長は
「居館と墓がセットで考えられるようになった。
纒向遺跡一帯を根拠にした豪族はわかっていないが、
物部氏など大豪族に次ぐクラスではないか」とみている。
◎読売新聞 2010年9月18日
http://www.yomiuri.co.jp/...
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邪馬台国の有力候補地とされる
奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、
3世紀中頃の穴から桃の種約2000個や
竹製のかご6点などが出土し、市教委が17日、発表した。
桃の種が1か所でこれほど大量に見つかる例はないという。
桃は、古代の中国や日本で不老長寿などの効果があると信じられ、
祭祀(さいし)に使われたとみられる。
同時期に君臨した女王・卑弥呼との関連を指摘する意見もある。
桃の種は、昨年11月に出土した宮殿の可能性がある
大型建物跡の約5メートル南の穴
(南北4・3メートル、東西2・2メートル、深さ0・8メートル)から出土した。
当時の桃は現在と違う品種で、ピンポン球ほどの大きさ。
一部に果肉が残ったものや未成熟のものもあることから、
食用ではなく、実をかごなどに入れて供えたらしい。
また同時に、祭祀用の剣形木製品や
黒漆塗りの弓、ミニチュア土器なども出土。
木製品や土器はほとんどが壊されており、
祭祀後に捨てられたとみられる。
桃は中国が原産で日本では弥生時代に広まった。
古代中国の神仙思想では、不老長寿や
魔よけに効く特別な力があるといわれ、
漢代に信仰を集めた女性の仙人・西王母(せいおうぼ)も
不老長寿の仙桃(せんとう)を持ったとされる。
3世紀末の魏志倭人伝には、卑弥呼が「鬼道」で
人々の心をとらえたとの記述があり、
鬼道が神仙思想を指すとの見方もある。
一方、今回の調査では大型建物の南を区画する柵の跡が
東西28メートルにわたって見つかり、
前回調査分を含めると34メートルに達することがわかった。
桃の種が出土した穴は、柵跡を一部壊しており、
大型建物の廃絶後に掘られたらしい。
辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話
「桃は神仙思想の象徴。圧倒的な量から、
山のように積み上げて国家的な祭儀を行ったことをうかがわせる」
◎読売新聞 2010年9月18日
http://osaka.yomiuri.co.jp/...
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庄原市宮内町の佐田峠(さただお)墳墓群を
発掘調査している広島大と市教委は17日、
昨年度の調査で方形の墳丘墓としていた墓が、
弥生時代中期終わりごろの四隅突出型墳丘墓だったと発表した。
四隅突出型は四隅が突き出した形が特徴。
後に突出部が大きくなり、前方後円墳に発達したとする説もある。
調査している墓は縦4・5メートル、横6・4メートル。
後に溝を整備し、方形に造り替えた跡がある。
広島大大学院文学研究科の野島永(ひさし)准教授(46)は
「墓の形を後に変えることは、
社会的階層性が複雑化していく過程とみられる」と話している。
◎中國新聞 2010年9月18日
http://www.chugoku-np.co.jp/...
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松本市教育委員会は15日、同市出川町の出川南遺跡で、
弥生時代中期とみられる礫床(れきしょう)木棺墓1基が
出土したと発表した。
県内を中心に出土例がある埋葬法で、
棺の底部に礫(直径10センチほどの石)を敷いてあるのが特徴。
