2008.07.27


オリエント急行 88

鉄友からもらった写真 (ED76+オリエント急行)

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1988年に、フジテレビ・東日本旅客鉄道(JR東日本)主導のもと、
各国政府・鉄道各社の協力により、NIOEの車両を利用して
パリ→東京間でオリエント急行'88が運行された。

当初国鉄と交渉していたのはVSOEであったが、
紆余曲折のうえ実際に来日したのはNIOEである。

この列車がD51形やEF58形、EF65形(1000番台)機関車などに牽引され、
団体列車として国内各地を走行したことにより
当時のJR各社が受けたインパクトは大きく、
その後JR東日本は豪華寝台車「夢空間」を試作、
JR北海道は寝台列車「北斗星」の個室車両の増備や設備のグレードアップを実施、
JR西日本は「トワイライトエクスプレス」を誕生させることとなった。

列車はフランスから西ドイツ(当時)、東ドイツ(当時)、ポーランド、
ソ連(当時)、中華人民共和国を経由し香港まで陸路を走行、
香港から山口県下松港までは客扱いなしで航送(船で輸送)され、
メインスポンサーでもあった日立製作所の笠戸工場で台車を
JR線走行可能な狭軌のものに交換のうえ広島→東京間を走行した。

大陸側の運行ルートは、
パリ・リヨン駅 (パリ)→ランス駅→ストラスブール駅→★→
フランクフルト中央駅→★→ベルリン・リヒテンベルク駅→★→
ソハチェフ駅→ワルシャワ駅→★→ブレスト駅→ミンスク駅→
モスクワ・ベロルシア駅→モスクワ・ヤロスラブリ駅→ノボシビルスク駅→
イルクーツク駅→ウラン・ウデ駅→ザバイカルスク駅→★→満州里駅→
ハルビン駅→北京駅→★→香港(九龍)駅、であった(★は国境)。

なおこの列車の走行距離は実に15,494kmであり、
最長距離列車としてギネスブックにも登録されている
(正式な国際列車として認められたのはパリ→香港間のみ)。

(Wikipediaより)

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◎EuroNight オリエント急行 - nekomaskさん旅行記
  http://4travel.jp/traveler/...

◎オリエント・エクスプレス
  http://www.orient-express.co.jp/...

◎Google検索「オリエント急行 日本」
  http://www.google.com/...

◎Google検索「オリエント急行」
  http://www.google.com/...

◎Google検索「オリエント エクスプレス」
  http://www.google.com/...

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>> 「オリエント急行」 Amazon検索

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2008.06.20


117系

大阪府・高槻駅にて撮影

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国鉄117系電車は、
日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流近郊形電車の1系列である。

1979年から1986年までに216両が製造され、
1987年の国鉄の分割・民営化時には、
西日本旅客鉄道(JR西日本)に144両、
東海旅客鉄道(JR東海)に72両がそれぞれ承継された。

京阪神地区の東海道本線・山陽本線で運行している新快速には、
1972年からそれまでの113系に代えて、
山陽新幹線岡山開業に伴う山陽本線急行の淘汰で
余剰となった153系が投入された。

153系はこの時点では113系と異なり、既に冷房装置を搭載していたが、
製造初年が1958年と古く主電動機が非力で、座席がボックスシートであり、
並行する阪急電鉄京都線と京阪電気鉄道本線の特急車両が
いずれも転換クロスシートを採用していたのに比べると見劣りしていた。
また、本来は急行形として設計された車両であり、
デッキを有する客室構造はラッシュ時の輸送に難点があった。

117系は153系のこうした問題点を解消し、
かつ、並行私鉄に対抗できる客室設備を備え、
京阪神地区の輸送事情に適合する車両として設計された。
客室設備は1975年に北九州地区に投入されたキハ66系を基本としており、
それまで一貫して車両の標準化を推進してきた国鉄が
地域の事情に応じて設計、製造した嚆矢となっている。

1982年には東海道本線名古屋地区の快速に使用されていた153系の置換え用に、
名古屋地区にも投入された。
117系は当時の国鉄としては異例ともいえる構造の電車であり、
大阪鉄道管理局が国鉄本社の反対を押し切って、
私鉄との対抗上強引に導入したいきさつもあり、
他地区への導入は国鉄本社としては拒否し続けたものであった。

しかし、当時の名古屋鉄道管理局長・須田寛が
国鉄本社に強力に働きかけたことや、
この車両の導入で快速の編成を8両から6両に減車して153系を76両淘汰し、
差引22両の電車を削減できるというメリット、
並行する名古屋鉄道名古屋本線との競争があることから、
名古屋地区に限って投入することになったものである。

その後に製造された本系列と類似の接客設備を持つ車両としては、
1981年に関東地区に投入された185系、
1983年に広島地区に投入された115系3000番台、
1987年に瀬戸大橋線開業に備え岡山地区に投入された213系が挙げられる。

2007年現在、改造による系列変更を実施された車両は存在するが
廃車は発生していない。
国鉄の直流近郊形電車で1両も廃車が発生していないのは
本系列と121系のみである。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「117系」
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101系

神奈川県・大船工場にて昭和61年9月7日に撮影

神奈川県・浜川崎駅にて撮影

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国鉄101系電車は、1957年(昭和32年)に登場した
日本国有鉄道(国鉄)の直流通勤形電車。

登場当時はモハ90系電車と称していたが、
称号改正に伴い1959年(昭和34年)に101系と改番された。

国鉄の電車として初めて中空軸平行カルダン駆動方式などの
近代的メカニズムを搭載した、いわゆる「新性能電車」の嚆矢となった系列である。
この系列で採用された基本システムは、
1980年代前半に至るまでの国鉄電車に広く応用された。

1953年(昭和28年)以降、大手私鉄では旧来の吊り掛け駆動方式から脱却して
新世代のカルダン駆動方式を採用した高性能な通勤電車が開発され、
通勤輸送の質的改善に大きな成果を上げていた。
しかし、保守的な国鉄では1956年頃に至っても性能的にやや旧式化した
72系などの量産を継続していた。
101系は、国鉄旧性能車を刷新して電車列車の近代化を図る意図をもって、
大手私鉄の採用実績を見極めた上で開発されたものである。
直接的には、当時最混雑路線であった中央線の輸送改善を目的として製造された。

