2009.06.11


倭国について(5) 武器

【Podcasting】

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▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より

武器は、矛、楯、木の弓。
木の弓は、下は短く上は長い。
矢は竹で、鉄か骨のやじりをつけている。

[参考文献]
・石原道博さん編訳「新訂 魏志倭人伝 他三篇」(論創社)
・斎藤忠さんの著書「日本人はどこから来たか」(講談社学術文庫)より
・武光誠さんの著書「邪馬台国と卑弥呼の事典」(平凡社新書)より
・Wikipedia

盾と戈(か[ほこ])をもつ人物の絵画土器
清水風遺跡 第2次調査
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクション」より


絵画土器(盾と戈を持つ人物)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

絵画土器(盾と戈を持つ人物)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


上記絵画をモデルに再現した模型
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクション」より




広形銅矛 - 増田山遺跡 / 長さ86cm / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用
 ~厳原町教育委員会提供)




広形銅矛 - 大吉戸神社 / 長さ82-84cm / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用
 ~黒島区長藤島一夫氏提供)




広形銅矛 - 大吉戸神社 / 長さ82-89cm / 弥生時代中期後半~後期
(長崎県ホームページより引用)




広形銅矛 - 上県町佐護クビル / 弥生時代中期後半~後期
(国立博物館にて撮影)


中広形銅矛 / 須玖岡本遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)


中広形銅戈 / 紅葉ヶ丘遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)


細形銅剣 / 立石遺跡 / 弥生時代中期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)


銅矛16本と銅鐸 / 国宝
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)
島根県立古代出雲歴史博物館蔵
サライ 23より
(小学館)

銅剣358本 / 国宝
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)
島根県立古代出雲歴史博物館蔵
サライ 23より
(小学館)

銅剣に刻まれていた「×」
358本中344本に刻まれている
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)
島根県立博物館蔵
サライ 23より
(小学館)




武器としての銅矛使用方法 - 細形銅矛
(浜島書店『新詳日本史』より引用)


木の弓・吉野ヶ里遺跡出土
(情報処理推進機構:教育用画像素材集より)


鉄鏃・吉野ヶ里遺跡出土
(情報処理推進機構:教育用画像素材集より)


鉄鏃・長崎県出土
(文化遺産オンラインより)


骨の鏃・縄文時代/宮城県出土
(文化遺産オンラインより) 




銅鏃(どうぞく)[国産品]
原の辻遺跡

▼長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より
弥生時代は集団抗争が日常化した時代ともいわれており、
一支国の盟主も敏感に世の流れを感じとったに違いない。
武器や武具は本土のクニグニに劣らない程に万全の備えをしているかに見える。

▼案内板より
原の辻遺跡からは、日本最多の100点を超える
銅鏃が出土している。




三翼鏃(さんよくぞく)
原の辻遺跡

▼案内板より
古代中国で、戦闘で使用した
強力な「弩(ど)」と呼ばれる弓に装着した。


銅鏃と木鏃(もくぞく)
纒向遺跡
図録「ヤマト王権はいかにして始まったか」より
(桜井市埋蔵文化財センター)


左・銅鏃(どうぞく)の鋳型外枠
右・銅鏃(どうぞく)の鋳型(複製・復元品)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


左・銅戈(どうか)の鋳型外枠
右・銅戈(どうか)の鋳型(複製・復元品)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


弥生中期の須玖岡本遺跡群(すくおかもといせきぐん)
(浜島書店『新詳日本史』より引用)

・環濠の発見状況より、環濠が遺跡群を囲っていた可能性もあり。
・青銅器の鋳型など、生産関連のものが全国的に突出して出土している。
・生産工房と見られる建物の跡も見つかっている。
・鉄器や鉄の破片もあり、鉄器工房があったと思われる。
・ガラス工房もあったと思われる。
・生産されたものは、北部九州や四国、対馬へと配布されたと思われる。
・弥生時代後期になると工房は丘陵地から低台地上へ移動。
・弥生時代後期後半~終末にかけて対馬で大量に消費された広形銅矛の
 生産が行われていたと思われる。
・古墳時代初めには遺跡群の集落は衰退へ。


須玖坂本遺跡の青銅器工房跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)


広形銅矛鋳型 / 熊野神社 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)


広形銅戈鋳型 / 大南遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)


銅鏃鋳型(どうぞくいがた) / 須玖坂本遺跡 / 弥生時代後期
(長崎県教育委員会『発掘「倭人伝」』より引用)