県埋蔵文化財センター(長野市)は
「この地方特有で、全国的には特殊な形式」としている。
市教委によると、見つかった墓は2メートル×1メートル程度で、
底部に多数の礫が敷いてある。
上部に、四角い木の枠を埋めたとみられる穴があり、
穴の中の土から人骨とみられる破片が見つかっている。
同センターによると、同様の墓は4月末現在、
県内10遺跡で91例出土。
市内での出土例は今回で4遺跡目となる。
県外では群馬県の8遺跡で116例見つかっている。
いずれも弥生時代中期から後期にかけてで、
「礫の上に遺体を安置した可能性がある。
墓全体の構造を解明することが今後の課題」としている。
発掘調査は市道の建設工事を前に4月に開始、本年度中に終える。
約2500平方メートルを調査する予定で、
これまでに約千平方メートルを終了。
古墳時代中~後期の竪穴住居跡、
土器を棺にして埋葬したとみられる縄文時代晩期の
土器棺墓なども見つかっている。
◎信州ライブオン(信濃毎日新聞) 2010年9月16日
http://www.shinshu-liveon.jp/...
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上尾市教育委員会(岡野栄二教育長)が発掘調査を進めていた
同市瓦葺の坂上(さかのうえ)遺跡の方形周溝墓から、
約1700年前の鉄剣1点と管玉(くだたま)2点が出土した。
埋葬施設が確認された墓の内部から
鉄剣が出土したのは市内で2例目。
県埋蔵文化財事業団・調査部主査の福田聖(きよし)さんは
「この時期の方形周溝墓は県内で約800件あるが、
鉄剣が出土したのは今回でわずか10例しかない。
鉄剣は当時のステータスで、地域の有力者の墓だと考えられる。
県内の歴史を考える上で貴重な発見だ」と話している。
坂上遺跡は、過去2回の発掘調査が行われ、
縄文時代、弥生時代末から古墳時代初期、平安時代、
中・近世など多くの時代の遺構が確認されている遺跡。
今回の第3次発掘調査では、縄文時代の住居跡や
地面を掘った穴のほか、弥生時代末から古墳時代初めごろの
方形周溝墓、平安時代や江戸時代の堀跡などが確認された。
方形周溝墓からは、遺骨を埋めたと考えられる埋葬施設が確認され、
その内部から鉄剣と管玉が出土した。
鉄剣は長さ約22センチ。管玉は長さ約3センチ。
鉄剣などの鉄製品は、当時共同体の首長が
権力を誇示するために保持していたと考えられている。
坂上遺跡の西側にある尾山台遺跡では、
弥生時代末から古墳時代初頭の住居跡が
約60件発見されていることから、同市教育委員会は
「鉄剣が発見された方形周溝墓は、この集落を治めた
首長クラスの人物の墓である可能性が高い」と推定している。
◎埼玉新聞 2010年9月16日
http://www.saitama-np.co.jp/...
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古墳時代前期前半(3世紀後半~4世紀末)とされる
南部町天万の普段寺1号墳が、1辺13メートルの後方部を持つ
山陰最古の前方後方墳の可能性が強まった。
発掘調査をしている島根大と鳥取大の
合同調査団(団長、大橋泰夫・島根大教授)が
11日午後1時半から現地説明会を開く。
1号墳は1952年、中国製の三角縁神獣鏡(重文)が発見された。
大和政権と盟友関係があった有力首長の墓とみられる。
8月17日から第8次調査がスタート。
標高54メートルの丘陵頂上で、
あいまいだった後方部の方形を確定した。
前方部を含む全長は25メートルと分かったという。
後方部は、何度もあった盗掘で木棺のあった場所が破壊されていたが、