なお、101系の製造が完全に打ち切られたのは
103系の製造開始から6年が経過した1969年(昭和44年)であった。
これは山手線から総武緩行線に101系を転用する際に
編成両数の違いから中間に制御車2両を組み込む必要が生じたことと、
大阪環状線など一部の増備に際して形式統一の見地から新造車が必要となったためである。

また、一部には151系の181系化改造によって余剰となった
MT46形主電動機が流用された。製造両数は1,535両に及んだ。

最初の投入線区である中央快速線での運用を終了したのは、
201系量産開始後の1985年(昭和60年)3月14日のダイヤ改正である。
ちなみに、1973年(昭和48年)に同線でも運用を開始した103系の運用終了は
1983年(昭和58年)3月であったが、これは起動時の加速度は103系に劣ったものの、
全界磁速度からの伸びは103系に比べて格段に良いと言われた。

またブレーキの応答性も高く、減速時の扱いはむしろ103系よりも良いといわれていたほか、
他線区に比べ冷房化率の低い中央・総武緩行線と南武線に103系の冷房車を回し、
早急な冷房化率の平均化を目指したものと思われる。

現在、JR線上からは消滅した101系であるが、
埼玉県の羽生~三峰口間を走る秩父鉄道では
国鉄時代の1985年(昭和60年)頃からJR化後まで譲渡された
3両編成12本(計36両)が在籍している。

形式は1000形となり、
M'cMTc(クモハ100形 - モハ101形 - クハ101形)の編成で譲渡された。
入線当時は黄色に茶帯の塗装に前面に「秩父鉄道」と表記されていた塗装で
比較的原型を保っていたが、後のワンマン化を前にクリームを基調として
赤と青の帯を施した塗装に変更された。

その後、冷房化(中間車は非冷房のまま)やパンタグラフの2基搭載化などを経て、
2008年3月現在も全車が在籍している。
なお、鉄道博物館の開館に併せて4編成が同年秋から
オレンジバーミリオン・スカイブルー・カナリアイエロー・ウグイス(関西線色)の
4種類の塗装へ順次復元されている。

(Wikipediaより)

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2008.06.18


碓氷峠鉄道文化むら 鉄道資料館

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

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碓氷峠鉄道文化むら(うすいとうげてつどうぶんかむら)とは、
東日本旅客鉄道(JR東日本)の
信越本線横川駅-軽井沢駅間の廃止と共に役目を終えた、
群馬県安中市松井田町の横川駅に隣接した横川運転区跡地に建設された、
体験型鉄道テーマパークである。

1999年4月18日に開園。財団法人碓氷峠交流記念財団が運営する。
碓氷峠の歴史や資料、碓氷峠で活躍した鉄道車両、
国鉄時代の貴重な車両などを展示・公開している。
また、信越本線の廃線跡を利用してEF63形電気機関車の体験運転が行われたり、
トロッコ列車が運行されたりしている。

電気機関車が圧倒的に多く、中には碓氷峠どころかJR東日本とも関係のない、
北陸や九州で活躍していた車両もあるが、
これは国鉄末期に、「SLの京都(梅小路)に対し、電気機関車の博物館を作ろう」と
多くの特徴的な電気機関車が配属されていた高崎機関区周辺に計画されていた
「高崎電気機関車館」(仮称)の収蔵用として高崎運転所に集められ、
計画が消滅して宙に浮いていた車両を横川に保存することになったためである。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「碓氷峠鉄道文化むら」
  http://www.google.com/...

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2008.05.29


EF70

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

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EF70形電気機関車は1961年に登場した
日本国有鉄道(国鉄)の交流用電気機関車である。

本形式は交流電気機関車としては
数少ないF形(動軸6軸)の機関車である。

交流電気機関車は基本的にD形(動軸4軸)で製造されているが、
これは仙山線での試験の際、
予想を上回る粘着特性を示した整流器式のED45形の試験結果より、
交流のD形と直流のF形は同等の牽引力を持つと算定されたことによる。

1962年に11.5‰の連続勾配を有する北陸トンネルが開通するが、
日本海縦貫線である北陸本線の列車単位は極めて大きく、
この時点で1000t、将来的には1100tまで列車単位が引き上げられる予定であった。
これをトンネル特有の多湿環境で勾配もきついとの悪条件のなか、
D形機の単機で牽引するのは難しいという結論が下され、
余裕を持たせて交流機としては初めてF形で製造されることとなった。

当初は田村~福井間の専用機とし、
本務機としてはED74形を投入する予定とされていたが、
作り分けるのは不得策として結果的には
本形式が北陸本線の主力機として増備されることとなる。

1961年~1965年に日立製作所および三菱電機・三菱重工業により
計81両が製造された。
1964年製造の22からは大幅な設計変更がなされている。

製造されたEF70形は、北陸本線の交流電化の進捗とともに運用の場を広げていき、
最終的には田村~糸魚川間で運用されるようになった。
当初は主に貨物列車を中心にけん引したが、
のちにED70形の運用縮小とED74形の九州転出により、
多目的に使用されるようになった。

1968年10月1日のダイヤ改正で急行「日本海」が
寝台特急に昇格することになったため、
20系寝台列車牽引用に22~28が高速列車対応の改造が
松任工場(現・金沢総合車両所)で施工され、1001~1007に車番が変更された。

改造内容は、応速度増圧ブレーキ装置の新設、
電磁ブレーキ制御装置とその引通し回路の新設などである。
また、ナンバープレートがブロック式(プレートを取り付けるタイプ)に変更された。

1969年に信越本線が直流電化された際、
交直接続を糸魚川~梶屋敷間に設けたデッドセクションで行うこととなり、
これに充当する交直流電気機関車が必要となった。

こうしてEF81形が製造されるが、
この時点のEF81形は富山以遠の北陸本線北部に運用されており、
EF70形とは共存していた。
だが1974年にやはりデッドセクションを持つ湖西線が開業し、
対関西の貨物列車の大半が湖西線経由に振り分けられると、
必然的に北陸本線南部でもEF81形が進出する。

こうして地上切換方式だった田村~糸魚川間に運用が制限されるEF70形は、
EF81形のロングラン運用の前になすすべなく余剰化し、
この頃から半数以上が休車状態となる。

