弥生時代 2010

2010.10.30

愛知・若宮遺跡 弥生後期の環壕を確認

豊橋市牟呂町坂津の若宮遺跡の第6次調査で、
弥生時代後期(2世紀ごろ)の環壕(かんごう)が確認された。
環壕は当時の集落の全体像が把握でき、
市教委は「三河地方では貴重な事例」としている。
また、環壕の中から完全な形をとどめたつぼ1点が出土した。

環壕は、区画や敵の侵入防止を目的とした集落を囲む大きな溝で、
主に拠点集落に見られる。
今回確認された環壕は長さ30メートル、幅2・4メートル、
深さ1・5~1・8メートルで、断面がV字形。
本来の深さは約2メートルと推定される。

途中で分岐しており、集落内を区画していたか、
一部を二重環壕にしていた可能性があるという。
市教委は「県内では数が少ない構造。規模も大きい」と説明している。

出土したつぼは、口を上にして置かれていた。
中は空で、市教委は「祭祀(さいし)などのため
意図的に置かれたのではないか」と話している。

◎毎日新聞 2010年10月29日
  http://mainichi.jp/...

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滋賀・宇佐山古墳群 弥生時代の「周溝墓」発見

大津市神宮町の宇佐山古墳群で、
弥生時代末期から古墳時代初期にかけて造られたとみられる
「周溝墓」と、奈良時代の祭祀で使われた「土馬」が見つかった。
周溝墓は墓の周りに堀がある墓で、琵琶湖を一望できる場所にあった。
調査した県文化財保護協会は
「琵琶湖周辺を治めていた首長の墓では」と推測している。 

周溝墓は3つあり、最も大きい墓は
南北13メートル、東西9メートル、高さ3メートルで、周囲に堀跡があった。
木棺(縦2メートル、横80センチ)が置かれていた跡も残っている。
副葬品などは見つかっていない。
宇佐山古墳群では、これまでに古墳時代後期の古墳群が見つかっていたが、
今回の発見で、成立年代がさかのぼった。

墓は琵琶湖が見渡せる標高152メートルの丘陵地に位置し、
南側には、4世紀に造られた皇子山古墳がある。
協会の担当者は「首長の大型古墳が造営される前段階の
墓制のあり方を考える上で貴重」と説明している。

◎中日新聞 2010年10月15日
  http://www.chunichi.co.jp/...

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福岡・岸田遺跡 銅剣や鉄戈など出土

福岡市教委は13日、岸田遺跡(早良区)から
弥生時代中期(紀元前2-前1世紀)の青銅製の
剣、矛、鉄製の戈(か)などの副葬品18点が出土したと発表した。
権威の象徴である銅剣がまとまって見つかり、
市教委は「岸田遺跡が当時の早良平野における
有力集落の一つだったことを示す」としている。

市教委によると、岸田遺跡は
弥生時代中期-古墳時代後期ごろまでの遺跡。
農地整備事業に伴い、昨年11月から発掘調査をしていた。

副葬品は、
長さ37-32センチの銅剣4本
同39センチと30センチの銅矛2本
同35センチの鉄戈1本
銅剣の柄の飾り1点-など。

弥生時代中期初頭-後半の、木を長方形に組んだ
「木棺墓(もっかんぼ)」や「甕棺墓(かめかんぼ)」に、
勾玉(まがたま)などとともに埋葬されていた。
墓地全体では、木棺墓5基と甕棺墓50基以上を確認した。

弥生時代、早良平野には吉武高木遺跡(西区)を頂点とした
有力集落群があったと考えられており、
副葬品は「当時の社会構造を考える上で貴重な資料」(市教委)という。

◎西日本新聞 2010年10月14日
  http://www.nishinippon.co.jp/...

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福岡・岸田遺跡 最古の青銅製「把頭飾」出土

福岡市教委は13日、同市早良区早良4の「岸田遺跡」で、
弥生時代中期初頭(紀元前2世紀)の甕(かめ)棺(かん)墓から、
銅剣の青銅製のつか飾り「把(は)頭(とう)飾(かざり)」が見つかったと発表した。
市教委によると、青銅製の把頭飾としては国内最古という。

発表によると、把頭飾は高さ5センチ、幅7・5センチ。
銅剣、銅矛(ほこ)各1本と一緒に見つかった。

このほか、近くにある弥生時代中期の
初頭から後半(1世紀)にかけての四つの墓からも
銅剣3本、銅矛1本、勾(まが)玉10点などが出土した。
市教委が昨年11月から調査していた。

同遺跡の近くには、国内最古の王墓とされる「吉武高木遺跡」がある。
九州歴史資料館(福岡県小郡市)の西谷正館長は
「副葬品の内容から、吉武高木遺跡に次ぐ有力者集団の墓とみられる。
弥生時代のこの地域の社会構造を示す貴重な史料だ」としている。

◎読売新聞 2010年10月14日
  http://kyushu.yomiuri.co.jp/...