木製仮面と共に出土した盾
纒向遺跡
桜井市立埋蔵文化財センターにて

盾は長さ15cmほどの破片となって
投棄されたかのような状態で検出、
表面には赤色と黒色の彩色が見られる。
祭祀の一場面で使用された可能性が考えられている。


木製の盾 
唐古・鍵遺跡
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より


2008年9月3日
青谷上寺地遺跡から緑色の顔料


2007年6月10日
鬼虎川遺跡で銅剣の鋳型片を発見


2008年6月21日
田熊石畑遺跡 一墳墓から銅剣、銅戈5点


2009年2月7日
福岡県・田熊石畑遺跡 墳墓から青銅武器15点


2008年8月14日
西野遺跡群で銅矛の再加工品が初出土


2008年2月29日
柳沢遺跡で「九州型」「大阪湾型」銅戈が同時出土


2009年2月28日
柳沢遺跡で新たに「銅戈」と「銅鐸」


2008年4月24日
国内最古の青銅製鞘尻 元岡遺跡群で出土


2009年3月4日
大福遺跡で木製よろい出土


2007年2月8日
下之郷遺跡から6重の環濠跡


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邪馬台国について

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ケロログ・歴史ラジオ

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歴史ラジオ2 |

2009.04.22


倭国について(4) 動物[牛、馬、鶏、猫、鹿、等]

【Podcasting】

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▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より

牛、馬、とら、ひょう、鵲[じゃく](こまがらす・かささぎ)、羊、などはいない。

[参考文献]
・石原道博さん編訳「新訂 魏志倭人伝 他三篇」(論創社)
・斎藤忠さんの著書「日本人はどこから来たか」(講談社学術文庫)より
・武光誠さんの著書「邪馬台国と卑弥呼の事典」(平凡社新書)より
・Wikipedia


差し牙(きば)のあるイノシシの下あご
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


ニワトリの骨?
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


鶏をかたどった土製品
唐古・鍵遺跡
弥生時代後期
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

鶏をかたどった土製品
弥生時代後期
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

▼図録・ミュージアムコレクション Vol.1より
鶏は朝の到来を告げる鳥として、日本人には馴染みの深い動物です。
鶏は大陸から運ばれた家畜の1つで、約6000年前に、
東南アジアから中国南部で家畜化されたと考えられています。
「日本には、いつから鶏がいたのか?」
現在確実な資料は、今回紹介する土製品で、
弥生時代後期には日本に鶏がいたことを示しています。
唐古・鍵遺跡の鶏形土製品は、立派なトサカや大きなくちばし、目、耳たぶが
表現され、一見して鶏とわかる良好な資料です。
この土製品は、頭部から下が細い棒状になっており、
別作りの胴部に頭部を差し込んで一体としたもので、
復元すればほぼ実物大になるでしょう。
ところで、鶏の肉や卵が食用とされたのは、
江戸時代以降と考えられています。
鶏を食べるということは比較的新しい風習です。
「古事記」では、鶏は時を告げる「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」
として登場し、神聖な鳥と考えられていたようです。


2006年12月25日
小日向遺跡群・田中遺跡から家畜舎跡らしきもの発見


ウシ、ウマについて
弥生時代の遺跡からウシやウマの骨が出土しているので
邪馬台国の時代にウシやウマがいたことはまちがいない。
そこで「魏志倭人伝」がウシ、ウマがいないと書いた理由についての
1つの仮説が立てられている。
当時、魏が軍事的に役に立つウシやウマを取りあげて
呉との戦いに使うという噂が朝鮮半島で広まっていたために、
魏の使者が来たときに、倭人がウシやウマをかくしたという。
(武光誠著・邪馬台国と卑弥呼の事典より)


2008年6月22日
イエネコ 弥生時代から?


絵画土器(鹿)
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

絵画土器(高床建物と鹿)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

絵画土器
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


鹿狩りの様子 
香川県で出土した銅鐸
東京国立博物館蔵
週刊 ビジュアル日本の歴史 No.109より
(デアゴスティーニ)

弥生時代の遺跡を調査し、その出土骨のうち
シカとブタ(イノシシ)の割合を見てみると、
圧倒的にシカの骨が少ないことがわかる。
縄文時代では盛んに行われたシカ狩りが、
弥生時代早期以降急激に衰退していったことは明らかである。
ただし出雲だけは例外で、中期になっても
シカ狩りは行われていた。
また東日本では相変わらずシカとイノシシを
ほぼ1対1の割合で狩猟している。
この時代、シカ狩りが行われなくなったのは、
シカを土地の精霊と考えるようになったことに由来するらしい。
シカの角は毎年春に生え代わるが、
弥生人たちはこれを春にまいて秋に実るイネと同一視し、
その体から土地を連想したと思われるのである。
シカを土地の象徴と見ることが、シカ狩りの制限につながったのだ。