木棺半分が破壊を免れていた。
長さ約1・5メートルが土中に残っていた。
内部は未調査で、副葬品があるかどうか不明という。
丸太材を使った全長約3メートル、
幅約50センチのくり抜き式木棺とみられる。
鳥取大の高田健一准教授によると、
松本1号墳(島根県)が山陰最古の前方後方墳とされてきたが、
普段寺1号墳はわずかに時代がさかのぼるという。
現地は大安寺駐車場の西約200メートルにある。
◎毎日新聞 2010年9月10日
http://mainichi.jp/...
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和歌山市神前の神前遺跡での発掘調査で、
弥生時代前期の水路とみられる溝が発見された。
同時期の溝は県内では珍しく、
調査を担当する県文化財センターは
「遺跡周辺で弥生時代前期から水田稲作が
行われていたことを裏付ける貴重な成果」としている。
県道和歌山橋本線道路改良工事に伴い、
09年度から調査を開始。調査面積約6800平方メートルのうち、
今年度は第2次調査として約5382平方メートルを発掘している。
同センターによると、最長200メートル以上の溝が
7本以上並行して流れており、東側に分岐する溝も見つかった。
幅は約1~1・5メートル、深さは約50~80センチで、
緩やかなV字形をしている。
完全形の弥生土器や、石包丁など稲穂を摘む道具が出土しており、
溝に捨てられたと考えられる。
東側には標高の低い平地が広がり水田だったとみられることから、
同センター埋蔵文化財課の田中元浩技師は
「弥生時代の開始とともに神前遺跡にも稲作が伝わり、
かんがい用の大規模な水路が開削されたことを示している」と説明した。
◎毎日新聞 2010年9月10日
http://mainichi.jp/...
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鳥取市松原にある弥生時代後期初め(約1900年前)の
「松原1号墳丘墓」から、ガラス製の勾(まが)玉や
管玉をつなげた首飾り4点が見つかった。
玉は計521個も出土。
同時期の遺跡から大量のガラスが見つかった例は
これまで九州北部に限られ、
大陸文化が畿内へと波及した流れをたどる手がかりにもなるという。
湖山池の南西岸に近い尾根の先端にある
長方形(東西13・5メートル、南北12メートル)の墳丘墓で、
県道工事に伴って6月から調査。
中央の4か所の埋葬場所から各1点の首飾りが見つかった。
ひもは消失していたが、
いずれも鮮やかな青色の玉が環状に連なっていた。
うち1か所からは、頭部付近と思われる位置で
ビーズ状の小玉約300個がまとまって見つかり、
頭飾りが副葬されていた可能性もあるという。
他の埋葬場所分を含め、出土したガラス製品は
勾玉17個、管玉45個、小玉459個に上った。
また、鉄の刀子(とうす)(短刀)や鏃(やじり)の副葬品もあった。
ガラス製品は、100年ほど下った弥生時代後期の終わり頃には、
京都府北部の丹後地方などで作られるようになったとされる。
弥生時代の遺跡に詳しい「出雲弥生の森博物館」(島根県出雲市)の
渡辺貞幸館長は「弥生時代後期の初めにはガラスの製造技術は
国内にまだなく、本州での大量出土は極めてまれ。
九州北部と畿内の中間に位置する山陰東部に、
大陸とかかわりのある有力者がいたことを示す貴重な資料だ」と
評価している。
◎読売新聞 2010年9月9日
http://osaka.yomiuri.co.jp/...
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2010 ビアフェス横浜 at 横浜港大さん橋ホールにて