高速型改造を施された1000番台も1974年以降、
EF81形に特急けん引の役目を譲り、
他車と共通運用に就くようになった。

2次形以降は車齢がまだ若いことから簡単に廃車にもできず、
本形式の末期は有効な転用先の模索の歴史となる。

まず1980年に61~81がED72形・ED73形の置換用として九州に移った。

九州では電気暖房を使わないため、
本形式はブルートレインや貨物列車などをけん引したが、
軸重の関係で北部九州地区に運用が制限され、
過大出力なうえ高速列車対応機でもないことから彼地でも持て余された。

同じ頃、東海道本線・山陽本線で荷物列車牽引に運用されていた
EF58形の老朽化が深刻になり、代替機関車が必要となった。
しかし国鉄の厳しい財政事情は新造の旅客用機関車を投入することを許さなかった。
そこで、大量に余剰の発生していた本形式の直流化改造計画が持ち上がる。

計画はかなりの所まで具体化したが、
1984年のダイヤ改正で電気暖房を持つEF62形が大量に余剰になることになったため、
改造費のかかる本計画は中止となった。

このように末期のEF70形は運用効率の悪さから不遇を囲い、
1000番台に改造されたものや九州へ転属したものを含めて
1987年の国鉄分割民営化前に全機が廃車されており、
JRには1両も承継されなかった。

殆どの車両が廃車後は解体されているが、4両が静態保存されている。

4
JR西日本金沢総合車両所松任本所
(ナンバーは1を装着)

57
石川県白山市「松任青少年宿泊研修センター」

1001
碓氷峠鉄道文化むら

1003
福井県越前市「金華山やまぼうし温泉」
(ナンバプレートが盗難にあい、1005のナンバーを装着)

(Wikipediaより)

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◎Google検索「EF70」
  http://www.google.com/...

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2008.05.05


ヨ8000形

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

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ヨ8000形は、日本国有鉄道(国鉄)が
1974年(昭和49年)から1979年(昭和54年)までに製造した
事業用貨車(車掌車)である。

従来から使用されてきたヨ5000形やヨ6000形の補充や、
それ以前の老朽化した車掌車や雑多な有蓋緩急車などの置き換え用として、
1974年(昭和49年)から1979年(昭和54年)までに1168両が製作された。

性能や外観は従来の車掌車から大幅に変化し、
乗務環境を向上させた最新設備の形式として大量に製作され全国で使用されたが、
1986年(昭和61年)に貨物列車の車掌乗務が原則廃止され、本来の用途を喪失した。

JR移行では添乗や控車などの用途に使用するため一部が承継されたが、
使用頻度は漸次減少しており、淘汰が進んでいる。

製作メーカーは日本車輌・川崎重工・三菱重工・若松車輌センターの4社である。

室内設備は、照明の蛍光灯化、暖房の石油ストーブ化が行われたほか、
2軸の車掌車として初めて便所も設置され居住環境が向上した。

製造初期の車両は最高速度65km/hの車掌車・緩急車が多数残存していた
北海道および四国に集中投入され、
北海道に投入された車両は寒冷対策として2重窓とされている。

鉄道車両の甲種輸送や大物車による特大貨物列車への係員添乗用や
工事用など特殊用途で、わずかながら現在でも使用されている。

2006年4月1日時点の在籍数は、
JR東日本に2両、JR西日本に3両、JR九州に1両、JR貨物25両の計31両である。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「ヨ8000」
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2008.04.28


E10形 大井川鉄道

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / 2号機

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / 2号機

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / 2号機

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / 2号機

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / 2号機

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大井川鐵道E10形電気機関車は大井川鐵道が所有する電気機関車で、3両が在籍している。

大井川鐵道大井川本線の電化に際して三菱重工(1号機、2号機)と
日立製作所(3号機)で1949年(昭和24年)に製造した電気機関車で、
小型のデッキを持つ45tB-B箱型電気機関車と当時の私鉄では大型に属している。

外見は当時量産されていた国鉄のEF58(旧車体)・EF15と良く似ていて、
同型には神戸電鉄701形や小田急電鉄デキ1041形(1号機、2号機)、
秩父鉄道デキ100形(3号機)などが挙げられる。

また、電気機関車としては珍しく、警笛はホイッスルではなく
電車用のタイフォンを使用している(3号機は片側のみホイッスル装備)。

大井川鉄道の貨物廃止は1983年(昭和58年)で、
それ以降はSLの補機やイベント列車に使用されてきた。

製造所が異なるE103は貨物の減少により1970年(昭和45年)9月に岳南鉄道に譲渡されたが、
岳南鉄道の貨物減少と大井川鐵道のSL列車増発による補機仕業増加と、
両社の機関車需要が変化したことから1984年(昭和59年)4月に帰ってきた。

E103は本来いぶき500形の入線で引退の予定だったが、
中部国際空港埋立土砂輸送のためいぶき500形が三岐鉄道に貸し出されたため延命した。

2003年(平成15年)3月18日で中部国際空港埋立土砂輸送が終了すると同時に
いぶき501が大井川鐵道に返却されたので、現在では千頭駅の留置線に留置されている。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「E10形」
  http://www.google.com/...

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2008.04.01


EF65 500番台

東京都・品川駅にて撮影

東京都・品川駅にて撮影

神奈川県・戸塚駅~大船駅間にて撮影

神奈川県・新鶴見機関区撮影会にて昭和61年8月6日に撮影

神奈川県・新鶴見機関区にて昭和61年8月6日に撮影

東京都・田端機関区にて撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

群馬県・碓氷峠鉄道文化むらにて平成19年9月に撮影

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国鉄EF65形電気機関車は、
旧・日本国有鉄道(国鉄)が1964年に開発した、
平坦路線向け直流電気機関車である。

EF60形に続く国鉄直流用電気機関車の事実上の標準形式として、
1979年までに国鉄電気機関車最多の308両が製造された。
貨物列車用として計画されたが、当初から寝台列車牽引にも多用された。

2006年3月の「出雲」廃止で特急運用が消滅し、
2008年3月の急行「銀河」廃止で定期旅客列車の運用はすべて終了した。
現在でも多数が主に貨物列車の牽引に充当されているが、
後継のEF210形の登場で近年は淘汰が進んでいる。

現代のような高速道路がなかった当時、日本の著しい経済成長の中、
国鉄に求められる輸送力の増強はかなり逼迫していた。
これを補うため、電化工事の促進・主要区間の複線化・列車運転速度の向上・
1列車当たりの輸送量の増強・物流システムの効率化を早急に進める必要があった。