2009年3月27日
兵庫県・東園田遺跡 タコつぼにシカの絵


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邪馬台国について

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ケロログ・歴史ラジオ

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歴史ラジオ2 |

2009.03.28


倭国について(3) 米、稲作、畑作、農具

【Podcasting】

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▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より

稲、麻類(紵麻=苧麻[からむし])を植え、くわをつくり、蚕を飼って糸をつむぎ、
麻布や絹、そのほかを織る。

[参考文献]
・石原道博さん編訳「新訂 魏志倭人伝 他三篇」(論創社)
・斎藤忠さんの著書「日本人はどこから来たか」(講談社学術文庫)より
・武光誠さんの著書「邪馬台国と卑弥呼の事典」(平凡社新書)より
・Wikipedia

刈りとられた稲束(いなたば)と稲籾(いねもみ)
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より




復元水田 / 菜畑遺跡
(末盧館パンフレットより引用)




炭化米 / 菜畑遺跡
(末盧館パンフレットより引用)

▼案内板より
菜畑遺跡から出土した米は真っ黒い炭になっており、
炭化米と呼ばれています。
おそらく、水田から倉庫へ運搬の途中に落下したモミや玄米で、
約350粒ほど発見されました。
この中にはモミの先のノゲまで残ったものや、
モミが半分はがれていたものなどがありました。
この炭化米は短粒型(たんりゅうがた)のジャポニカ種と呼ばれるものです。
しかし、縄文時代の炭化米には10%程度シイナ(実らない米)が含まれており、
品種改良と気候条件や栽培技術が未熟だったことがうかがえます。


▼末盧館パンフレットより
菜畑では今から2500~2600年前の縄文時代晩期に、
大陸から伝えられた稲作を日本で初めて行いました。
遺跡からは、これを証明する多数の炭化した米、
稲穂をつみとる石包丁・木のクワ・エブリなどとともに
小区画(20~30㎡)の水田跡も発見されました。
また、水稲だけではなく、アワ・ソバ・ダイズ・ムギなどの
五穀をはじめ、メロン・ゴボウ・クリ・モモなどの果実・根菜も
栽培していました。
家畜としてのブタ(イノシシ)も飼育していたのではないかと考えられ、
菜畑は文字どおり「日本農業の原点」であることを証明しました。


・日本の稲は短粒(たんりゅうしゅ)ジャポニカ種で、
 起源はインド奥地とされる。
・中国大陸から直接伝わった説の他、
 中国中部・南部→東シナ海→山東半島(さんとうはんとう)
 →朝鮮半島→倭国(日本)のルートで伝わった説の支持も高い。
・弥生時代の水田の規模は今よりは小さい
・自然にわき出た地下水を利用のため、低湿地を利用。


青森県弘前市にも弥生時代の水田跡
砂沢遺跡(すなざわいせき)
図解 古代史より
(成美堂出版)


2007年7月26日
沓形遺跡で津波被害を受けた水田跡を発見


2008年6月10日
京都で関西最古級のコメ粒発見


2008年9月4日
東日本最古の畑の跡か 静岡・手越向山遺跡


2007年5月31日
下之郷遺跡でメロンの果肉を発見


2009年3月13日
縄文期の大豆栽培確実 八ケ岳南ろくの遺跡に痕跡


鍬(くわ)出土状況 / 弥生時代中期~後期
吉野ヶ里遺跡
図録・弥生時代の吉野ヶ里より
(佐賀県教育委員会)


木製の農具 / 弥生時代中期~後期
吉野ヶ里遺跡
図録・弥生時代の吉野ヶ里より
(佐賀県教育委員会)


