近代日本

2010.01.25

黒船来航 ペリー 浦賀 久里浜 [1853年]

浦賀湾 (写真中央の沖付近に黒船が来航)

燈明堂から眺めた浦賀沖

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1853年(嘉永6年6月3日)4隻の黒船が浦賀に来航しました。
突然現れた大きな黒船は、およそ2世紀に渡って鎖国を続けていた日本人を、
驚かせました。

黒船を率いるペリー提督の目的は、当時のアメリカ大統領、
ミラード・フィルモアからの親書を日本に手渡すことでした。
親書の内容は友好を願うものでしたが、アメリカ政府の本来の目的は
次の点にありました。

「日本近海で難破した船や、悪天候のために日本の港に入った
アメリカ船の乗組員の生命や財産を保護すること。
アメリカ船が食料、水、燃料を積み込んだり、船を修理するために
入港できるようにすること。
アメリカ船が寄港し、
物々交換や積み荷を売ることができるようにすること」

ペリー提督は、親書を上陸して手渡したいと幕府に要求しました。
両者は旗艦・サスケハナ号で交渉の末、7月14日(太陽暦[グレゴリオ暦])、
ペリー一行の久里浜への上陸が実現します。
幕府は浦賀奉行・戸田伊豆守氏栄(とだいずのかみうじよし)と、
井戸石見守弘道(いどいわみのかみひろみち)を応接役として、
ペリーから大統領の親書を受け取りました。
この出来事を契機として、日本は開国への道を歩み始めたのです。

当時、日本では1635年(寛永12年)から鎖国が続いていました。
外国船は、中国とオランダの船以外の来航が禁じられ、
貿易は長崎一港だけに制限されていたのです。
それだけに突然現れた大きな黒船に、庶民はとても驚き、
浦賀はもとより日本中が大騒ぎになりました。

(ペリー記念館)

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▼Wikipediaより

幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、
ペリーの来航が将軍に
アメリカ合衆国大統領親書を渡すことを目的とすることを把握したが、
ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。

続いて同じく香山栄左衛門が訪ねたが対応は変わらず、
親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。

香山は上司と相談する為に4日の猶予をくれるように頼んだが、
ペリーは3日なら待とうと答え、
さらに親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、
江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすると脅しをかけた。

このとき第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、
国家の重大事を決定できる状態には無かった。

老中首座阿部正弘は、
6月6日(同年7月11日)に国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論に至ったため、
嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、
下曽根信敦率いる部隊の警備の下、
浦賀奉行の戸田伊豆守・井戸石見守がペリーと会見した。

ペリーは彼等に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡したが、
幕府は将軍が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求したため、
ペリーは返事を聞く為、1年後に再来航すると告げた。

艦隊は6月12日(同年7月17日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して香港へ帰った。

それからわずか10日後の6月22日(同年7月27日)に将軍家慶は死去すると、
13代将軍に家定が就いたが、彼は病弱で国政を担えるような人物ではなかった。
しかし老中等にも名案は無く、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、
老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。
そこで彼は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、
幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を聞こうとしたが、
これは開幕以来初めてであった。

◎Wikipedia 黒船来航
  http://ja.wikipedia.org/...

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■1853年にやって来た4隻の黒船

蒸気船 サスケハナ号 SUSQUEHANNA 旗艦
艦長 F.ブキャナン
全長257フィート、2,450トン、大砲6門

蒸気船 ミシシッピー号 MISSISSIPPI
艦長 S.S.リー
全長225フィート、1,692トン、大砲12門

帆船 プリマス号 PLYMOUTH
艦長 J.ケリー
全長147フィート、989トン、大砲4門

帆船 サラトガ号 SARATOGA
艦長 W.S.ウォルター
全長150フィート、882トン、大砲4門

▲サスケハナ号
1850年進水、外輪式スチーム・スループ、
木骨木皮、一部鉄材、総トン数2,450t、
排水量3,824t、長さ257フィート(約78.4m)、
幅45フィート(約13.7m)、速力12.5ノット、
砲16門、乗組員平時230人、戦時306人。

(浦賀郷土資料館)