電化工事が山陽本線まで及び、コンテナによる輸送方法が確立されると、
重い列車を安定した高い運転速度で長距離運転できる機関車が必要となった。

従来のEF60形機関車はその性能ぶりには定評があったが、
その定格速度は比較的低く(39.0km/h)、
旅客列車・貨物列車の高速化に応じるには難があったことから
EF60形をベースとして新型電気機関車の開発・導入に踏み切った。
こうした経緯の下で登場したのが本形式である。

通常、新型電気機関車の開発・導入時は試作車を作りテストを繰り返すか、
1・2号機を先行落成させ試作機同様に長期テストを行うのが一般的であるが、
本形式は新型標準主電動機MT52を採用して速度向上の余地があった
EF60形後期型を基本として設計されていることもあり、
いきなり量産が開始された。

この事実からも輸送力増強の要求が逼迫していたことが伺える。

その後、一般機の他、20系固定編成を牽引する装置・機器を搭載して
ブルートレイン牽引用として登場した500番台P型や、
重量貨物列車を高速で牽引するための重連総括制御用機器・装置を
P型の持つ機能にさらに追加搭載した500番台F型、
貫通扉を付け耐雪耐寒装備を施した1000番台PF型など、
数々のバリエーションを持つに至った。

500番台(P形)

高速旅客列車牽引用として、
1965年 - 1966年に17両 (501 - 512・527 - 531) が製造され、
1968年に基本番台 (77 - 84) から5両 (535 - 542) が改造された。
「P形」は、「旅客」を表す "passenger" の頭文字に由来する。

従来は20系寝台特急列車牽引用としてEF60形500番台を使用していたが、
同形式は定格速度の面で不利であるため、
EF65形基本番台の設計を元に20系客車牽引用の装備を追加した。

最高110km/h運転のため増圧ブレーキ装置、
電磁指令ブレーキ回路等を増設している。

塗色は直流機標準の青15号とクリーム1号ながら、
特急色と呼ばれる20系客車と意匠を合わせた塗り分けを採用した。
両端面の窓周りを含んだ上部とそれを結ぶように上下にクリーム色の細帯を配する。

東海道・山陽本線における寝台特急列車の牽引機として長く充当された。
しかし当時では前代未聞ともいえる連日片道1,000km以上の高速走行は
走行装置へ大きな負担となり、不具合も目立ってきたため、
1978年秋までに運用を後述の1000番台後期製造分と交代し、
その後は一般貨物列車の牽引にあたった。

この連日長距離運用の経験が、その後の機関車の部品改良や
信頼性向上にフィードバックされている。

2007年12月31日現在、製造時の特急色で稼動状態にあるのは
JR東日本高崎車両センター所属の501、
およびJR貨物高崎機関区所属の535のみである。

500番台(F形)

高速貨物列車牽引用として、
1965年 - 1966年に17両 (513 - 526・532 - 534) が製造された。

P形の高速運転機能に加え、重連総括制御装置の搭載・
10000系貨車連結対応のEF66形同様の
空気管付き密着自動連結器等を追加した区分である。

「F形」の呼称は、「貨物列車」を表す "freight" の頭文字に由来する。

EF66形を運用開始するまでの間、
輸送力増強を迫られていた東海道・山陽本線で、
レサ10000形冷蔵車等の「とびうお」「ぎんりん」・コキ10000形等の
コンテナ列車などの高速貨物列車を当時の大型電気機関車には珍しい
重連運転で牽引した。
また、P形と互して20系寝台列車の牽引にも充当された時期がある。

本機重連による高速貨物列車牽引は、単機牽引では出力不足で
所定の運転時分確保ができなかったことに対する苦肉の策であるが、
列車として過剰となった出力による消費電力の増大は、
変電所への過負荷増大につながるという問題も同時に抱えていた。

また、その当時新型高速高出力機関車(EF66形)が計画・開発中であったため、
本機による高速貨物列車牽引はそれらが登場するまでの暫定的な措置とされており、
EF66形の量産化により新製から2年で高速貨物列車の運用を交代した。

当初の運用終了後は新鶴見機関区に転属、
東北・上越方面の高速貨物列車牽引に充てられ、EF15形など旧型電機を淘汰した。

積雪地区での使用に際し、一部の車両につらら切り・
ホイッスルカバー・スノープラウといった簡単な耐雪耐寒装備が施された。

寒冷地運用では冬季に多雪地域での重連運用の折り返し時、
貫通扉がないために一旦車外に出なくてはならないことや、
ジャンパ栓受がエプロンの片側にしか搭載されておらず、
エンドの向きが変わる運用に充当できない点などが
運転関係者にとっての難点であった。

本格的な耐雪耐寒装備を持つ1000番台の登場後は
再度東海道・山陽本線に復帰し、一般貨物列車の牽引に充当された。

JR移行の前後に高崎機関区に集結。
晩年は首都圏の貨物輸送に充てられた。

2005年7月31日現在、F形として在籍するのは
日本貨物鉄道(JR貨物)高崎機関区所属の515だけであるが、
同機は更新工事・塗色変更を受けており外観は往時と異なる。

EF66とは異なり空気管付き密着自動連結器の撤去は行なわれてない。

保存機

520(碓氷峠鉄道文化むら)
536(KATO関水金属(株)埼玉工場)※前面のみ
539(個人に引き取られた・非公開)※前面のみ
541(JR大井機関区・研修用)

(Wikipediaより)

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◎Google検索「EF65 500」
  http://www.google.com/...

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クモユニ147形

長野県・辰野駅にて撮影

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1983年、飯田線の新性能化にともない、
101系電車から5両が改造された郵便・荷物合造車。

車体や外観などはクモユニ143形に準じているが、
台車や主電動機など、床下機器の一部が異なる。

飯田線に投入された119系電車と同じく、
スカイブルー(青22号)に白帯(灰色9号)の車体塗装で登場し、
豊橋機関区に配属された。

1985年、飯田線の郵便・荷物輸送廃止で大垣電車区(現・大垣車両区)に転じ、
クモニ83形・クモユニ74形を置換えた。

その後国鉄の郵便・荷物輸送全面撤退に伴い、
1987年にクモハ123形40番台に改造されて、身延線へ投入された。

車体塗装は、クモハ123形に改造されるまで
飯田線時代のスカイブルーに白帯のままであった。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「クモユニ147」
  http://www.google.com/...