木臼
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて

竪杵
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


鋤(すき)
唐古・鍵遺跡
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


木製仮面(クワを転用)
纒向遺跡
桜井市立埋蔵文化財センターにて

木製仮面(クワを転用)
纒向遺跡
桜井市立埋蔵文化財センターにて

▼案内板より
この木製仮面は、平成19年4月~6月に桜井市大字太田で実施した
第149次調査において、太田池の底で確認された土坑(どこう)より出土しました。
長さは約26cm、幅は約21.5cmを測り、ちょうど人間の顔を
おおいかくすことができる大きさを持っています。
アカガシ製の鍬(くわ)を転用してつくられたもので、
口は鍬の柄の穴をそのまま利用していますが、両目部分の穴は
新たにあけられており、高く削り残した鼻には鼻孔の表現が見られます。
また眉毛は線刻により表現されており、その周辺にはわずかに
赤色顔料が付着していました。
ヒモを通す孔(あな)などは見られず、手に持って顔を覆ったものと推定されます。
この木製仮面は、共伴(きょうはん)した土器から庄内1式期頃(3世紀前半)の
ものと考えられます。
日本列島では縄文時代の土製仮面の存在が知られていますが、弥生時代や
古墳時代の仮面の実例はほかに見られません。
また木製の仮面としては、これまで7世紀代のものが最古とされていましたが、
本例はそれをはるかに遡る(さかのぼる)事例となりました。
木製仮面は他の多くの木製品とともに、土坑から出土しました。
このことは従来から考えられている土坑祭祀の一場面で、
仮面が用いられていたことを示唆しています。
農具である鍬を転用していることを考えると、
その祭祀は農耕に関連するものであったかもしれません。
纒向遺跡でおこなわれた祭祀の形態は、依然として不明な部分が多く残されています。
土坑出土の木製仮面は、祭祀形態の研究に新たな視点を
与えてくれる貴重な資料と言えるでしょう。

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邪馬台国について

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ケロログ・歴史ラジオ

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歴史ラジオ2 |

2009.03.08


倭国について(2) 髪、衣服、繊維

【Podcasting】

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▼魏志倭人伝(三国志・魏書東夷伝倭人条)より

男たちは皆、髪をたばね木綿を頭に巻き
横幅の広い布を縫わずに体へ巻きつけ服にしている。

女たちは髪をたばねて頭の上に折りまげ、のせている。
その着物は、一枚の布の真ん中に穴をあけ、そこから頭を出して着る。

稲、麻類(紵麻=苧麻[からむし])を植え、くわをつくり、蚕を飼って糸をつむぎ、
麻布や絹、そのほかを織る。

[参考文献]
・石原道博さん編訳「新訂 魏志倭人伝 他三篇」(論創社)
・斎藤忠さんの著書「日本人はどこから来たか」(講談社学術文庫)より
・武光誠さんの著書「邪馬台国と卑弥呼の事典」(平凡社新書)より
・Wikipedia


頭に巻いていた木綿は木緜(ゆふ)と記され
楮(こうぞ)等の樹皮をはぎ、繊維を糸として布に織ったものと考えられ
当時は現在のように<木綿=コットン>と限られた意味ではなかった。

古代の衣のはなし・徳島県埋蔵文化財センター


弥生時代の男性の服を袈裟衣(けさい)、
女性の服を貫頭衣(かんとうい)ということもある。

袈裟衣と貫頭衣は東南アジアを中心に分布。
フィリピン→台湾→沖縄→倭国へと伝わったという説あり。
貫頭衣は今でも東南アジアの一部に残っている。
現在の貫頭衣 by Google検索


▼豆メモ
大袈裟とは


弥生人の衣装
風俗博物館
図解古代史(成美堂出版)より


弥生人の服(貫頭衣)を復元 / 板付遺跡弥生館


織物片のなかには、日本茜や貝紫(かいむらさき)による
染色がなされているものが確認された。
写真は復元された「弥生時代上層人の衣装」
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より


復元:貝紫で染色した布・糸
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より


貝紫を採取したアカニシと染めた布(参考品)
唐古・鍵考古学ミュージアムにて


朱の付着がみられる織りが繊細な透目(とうめ)の絹
弥生時代中期
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より


左:縫い針、右:麻縄
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より

唐古・鍵遺跡では、主に大麻を利用して糸の製作が行われた。
糸を撚る(よる)道具として、紡錘車が知られており、
回転を利用して均質な糸を撚ることができた。


糸を撚る(よる)紡錘車(ぼうすいしゃ)
弥生時代中期
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクションVol.1」より

写真は鹿角の根元を輪切りにし、薄く丁寧に磨き上げた
精巧な仕上げが施された紡錘車。


糸を撚る(よる)道具と糸巻き
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より


機を織る道具
上:布巻具、下:緯打具(よこうちぐ)
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より


機織り(はたおり)の風景
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録」より

弥生時代には、大陸から機織り技術が伝わった。
唐古・鍵遺跡で出土した布切れには、二本の糸をあわせて撚る
「併糸(あわせいと)」という技術がみられ、織りはたいへん細密である。
併糸は平絹にみられる技術でもある。


大麻製の布切れ
弥生時代中期
図録「唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクションVol.1」より

偶然に火を受け炭化したため、原形を保った状態で出土。
織りが細密で、経糸(たていと)や緯糸(よこいと)の一部に
併糸(あわせいと)がみられることから、当時の布としては高級品であると見られる。