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1853年
6月 3日 浦賀来航
6月 4日 与力中島に代わって香山が交渉
6月 6日 ミシシッピー号江戸湾侵入。香山が抗議し引き返す。
6月 9日 アメリカ大統領の国書受理

画像の暦は、太陽暦(グレゴリオ暦)

(ペリー記念館)

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■ペリー艦隊 来航 略年譜 (太陽暦[グレゴリオ暦])

1852年(嘉永5年)11月24日 
アメリカ・ノーフォークを出航

1853年(嘉永6年) 5月23日
中国・香港を出航

1853年(嘉永6年) 7月 2日
沖縄・那覇を出航

1853年(嘉永6年) 7月 8日
浦賀沖に到着

1853年(嘉永6年) 7月14日
久里浜に上陸(国書を渡す)

1853年(嘉永6年) 7月17日
江戸湾を退去(香港へ)

1854年(嘉永7年) 1月14日
中国・香港を出航

1854年(嘉永7年) 2月13日
横浜・小柴沖に来航

1854年(嘉永7年) 3月 8日
横浜村に上陸

1854年(嘉永7年) 3月31日
神奈川条約[日米和親条約]締結

1854年(嘉永7年) 4月14日
伊豆・下田港開港(ペリー寄港)

1854年(嘉永7年) 5月17日
北海道・箱館港開港(ペリー寄港)

1854年(嘉永7年) 6月28日
日本を退去・・・香港へ

香港集結後、各船 単独帰国

1854年(嘉永7年) 9月11日
ペリー提督は蒸気船ヒンドゥスタンにて
単身帰国(疲れと持病のリゥマチ悪化のため)

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■ペリー提督(マシュー・カルブレイス・ペリー)

マシュー・カルブレイス・ペリーは1794年、
ロードアイランド州ニューポートに生まれました。
ペリーは、15歳でアメリカ海軍に士官候補生として入り、
世界の海で経験を積み重ねました。
1852年(嘉永5年)に東インド艦隊司令長官に任命され、
日本遠征の重責を担いました。
1853年、浦賀沖に来航し、日本に開国を要求。
翌年に再び江戸湾に入港して日米和親条約(神奈川条約)を締結しました。
帰国後に「日本遠征記」を編纂しましたが、編纂が終わった翌年の
1858年3月、リューマチ性の心臓発作により、63年の生涯を閉じました。

(ペリー記念館)

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■1853年 ペリー来航に関係した人々

戸田伊豆守(とだいずのかみ) 氏栄(うじよし) 奉行
ペリー司令官よりアメリカ大統領フィルモアの国書受け取る

井戸石見守(いどいわみのかみ) 弘道(ひろみち) 奉行
在府浦賀奉行とし江戸に居た
浦賀に帰り、戸田伊豆守の補佐として接見した

中島三郎助(なかじまさぶろうすけ) 与力
通訳の堀達之助と最初に「サスケハナ」に乗り込み交渉の立役者になる。
外国との付き合いは無く外国船は長崎(出島)に行く様に話す。
長崎なら外交交渉が出来る事をペリー提督に伝えた。

香山栄左衛門(かやまえいざえもん) 与力
中島三郎助と義兄弟。
中島三郎助の紹介により、ニセ浦賀奉行として交渉に当たる。
ペリー側の信頼が高く、1954年、横浜の交渉にも参加する。

堀達之助(ほりたつのすけ) 通訳
1848年、漂着した捕鯨船員「マクドナルト」から日本で初めて
「英語」を学んだ。
中島三郎助が「サスケハナ」を訪れた時、通訳として同行した。
語学の評価が高く、1954年の日米和親条約の和解(和訳)にも当たる。

戸田伊豆守 氏栄

中島三郎助 与力

(ペリー記念館)

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■浦賀奉行所

享保5年(1720年)に奉行所が下田から浦賀へ移されました。
その業務は、船改め(ふなあらため)をはじめとして、
海難救助や地方役場としての仕事などを行いました。
また、文化・文政(1804年~1830年)のころから、
たびたび日本近海に出没するようになった異国船から
江戸を防備するため、海防の最前線として、
さらに重要な役割を果たすようになりました。
享保5年から、江戸幕府が終わる慶応4年(1868年)までの
約150年間に、奉行は2人制の時期もありましたが、
初代の堀隠岐の守から最後の土方出雲守まで53人が勤めました。
また奉行所には、与力10騎同心50人の役人たちも勤めていました。
現在では、奉行所をとり囲む堀の石垣と、
表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が4~5枚あるだけで、
当時の様子を偲ぶことはむずかしくなっています。