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119系

長野県・辰野駅にて撮影

長野県・田切駅周辺にて平成3年4月2日に撮影

長野県・田切駅周辺にて平成3年4月2日に撮影

長野県・田切駅周辺にて平成3年4月2日に撮影

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国鉄119系電車は、日本国有鉄道(国鉄)が
1982年(昭和57年)から製造した直流近郊形電車。

1980年代、吊掛駆動方式を用いたいわゆる「旧形国電」の
代替を進めていく中で開発された電車の一つで、
長大な閑散ローカル線である飯田線の旧形電車を置換えるために製造された。
1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化後は、
全車両が東海旅客鉄道(JR東海)に引継がれた。

中部山岳地帯の電化ローカル線である身延線・大糸線・飯田線では、
戦前製のものも含まれる老朽化した旧形国電が、
1980年代に入っても使われていた。
いずれも勾配の多い路線であることから、
身延線と大糸線は1981年から勾配抑速ブレーキ付きの115系を投入して
旧型国電を置き換えた。

一方、飯田線では旧型国電のうち80系について
一部が165系を用いて置換えが開始された。
順当ならばこちらも115系が導入される可能性もあったが、
飯田線は駅間距離が極度に短いだけでなく、
全線運行距離が最大200km以上(中央本線直通運用が多かった)の長距離に及び、
更に人口希薄地帯をも通過することから2両編成での運行もあるなど、
中距離運用である程度の沿線人口がある身延・大糸線とは異なった、
特殊な輸送事情を抱えていた。

このような飯田線の条件を考慮すると、
中国地方の電化ローカル線の旧形国電置き換え用に既に投入されていた
105系の方が、短編成向け・加速力重視の仕様のため、
115系よりも好都合であった。
しかし105系は長い勾配に対応する勾配抑速ブレーキがないうえ、
通勤形電車のため車内設備がロングシート・トイレなしで長距離輸送に適さなかった。

このため、105系をベースにして飯田線に適合した設備を備える
本系列が開発されたものである。

上述のように本系列は105系をベースにしたもので、
105系の特徴である、高速性能よりも加速力を重視した走行特性と、
短い編成を組むのに適した機器構成を保ちつつ、
連続急勾配を走行するための設備を付加し、長時間乗車に適した車内設備とした。

特殊な性格の路線である飯田線の路線条件への最適化を図ったもので、
特定のローカル線での運用を主眼に置いて設計された点では、
国鉄電車の中でも極めて特異な存在である。

製造コスト低減のため、全体に簡素な構造を採用すると共に、
走行機器・内装部品等の一部には廃車発生部品を再利用している。

なお、1986年(昭和61年)には一部の編成が改造を受け、
東海道本線静岡近郊のシャトル列車運用(愛称「するがシャトル」)に
用いられていたことがある。

2007年4月現在、計55両が在籍している。

2004年(平成16年)10月20日、飯田線伊那新町駅~羽場駅間で
台風による大雨のため路盤が流失しているところに通りがかった
R4編成(クハ118-5316+クモハ119-5324)が脱線転覆、大破した。
両車は2006年(平成18年)3月28日付で本系列では初の廃車処分とされた。

現在、R4編成の代わりにE3編成(クハ118-5005+クモハ119-5005)が
ワンマン改造を受け、R8編成(クハ118-5305+クモハ119-5305)として使用されている。

製造後すでに20年以上が経過しているが、
現時点において廃車されたのは上記の事故による2両のみで、
老朽・余剰による廃車はない。
また、今のところ経年による車両置換えの計画もない。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「119系」
  http://www.google.com/...

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107系 100番台

群馬県・横川駅にて平成19年9月に撮影

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107系電車は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の直流通勤形電車。

1988年(昭和63年)から1991年(平成3年)にかけて製造された。

1980年代末ごろ、日光線や両毛線といった関東北部の支線区の普通列車には、
急行列車の廃止によって転用された165系急行形電車が多く使われていた。
しかし、新製後20年以上を経て老朽化が進んでいたうえに、
デッキ付き片側2扉という車体構造が大きなネックであった。

特に朝夕のラッシュ時には乗客をさばききれないばかりか、
3両編成が最低単位であることで、日中の閑散時には輸送力過剰となっていた。

このような非効率な状況を打破するため、
国鉄分割民営化によって発足してまもないJR東日本に望まれたのは、
時間帯ごとの需要に柔軟に対応できる車両の開発であった。

そこで誕生したのが本系列である。

クモハ107形(Mc)とクハ106形(Tc')の2両編成を基本とすることで、
2両、4両、6両と需要に応じて輸送力を調整することができる。
また、製造コストの削減を図るため、165系の廃車から発生した
主電動機、台車、補助電源装置、ブレーキ制御装置、空気圧縮機、
冷房装置など主要機器を再用したほか、車体製作技術の維持向上を兼ね、
大宮工場(現・大宮総合車両センター)、大井工場(現・東京総合車両センター)、
大船工場(現・鎌倉車両センター)、新津車両所(現・新津車両製作所)、
長野工場(現・長野総合車両センター)など自社工場での製造となったことも特筆される。

165系の改造ではなく、純然たる新車扱いのため、
同系列との車籍上のつながりはない。

100番台

1988年から1990年にかけて2両編成19本(38両)が
新前橋電車区(現・高崎車両センター)に投入された。
上越線・吾妻線・両毛線・信越本線などの普通列車用である。

耐雪ブレーキの装備、横軽(信越本線横川~軽井沢間・碓氷峠)
通過対策が施されている点が0番台と異なる。

車体の車両番号表記には「クモハ」「クハ」の形式記号の前に
碓氷峠通過対策済みであることを意味する「●」(Gマーク)も表記されていたが、
同区間の廃止後はこの表記を全般検査時に消去している。
ただし、実際には試運転の際に軽井沢まで入線したことはあるが、
営業運転で横川以西へ入線することはなかった。

従来、横軽対策車は重量の重い電動車を麓側に配置していたが、
当系列では山側に配置されている。
砂撒装置や霜取パンタグラフの装備はない。

1989年(平成元年)以降に製造された2次車(106~119)は、
車体の窓割が変更されている。

車体塗色は、アイボリー地に緑とピンクの帯を窓下に通したものである。

2007年現在では、両毛線、上越線(高崎~水上間)、吾妻線(高崎~渋川~大前間)、
信越本線(高崎~横川間)で運用されている。
また、一部の両毛線の運用では小山から宇都宮線黒磯まで入線する。
その場合、東北本線内では0番台と編成の向きが反転する。