甕棺から、人骨、イモガイ製腕輪と共に検出された絹、大麻片
弥生時代後期初頭
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より


縫い目の残る絹織物
弥生時代中期
図録「弥生時代の吉野ヶ里」より


巾着状絹製品
図録「ヤマト王権はいかにして始まったか」より

纏向遺跡で唯一の絹製品。
巾着は平織りの絹の布で物を包んだ後、口部分は糸は束ねて
僅かにねじっただけの撚りのかかっていない紐で結んでいる。
大きさは高さ3.4cm、厚みは2.4cm、内部に何が納められているかを
調べるためX線撮影を行ったが反応は少なく、金属質のものではなく
有機質の物が包まれている事以外はよく解っていない。


佐賀県・吉野ヶ里遺跡の織物


JANJAN
からむし織の機音

福島県昭和村 からむし織


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邪馬台国について

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ケロログ・歴史ラジオ

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歴史ラジオ2 |

2009.03.01


どうして、三国志?邪馬台国?

現在、歴史ラジオで進めている内容について

歴史ラジオ2 |

2009.02.01


天の岩屋 <古事記・日本書紀(4)>

【Podcasting】

朗読部分は速度を107%に設定しています。

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古事記物語 / 著・鈴木三重吉

 天照大神(あまてらすおおかみ)と、二番目の弟さまの月読命(つきよみのみこと)とは、おとうさまのご命令に従って、それぞれ大空と夜の国とをお治めになりました。

 ところが末のお子さまの須佐之男命(すさのおのみこと)だけは、おとうさまのお言いつけをお聞きにならないで、いつまでたっても大海(おおうみ)を治めようとなさらないばかりか、りっぱな長いおひげが胸(むね)の上までたれさがるほどの、大きなおとなにおなりになっても、やっぱり、赤んぼうのように、絶えまもなくわんわんわんわんお泣(な)き狂いになって、どうにもこうにも手のつけようがありませんでした。そのひどいお泣き方といったら、それこそ、青い山々の草木も、やかましい泣き声で泣き枯(か)らされてしまい、川や海の水も、その火のつくような泣き声のために、すっかり干(ひ)あがったほどでした。

 すると、いろんな悪い神々たちが、そのさわぎにつけこんで、わいわいとうるさくさわぎまわりました。そのおかげで、地の上にはありとあらゆる災(わざわい)が一どきに起こってきました。

 伊弉諾命(いざなぎのみこと)は、それをご覧(らん)になると、びっくりなすって、さっそく須佐之男命(すさのおのみこと)をお呼(よ)びになって、

「いったい、おまえは、わしの言うことも聞かないで、何をそんなに泣き狂ってばかりいるのか」ときびしくおとがめになりました。

 すると須佐之男命(すさのおのみこと)はむきになって、

「私(わたし)はおかあさまのおそばへ行きたいから泣(な)くのです」とおっしゃいました。

 伊弉諾命(いざなぎのみこと)はそれをお聞きになると、たいそうお腹立(はらだ)ちになって、

「そんなかってな子は、この国へおくわけにゆかない。どこへなりと出て行け」とおっしゃいました。

 命(みこと)は平気で、

「それでは、お姉上さまにおいとま乞(ご)いをしてこよう」とおっしゃりながら、そのまま大空の上の、高天原(たかまのはら)をめざして、どんどんのぼっていらっしゃいました。

 すると、力の強い、大男の命(みこと)ですから、力いっぱいずしんずしんと乱暴(らんぼう)にお歩きになると、山も川もめりめりとゆるぎだし、世界じゅうがみしみしと震(ふる)い動きました。

 天照大神(あまてらすおおかみ)は、その響(ひび)きにびっくりなすって、

「弟があんな勢いでのぼって来るのは、必ずただごとではない。きっと私(わたし)の国を奪(うば)い取ろうと思って出て来たに相違(そうい)ない」

 こうおっしゃって、さっそく、お身じたくをなさいました。女神はまず急いで髪(かみ)をといて、男まげにおゆいになり、両方のびんと両方の腕(うで)とに、八尺(やさか)の曲玉(まがたま)というりっぱな玉の飾(かざ)りをおつけになりました。そして、お背中には、五百本、千本というたいそうな矢をお負(お)いになり、右手に弓を取ってお突きたてになりながら、勢いこんで足を踏(ふ)みならして待ちかまえていらっしゃいました。そのきついお力ぶみで、お庭の堅(かた)い土が、まるで粉雪(こなゆき)のようにもうもうと飛びちりました。