(浦賀観光協会)

浦賀奉行所跡

浦賀奉行所跡

浦賀奉行所跡

浦賀奉行所 復元図

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■ペリーと浦賀奉行

浦賀奉行は、黒船がやって来た時、
応対をする役目を持っていました。
しかし、鎖国をしている限り、
浦賀において対話することを、基本的に拒否しました。

1653年久里浜に応接所が建てられたのは、
浦賀に近く広い場所があったからです。

翌年、ペリーが、江戸幕府から返事をもらったのは
より江戸に近い横浜でした。

(ペリー記念館)

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■ペリー来航ころの三浦半島警備の様子

黒船を江戸湾へ進入させないために、
18か所の御台場が置かれました。
万一に備えて、主な施設どうしの
連絡網(御用道路筋)が決められました。
御台場を警備していたのは、有力な大名たちでした。
大名は、陣屋を置いて村々の支配もしました。
東海道より南の村々は、黒船来航の時は
警備の手伝いをさせられました。

(ペリー記念館)

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■船番所

18世紀に入るころから国内では生活物資の生産量が拡大し、
それまでの関西方面からでなく、東北や南関東からも江戸へ
大量の物資が入ってくるようになりました。

この流通の変化は、幕府に経済政策の見直しを迫るものでした。
幕府の対応の一つが、享保5年(1720年)12月、
それまで伊豆下田にあった奉行所を浦賀に移転させ、
江戸へ出入りする船の積荷を厳しく管理し、
江戸の物価の安定をはかることでした。
この船の検査「船改め」を行ったのが、船番所です。

ここは船の関所ですから、積荷の他に「入り鉄砲に出女」の検査もし、
乗組員もチェックされました。

積荷の中でも生活必需品の、米、塩、味噌、から木綿や薪までの
11品目について3ヶ月ごとに集計したものを、
幕府の勘定奉行に提出していました。

1日に50隻にも及ぶ船が出入りしていましたので、
「船改め」の業務は、奉行所の役人だけでは人手が足りず、
この検査は廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されました。
廻船問屋は、下田時代からやっていて、奉行所の移転に伴い、
浦賀に来た通称下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒、
の合計105軒で行っており、この業務に就いた時だけは、
奉行所の足軽役になったので、苗字を名乗ることが許されました。

この頃になると、外国船が日本近海に出現するようになり、
1837年、浦賀沖にも現れました。
そうした外国船への対応も、しなければならなくなりました。

この「船改め」は、慶応4年(1868年)閏4月
奉行所がなくなっても継続され、業務が終了したのは
明治5年(1872年)3月のことでした。

(浦賀観光協会)

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■ペリー来航までの外国艦隊の主な来航

1792年(寛政4年)
ロシア使節ラクスマン 根室へ

1792年(寛政6年)
イギリス人・ブロートン 室蘭へ

1804年(文化元年)
ロシア使節レザノフ 長崎へ

1808年(文化5年)
イギリス船フェートン号事件
(長崎へオランダ船に偽装し入港)

1818年(文政元年)
イギリス船ブラザース号 浦賀へ

1822年(文政5年)
イギリス捕鯨船サラセン号 浦賀へ

1825年(文政8年)
=幕府 異国船打ち払い令を出す=

1837年(天保8年)
アメリカ船モリソン号 浦賀へ
(砲撃→退去)

1842年(天保13年)
=幕府 異国船打ち払い令を緩和=

1844年(弘化元年)
オランダ軍艦マンハッタン号 長崎へ
(国王・開国勧告)

1845年(弘化2年)
アメリカ捕鯨船マンハッタン号 浦賀へ

1846年(弘化3年)
アメリカ・ビットル提督(軍艦2隻) 野比沖へ

1849年(嘉永2年)
イギリス船マリーナ号 浦賀へ

1852年(嘉永5年)
ロシア船 下田へ

1853年(嘉永6年)
アメリカ・ペリー提督(黒船艦隊4隻) 浦賀へ

アメリカ捕鯨船マンハッタン号

(ペリー記念館、浦賀郷土資料館)