0番台と100番台の併結は可能であり相互に貸し出すこともあるが、
日光線へ100番台を貸し出す事例が多く、
高崎エリアへの0番台の貸し出し事例はまれである。

100番台には、「越後湯沢」の方向幕があるが、現在は使われていない。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「107系」
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2008.03.27


キハ110系

山梨県・小淵沢駅にて平成19年8月に撮影 / キハ111形+キハ112形

山梨県・小淵沢駅にて平成19年8月に撮影 / キハ112形

長野県・野辺山駅にて平成19年8月に撮影 / キハ112形

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キハ110系気動車は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の一般形気動車。

老朽化した旧型気動車の取り替えと
ローカル線における輸送サービスの改善を目的に製造され、
釜石線と山田線でキハ110形量産先行車がそれぞれ営業運転を開始した。

気動車であるが、車体と台車の軽量化を図り、
高出力直噴式エンジンと効率の高い液体変速機との組み合わせにより
電車並みの性能を有している。
ブレーキシステムも電車で実績のある応答性の高い電気指令式を使用しており、
在来車とは連結器の形状が異なっているため、併結はできない。

急勾配の多い山岳路線ではこの車両の導入に伴い速度向上による時間短縮が実現した。
さらに冷房装置を搭載したことにより、夏期に於ける旅客サービスの向上が図られている。

ワンマン運転に対応するため、客用ドアは半自動式であり、
ドアの横に開閉スイッチが設置されている。
また、ドアチャイムも搭載されている。

キハ110形・キハ111形・キハ112形 100番台

普通列車用として設計された。
セミクロスシートであるが、クロスシートはキハ100形と異なり、
ワンマン運転時の旅客の動線や混雑時を考慮して横2+1列配置となっている。
磐越東線、小海線、花輪線、山田線、岩泉線、気仙沼線で使用され、
磐越東線、小海線、気仙沼線ではワンマン運転も行われている。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「キハ110」
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2008.03.26


オハ35

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / オハ35-149

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国鉄オハ35系客車とは、
日本国有鉄道の前身である鉄道省が製造した20m級鋼製客車の形式群である。

なお、「オハ35系」の呼称は、国鉄が定めた正式の系列呼称ではなく、
1939年より製造が開始されたスハ33650形(のちのオハ35形)と
同様の車体を持つ客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。

1929年より製造が開始された鉄道省制式20m級鋼製客車である
スハ32系客車の改良型として、1930年代後半より各車種が製造された。

構造面では従来600mm幅が標準であった側窓が1,000mm幅を標準とするように変更され、
台枠などを中心に過剰な補強材の省略が進んで軽量化され、
かつ従来リベット接合が多用されていたその組み立てについても溶接への移行が進むなど、
スハ32系の基本構造に従いつつ全面的な設計のリファインが実施されているのが特徴である。

ただし、その量産が戦前と戦後にまたがって長期に渡って継続された結果、
その車体構造は製造時期によって大きく異なったものとなった。

特に戦後形では大きな変化が見られ、1946年度発注分はほぼ戦前と同一の仕様であったが、
以後は製作の容易化などを目的として順次仕様変更が行なわれ、
車端の出入台部で屋根が絞られ3面折妻となっていたものが、
外妻アーチ桁の設計を変更することなどで出入台部の絞りを残したままで切妻化され、
さらに長桁の絞りがなくなり雨樋が直線になるなどの変化が生じた。

なお、本系列については戦前には1941年度まで北海道向けが製造されず、
窓の開閉時に開口部を最小限に抑えられ防寒の点で有利な狭窓の
スハ32・スハフ32形(二重窓仕様)が継続生産されたが、
以後はこれに代えて本系列が北海道向けとして製造されている。

台枠は当初スハ32系の本州向け最終グループ(1938年度発注分)の構造を継承する
シンプルな設計の溝形鋼通し台枠である
UF38(2軸ボギー車)・51(3軸ボギー車)が採用されたが、
その後車載蓄電池の設計変更による取り付け座の小型化で
UF116(2軸ボギー車)などに変更されている。

オハ35形

オハ35系の中心的存在となる三等座席車で、1939年から1943年と
1946年から1948年にかけて日本車輌、日立製作所、汽車製造、
川崎車輛、田中車輛→近畿車輛、梅鉢車輛→帝国車輛、新潟鐵工所、
それに小倉、大宮、大井、鷹取の各国鉄工場で合計1,301両が製造された。

丸屋根のスハ32形(スハ32800形)の暖地向け最終製造ロットである
1938年度製造グループの基本構造を踏襲し、
前位出入台寄りには便所、洗面所が設置されており、座席定員は88名であるが、
従来座席1脚ごとに600mm幅の狭窓が配されていたのが2脚ごとに、
つまり対面式のボックス1つごとに1,000mm幅の広窓を配するように変更されて
眺望が改善されたのが最大の変更点である。

大井川鐵道のSL列車に使用される客車として、
オハ35が6両・オハフ33が2両使用されている。
オハ35 149は小倉工場製造のノーヘッダー試作車、
オハ35 857とオハフ33 469は戦後製の半切妻車であるが、
それ以外の車両は戦前製の標準的な仕様の車両である。
国鉄時代に電気暖房を装備していた車両もあるが、
大井川鐵道では暖房用電源の供給源がないため使用されておらず、
番号も原番号に戻されている。

岡山県の柵原ふれあい鉱山公園に、
片上鉄道廃線まで使用されていたホハフ3002(旧オハ35 1227)が
公園内の短い区間だが他の車両と共に動態保存されている。

岩手県盛岡市の岩手県営交通公園に、
オハ35 2001が保存されている。これはオハ35形のトップナンバーである。

東海旅客鉄道飯田線中部天竜駅構内の佐久間レールパークに、
オハ35 206・オハフ33 115の2両が保存展示されている。

(Wikipediaより)

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2008.03.19


江ノ電(江ノ島電鉄) 600形 in 扇屋

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

神奈川県・江ノ島駅周辺(扇屋)にて平成19年11月に撮影

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600形電車は、江ノ島電鉄(入線当時は江ノ島鎌倉観光)に在籍していた電車。