 まもなく須佐之男命(すさのおのみこと)は大空へお着きになりました。

 女神はそのお姿(すがた)をご覧(らん)になると、声を張りあげて、

「命(みこと)、そちは何をしに来た」と、いきなりおしかりつけになりました。すると命は、

「いえ、私はけっして悪いことをしにまいったのではございません。おとうさまが、私の泣いているのをご覧(らん)になって、なぜ泣くかとおとがめになったので、お母上のいらっしゃるところへ行きたいからですと申しあげると、たいそうお怒(おこ)りになって、いきなり、出て行ってしまえとおっしゃるので、あなたにお別れをしにまいったのです」とお言いわけをなさいました。

 でも女神はすぐにはご信用にならないで、

「それではおまえに悪い心のない証拠(しょうこ)を見せよ」とおっしゃいました。命(みこと)は、

「ではお互(たが)いに子を生んであかしを立てましょう。生まれた子によって、二人の心のよしあしがわかります」とおっしゃいました。

 そこでごきょうだいは、天安河(あめのやすのかわ)という河(かわ)の両方の岸に分かれてお立ちになりました。そしてまず女神(めがみ)が、いちばん先に、命(みこと)の十拳(とつか)の剣(つるぎ)をお取りになって、それを三つに折って、天真名井(あめのまない)という井戸で洗って、がりがりとおかみになり、ふっと霧(きり)をお吹きになりますと、そのお息の中から、三人の女神がお生まれになりました。

 そのつぎには命(みこと)が、女神の左のびんにおかけになっている、八尺(やさか)の曲玉(まがたま)の飾(かざ)りをいただいて、玉の音をからからいわせながら、天真名井(あめのまない)という井戸で洗いすすいで、それをがりがりかんで霧をお吹き出しになりますと、それといっしょに一人の男の神さまがお生まれになりました。その神さまが、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)です。

 それからつぎには、女神の右のびんの玉飾(たまかざ)りをお取りになって、先(せん)と同じようにして息をお吹きになりますと、その中からまた男の神が一人お生まれになりました。

 つづいてこんどは、おかずらの玉飾りを受け取って、やはり真名井(まない)で洗って、がりがりかんで息をお吹きになりますと、その中から、また男の神が一人お生まれになり、いちばんしまいに、女神の右と左のお腕(うで)の玉飾りをかんで、息をお吹きになりますと、そのたんびに、同じ男神が一人ずつ――これですべてで五人の男神がお生まれになりました。

 天照大神(あまてらすおおかみ)は、

「はじめに生まれた三人の女神は、おまえの剣(つるぎ)からできたのだから、おまえの子だ。あとの五人の男神は私(わたし)の玉飾りからできたのだから、私の子だ」とおっしゃいました。

 命は、

「そうら、私が勝った。私になんの悪心(あくしん)もない印(しるし)には、私の子は、みんなおとなしい女神ではありませんか。どうです、それでも私は悪人ですか」と、それはそれは大いばりにおいばりになりました。そして、その勢いに乗ってお暴(あば)れだしになって、女神がお作らせになっている田の畔(あぜ)をこわしたり、みぞを埋(う)めたり、しまいには女神がお初穂(はつほ)を召(め)しあがる御殿(ごてん)へ、うんこをひりちらすというような、ひどい乱暴(らんぼう)をなさいました。

 ほかの神々は、それを見てあきれてしまって、女神に言いつけにまいりました。

 しかし女神はちっともお怒(おこ)りにならないで、

「何、ほっておけ。けっして悪い気でするのではない。きたないものは、酔(よ)ったまぎれに吐(は)いたのであろう。畔(あぜ)やみぞをこわしたのは、せっかくの地面を、そんなみぞなぞにしておくのが惜(お)しいからであろう」

 こうおっしゃって、かえって命(みこと)をかばっておあげになりました。

 すると命は、ますます図(ず)に乗って、しまいには、女たちが女神のお召物(めしもの)を織っている、機織場(はたおりば)の屋根を破って、その穴(あな)から、ぶちのうまの皮をはいで、血まぶれにしたのを、どしんと投げこんだりなさいました。機織女(はたおりおんな)は、びっくりして遁(に)げ惑(まど)うはずみに、梭(ひ)で下腹(したはら)を突(つ)いて死んでしまいました。

 女神は、命のあまりの乱暴さにとうとういたたまれなくおなりになって、天(あめ)の岩屋(いわや)という石室(いしむろ)の中へお隠(かく)れになりました。そして入口の岩の戸をぴっしりとおしめになったきり、そのままひきこもっていらっしゃいました。