厚木ビール HACHY(ハッチー)

横浜ビール ヘーフェヴァイツェン

ノースアイランドビール 南ドイツ・ヘーフェヴァイツェン

箕面ビール 桃のヴァイツェン

志賀高原ビール Miyama Blonde & 山伏 saison one

シャトーカミヤ八戸 なまらう米!!ビール

白雪長寿蔵ビール 幕末のビール復刻版 幸民麦酒

宇奈月ビール 十字峡

サンクトガーレン パイナップルエール

ティー・ワイ・ハーバーブルワリー IPA

よなよなエール インドの青鬼(特別無ろ過)

南信州ビール アップルホップ

ブルーマスター かぼす&ハニー

こぶし花ビール マイボック

ホテルオークラ福岡 ダイコク

日光ビール 日光葵ビール

銀河高原ビール 小麦のビール

プレミアムビール鬼伝説 スイートストロベリー

富士桜高原麦酒 ラオホ

大阪國乃長ビール まりはなブラウン

ブルーマスター あまおうノーブルスイート

ノースアイランドビール IPA

コンペティション受賞者の皆さん
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◎ジャパン・ビア・フェスティバル
http://www.beertaster.org/...
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+ ▼横濱Cheersにて

オリオンビール

城山ブルワリー・こみかんホワイト
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古代「伊都国」の王都があったとされる福岡県糸島市の
三雲・井原遺跡で出土したガラス小玉(弥生時代後期)に、
国内では極めて珍しい黄色と紫色の小玉が
含まれていたことが4日、分かった。
同市教委によると、ガラス小玉は黄色が2004年度、
紫色が06年度の発掘調査で確認された。
黄色は直径約5ミリで、甕棺(かめかん)の中から
青、緑色のガラス玉と一緒に4個が出土した。
紫色は二つの木棺からそれぞれ中国製の銅鏡とともに見つかり、
直径約1ミリの小玉が計185個。
いずれも穴があり、ひもを通して首飾りなどに使ったとみられる。
同市教委は、黄色と紫色の小玉の成分について、
それぞれ福岡市埋蔵文化財センターと
奈良文化財研究所(奈良市)に分析を依頼。
黄色はソーダ石灰ガラスで西アジアから北アフリカ、欧州に分布、
紫色はカリウムを多く含むカリガラスで、
インドから東アジアにかけて分布していることが分かった。
糸島市教委文化課の江崎靖隆主任は
「当時、国内では着色できない色で、
一緒に出土した中国製の銅鏡などと大陸から入ってきたとみられる。
伊都国が大陸と交流する中心地だったことを示している」と話している。
◎西日本新聞 2010年9月5日
http://www.nishinippon.co.jp/...
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呉羽丘陵に位置する富山大杉谷キャンパス(富山市)の
杉谷古墳群6号墳のすそ野から、
大小の石を敷き詰めた「石敷」が見つかった。
石を配した古墳は県内でも珍しく、
発掘作業にあたる同大考古学研究室は
「祭事に使われた可能性もある」という。
長方形の6号墳は縦49メートル、横29メートル程度で、
方墳としては北陸最大。
弥生時代から古墳時代に至る3世紀前半~4世紀の古墳とみられ、
富山平野を治めた王の墓の可能性がある。
石敷が見つかったのは、南側斜面に接するほぼ水平な地面の土中。
地表から30センチほど掘り進んだ層に、
拳大から人頭大の石が石畳のように敷き詰めてあった。
発掘したのは縦3メートル、横1メートル50の広さだが、
掘り進めば南側斜面に沿って30メートルの長さで続く可能性がある。
南側は富山平野に面していることから古墳の正面にあたるとみられ、
同研究室の高橋浩二准教授(40)は
「古墳の豪壮さを示すための飾りか、祭りに使われたかと想像される。
入り口部分に続く道だったかもしれない」としている。
同大は今年から3年計画で調査にあたり、
8月2日~今月10日の日程で発掘作業を続けている。
◎読売新聞 2010年9月3日
http://www.yomiuri.co.jp/...
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京都府埋蔵文化財調査研究センターは2日、
京丹後市大宮町森本の大内北3号墳
(古墳時代前期、4世紀後半〜5世紀初め)で
竪穴式石室や木棺跡、石棺が出土したと発表した。
一つの墳丘に複数の埋葬施設を設ける
弥生時代の埋葬様式を引き継いでいたことを示す貴重な資料という。
同古墳は標高119メートルにある東西24メートル、南北20メートル、
高さ4・5メートルの円墳。
この頂上部(約100平方メートル)から
天井石に覆われた竪穴式石室(長さ2メートル、幅50センチ、高さ30センチ)や