1970年(昭和45年)に東急デハ80形87~90を譲り受け、
当線での規格に適合するよう改造したものである。
この4両は旧番104~107であったものを玉川線廃止時に改番し、
世田谷線用として残存していたが、連結2人のり改造が実施されず、
運用本数的にも余剰であったことから譲渡対象となった。
事実、これら4両が世田谷線分離後に稼動する機会は
ごく稀であったといわれている。

前面形態は当初、東急時代の面影を色濃く残していたが、
1970年代末から腰板に前照灯、尾灯を移設し、
前面、側面戸袋窓のHゴム支持化などが行われ、
さらに前面車掌側の窓がアルミサッシ2段化されるなどの改造が繰り返された。

800形と共に全長が連接車より長く、重連対応化改造は実施されなかった。
ただし、回送列車として600形が
300形等の連接車を牽引する運用がされていた時期もある。

また実現はしなかったものの、
主電動機供出で休車となっていたデハ100形105、110を
付随車化して中間に連結し、3両編成化する計画は存在した。

塗装は当初、クリーム+朱の通称「赤電」塗装であったが、
その後、緑+クリームの江ノ電標準塗装となっている。
理由は相模湾に近い所を走行し、また鋳鉄制輪子の鉄粉を浴びて
錆や汚れが目立ちやすかったからといわれている。

1000形の増備に伴い、本形式は早期の廃車が計画されていた。
603-604編成は1983年(昭和58年)に廃車されたが、
残る601-602編成も1985年(昭和60年)に
運用終了記念として「赤電」塗装となるが(前面の塗り分けが登場時とは異なっていた)、
実際に同編成が廃車されたのは1990年(平成2年)であった。
その間に再度標準色に戻されている。
これは、諸事情により800形を先に廃車させたためである。

1990年の廃車後、601号は東京都世田谷区の
東急世田谷線宮の坂駅脇の宮坂区民センターに静態保存された。
車体は東急ライトグリーン1色とされた一方で、
江ノ電の車両番号表記と社名表記(EER)が残されている。
傍には簡単な説明書きが置かれており、昼間時は車内に入ることもできる。
主要機器は取り外されている。
保存状態は今のところ良好であるが、錆なども目立っており、今後が心配である。
世田谷線に在籍した玉川線時代からの在来車は全て廃車解体されているため、
保存車は本車と川崎市宮前区にある電車とバスの博物館で展示されている
デハ200形204のみである。

また、編成を組んでいた651号(1988年に602号から改番)は、
神奈川県藤沢市の和菓子店「扇屋」に前面のみ保存されている。
内部は和菓子製造の作業場となっており、
運転台機器などは一切撤去されている。

電車正面のサボ受けには、「江ノ電もなか」と表記されたサボが入れられている。
「扇屋」では江ノ電の車両を模した「江ノ電もなか」が販売されている。
「扇屋」は江ノ島駅 - 腰越駅間にあり、走行中の車内からでも見ることができる。
なお、「江ノ電もなか」の箱は標準塗装の他に「赤電」がある。

(Wikipediaより)

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2008.03.17


プラレール自慢

2歳の頃に買ってもらったプラレール!v ^^

【ご注意】
親がこんな環境を作り出したら、子は僕のように鉄オタになりますよ!笑

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2008.03.10


湘南モノレール 500形

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影

神奈川県・湘南江の島駅にて平成19年11月に撮影

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湘南モノレール株式会社は、
神奈川県でモノレール路線を運営する鉄道会社である。

懸垂式モノレール鉄道設備機器の導入・拡販のために、
三菱重工業、三菱商事、三菱電機、京浜急行電鉄などが出資し、
1966年(昭和41年)4月に設立した。

懸垂式モノレールの技術契約を持っていた
日本エアウェイ開発からの引き継ぎの事情もあり、
設立時は東京都港区浜松町に東京事務所を構えていた。

新幹線0系の開発に関わったことで知られる鉄道車両技術者・三木忠直は、
江の島線敷設にあたって技師長として技術部門の指揮を執り、
開業後もしばらく事業に携わっていた。

江の島線開業当初には、会社規模に応じた沿線宅地開発や
マンション(3棟)の建設を行ったほか、1975年ごろには、
仙台市営モノレール南西線構想のあった宮城県仙台市太白区の茂庭台で
不動産開発を行うなどで、現地に不動産営業所を構えていたこともある。
ただし現在不動産事業は縮小している。

日本民営鉄道協会に、モノレール専業事業者としては唯一加盟している。

湘南モノレール江の島線は、
神奈川県鎌倉市の大船駅から藤沢市の湘南江の島駅まで結ぶ
湘南モノレールのモノレール線である。
一般には会社名で湘南モノレール(しょうなんモノレール)と呼ばれる。

元々、京浜急行バスや江ノ電バスなどの路線バスでしか
アクセスできなかった沿線地域は、当路線の開業以降、
鎌倉の古都保全地域とは趣を異にする「都市地域」として開発が進んだ。

富士見町・湘南町屋両駅界隈が主に準工業地域として、
湘南深沢駅界隈が商業・住宅地域としての価値を高めたほか、
西鎌倉~目白山下間の各駅界隈では昭和初期からの別荘地であったものが
高級分譲地として再整備されるなど開発が進んだ。

そのため、右肩上がりで用務客の利用が増加し、
開業以来の2両編成では利用者を捌ききれなくなり
1975年には現在の標準組成である3両編成が登場している。

利用者の動向も1978年には観光需要が3割、
通勤・通学需要が7割であったものが、
現在では利用者の9割が通勤・通学需要に達する。

ラッシュ時は激しく混雑し、富士見町~大船間においては
神奈川県下の鉄道路線では混雑率が
最悪の部類ともいえる195%にまで達する電車もある。

それゆえ生活路線としての性格が強く、
鎌倉・江ノ島の観光に向けた交通機関として
観光ガイドなどの書籍で取り上げられることはあまりない。

大船駅と湘南江の島駅には駅員が常駐し、自動改札機も設置されている。
それ以外はすべて無人駅で、原則として乗務員が集札を行っている上、
トイレや売店、時計などはない。

軌道は旧京浜急行自動車専用道路の上空に沿う形で設置されている。
この道路は元々大船と江の島海岸を結ぶ私鉄線計画が頓挫したために
取得済み用地を日本初の自動車専用道路として整備した私道であった。

モノレール建設当時は京浜急行電鉄による所有・運営がなされており、
軌道敷設にあたってはこの形態が有利に働いたようである。
なお、現在では鎌倉市と藤沢市に売却され、一般市道に移行している。