 すると女神は日の神さまでいらっしゃるので、そのお方がお姿(すがた)をお隠(かく)しになるといっしょに、高天原(たかまのはら)も下界の地の上も、一度にみんなまっ暗(くら)がりになって、それこそ、昼と夜との区別もない、長い長いやみの世界になってしまいました。

 そうすると、いろいろの悪い神たちが、その暗がりにつけこんで、わいわいとさわぎだしました。そのために、世界じゅうにはありとあらゆる禍(わざわい)が、一度にわきあがって来ました。

 そんなわけで、大空の神々たちは、たいそうお困(こま)りになりまして、みんなで安河原(やすのかわら)という、空の上の河原(かわら)に集まって、どうかして、天照大神に岩屋からお出ましになっていただく方法はあるまいかといっしょうけんめいに、相談をなさいました。

 そうすると、思金神(おもいかねのかみ)という、いちばんかしこい神さまが、いいことをお考えつきになりました。

 みんなはその神のさしずで、さっそく、にわとりをどっさり集めて来て、岩屋の前で、ひっきりなしに鳴かせました。

 それから一方では、安河(やすのかわ)の河上から固(かた)い岩をはこんで来て、それを鉄床(かなどこ)にして、八咫(やた)の鏡(かがみ)というりっぱな鏡を作らせ、八尺(やさか)の曲玉(まがたま)というりっぱな玉で胸飾(むなかざ)りを作らせました。そして、天香具山(あめのかぐやま)という山からさかきを根抜(ぬ)きにして来て、その上の方の枝(えだ)へ、八尺(やさか)の曲玉(まがたま)をつけ、中ほどの枝へ八咫(やた)の鏡(かがみ)をかけ、下の枝へは、白や青のきれをつりさげました。そしてある一人の神さまが、そのさかきを持って天の岩屋に立ち、ほかの一人の神さまが、そのそばでのりとをあげました。

 それからやはり岩屋の前へ、あきだるを伏(ふ)せて、天宇受女命(あめのうずめのみこと)という女神に、天香具山(あめのかぐやま)のかつらのつるをたすきにかけさせ、かつらの葉を髪飾(かみかざ)りにさせて、そのおけの上へあがって踊りを踊らせました。

 宇受女命(うずめのみこと)は、お乳(ちち)もお腹(なか)も、もももまるだしにして、足をとんとん踏(ふ)みならしながら、まるでつきものでもしたように、くるくるくるくると踊(おど)り狂(くる)いました。

 するとそのようすがいかにもおかしいので、何千人という神たちが、一度にどっとふきだして、みんなでころがりまわって笑いました。そこへにわとりは声をそろえて、コッケコー、コッケコーと鳴きたてるので、そのさわぎといったら、まったく耳もつぶれるほどでした。

 天照大神は、そのたいそうなさわぎの声をお聞きになると、何ごとが起こったのかとおぼしめして、岩屋の戸を細めにあけて、そっとのぞいてご覧(らん)になりました。そして宇受女命(うずめのみこと)に向かって、

「これこれ私(わたし)がここに、隠れていれば、空の上もまっくらなはずだのに、おまえはなにをおもしろがって踊っているのか。ほかの神々たちも、なんであんなに笑いくずれているのか」とおたずねになりました。

 すると宇受女命は、

「それは、あなたよりも、もっと貴(とうと)い神さまが出ていらっしゃいましたので、みんなが喜んでさわいでおりますのでございます」と申しあげました。

 それと同時に一人の神さまは、例の、八咫(やた)の鏡(かがみ)をつけたさかきを、ふいに大神の前へ突き出し
ました。鏡には、さっと、大神のお顔がうつりました。大神はそのうつった顔をご覧になると、

「おや、これはだれであろう」とおっしゃりながら、もっとよく見ようとおぼしめして、少しばかり戸の外へお出ましになりました。

 すると、さっきから、岩屋のそばに隠(かく)れて待ちかまえていた、手力男命(たぢからおのみこと)という大力の神さまが、いきなり、女神のお手を取って、すっかり外へお引き出し申しました。それといっしょに、一人の神さまは、女神のおうしろへまわって、

「どうぞ、もうこれからうちへはおはいりくださいませんように」と申しあげて、そこへしめなわを張りわたしてしまいました。

 それで世界じゅうは、やっと長い夜があけて、再び明るい昼が来ました。

 神々たちは、それでようやく安心なさいました。そこでさっそく、みんなで相談して、須佐之男命(すさのおのみこと)には、あんなひどい乱暴(らんぼう)をなすった罰(ばつ)として、ご身代をすっかりさし出させ、そのうえに、りっぱなおひげも切りとり、手足の爪(つめ)まではぎとって、下界へ追いくだしてしまいました。