丸太で作るくり抜き式木棺跡(同2・7メートル、同90センチ、同15センチ)のほか、
4基の組み合わせ式石棺など計6基の埋葬施設が出土した。
弥生時代は、一墳墓に複数の埋葬施設を設ける様式が一般的だが、
古墳時代に入ると一墳墓に一埋葬施設のヤマト様式が広がる。
これに対し、丹後は弥生の伝統を受け継いでいたことを示し、
同センターは「ヤマトからの距離が遠く、
政治的影響を受けにくかったのではないか」と推測する。
複数の埋葬施設の出土例は、権現山古墳(久美浜町)に次いで市内で二例目。
大内北古墳の被葬者は、
竪穴式石室から副葬品の短剣と鉄製やりがんなが出土したことから、
竹野川上流のこの地を治めていた有力者の一族という。
◎京都新聞 2010年9月2日
http://www.kyoto-np.co.jp/...
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京都府城陽市の冑山(かぶとやま)遺跡で45年前に見つかった、
人の顔のような形の石が、
弥生時代後期の勾玉(まがたま)作りに
使われた可能性があると31日わかった。
長らく自然石と思われていたが、
市教委の調査で人工的に加工されたと判明し、関係者は驚いている。
石の所持者は城陽市寺田の郷土史家柏井光彦さん(87)。
1965年5月、旦椋(あさくら)神社北東の山砂利採取現場で
多数の石器や埴輪(はにわ)の破片とともに発見し、
これをきっかけに冑山遺跡と冑山古墳群が発掘された。
柏井さんは石器などを市に寄贈したが、
手のひらサイズのこの石は「変わった形の自然石」と
自宅倉庫で保管していた。
今夏、倉庫の整理中、人工的に加工されたのではと気がついた。
市教委に持ち込むと石の中央近くにある
小さな穴2個(直径5~10ミリ、深さ7~10ミリ)が自然にはできず、
側面がなめらかに研がれていると分かった。
弥生時代後期の集落跡である冑山遺跡からは
石器や石斧(せきふ)6点が見つかっており、
市教委の小泉裕司課長補佐は
「弥生時代の遺物でもおかしくない。勾玉の砥石(といし)として使われ、
二つの穴は鉄製のきりで勾玉に穴を開けた際にできた傷では」と推測している。
ほかに自然にできたと見られる穴もある。
大小3個の穴が口や目に見え、
柏井さんは「なんとも言えずかわいい。教育に活用して」と市に寄贈する。
◎京都新聞 2010年9月1日
http://www.kyoto-np.co.jp/...
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みやこ町教育委員会は25日、同町国作の国作八反田遺跡から
弥生時代後期(2世紀後半)のものとみられる
青銅製の銅戈(どう・か)片と、農具などの木製品、
かめやつぼなどの土器が多数出土したと発表した。
弥生後期の低地性集落の状況を知る上で貴重な遺跡だという。
生涯学習課文化係の辛嶋真治主査(46)によると、
同遺跡は古代律令制の豊前国府跡から約600メートル東側にあり、
竪穴式住居跡9軒、掘立柱(ほっ・たて・ばしら)建物跡1棟、
土器焼成土坑などが確認された。
集落跡の南側には、祓川のはんらんによって形成されたと見られる
旧流路が東西に流れている。
この流路の東側斜面から広形の銅戈片8点が出土した。
銅戈は旧家に伝わっていたり伝聞が残っていたりするケースはあるが、
形式がわかるものが発掘調査で見つかったのは京都平野では初めてという。
約2メートル四方に、破砕した状態で見つかった。
祭祀(さい・し)に用いられた可能性が高いとみられる。
流路は幅約20メートル、深さ80センチ前後。
くの字状に曲がった付近から100点以上の木製品が見つかった。
農具が多く、建築部材とみられる一部加工品も含まれていた。
流路の底が砂地で、常に水がわき上がってくる状態だったため、
原形をとどめた状態で発掘されたという。
同課文化係は、東九州自動車道建設に伴い、
約1万平方メートルを対象に発掘調査をした。
現場は、すでに埋め戻されている。
◎朝日新聞 2010年8月26日
http://mytown.asahi.com/...
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山持(ざんもち)遺跡(出雲市西林木町)で確認された
弥生時代後期末ごろの建物跡から、
柱根と、柱の沈下を防ぐために敷かれた木材(礎盤)がセットで出土した。
島根県内では初めて。県埋蔵文化財調査センターが、
本年度の発掘成果として19日、発表した。
当時の建物の構造や建築技術を考えるうえで貴重という。
建物は、細長い溝を掘って柱を立てる布掘建物の構造。
出土した柱根は、高さ1メートル弱、直径約30センチ。
その下にH型、あるいは放射状に木材を組んで敷いてあった。
低湿地という土壌条件から、良好な状態で1棟分6組が出土した。
柱根の出土の仕方から、床板までの土台部分を太い柱で組み立てた後、
その上に別の柱を建てて壁や屋根などを組み上げる、
弥生時代としては珍しい構造だった可能性も考えられるという。