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2010.09.20

奈良・纒向遺跡 銅鐸破片、豪族居館の溝も

神仙思想に基づく祭祀(さいし)に使われたとみられる
大量の桃の種が出土した桜井市の纒向(まきむく)遺跡。
今回の調査では、3世紀の遺構、遺物のほかに、
2世紀の銅鐸(どうたく)の破片や、県内では珍しい
5世紀末~6世紀初めの豪族居館の一部となる
石張り溝も見つかっており、同遺跡の変遷をたどれる
重要な成果が得られた。

銅鐸の破片(長さ3・7センチ、幅3・2センチ、厚さ3ミリ)は、
復元すれば高さ約1メートルになると推定される。
1972年、今回の調査地の西約100メートルで行われた調査でも
銅鐸の破片が見つかっており、大きさなどから同一個体の可能性がある。

当時、調査した石野博信・兵庫県立考古博物館長は
「王宮とみられる大型建物を建てる際、銅鐸を壊す祭祀をした。
その建物を壊した後、桃を使った祭祀をしたのだろう。
王宮の出現と終わりの儀礼にかかわるものが見つかったのは、
大変意義がある」と話している。

また、同市内の脇本遺跡や大福遺跡の
3世紀初めの遺構で出土した銅鐸の破片などから、
弥生時代の祭祀で使われた銅鐸を壊し、
他の青銅器にリサイクルしたことが考えられており、
今回も同様とみられる。

一方、調査地西側で見つかった石張り溝
(幅4・5メートル、残存の深さ0・8メートル)は、
溝が切れた場所(長さ8メートル)を挟んで北側に16メートル、
南側に6メートル延びていた。
溝が切れた部分が出入り口で、
地形から東に遺構が広がるとみられる。

近くに同時期の古墳があり、その被葬者が住んでいた可能性がある。
橋本輝彦・市教委文化財課係長は
「居館と墓がセットで考えられるようになった。
纒向遺跡一帯を根拠にした豪族はわかっていないが、
物部氏など大豪族に次ぐクラスではないか」とみている。

◎読売新聞 2010年9月18日
  http://www.yomiuri.co.jp/...

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奈良・纒向遺跡 桃の種2000個が出土

邪馬台国の有力候補地とされる
奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、
3世紀中頃の穴から桃の種約2000個や
竹製のかご6点などが出土し、市教委が17日、発表した。
桃の種が1か所でこれほど大量に見つかる例はないという。
桃は、古代の中国や日本で不老長寿などの効果があると信じられ、
祭祀(さいし)に使われたとみられる。
同時期に君臨した女王・卑弥呼との関連を指摘する意見もある。

桃の種は、昨年11月に出土した宮殿の可能性がある
大型建物跡の約5メートル南の穴
(南北4・3メートル、東西2・2メートル、深さ0・8メートル)から出土した。
当時の桃は現在と違う品種で、ピンポン球ほどの大きさ。
一部に果肉が残ったものや未成熟のものもあることから、
食用ではなく、実をかごなどに入れて供えたらしい。

また同時に、祭祀用の剣形木製品や
黒漆塗りの弓、ミニチュア土器なども出土。
木製品や土器はほとんどが壊されており、
祭祀後に捨てられたとみられる。

桃は中国が原産で日本では弥生時代に広まった。
古代中国の神仙思想では、不老長寿や
魔よけに効く特別な力があるといわれ、
漢代に信仰を集めた女性の仙人・西王母(せいおうぼ)も
不老長寿の仙桃(せんとう)を持ったとされる。

3世紀末の魏志倭人伝には、卑弥呼が「鬼道」で
人々の心をとらえたとの記述があり、
鬼道が神仙思想を指すとの見方もある。

一方、今回の調査では大型建物の南を区画する柵の跡が
東西28メートルにわたって見つかり、
前回調査分を含めると34メートルに達することがわかった。
桃の種が出土した穴は、柵跡を一部壊しており、
大型建物の廃絶後に掘られたらしい。

辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話
「桃は神仙思想の象徴。圧倒的な量から、
山のように積み上げて国家的な祭儀を行ったことをうかがわせる」

◎読売新聞 2010年9月18日
  http://osaka.yomiuri.co.jp/...

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広島・佐田峠墳墓群 噴丘墓は四隅突出型墳丘墓

庄原市宮内町の佐田峠(さただお)墳墓群を
発掘調査している広島大と市教委は17日、
昨年度の調査で方形の墳丘墓としていた墓が、
弥生時代中期終わりごろの四隅突出型墳丘墓だったと発表した。

四隅突出型は四隅が突き出した形が特徴。
後に突出部が大きくなり、前方後円墳に発達したとする説もある。

調査している墓は縦4・5メートル、横6・4メートル。
後に溝を整備し、方形に造り替えた跡がある。
広島大大学院文学研究科の野島永(ひさし)准教授(46)は
「墓の形を後に変えることは、
社会的階層性が複雑化していく過程とみられる」と話している。

◎中國新聞 2010年9月18日
  http://www.chugoku-np.co.jp/...