 そのとき須佐之男命(すさのおのみこと)は、大気都比売命(おおけつひめのみこと)という女神に、何か物を食べさせよとおおせになりました。大気都比売命(おおけつひめのみこと)は、おことばに従って、さっそく、鼻の穴(あな)や口の中からいろいろの食べものを出して、それをいろいろにお料理してさしあげました。

 すると須佐之男命(すさのおのみこと)は大気都比売命(おおけつひめのみこと)のすることを見ていらしって、

「こら、そんな、お前の口や鼻から出したものがおれに食えるか。無礼なやつだ」と、たいそうお腹立(はらだ)ちになって、いきなり剣を抜(ぬ)いて、大気都比売命(おおけつひめのみこと)を一うちに切り殺しておしまいになりました。

 そうすると、その死がいの頭から、かいこが生まれ、両方の目にいねがなり、二つの耳にあわがなりました。それから鼻にはあずきがなり、おなかに、むぎとだいずがなりました。

 それを神産霊神(かみむすびのかみ)がお取り集めになって、日本じゅうの穀物(こくもつ)の種になさいました。

 須佐之男命(すさのおのみこと)は、そのまま下界へおりておいでになりました。

青空文庫より

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【天真名井】

◎宮崎観光写真さんより
  http://www.pmiyazaki.com/...

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【天岩戸神社】

▼Wikipediaより
天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)は、
宮崎県西臼杵郡高千穂町にある神社である。
旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。
岩戸川を挟んで東本宮と西本宮がある。
東本宮は天照皇大御神、
西本宮は大日孁命(おおひるめのみこと)を祀るとしているが、
どちらも天照大神の別名である。
西本宮は本殿を持たず、
日本神話に登場する天岩屋であると伝えられる洞窟を神体とする。
創建の由緒は不明であるが、
社伝によれば瓊瓊杵尊が鎮祭したのが起源であるという。
同じ高千穂町最古の神社の高千穂神社の創建が、
伊勢神宮と同じ垂仁天皇の時代とされていることから、
現実には、この時期に社殿が建てられたと地元の郷土史家は推定している。
現在ある社殿は、弘仁年間(810年 - 824年)に大神惟基によって再興された。

鳥居

御祭神

御籠りの場所案内

境内にて

西本宮にて

西本宮にて

西本宮にて

西本宮にて

西本宮にて

西本宮 拝殿にて

西本宮 拝殿にて

西本宮 拝殿にて

西本宮 拝殿にて

西本宮 拝殿にて

西本宮 拝殿にて

西本宮 にて

古代銀杏

古代銀杏

西本宮 にて

招霊の木

手力男命(たぢからおのみこと)

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【天安河原】

▼Wikipediaより
天岩戸神社から岩戸川を500mほど遡った所の河原は
「天安河原(あまのやすかわら)」と呼ばれ、
岩戸隠れの際に八百万の神々が集まって相談した場所と伝えられる。
河原の中央部にある洞窟・仰慕窟には天安河原宮があり、
思兼神を主祭神として八百萬神が祀られている。

遥拝所

遥拝所

遥拝所

遥拝所

遥拝所

入口

八百萬神とありますが、
具体的に800万という神の数ではなく
“多くの神”という意味です。

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【神楽】

重要無形民俗文化財指定

高千穂地方に伝承されている神楽は、
天照大神が天の岩戸に隠れられた折に、岩戸の前で天鈿女命が
調子面白く舞ったのが始りとされており、
古来私共の祖先は永い間この神楽を伝承して今日に及んでいる。

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【手力雄の舞】

天照大神が天の岩戸にお隠れになったので、
力の強い手力雄命が天の岩戸を探し出すため
静かに音を聞いたり、考えたりする様子を表現。

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【鈿女の舞】

天の岩戸の所在がはっきりしたので、
岩戸の前で面白くおかしく舞い、
天照大神を岩屋より誘い出そうとする舞。

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【戸取の舞】

天の岩屋も岩戸の戸も所在がはっきりしたので、
手力雄命が岩戸を取り除いて
天照大神を迎え出す舞。

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◎Google検索「古事記」
  http://www.google.com/...

◎Google検索「日本書紀」
  http://www.google.com/...

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【古事記・日本書紀 Podcasting】
(1)概要紹介
(2)天地開闢・国産み・黄泉の国
(3)黄泉の国・天照大神の誕生
(4)天の岩屋

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