この道路には最小曲率半径25m、最急勾配88‰という険しい箇所もある。

懸垂式モノレールの性能的には、
この道路に完全に沿う形での敷設も可能であったが、
車両の馬力、平均速度の観点を加味し最急勾配を74‰、
最小曲率半径を本線100m、駅構内50mとした。

途中2か所に道路上空を外れてトンネルを設けた箇所も存在する。
鎌倉山ロータリー付近を通らずにトンネルを通したのは
当時の付近住民の反対によるものである。

湘南モノレール500形電車は、
1988年(昭和63年)に登場した湘南モノレールの懸垂式モノレール車両である。
湘南モノレール初の冷房車となった。
1991年(平成3年)まで増備が行われ、3両編成6本(18両)が在籍する。

車体はアルミ合金製で、全車電動車編成である。編成定員は228名。

最初の編成が落成してから20年を経過しているが、
2007年(平成19年)11月末以降、
順次5000系に置き換えられて廃車される予定である。

2008年(平成20年)1月下旬には553編成が営業を離脱した。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「湘南モノレール」
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2008.03.07


ナロ80形 大井川鉄道

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / ナロ80 1

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / ナロ80 1

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / ナロ80 1

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / ナロ80 2

静岡県・新金谷駅にて平成19年9月に撮影 / ナロ80 2

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大井川鐵道が保有するお座敷客車。

1980年に登場し、1986年に1両増備された。

1980年に登場したナロ80 1は、西武鉄道のサハ1516を種車として
同社新金谷車輌区で改造された車両であるが、
1986年に登場したナロ80 2は、西武鉄道から譲り受け、
312系の中間車として使用されていたサハ1426を種車としている点が異なる。

スイテ82形と同様、側面窓は2段窓である。

窓配置は全面的に変更されておらず、
元の客用扉を埋めた部分は単独で窓が配置されており、
片側にデッキを新設している。

デッキの反対側の車端部にはサービスカウンターが設置されている。

外部塗色は旧型客車に合わせたぶどう色2号であるが、
窓下の帯は二等車を示す青色となっている。

車内は片側に通路を寄せて、通路以外は畳敷きとなっている。
冷房は装備されておらず、窓下に平型の扇風機が装備されている。

形式の「80」は、1980年に登場したことにちなむものとされている。

定期運用はなく、イベント時や車両単位での貸切扱いでSL列車に連結される。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「ナロ80」
  http://www.google.com/...

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2008.03.03


上信電鉄 200系 300形

群馬県・高崎駅にて撮影

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上信電鉄株式会社(じょうしんでんてつ)は、
群馬県に路線(上信線)を有する鉄道会社である。

余地峠を越えて佐久鉄道(現:小海線)の羽黒下駅まで延伸する計画を立て、
社名を上信電気鉄道に改称したが、
佐久方面へのバス路線を開設しただけで(後に廃止)、
鉄道の延伸は実現しなかった。

自社発注車は、かつてタブレット交換を行っていた名残で
運転席が右側にあるのが特徴的である。
また西武鉄道とは親子会社ではない
(会社成立時はむしろ東武鉄道との関係が深かった)が、
所沢工場製の車両が在籍していたり、
西武の旧型車を譲り受けて使用しているなどの関係がある。

300形電車は、上信電鉄上信線の通勤形電車で
200系のクハ(制御車)として製造された自社発注の新造車である。

1964年に東洋工機で製造された1次車(クハ301~302 。側面は1段上昇式)と、
1967年に西武所沢工場で製造された
2次車(クハ303~304。側面は2段窓で高運転台)が存在する。

1次車はデハ200形と違って前面非貫通構造であるが、
これは増結車は常に下仁田側に連結されることから、
高崎側に運転台を持つ本形式には貫通路を必要としないためである。

2次車はデハ200形とまったく同じ車体で落成したため
前面貫通構造である。

車体の基本塗装はサーモンピンク系
(上信では「コーラルレッド」と呼ぶ)1色である。
かつてはコーラルレッドに細い濃紺の帯を巻いていたが、
塗装省力化の際に廃止された。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「上信電鉄」
  http://www.google.com/...

◎Google検索「上信電鉄 200」
  http://www.google.com/...

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2008.03.02


寝台特急 なは

大阪府・高槻駅にて昭和63年3月17日に撮影

鉄友からもらった写真

鉄友からもらった写真

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なはは、九州旅客鉄道(JR九州)が京都駅~熊本駅間を
東海道本線・山陽本線・鹿児島本線経由で運行する寝台特急列車。
2008年3月15日のダイヤ改正に伴い、2008年3月14日の運行を以って廃止予定。

関西圏対鹿児島本線沿線を結ぶいわゆる「関西ブルートレイン」の一員である。
「あかつき」と京都駅~鳥栖駅間を併結運転で運行されている。

従来「かもめ」として新大阪駅~西鹿児島駅間を運行されていた
昼行気動車特急列車を独立させて運転開始。
列車名として沖縄の新聞社が公募した「なは」の名称を与えられる。

名称の由来は、上にある通り、
沖縄の新聞社が沖縄の本土復帰を願い公募したものであるが、
運行開始当初はアメリカ占領下に置かれていた沖縄県那覇市が名称由来の地となる。

また、経由地・目的地に依拠しない地名を列車名に使う列車でもあるが、
鹿児島港で船に乗り継ぐことによって
関西方面から沖縄へのアクセスの一端を担っていたという経緯もある。

ただし、1972年に沖縄が本土復帰してから30年以上経過していること、
運転区間が熊本まで短縮されて那覇からはより一層遠くなったことから、
名称として「なは」は不適切ではないかという意見も少なからずある。

また、「あかつき」との併結運転開始以来、
一部の鉄道ファンからは2つの列車名を組み合わせ「なはつき」と呼ばれる。

国鉄・JRの定期特急列車の中で、
客車・気動車・電車のすべての動力方式が用いられた愛称は
ほかに「かもめ」・「はつかり」があるが、
夜行列車(しかも客車・電車の両方)まで含めて用いられたのは「なは」のみである。
これは上記の愛称制定の事情から、
対象となる列車の運用を変更して愛称が使われ続けたことが影響している。

(Wikipediaより)

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◎Google検索「寝台特急 なは」
  http://www.google.com/...

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EF65 1001

神奈川県・戸塚駅~大船駅間にて撮影

◎Google検索「EF65 1001」