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長野・出川南遺跡 礫床木棺墓1基が出土

松本市教育委員会は15日、同市出川町の出川南遺跡で、
弥生時代中期とみられる礫床(れきしょう)木棺墓1基が
出土したと発表した。
県内を中心に出土例がある埋葬法で、
棺の底部に礫(直径10センチほどの石)を敷いてあるのが特徴。
県埋蔵文化財センター(長野市)は
「この地方特有で、全国的には特殊な形式」としている。

市教委によると、見つかった墓は2メートル×1メートル程度で、
底部に多数の礫が敷いてある。
上部に、四角い木の枠を埋めたとみられる穴があり、
穴の中の土から人骨とみられる破片が見つかっている。

同センターによると、同様の墓は4月末現在、
県内10遺跡で91例出土。
市内での出土例は今回で4遺跡目となる。
県外では群馬県の8遺跡で116例見つかっている。
いずれも弥生時代中期から後期にかけてで、
「礫の上に遺体を安置した可能性がある。
墓全体の構造を解明することが今後の課題」としている。

発掘調査は市道の建設工事を前に4月に開始、本年度中に終える。
約2500平方メートルを調査する予定で、
これまでに約千平方メートルを終了。
古墳時代中~後期の竪穴住居跡、
土器を棺にして埋葬したとみられる縄文時代晩期の
土器棺墓なども見つかっている。

◎信州ライブオン(信濃毎日新聞) 2010年9月16日
  http://www.shinshu-liveon.jp/...

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埼玉・坂上遺跡 鉄剣など出土

上尾市教育委員会(岡野栄二教育長)が発掘調査を進めていた
同市瓦葺の坂上(さかのうえ)遺跡の方形周溝墓から、
約1700年前の鉄剣1点と管玉(くだたま)2点が出土した。
埋葬施設が確認された墓の内部から
鉄剣が出土したのは市内で2例目。

県埋蔵文化財事業団・調査部主査の福田聖(きよし)さんは
「この時期の方形周溝墓は県内で約800件あるが、
鉄剣が出土したのは今回でわずか10例しかない。
鉄剣は当時のステータスで、地域の有力者の墓だと考えられる。
県内の歴史を考える上で貴重な発見だ」と話している。

坂上遺跡は、過去2回の発掘調査が行われ、
縄文時代、弥生時代末から古墳時代初期、平安時代、
中・近世など多くの時代の遺構が確認されている遺跡。

今回の第3次発掘調査では、縄文時代の住居跡や
地面を掘った穴のほか、弥生時代末から古墳時代初めごろの
方形周溝墓、平安時代や江戸時代の堀跡などが確認された。

方形周溝墓からは、遺骨を埋めたと考えられる埋葬施設が確認され、
その内部から鉄剣と管玉が出土した。
鉄剣は長さ約22センチ。管玉は長さ約3センチ。
鉄剣などの鉄製品は、当時共同体の首長が
権力を誇示するために保持していたと考えられている。

坂上遺跡の西側にある尾山台遺跡では、
弥生時代末から古墳時代初頭の住居跡が
約60件発見されていることから、同市教育委員会は
「鉄剣が発見された方形周溝墓は、この集落を治めた
首長クラスの人物の墓である可能性が高い」と推定している。

◎埼玉新聞 2010年9月16日
  http://www.saitama-np.co.jp/...

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和歌山・神前遺跡 水路の溝を確認

和歌山市神前の神前遺跡での発掘調査で、
弥生時代前期の水路とみられる溝が発見された。
同時期の溝は県内では珍しく、
調査を担当する県文化財センターは
「遺跡周辺で弥生時代前期から水田稲作が
行われていたことを裏付ける貴重な成果」としている。

県道和歌山橋本線道路改良工事に伴い、
09年度から調査を開始。調査面積約6800平方メートルのうち、
今年度は第2次調査として約5382平方メートルを発掘している。

同センターによると、最長200メートル以上の溝が
7本以上並行して流れており、東側に分岐する溝も見つかった。
幅は約1~1・5メートル、深さは約50~80センチで、
緩やかなV字形をしている。
完全形の弥生土器や、石包丁など稲穂を摘む道具が出土しており、
溝に捨てられたと考えられる。

東側には標高の低い平地が広がり水田だったとみられることから、
同センター埋蔵文化財課の田中元浩技師は
「弥生時代の開始とともに神前遺跡にも稲作が伝わり、
かんがい用の大規模な水路が開削されたことを示している」と説明した。

◎毎日新聞 2010年9月10日
  http://mainichi.jp/...

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