【逆説の日本史】への旅

2005.04.22


“倭” から “和” へ

“倭(わ)” から “和(わ)” に変わった理由。

それは、当時の日本人が中国との交流を進めるうちに、
自国意識を強く持ちはじめたことの表われと考えられます。

中国人が<やまとことば>の“わ”と同じ発音をする
当て字として、“倭”という字を選びましたが、
“倭”には中国語で「みにくい」という意味が含まれます。
そこで同じ“わ”に近い発音でありつつ、
当時の日本人が持っていた自国の理念(協調の精神)に
近い意を含んだ字を当ててもらいたいと中国人に伝えたと思われます。
結果、選ばれた字が“和”というわけです。

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【参考文献】
逆説の日本史(古代黎明編) / 井沢 元彦 (著)
その他、各ホームページ
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2005.02.06


倭の前の「わ」:やまとことば

中国人が日本にやってきたときに、
自分達の集まりのことを “わ” と答えた当時の日本人。
その “わ” とは、どういう意味だったのでしょう。

日本には、古来から日本でのみ使われてきた
<やまとことば>と呼ばれるものがあります。
いわゆる外来語ではなく、元祖日本語となる言葉です。

その<やまとことば>で “わ” と発音するものには、
「輪」と「環」があります。
これらは、外来語ではなく元祖日本語<やまとことば>としての “わ” です。

ちなみに「輪」と「環」には、共に○(円)的な意味、めぐらすという意味があります。
さらに「環」の方には、人の集まり、仲間、社会といった意味もあります。
このようなことから、当時の日本人が
自分達の集まりの意を伝えるために使用していた “わ” は、
「環」 の方と考えられます。

そいえば、今、首相官邸でも「環」ということば使ってますね。(^^)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/wanokuni/

当時の日本人は自分達の集まりのことを
“環(わ)” という言葉を使って中国人に伝えたかったのですが、
“環(わ)” は中国語にはないことばだったので、
中国人は、当て字を探してきて同じ発音をする中国語の “倭(わ)” を当てはめて
日本のことを “倭(わ)” と呼ぶようになってしまったと思われます。

しかし、この “倭(わ)” も その後、“和(わ)” に変わります。
どうして変わったのでしょう?

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【参考文献】
逆説の日本史(古代黎明編) / 井沢 元彦 (著)
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●ちょっと寄り道リンク
やまとことばワンポイントレッスン
大和言葉
日本語(by Yahoo)
大野晋さん(by Amazon)

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2004.12.14


なぜ日本は倭?(2)

古代の日本に中国人がやってきたとき、
当然の如く、国の概念がある中国人は
住んでいる日本人に対して国名を聞いたことでしょう。

しかしまだ、“国”という概念がない日本人は
何の意味を聞かれているのか?
さっぱりわからなかったに違いありません。
ましてや中国人の言葉もよく理解できない状況だったはずです。

そんな中、“「自分達の集まりは何なのか?」的な意味を問われている”
ということくらいは何とか理解したのでしょう。

そこで、普段から自分達の集まりのことを呼んでいる言葉として、
「わ」という言葉を中国人に伝えたのではないでしょうか。

それを聞いた中国人は、日本人は自分達(国名)を「わ」と呼んでいると
受け止め、中国語で「わ」と発音する同音字「倭」という漢字まで当て、
次第に当時の日本のことを「倭」と呼ぶようになったのではないか?という
1つの推論を立てることができます。

それでは、当時の日本人が自分達の集まりのこと呼んでいた
「わ」という言葉には、どんな意味があったのでしょうか?

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【参考文献】
逆説の日本史(古代黎明編) / 井沢 元彦 (著)
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●ちょっと寄り道リンク
日本人はるかなる旅展
インターネット博物館・倭人の形成トップページ
渡来人 - Wikipedia
日本人はどこから来たのか
渡来人について
北部九州の弥生人-渡来人とその末裔
日本人は縄文人と渡来系弥生人のハイブリッド
土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム
吉野花郎 古代学ノート その1
倭人伝逐条解説1

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2004.11.26


なぜ日本は倭?

日本は昔、「倭(わ)」と呼ばれていたことはご存知ですか?

西暦57年、
後漢の光武帝が倭の奴国王に金印を贈ったという
「漢委奴国王印」の話は有名ですね。

西暦239年、
あの卑弥呼が、魏へ使者を送ったことで、
魏の皇帝から卑弥呼に対し「新魏倭王」という称号と
銅鏡100枚をもらったという話も有名ですね。

いずれも“倭(わ)”という言葉が登場しています。

当時の日本は、中国(後漢や魏)から
“倭(わ)”と呼ばれていたことがわかります。

中国人は諸外国のそれぞれの国については、
そんな印象だけで、簡単に名をつけたりはせず、
しっかりと現地の言い方を用いて、
その国の名を呼んだり、記録したりしていたそうなんです。

そうなると、当時の日本に住んでいた人が、
中国人に対し、自分達の国は、“わ”という国だ!と
言っていたので、中国人は日本のことを“倭(わ)”と呼ぶことに
なった説が考えられますね。

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ちなみに中国から日本が“倭(わ)”と
呼ばれるようになったのは、いつ頃からなんでしょう?

古い史料では、後漢時代の「前漢書」中で、

~楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となり、歳時を以て来たり、献見すという~

という記述が見つかっています。

確かに、“倭人”って書かれていますね。

楽浪というのは、朝鮮半島の郡の1つだったそうです。
この文を訳すと、以下のようになります。

(現:朝鮮半島)楽浪郡の向こうに倭人いる。
倭人は100ほどの国をつくっている。
定期的に貢物をもってきて、礼儀を見せている。

楽浪郡は、紀元前108年から西暦313年頃まで存在したとされています。
前漢書は、後漢の班固(西暦32年~92年)が編纂したものです。

つまり、紀元前後(西暦0年前後)には、
既に日本は、“倭(わ)”と呼ばれていたことになります。

おまけに、当時の“倭人”の皆さん、読んでの通り、
立派に外交までしていたようです。(^^)

これらの史料などから、
現在の歴史学者の皆さんの中では、
中国人が日本のことを“倭(わ)”と呼ぶようになったのは、
弥生時代からという説が多いようです。
が、中には縄文時代からではないかという説もあるとのこと。

いずれにせよ、かなり古代から中国人は日本を
“倭(わ)”と呼んでいたのは確かなようです。

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中国人は諸外国のそれぞれの国についての呼び方は、
現地の言い方を用いると先ほども書きました。

ということは、
弥生時代(もしくは縄文時代)の日本に住んでいた人は、
中国からやってきた人達に対し、
「自分達の国は“わ”です!」と伝えたことになりますよね。

しかし、そもそも、
弥生時代(もしくは縄文時代)の人々に“国”という概念なんて
あったのでしょうか?

先ほど紹介した前漢書の文に、

「分かれて百余国となり・・」という部分がありました。

確かに当時の中国は、国、国、国の概念が
炸裂していました。

でも、当時の日本は、そんな“国”概念が強くあったとはあまり思えませんよね。
まだ弥生時代(もしくは縄文時代)ですから・・。

つまり、中国から見れば「分かれて百余国となり・・」と捉えた部分も
実は単なる集落の集まりに過ぎなかったんではないでしょうか?

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【参考文献】
逆説の日本史(古代黎明編) / 井沢 元彦 (著)
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