日本は昔、「倭(わ)」と呼ばれていたことはご存知ですか?
西暦57年、
後漢の光武帝が倭の奴国王に金印を贈ったという
「漢委奴国王印」の話は有名ですね。
西暦239年、
あの卑弥呼が、魏へ使者を送ったことで、
魏の皇帝から卑弥呼に対し「新魏倭王」という称号と
銅鏡100枚をもらったという話も有名ですね。
いずれも“倭(わ)”という言葉が登場しています。
当時の日本は、中国(後漢や魏)から
“倭(わ)”と呼ばれていたことがわかります。
中国人は諸外国のそれぞれの国については、
そんな印象だけで、簡単に名をつけたりはせず、
しっかりと現地の言い方を用いて、
その国の名を呼んだり、記録したりしていたそうなんです。
そうなると、当時の日本に住んでいた人が、
中国人に対し、自分達の国は、“わ”という国だ!と
言っていたので、中国人は日本のことを“倭(わ)”と呼ぶことに
なった説が考えられますね。
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ちなみに中国から日本が“倭(わ)”と
呼ばれるようになったのは、いつ頃からなんでしょう?
古い史料では、後漢時代の「前漢書」中で、
~楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となり、歳時を以て来たり、献見すという~
という記述が見つかっています。
確かに、“倭人”って書かれていますね。
楽浪というのは、朝鮮半島の郡の1つだったそうです。
この文を訳すと、以下のようになります。
(現:朝鮮半島)楽浪郡の向こうに倭人いる。
倭人は100ほどの国をつくっている。
定期的に貢物をもってきて、礼儀を見せている。
楽浪郡は、紀元前108年から西暦313年頃まで存在したとされています。
前漢書は、後漢の班固(西暦32年~92年)が編纂したものです。
つまり、紀元前後(西暦0年前後)には、
既に日本は、“倭(わ)”と呼ばれていたことになります。
おまけに、当時の“倭人”の皆さん、読んでの通り、
立派に外交までしていたようです。(^^)
これらの史料などから、
現在の歴史学者の皆さんの中では、
中国人が日本のことを“倭(わ)”と呼ぶようになったのは、
弥生時代からという説が多いようです。
が、中には縄文時代からではないかという説もあるとのこと。
いずれにせよ、かなり古代から中国人は日本を
“倭(わ)”と呼んでいたのは確かなようです。
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中国人は諸外国のそれぞれの国についての呼び方は、
現地の言い方を用いると先ほども書きました。
ということは、
弥生時代(もしくは縄文時代)の日本に住んでいた人は、
中国からやってきた人達に対し、
「自分達の国は“わ”です!」と伝えたことになりますよね。
しかし、そもそも、
弥生時代(もしくは縄文時代)の人々に“国”という概念なんて
あったのでしょうか?
先ほど紹介した前漢書の文に、
「分かれて百余国となり・・」という部分がありました。
確かに当時の中国は、国、国、国の概念が
炸裂していました。
でも、当時の日本は、そんな“国”概念が強くあったとはあまり思えませんよね。
まだ弥生時代(もしくは縄文時代)ですから・・。
つまり、中国から見れば「分かれて百余国となり・・」と捉えた部分も
実は単なる集落の集まりに過ぎなかったんではないでしょうか?
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【参考文献】
逆説の日本史(古代黎明編) / 井沢 元彦 (著)
その他、各ホームページ
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