2002年度からの発掘調査の最終年度。弥生土器や木製品も大量に出土した。
◎中国新聞 2010年8月20日
http://www.chugoku-np.co.jp/...
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淡路市教委は18日、弥生時代としては国内最大規模の
鍛冶(かじ)工房跡とされる同市黒谷の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡で、
古代の技法で実際に鉄器を加工できるかを調べる実験を始めた。
作業に必要な炭の材料や工具に使う石などは遺跡の周辺から調達する。
実験結果は、今年度中にまとめる遺跡の発掘調査報告書に盛り込む。
標高約200メートルの丘陵地にある遺跡からは、
これまでに23棟の建物跡が見つかり、
うち12棟の床面に鉄素材を加熱したとみられる
焼けた土の跡が確認されている。
加工した矢じりや鉄片のほか、
熱した鉄をたたく石づちや下に敷く台石などの工具も見つかっている。
市教委によると、弥生時代の鉄器工房跡の出土例は少なく、
鉄の具体的な加工方法について不明な点も多い。
このため、現地の木で作った燃料用の炭や、動物の皮で作る
火おこしの送風装置、石製工具などを使い、鉄の加工が可能かを調べる。
鉄素材は当時、朝鮮半島や中国から持ち込まれていたとみられ、
今回は鉄くぎを使う。
18日は市教委社会教育課の職員4人と
地元の市民グループ「五斗長まちづくり協議会」の今田一夫会長(63)が、
遺跡周辺の雑木林で伐採したクヌギやコナラの木で炭をつくった。
当時はまだ炭を焼く窯はなかったと考えられていることから、
燃やした木に土をかぶせたり、
水をかけたりする原始的な方法で炭づくりに挑戦した。
数日かけて、鍛冶作業に必要な工具を手作りし、
矢じりやペーパーナイフなどをつくる予定という。
市教委社会教育課の伊藤宏幸主幹(50)は
「今回の実験を通して、わからない点が多い
弥生時代の鉄器づくりの謎を一つでも埋めていきたい」と話している。
◎朝日新聞 2010年8月19日
http://mytown.asahi.com/...
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【Podcasting】
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▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より
使者が中国と行き来するときなどには、いつも一人の持哀(じさい)をおく。
持哀は、髪を整えず、しらみを取らず、衣服も垢で汚れっぱなしで、
肉食は断ち、婦人も近づけず、閉じこもり、喪に服すのと同様に過ごす。
この持哀の慎み(つつしみ)によって、使者が無事に到着できれば、
持哀は、多くの召し使いや財貨をもらう。
しかし、航海中に病人が出たり、事故が起こったりしたら、
持哀が十分な慎み(つつしみ)を行わなかったので、災難が起きたとされ
持哀が殺されることもある。
[参考文献]
・石原道博さん編訳「新訂 魏志倭人伝 他三篇」(論創社)
・斎藤忠さんの著書「日本人はどこから来たか」(講談社学術文庫)より
・武光誠さんの著書「邪馬台国と卑弥呼の事典」(平凡社新書)より
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【生口(せいこう)】
捕虜または奴隷の他に、中国に留学しているも者、倭人の捕魚者(ほぎょしゃ)、
何らかの技能を持った者、食人風習(※)による食材用の人間、などの諸説がある。
※更新世(こんしんせい)から縄文・弥生期にかけての
日本人の変遷に関する総合的研究 研究班 の報告にて
「食人による特異な解体痕が疑われる弥生時代人骨もある」 とあり。
http://research.kahaku.go.jp/...
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【船】
弥生ミュージアムさんより
http://www.yoshinogari.jp/...
北区飛鳥山博物館 中里遺跡出土丸木舟
http://www.city.kita.tokyo.jp/...
八尾市久宝寺遺跡出土の準構造船 / 藤井寺市
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/...
【動画】 発掘された船 -久宝寺遺跡の準構造船- / (財)大阪府文化財センター
http://www.occh.or.jp/...
笠嶋遺跡からの構造船遺物出土について / 徐福研究
http://jofuku-net.com/...
笠嶋遺跡について / (財) 和歌山県文化財センター
http://www.wabunse.or.jp/...
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【船着き場】