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■ペリー来航とクジラの関係

産業革命によって、クジラの油の需要が高まりました。
その結果、ヨーロッパやアメリカの各国が大西洋でクジラを獲りつくしてしまいました。
そこでアメリカは、日本周辺に残るクジラの漁場に狙いをつけ、
鎖国していた日本に開国を迫ったわけです。
日本を開国させることで、アメリカの捕鯨船の補給と
捕鯨中に漂流してしまった船員の救助基地に利用できると考えたのです。
そのようなことを踏まえて選ばれたのが、横浜や函館の港であります。
開国後、アメリカが日本沿岸でおこなったクジラの乱獲によって
クジラの数が減少したことは言うまでもない話です。

(くじらフェスティバル[南氷洋鯨類捕獲調査船団])

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■ペリーの久里浜上陸

1853年(嘉永6年)6月3日、米国東インド艦隊司令長官ペリーは
軍艦4隻を率いて浦賀に来航した。
4隻とはサスケハナ、ミシシッピーの蒸汽船と
サラトガ、プリマスの帆前船であった。

浦賀奉行所与力・中島三郎助らが交渉にあたり、
与力・香山栄左衛門が応援掛として折衝したが
米国側の強硬な態度にやむなく、久里浜海岸で、
米国大統領の親書を授受、翌年、再び来航したペリーと、
日米和親条約を締結した。

(浦賀郷土資料館)

ペリーの久里浜上陸図

ペリーの久里浜上陸図

ペリーの久里浜上陸図

ペリー上陸直前を描いた絵巻物

上陸した海兵隊員の行進を描いた絵巻物

肖像画

(ペリー記念館)

上陸した海岸(現在) 左上が東京湾フェリー乗り場

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■ペリー上陸記念碑

ペリー公園にて

ペリー公園にて

ペリー公園にて

ペリー公園にて(伊藤博文の筆による碑文)

ペリー公園にて

ペリー公園にて

ペリー公園にて

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■燈明堂とその周辺

慶安元年(1648年)、幕府の命でつくられた
日本式の灯台である燈明堂は明治5年(1872年)まで
その役割を果たしました。

燈明堂の背後の山には平根山台場がつくられ
外国船に備えました。
平根山台場は天保8年(1837年)、
日本人漂流民を送り届けに来航した米商船モリソン号を
最初に砲撃した台場として知られています。
ここから海岸沿いに海に突き出た所には幕府期に、
千代ヶ崎台場がつくられました。

燈明堂付近には、供養碑などが立ち並び、
かつてここが首切場と呼ばれた
浦賀奉行所の処刑場だったことが偲ばれます。

幕末期

燈明堂から見た浦賀~久里浜沖 (東京湾)

燈明堂から見た浦賀湾

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【Podcasting】

ケロログ・歴史ラジオ

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【近代日本 Podcasting】
(1)黒船来航 ペリー 浦賀 久里浜
(2)プチャーチン来航 安政の大地震
(3)ペリー退去後 [1853年6月-11月] 品川台場 韮山反射炉

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2009.08.16

野辺山駅前の蒸気機関車 C56 96

長野県・野辺山駅前にて平成19年8月に撮影

長野県・野辺山駅前にて平成19年8月に撮影

長野県・野辺山駅前にて平成19年8月に撮影

長野県・野辺山駅前にて平成19年8月に撮影

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▼案内板より
この蒸気機関車は昭和12年3月より
北海道の原野を走り
昭和25年8月から中込機関区に転属し
最後の混乱期に貨客混合列車として登場、
小海線の輸送に活躍した。
国鉄の合理化により昭和48年6月廃車となる。
同年11月17日に長野鉄道管理局より貸与を受け
野辺山高原へ永住することとなった。
昭和50年8月4日より「高原列車SLホテル」として
全国のSLファンに親しまれてきたが
客車などの老朽化に伴い
昭和62年3月に業務を廃止し
平成元年9月、歴史民俗自然公園へ移転し、
永久保存されることになりました。

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