船着き場跡 東側突堤
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

実測図
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)

船着き場 再現模型
大陸のハイテク土木技術で築かれていた。

船着き場 再現模型
船の出土はまだ無い。

船着き場 再現模型
弥生時代の船着き場跡としては、他に岡山県上東遺跡(じょうとういせき)がある。
▼長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より
平成8年7月、原の辻遺跡の集落が立地する丘陵北西約300mの低湿地から
礫石(れきいし)を積み上げた巨大な施設が発見された。
船着き場跡である。
築造技術は敷粗朶(しきそだ)工法という高度の技術が駆使されており、
所属する年代が弥生中期前半であることが二重の驚きであった。
一支国に到着した船は、原の辻遺跡の約1.5km東の内海(うちめ)に停泊。
小型の艀(はしけ)に乗り換え、物資を移し替えて、川(幡鉾川[はたほこがわ])を
遡上(そじょう)し船着き場に至る。
一方、内海の港湾施設で陸揚げされた物資や人々が、
陸路を経て中心集落に到着する。
側溝を持った幅約4mの道路は幹線道路として整備され、
大勢の人々や物資が行き交う “海の道” に繋がる “陸の道” である。

陸の道
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)
▼日本最古の石敷き水路 原の辻遺跡
水中考古学/船舶・海事史研究より(2005年11月)
http://www.nauticalarchaeologyjp.com/...
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【船とスサノオノミコト】
▼「古代史と日本神話」 金井清一“造船説話とスサノヲノ命”より
日本書紀神代紀(じんだいき)第8段は、
八岐大蛇退治を中心としたスサノヲノ命関係の段落である。
その第五の一書(いっしょ)に、スサノヲが「韓国(からくに)には金銀がある。
しかしわが子孫の支配する国に浮宝(うくたから)[船]がないのは良くない」
と言って、ひげや胸毛を抜いて、杉、檜となし、これを以て浮宝とせよ。と命じた
という神話がある。
この神話はスサノヲが他の木材の用途をも定め、その子神(ししん)らも
木種をよく分布させた。
そして紀伊国に移り住んだとも述べているが、今、その辺のことは採りあげない。
注目したいのは、スサノヲが造船用の木材生成の神となっていること、
また元来韓国(からくに)にいた神であると神話が語っていることである。
後者については第四の一書には、
初め子神をを率いて新羅国に降った(くだった)のだとある。
そして子神と共に出雲国に渡ってたのであるが、
子神五十猛命(いたけるのみこと)が天から持ち来たった木種は
韓地には殖えず(ふえず)、すべて大八州国(おおやしまこく)に
播殖(はしょく)させたのだと記している。
こちらには造船の件はなく木材のことだけが書かれている。
しかし両書によってスサノヲ及びの子神が船材を含む木材生成の
祖神(そしん)と崇(あが)められていたという信仰的事実の存在したことが分かる。
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参考文献
小林道憲 著 「古代日本海文明交流圏 ~ユーラシアの文明変動の中で~」
http://www.amazon.co.jp/...
遠澤葆 著 「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」
http://www.amazon.co.jp/...
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邪馬台国について
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